謎とき『創世記』

はじめに

聖書という書物を知らない人はいません。どなたも一度は手に取ってみたことがあるのではないでしょうか。お宅の本棚のどこかに、一冊あるかもしれません。キリスト教徒でなくても教養として聖書を読みたいと思われる方は多いようです。聖書を読まないと、西欧の人々の心がわからないと考えられるからです。しかし聖書は分厚い書物ですし、人名、地名の羅列は読むのが大変です。聖書66巻をすべて通読された方は、以外に少ないのではないでしょうか。
 そのためか、聖書を読みやすい物語にした本がよく売れているようです。あるいは聖書について書いた本が昔から無数というほどに出版され、今も世に出ています。聖書学者たちは言語学的にも、聖書の一語一句を研究しつくしています。しかしそれでも、聖書には謎の部分が多いのです。ですからキリスト教は同じ聖書を経典としながら、その解釈の違いによってたくさんの教派に分かれているのです。
 聖書を開けば、まず『創世記』があります。「はじめに神は天と地を創造された」のです。そして神は人類の始祖、アダムとエバを創造されました。土のちりで人を造って、命の息を吹き込むと人は生きたものになったのです。このあたりからもう、日本人には信じられない雰囲気になってきます。エデンの園に取って食べたら死ぬような果実が、どうして置いてあるのか。ものを喋る蛇が楽園にはいるのでしょうか。
 しばらく読むと突然、殺人事件がでてきます。兄が弟を殺すのです。その動機は兄カインの供え物を、神が受け取ることを拒否したからです。その理由が判然としません。さらに読み進めてゆくと、よく分からないところ、つじつまの合わないところが随所にあります。『創世記』は物語としては支離滅裂で、不可解な部分が多いのです。
 『創世記』を読んで、仏教の経典のように哲学的で深遠な思想を読みとろうとするのは困難です。生きるための道徳や、人生の教訓を読み取ることも難しいのです。またのちのキリスト教の聖人物語とはまるで違います。清く美しい話よりも、むしろおぞましい話や、事件の連続です。姦淫、殺人、略奪、虐殺、ホモ、近親相姦、などなど、およそ神の選民の物語らしくありません。
 では神様はどうでしょう。ユダヤ教の神は唯一にして全知全能、絶対的な神様です。またキリスト教の神は、愛にみちたもう天の父です。しかし『創世記』の神は、えこひいきする不公平な神様で、ひどく残酷にも見えます。また後悔する神、悲しむ神、ねたむ神です。『創世記』では、神は次第に人間から遠ざかってゆくように見えます。また創造した人間を制御できない、無能の神のようにさえ見えるのです。
 『創世記』は謎に満ちた書物です。どんなに聖書を研究し、神学を学んでもその謎は解けないのです。ですから聖書物語の多くの作者たちは、アブラハムあたりから物語を始めて、つじつまの合わないところは除いています。しかしそれでは謎は解けません。
 人類は聖書という書物を大切にしてきました。『創世記』の初めに、実は神の秘密が隠されているのです。お手元に聖書があるなら、せめて5頁まで読んでください。そこには神の秘密が、暗号で書かれているのです。ヨハネの黙示録に記されている「封印された七つの巻物を解く神の子羊」が現れて、その謎をといてくれなければなりません。

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