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天聖経4-5

・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 を愛することによって、神様が人間をどのように愛してこられたのかを考えることができるようにな り、体験を通して確認するのです。  父母になって子供を愛することによって、父母が私をどのように、どのくらい愛じてくれたのかを 感じて悟るようになります。そして老いた父母に対して、さらに敬い、心から孝行の道理を立てるよ うにするのです。そのようにできなければ、父母としての自覚がないだけでなく、子供に対する愛も 偽善だといわざるを得ないでしょう。  人間は父母になり、子供を愛してみることによって、神様が人間をどれだけ愛してこられたのかを 感じて悟るべきでしょう。また、神様をいっそう心から愛すべきでしょう。子供に対する愛よりも、 老いた父母をもっと愛さなければならないし、老いた父母に対する愛よりも神様をもっと愛さなけれ ばならないのが、愛の秩序であり、法度であることを知るべきでしょう。  人間は生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。 しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心とし て、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら、成熟していくので す。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって、総合的な 愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。  天地は球形の世界なので、横的な愛を授受し、回転しながら、円形を一次的に成すようになります。 特に異性を相対者として選び、愛し合うとき、その結実として子供を身ごもり、父母になりますが、 このとき互いが相互間で愛を授受し、回転するようになれば、横的な愛に続いて縦的な愛も実現する ようになり、球形世界を成すのと同時に、愛の中心を求めるようになるのです。  愛の運動を通して生じた愛の中心は、すべての抜道世界の存在の核でもあります。地球が存在する のも、この愛の中心を中心として運動を続けているからです。そこは、愛の中心運動を継続できる無 限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じた中心は、間違いなくその場に神様がい らっしゃる所でもあります。ですから、世の中に存在するすべての被造物は神様の愛によって創造さ れた存在であり、神様の愛の中心を求めていくのです。神様は、まさに愛の溶鉱炉であられたのです。 (一二六-二四三) ◆七 三時代を行く人生路程  人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるように なっています。人間はこの世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で十ヵ月を過ごします。  おなかの中にいる時、幼い胎児の自由には限界があります。抜はお母さんの栄養をへその緒で引い て育つとき、二本の手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりつぽめたりしました。二本の足でば たばたするのが精一杯です。しかし、その胎児には、お母さんのお腹の中が自由天地であり、生の全 領域であることでしょう。  その胎児は十ヵ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が今日私たちが生 きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇七一)  人は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれました。それゆえ、真なる父母の愛に根を張 り、お母さんとお父さんの保護と愛の懐である腹中で育ち、二十歳まで分別なしに父母から大切に育 てられ、汚い物を汚い物であることを忘れて、すべてを喜んで消化させられる愛の中で成長してから 愛の相対者に出会い、互いのために天理の愛に接ぎ木されなければなりません。  そのような人生路程を行きながら、神様の愛がどのようなものかということを体験すれば、神様の 対象愛の実休園が完成するので、息子・娘を産んで愛するようになるのです。(一四三-二八五)  この世に生まれた人間は、胎児期のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙での生を生きているの です。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間百年の生涯を生きているのです。胎児がお 母さんのおなかとは違う人間の世界を知らなかったように、今日地上世界で生きている人間たちは、 死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。お母さんのおなかの中では人間世界につ いて分からなくても、実在として人間世界があったように、死後の世界もあることだろうと、ただ漠 然とした心証をもっているだけなのです。  けれども分明なことは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、確実に存在 25
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知することのできる五宮作用外にあるので、 宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇七 一)  人間には三時代があります。動物界にも水中時代があり、陸上時代があり、空中時代がありますっ すべてのものが三時代を経なければならないのです。ところで、人は万物の霊長であり、すべての万 物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どんな存在よりも完全な生活体を 備えなければなりません。次に陸上時代においても、どんな動物よりも最高の資格をもった存在でな ければなりません。  次に、空中時代がなければなりません。ところが、人間には翼がありません。翼がないのにどう やって飛ぶことができますか。飛び回るのは、どんな鳥よりも、どんな昆虫よりも、高く飛ぶことが できて、遠くまでも飛べなければならないのです。そうであるなら、どうすればいいのでしょうか。 それは実体である肉身をもってしてはできません。どうやっても飛びません。  そうですが、人間は万物の霊長であり、神様が霊的な存在なので、主管園や相対的な立場に立つた めには、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。今日、電気や光でいうならば、光の速度 は一秒に三十万キロメートル行きます。それよりも、もっと早く作用することができるのが人間です。 それが何ですか。霊人体です。(一一二-二〇二)  私たちはこの世に住んでいますが、この世の中だけにいるのではなく、霊界があります。では私た ちが行くべき所、私たちが行って住むべき所がどこでしょうか。霊界です。霊界とは、愛の空気が充 満した永遠の世界です。ですから一生は永遠の世界に入るための準備期間です。(一四〇-一二一) ◆八 地上生活は霊界の拍子を合わせるための訓練場所  私は霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気 で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は地上で空気を吸ってガスを吐き出しま すが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心とし て授け受けるようになってはいません。霊界で授け受ける愛は、真なる愛なのです。  皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、 夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由 を享受することができるでしょう。彼は何の制限もなく、どこでも、どの方向にでも行くことができ ます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて、自由が全くありま せん。  父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り 囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異な る方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的に行くことができ、円で旋回することが できます。  例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要 な愛の経験ができなかったために、多少悲劇的な人であり、同じように家庭生活すなわち夫婦関係を 経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するために霊界ではとてもみすぽらしい人になります。 