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天聖経4-2


・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  神様の愛の相対者として人間が、完成した愛をもって神様の前に現れるとき、神様は幸福の神様、 喜びの理想を得た神様となるのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇三)  神様には人間がなぜ必要なのでしょうか。神様の理想を実現するのに人間がなぜ必要なのかという とき、「神様の愛を完成するために必要なのだ」と言うことができます。神様の愛とは何でしょうか。 それは、人間同士、永遠に見て愛し合うのはもちろんですが、神様をして人間を永遠に愛し得るよう にさせるものだともいえます。人間はこのように神様の永遠の愛の相対者なのです。  アダムとエバを創造されたその日から、神様は永遠無窮に、アダムとエバをどんなに見ても、もっ と見たいし、どんなに一緒にいても、もっといたいし、どんなに一緒に住んでも、もっと住みたいと いう対象として愛したかったのです。そのような対象をもつことが神様の創造理想です。(祝福家庭 と理想天国I-三〇六) ◆四 アダムとエバを創造なさった目的  私たちが旧約聖書創世記第一章二十七節を見ると、神の形どおりに人間をつくり、一男一女をつく られたという聖句があります。  そこから帰納的に推理すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせたお方であるとの結論が出 るのです。  そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要としてこの世界を創造せざるを得なかった のです。そういうわけでつくられたのが、一人の男性であり一人の女性なのです。(祝福家庭と理想 天国I-三〇七)  神様は第一に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバ を創造されたのです。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つになることのできる愛の実体と なれば、神様が臨在し、彼らは人類の完全な愛の父母となるのです。そして神様の形象的実体の父母 になったアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって、理想世界が成就されるのです。そう なれば人間を通して霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させることをも目的と して人間をつくられたのです。  そういうわけで、神様が愛を中心にしてアダムとエバに臨在されることによって、神様は人類の真 の父母、実体の父母として存在されるのです。そしてアダムとエバが霊界に行けば霊界でもアダムと エバの形状をもって父母の位優に顕現することができるのです。ところがアダムとエバが堕落するこ とによってこれが成されなかったという事実を皆さん方が理解してくださるようにお願いします。 (祝福家庭と理想天国I-三〇八)  神様は見えません。その無形の神様が実体相をもつためにアダムとエバを創造されたのです。 心の中に神様を抱いているアダムとエバが完成し、結婚して子女を生めば、神様は内的な父になり、 アダムは外的な父となるのです。そうなればアダムは神様に完全に似るようになります。神様に似た アダムとエバが人類の父と母になれば、その姿を通して、いつも神様がおられることが歴史を通して 認知されたことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三〇九)  神様が男性と女性をつくられた目的は、二人が愛し合い一つになるようにするためでした。アダム はアダムのために、エバはエバのためにつくられたのではありません。アダムはエバのために、エバ はアダムのためにつくられたのです。また神様ご自身の愛と喜びのために、アダムとエバをつくられ たのです。神様がアダムとエバをつくられたのは知識、権力、お金のためではありません。全知全能 なる神様は知識、お金、権力が必要だったのではなく、ただ愛が必要だったのです。(祝福家庭と理 想天国I-三〇八)  神様がアダムとエバをつくったのは知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、多く の財物を与えてよい生活ができるようにするためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体と して立てるためだったのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇八) ◆五 アダムとエバの初愛の時期 6
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  神様がアダムとエバを見て「取って食べるな」と言ったのは、彼らが愛することのできる時機に なっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。(祝 福家庭と理想天国I-三一〇)  人間は思春期に向かいながらその一時を中心に生きてきました。そのときまで待つべき理由がどこ にあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待 たなければならないのでしょうか。愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのでき る思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。 (祝福家庭と理想天国I-三一二)  それではアダムとエバが教育を受けられる姿勢とは何でしょうか。神様とアダムとエバは、父母と 子女の間柄なので、その父母が行く所にはいつもついていかなければならず、主管を受けなければな らないのです。にもかかわらず、二人はその立場を離れることによって本然の姿勢を離脱したのです。 神様は絶対的なお方なので、絶対的にそのお方に従って服従しなければなりません。(祝福家庭と理 想天国I-三一一)  アダムとエバは万物の霊長として、父なる神様が定めてくれた期間、すなわち霊肉ともに成熟する 時を待たなければなりませんでした。神様もアダムとエバに「生育し繁殖せよ」と言いました。それ は肉体と霊人体が完全に成長した後に、夫婦となって愛し合い息子・娘を繁殖せよとのみ言なのです。 アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくり するような場面を見れば、エバが「まあ、怖い!」と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠 れることが起こるようになったのです。  エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男 性的衝動を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたで しょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖 い」とアダムの胸にかけ込んだエバが先にかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線がで きるようになったのです。  神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界 を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりませんでした。そのような任務をもったア ダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなけ ればなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねない のです。(祝福家庭と理想天国I-三一一)  愛はどこから出発するのでしょうか。個性を完成するところがらです。原理で見れば個性を完成し た後に愛するようになっています。思春期を経て異性に対することのできる資格を備え、天地の調和 に一致して通過することのできる責任を担えるときに初めて、愛の因縁が始まるのです。  ところがアダムとエバにおいてはそうではありませんでした。彼らの愛はどういう愛でしたか。天 地のすべての万物を統一させることのできる位置での愛ではありませんでした。主体的な愛ではあり ませんでした。彼らの愛は主体的で必然的な愛でなければなりませんでした。ところが彼らは必然的 な愛で愛することができなかったのです。(祝福家庭と理想天国I-三一七) ◆六 すべての存在は愛を通じてのみ完成する  個体完成とは、心と体が本来神様がつくられた愛の型に従って、完全に一つとなった中で成長し成 熟するように、授受作用を永続させていくことを言います。愛を中心にして出発し、愛を中心に成熟 し、その上に愛の芽が出、実を結んでこそ完成するのです。このように愛の基台が立つようになれば、 その中に神様は愛の因縁をもって臨在されるのです。愛が成熟しなければ、実を結ぶことのできる型 を造成できないのです。  すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても花が咲けば、 花の中のおしべとめしべが授受作用、すなわち循環運動をすることによって実を結ぶようになるので す。動物世界もそうだし、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべて の被造物は愛の関係を経て完成するようになっています。すべての存在は愛を通してのみ完成できる といえます。  人間は神様の愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体となるようになるのであり、神様 7
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 の愛の圏内に、体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのと き初めて、堕落しない本然の人間として、個人完成が始まるようになります。(祝福家庭と理想天国 I-三一四)  心と体において心は天を中心とし、体は世の中を中心とするのですが、この心と体が一つになった というとき、その理念はどういう理念だといいますか。天宙主義理念だといいます。天宙主義理念が 何だか分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一体となる立場をつくっていこうとい う主義が天宙主義です。  この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は心と体が一体とならなくていいですか。一 体とならなくてはここで滅びます。そして神様を中心にして心と体が一体となるとき、神様は内的な 神様で自分は外的な神様になるのです。ところで何を中心にして一つになるかといえば愛を中心とし て一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I-三一四)  アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的 な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結合させる中心点がまさに愛とい う絆です。  肉体をもつ人間が神様と一体となるとき、その心情と感情は無限なる体恤境と幸福感に酔うように なります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、 神様の創造目的、理想世界の実現は愛から出発するのです。  アダムとエバは、十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになりま す。花が一面に咲くとき、人がその香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるよう になります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、 この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができ るようになります。  ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一 つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に 連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるので す。(祝福家庭と理想天国I-三一二) ◆七 人間たちが誇ることのできる最も大きな自慢の種  神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼ら をして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。神様はアダ ムとエバをして、最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。 万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはず でした。  神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなったなら、彼らの子女も罪の ない完全な人間になったのです。アダムとエバはまたどのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類 に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とし た真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。  堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成 をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家 庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょ う。