また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏で完全な生を生きられないので、霊界でみすぼら しい立場に立つようになります。  皆さんはなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するた めに結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊 界だからです。  霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければ なりません。これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このよ うな愛の空気をかぐことのできる鼻がない人と同じだというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇 六七)  皆さんはお父さんとお母さんから生まれました。次に最も根本的なことは、お父さんとお母さんの おなかを借りて、神様から生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通 して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は、通過の父母です。ですから死の瞬間 26
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを 天上天国といいます。  そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものでは なく、奉仕と犠牲の原則の下に、すべての法度を通ることのできる愛です。そこに合格するためには、 宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。 (祝福家庭と理想天国I-一〇七二)  この地上での生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間なので、一度しかありま せん。地上天国を永生に比喩すると、これは一点ほどのわずかな時間に過ぎません。あまりにも短い 瞬間です。この瞬間の時間内に肉身生活を越えて、霊界のために準備しなければならないのです。 (一〇七-九九) 第五章 創造本然の男女の愛 ◆一 創造本然の男女の愛  神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛し合うことができる ならば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世俗的な愛ではありません。その愛は最高に 美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。  男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に 願われたその基準と一致するかが問題となります。男性と女性が愛し合うとき、神様が考えられるモ デル的な愛と一致するかということです。  神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモ デルになったという結論が出るのです。神様も人間の前にそのような愛を願われたのです。男性と女 性も互いに相手に対し、そのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核であらざるを 得ません。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三五)  神様の愛と人間の愛は本質的に同じです。愛は一つになろうとします。男女が互いに恋しがる理由 は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。男女 が愛で一つになる所に必ず、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三六)  二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値をほめたたえると同時 に、神様の尊い価値を一層ほめたたえることができる人にならなければなりません。  男性の心の中には神様が愛しておられる女性がおり、彼の相対である女性の心の中にも神様が愛し ておられる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、す べての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ 価値ある内容になります。男性と女性が互いに愛し合い抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる 場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿はそういうものなのです。  元来男性は自分が喜ぶことのできる女性を迎えなければならず、女性もやはり自分が喜ぶことので きる男性を迎えなければなりません。そればかりか、人間の喜びというその限界を越えて、神様も喜 び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そうすれば、この世のすべての存在物がその 夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。  鳥たちは彼らのために歌を歌い、蝶は喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人間も 喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたな らば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(祝福家庭と理想天国I-三三六) ◆二 男性と女性が生まれた理由  本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか! それは女性のために生まれたとい うことを否定することができないのです。その反対に女性は女性のために生まれたのではありません。 男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じることを、私たちは知ら 27
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 なければならないのです。  これを、天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として決められたために、その原則に 従っていかなくては、善なる、真なる、幸福なる、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ること ができないのです。  女性は男性と出会うために生まれ、男性は女性と出会うために生まれたでしょう。これが最高の真 理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を 離脱することは、最高の悪になるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三八)  男性と女性は生理的に全部反対です。女性は一方的なのに比べて男性は三方四方的です。また女性 は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。このように性格が全部反対なのです。 こういう主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一 つになるのです。人間と神様を一つにさせようとするのも愛なのです。  男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。 女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは自分だけが稼いで 生活するためではなく、子女と妻を養うためです。  男性がもっている器官と女性がもっている器官はそれぞれ違います。それを誰のためにもっていま すか。それは自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは女性のために生まれ出た ので、女性のものです。女性のものは、もちろん逆に、男性のものです。そのように考えてみました か。(笑い)笑い話ではありません。  男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男女を一つの体に成さしめる性の 器官です。それは愛を中心として心と体が完全に一つになることができる通路となるのです。