この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭 の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景 が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛でつづられた伝統にならざるをえません。  神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、 離れたとしても再び戻らざるをえません。堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものが その懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。 同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でつながっていたら、その懐を離れられないので す。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかない のです。 8
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  そのような立場で人間たちに誇るものがあるとすれば、第一に神様は私の父だということであり、 第二に自分たちは神様の愛を受けられる息子・娘だということであり、第三に自分たちは神様が創造 した宇宙の相続者だということです。今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう 誇ります。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな 誇りがどこにあるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I-三一九)  アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、 アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の基点を整えら れる家庭になったでしょう。  その家庭は、神様が創造したアダムとエバの理想を完成するために、愛の結合によって一体になる ことのできる基となったことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三二〇) ◆八 真の家庭として伝統を立てるべきだったアダム家庭  人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは誰の息子・娘として生まれたでしょうか。当然神様の 息子・娘として生まれたのです。  堕落しなかったならば、すべての人間は神様の真正なる息子・娘になります。今日のように怨讐の 前に弄ばれ、怨讐に支配される氏族ではなく、怨讐の前に讒訴される群れではありません。絶対的な 権威をもった神様の息子であり、どこへ行こうと神様の全権全能を代表できる神様の息子です。その 息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は全宇宙の存在が屈服しなければならない神様の家庭となる のです。またその家庭を成した氏族が活動する場合においては、あらゆる彼造万物は彼らを擁護し、 彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したゆえに、人間たちは神様の息子・娘にな るどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。  人類の始祖が、本来神様の法度を犯さずに神様と永遠に一体となったならば、その一体となった愛 の因縁の中では誰も彼らを連れていけません。すでに息子・娘として生まれ、またすでに成人したの ちに彼らを見て「おい、おまえの父親は誰だ?」と言って説明して、神様が父であることを否定でき る理論や学説はないのです。銃剣を突き付けてもだめなのです。(祝福家庭と理想天国I-三三〇)  もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の最初の家庭が立てられたのであり、その家庭はサタ ンの讒訴とは何の関係もなく、神様の主権下に繁栄したのです。(祝福家庭と理想天国I-三三〇)  アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の完全な愛を受けたでしょう。このように神様の完全 なる愛を受ける息子と娘として、彼らが神様の愛で結合したならば、神様の愛を中心とした息子・娘 を生んだでしょう。  そして真なる神様の愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての 伝統を立てることができたでしょう。そして神様の愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、 神様のみ旨は成就したことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三三一)  アダムとエバは神様のみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から出発した神様の国を築かなけれ ばなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。神様に 侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したでしょうし、その世界 は拡大され宇宙にまで至ったことでしょう。アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に 一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは神様のみ旨に背いて堕落してしまいました。 (祝福家庭と理想天国I-三三二) 第二章 家庭を中心とした愛の法度 ◆一 家庭を中心とした神様の愛の法度  神様の愛は父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の形で現れます。この三大愛が人間において絶対的な観 を超越できる永遠の実存的権限をもっています。それゆえ、この三大愛が結合するとき、人間は幸せ になるのです。これが完全であれば、幸せも完全なものであり、これが欠如すれば不幸が巣くうので す。 9