男性が もっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は 女性のものをもっており、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは自分のために 生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりませ ん。  なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は 知恵の大王であられるために男女の愛の器官をそれぞれ変えてくださったのです。男性のものだと いっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。  主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛をたがえた審判を受けなければならないの です。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻をさておいて、あえて とんでもない考えをすることができますか。反対に夫人たちは夫をほったらかしにして、とんでもな い考えをすることができますか。(祝福家庭と理想天国I-三四〇) ◆三 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在  皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう。そうでしょう。その愛に絶対必要な要素は人間です。男 性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。どれだけ必要なのでしょ うか。大韓民国よりも世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。また、女性がいなければ百年 以内に人類はすべて滅亡するのです。それゆえ男性がいくら天下を統一したとふんぞり返っても、女 性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから女性は絶対必要なのです。(祝福家庭と理想 天国I-三四〇)  「人」といえば男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないの であり、女性を考えてみても男性がいなければなりません。その男性は自らが願って生まれたのでは ありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生ま れてみると男性になり、女性になっていたのです。男性として生まれたとき、女性がいることを知っ て生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないです か。また女性として生まれてみて女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。  だから女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。私 はたとえ知らずに生まれたとしても、私を生んでくださった方は知っていたというのです。私が女性 として生まれたのは、私を必要とする男性がいるためなのです。同様に、私が男性としてこのように 生まれたのは、私を必要とする女性がいるから、男性として生まれたのです。そうでしょう。すべて 28
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 知ってみるとそのように生まれていたのです。(祝福家庭と理想天国I-三四〇)  男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に女性という相対的な存在 がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正し く認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知ら なかったのです。  真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには男性には女性が 必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛を慈しむ絶対的な男性と女性は、一生懸命 努力する.ことによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在さ れるようになることを知らなければなりません。  真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、神様も嫌いなので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。 神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何ら意味がありません。それと 同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だといっても、女性がいなくてはその意味がないのです。 自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎないのです。  そのように自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇とし て流れてきた原因であるというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し、変化させて きたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三四 一) ◆四 愛は相対から来るもの  愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく 相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければな らないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」 のところに訪れるのに、それを受け入れようとするなら、それを尊く思い、敬わなければならないと いう「為に生きる哲学」を確立しなければならないのです。  人には愛があります。しかし愛というのは、「私」 一人では現れません。男性が一人いるときに は、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相 対が現れて初めて、愛が生じるのです。  父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではあ りません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知 らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。 愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。 相対が愛の主人となるのです。(祝福家庭と理想天国I-三四二)  愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しよ うとするし、相対がきれいで好ましければ、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、 味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。  愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念か らいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することができないので、 だめです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用 してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、これを 残らず改めなくては、歴史を変えることはできません。今まで夫人は夫人なりに自分が中心であり、 夫は夫なりに自分が中心だから私のために尽くしなさいというので、破綻が生じたのです。  愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、そ の愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要 とするのです。  このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地 間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけること ができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくて は出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も 全部残らず相対的観念からいうのです。(祝福家庭と理想天国I-三四三) 29