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  お母さんのいない愛が幸せですか。お母さんがいない分だけ、不幸せなのです。また、お父さんが いないのに、幸せですか。お父さんのいない人はお父さんのいる人がうらやましいのです。幸せとい うものは、うらやましいものがあってはなりません。愛もうらやましいものがあってはなりません。  うらやましいものがあれば、幸せだとはいえないのです。お父さんがいなくとも幸せではありえず、 お母さんがいなくとも幸せではありえません。男性がいくら太っ腹であり、大口をたたいても女性が いなければなりません。妻がいなければならないのです。また、夫婦同士、面白く暮らしてから、夫 があの世に逝くようになれば、夫人は涙を流します。男性がいなくてもだめであり、女性がいなくて もだめなのです。  それから、夫婦同士、いくら愛し合って生活をするとしても、子女がいなければ不幸せです。息子 だけが必要ですか。息子も娘も必要なのです。ところが、例えば父母に息子と娘の二人しかいないと すればどうでしょうか。息子に関していえば、彼にはお姉さんが必要であり、またお兄さんが必要で す。また、娘にはお兄さんが必要であり、お姉さんが必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。  お兄さんがいなければならないし、お姉さんがいなければならないし、弟と妹がいなければなりま せん。これが皆、そろっていなければ不幸せなのです。妹、弟、姉、兄、皆そろっていて完全に一つ になった家庭は、神様が保護します。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。自分を中心と してお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、それから弟、妹、そこに自分まで合わせれば、七名 です。ですから、七数が完成数だというのです。ここでの完成とは、愛を中心としていうものである ことを知らなければなりません。  どうして七数が完成数でしょうか。何ゆえに、キリスト教でいう天地創造が七数を中心として完成 したのでしょうか。そのような内容があるからです。三数は天の数であり、四数は地の数だといった ことがあります。ここで三数は父、母、私の三数です。では、四数は何を意味するのでしょうか。兄 弟姉妹たちを合わしたものが四数です。(二〇-四〇)  七数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、み子、み霊は神様を中心とした アダムとエバをいうのです。父なる神は上下、すなわち縦的な因縁をいうのであり、父母の愛は天地 の身代わりなのです。皆さんを中心としてみるとき、兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味す るので、それが完成すれば、一体となるのです。これが愛の法度です。それゆえ、科学のすべての法 則も数理に立脚した公式法度に摘要されないものがないのです。神様の愛の法度から由来する創造原 理的な概念が出てくるのです。このような愛の法度が定着するようになるとき、平和の起源が成り立 つのです(精選五-一八) ◆二 家庭に三代が共存すべき理由 祖父、祖母、舅、姑、小姑、孫までいっしょに暮らそうというのです。暮らす場合においては、セン ターを中心として蘇生、長成、完成、三代が定着するのです。  お父さんとお母さんだけを愛するのではなく、おじいさんを愛してこそ、神様を愛することになる のです。父母の上におじいさんを置いて愛してこそ、神様を愛することになるのです。  では、なぜ夫がいなくてはならないのでしょうか。なぜ父母がいなくてはならないのでしょうか。 なぜ子女がいなくてはならないのでしょうか。彼らがいてこそ、神様に侍ることができるからです。  父母がいなくてはならないし、子女がいなくてはならないのが原則です。父母が必要であり、それ から、夫婦が必要であり、赤ん坊が必要です。それをなぜ必要とするのでしょうか。神様と関係を結 ぶためには、父母が必要であり、夫が必要であり、子供が必要だという論理が成立するのです。  ですから、父母が必要であり、夫が必要であり、子供がなぜ必要なのか、はっきり知らなければな りません。これを知らなければだめなのです。自分が下にも行かなければならないし、センターにも 行かなければならないし、上にも行かなければならないし、横にも行かなければならないし、四方に 行かなければなりません。いくら幼い孫だとしても、愛をもっておじいさんを好きになるなら、「あ あ、うれしい! うれしい!」と応えてくれるのです。  ですから、統一教会で、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成 を標準とすることを宗教世界を通して初めて教育したということは、驚くべきことです。(一二八- 一七) 10
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  皆さん、夫が死ねば、妻がなぜ泣くのでしょうか。子女がいなければなぜ泣くのでしょうか。寂し くて泣くのではありません。宇宙の根本原則においては東西四方を全部、備えなければならないから です。宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力からなっているのです。ですから、すべてが授け受 けします。  南北が授け受けし、北極と南極が授け受けするのと同様に、星と星が授け受けするのです。相対が なくては存在できません。完全に一つとなった理想的な相対は、完全に授け受けする存在は、この宇 宙が擁護するのです。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が離れないのが原則なのです。 全部、それを助けるのです。  子女がいなくてもだめです。今日、西欧では子女が必要ないという主義になりつつありますが、必 要がないかどうか、見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。自分が立って いる所には、必ず上があり、下があるのです。三数を通じなければならないのです。三段階を経なけ ればならないのです。  それゆえ、すべてのものは三段階からなっています。父母に侍らなければならないし、夫婦がいな ければならないし、子女がいなければならないのです。子女がいなくては、天理原則に合わないので す。これをぴったりと分けておくと、男性三段階、女性三段階ですが、これを合わせて、統一的な三 数の形態を備えて、理想世界が始まるのです。すなわち、おじいさんとおばあさんがおり、お父さん とお母さんがおり、自分がいてこそ、理想的だというのです。  統一教会の家庭倫理はここから始まるのです。(七〇-七六) ◆三 父母はまさに愛の起源  孤児は父母と因縁を結ぶことができません。人はだれでも愛を受けたく思います。その愛の理想型 は父母です。そのような父母の愛を受けたくとも受けられず、また、父母に対して愛したくとも愛す ることのできない人は不幸せな人だということができます。  いくら孤児よりも百倍、千倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らすことのできる人は、 孤児たちに威張ることができるのです。「おまえに父母がいるのか。いないだろう顔が美しくて何に なる。父母もいないのに」と威張るのです。また、「私は醜く、病身だが、おまえは母親もなく、父 親もいないではないか」と、いいうるのです。  父母とはいったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンである息子が、たんこぶのような 存在である父母を、指一つで片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にでき ないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で 「こいつらめ」とやりこめることもできるし、頭を使ってもそのようにすることができるのに、そう することができないのです。  愛の起源がどこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。 それは父母から出てくるのです。愛の起源は自分ではなく、父母にあるからです。原因を知らない結 果はありえないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、その ようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」と いうのです。  父母が「おまえがいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理にはずれ ることをしてはだめだ」といえば、「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」というの です。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子供は対象だからです。主体は対象 のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻させたなら、その 家はすっかり無価値な結果をもたらすのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれて いるために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだ としても、父母の前では頭を下げなければならないのです。(五〇-一三五)  人の世は力の争いが続いており、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなって いないのです。ですから、宗教指導者たちは末世になれば、自分の時が来ると言うのです。その末世 になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような最 後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わりの日になるのです。 11
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  力の強いお兄さんが家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。いくら力の強い お兄さんでも家に帰ってくれば、大将の役ができません。リングでは世界的なチャンピオンになるこ とができても、家に帰ってきては、大将になれないのです。また、博士の学位を数百個ももったお兄 さんでも、家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょう か。父母がいるからです。(五〇-一三五) ◆四 兄弟姉妹が必要な理由  兄弟がなぜ存在するのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかというと、男の人には妹や姉を見ながら、 「うちのお母さんがこんなにして育ったんだなあ!」ということが分かり、また、女の人にはお兄さ んや弟の意地悪な姿を見ながら、お父さんが育った過程が分かるようになるからです。それが兄弟愛 というものです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。  そして、父母を愛するように、兄弟を愛することを学ばなければなりません。学ばなくては、愛す ることができないのです。ですから、兄弟たちをお母さんとお父さんが育ったその時の姿だと思って、 愛することによって、あの世に行っても、いつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。 恥ずかしがらずに愛することのできる主人になるために兄弟が必要なのです。  では、兄弟たちが、お母さんとお父さんを愛するよりも彼ら兄弟同士がもっと愛し合うのがいいで しょうか、愛し合わないのがいいでしょうか。もっと愛し合うのがいいのです。なぜでしょうか。子 女にお母さんとお父さんの育つ時の姿を見せてあげ、彼らを愛することによって、生まれてから死ぬ 時までお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心として因縁づけられたその ような兄弟たちなので、そのように考えるのです。  それから、父母においては、子女が多ければ多いほど、お母さんが思うに、男の子たちがあのよう に意地悪く育つのを見ながら、「ああ、うちの夫はああして育ったんだなあ」と分かるようになるの です。ですから、子供たちを愛することは夫に会う前の夫を愛する立場になるのです。また、男性は 「ああ、あの女の子を見ると、お母さんがああだったんだなあ! 幼い時のお母さんを見せてくれて いるんだなあ」と、学ぶのです。彼らを愛することによって、今までのお母さんの全体を愛したとい う条件が成立するのです。  父母は「おい! 男の赤ん坊だけかわいがって、女の赤ん坊はかわいがるな」とはいいません。父 母は子女を同じように愛するのです。区別なく愛するのです。ですから、このように兄弟をもつのは 家庭に美しい愛の円和、丸い球形を形づくるためなのです。  父母は、兄弟たちが、父母に対するのと同じように、互いに接してくれることを願います。すべて の父母がそうです。ですから、兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも大きな罪です。これが家 庭教育において第一条です。今まで、皆さん、兄弟同士争い、仲が悪くなっているなら、行って、宴 会をして、満足させてあげ、許してくれといいながら、うちのお母さんとお父さんを愛するように愛 し合おうといわなければなりません。  兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄 弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんのためにしてあげたように、してあげるなら、それより 美しいことがないのです。そこから天国が始まるのです。(一八四-六五) ◆五 おじいさんは家の神様の立場  今日のアメリカの制度は、全部、若い人たちの天国であって、おじいさんとおばあさんの天国では ありません。幼児たちの天国ではなく、おじいさんとおばあさんの天国ではなく、若い青年男女たち の天国なので、全部、滅びの地獄の穴を掘っているのです。それは本然の形態に合わないからです。 (一〇七-三二八)  アメリカの家庭ではおじいさんが息子たちの家に行くとき、電話をして行きます。人間なら、どち らを好むでしょうか。皆さんはどちらを好みますか。  美しい嫁が白髪まじりのおばあさんとおじいさんに、愛らしい気持ちをもって愛する夫よりもいい ものを買ってあげようとすれば、それがどれほど美しく、どれほど愛らしいかというのです。美しい 嫁が、老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃであるにもかかわらず、何かを買うのに自分の愛 する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげるその場面がどれほど素晴らしいかというのです。そ 12

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