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 ◆五 異性間で愛の調和を成せば  男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。男性 と女性は互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性のは滑らかです。男性はひげ が生えますが、女性はひげが生えません。声も違います。男女を比べてみると相対的に釣り合ってい ます。調和がとれているのです。人間という肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半々をぴった りとくっつけたからです。  皆さん、高いだけあるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に下 には魚が住み、上には哺乳類、鳥類などが住んでいます。女性は一月に一度ずつ生理が生じます。月 を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和し て平行線にならなければなりません。  昇ったり降りたり回ったりする各種施設のあるディズニーランドを、人々がなぜ好むのかといえば、 宇宙がそうだからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ちよ いですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成 して和動するから、人間が拍子をとらなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-三四四)  異性間にあって愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となっ て愛の実を結ぶようになれば、神様は降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うよ うになります。神様はこの円形の求心点となり、球形運動が行われるのです。求心点から四方どこで も通じることができるのです。その求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、 平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての 作用と包容する力は愛なのです。(祝福家庭と理想天国I-三四五)  人間において愛は永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、 地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならないし、死んでも永遠にともに生きていくよ うになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって、一体化するのです。  二つの体が一つになれば神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになるので、そ れがまさに愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨 在するようになります。神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、 神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を 通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているので す。(祝福家庭と理想天国I-三四六) ◆六 真の愛に酔った本然の人間  この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出 発します。神様が存在されるならそれ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道 であり、真の愛の道を通らなくては、神様の前へ出ていくことができないということを知らなければ なりません。  神様は愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も神様から愛の口づけを受 けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであり、ダイヤ モンドや宝石を所有してうれしいとおっしやるのではありません。(祝福家庭と理想天国I-三八 一)  人間を見れば、人体は五宮をもっています。人間は誰でも五宮の認識によって、真の愛を感じ、確 認するようになっています。目が真の愛に向かっているなら、その目は真の愛に染まって酔うように なっています。酔った瞳の色はどれほど美しく光るでしょうか。□が真の愛に溺れているなら、ほほ えむその唇はどれほど恍惚としたものか、考えてごらんなさい。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、 神様に向かって動く五宮の調和がどれほど美しいだろうかと想像してごらんなさい。そのような美し さを通した喜びは、神様お一人では体験することができないのです。そのような美しさは相手がいて こそ体験するようになるので、神様が人間を創造された目的でもあるのです。  真の愛に酔った瞳の手入れをしてあげたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいと いう美しい男性と女性がいるなら、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、 そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。美しいエバの心情世界、心 30
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。神様は天地を創 造した以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょ う。神様は真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われる のは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるで しょう。  神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れ、愛の迷子になったなら世の中はどのようになっ ていたでしょうか。人間の中に神様が住まわれるようになるので、神様と人間が一つになってつくり だした世界は、喜びと美しさが充満した世界であるのは確かです。(祝福家庭と理想天国I-三八 二)  真の愛が完成したなら、感応の神様はその真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。 真の愛の中でならどんなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界 で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史 もないでしょうし、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三八 三) ◆七 愛はきわめて自然なところで成される  先生が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせ る遊びをしたことがあります。二羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作ってえさをあげなが ら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい子供心からそうし たのです。それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心、子供の実験のような ものでした。  今考えれば、全く意地悪な行いをよくも続けたものです。愛は自然な中に築かれることを長らくし て悟ることができました。愛は自然な中、最高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なので す。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経てはっきりと分かるようになったから です。(祝福家庭と理想天国I-三五三)  愛の価値を失った人を、大学で教育させて、何が変わるというのでしょうか。彼らはみんな知識を 蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ (注・肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れられて、もろもろの味を出すのと 同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。  世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花咲かせなければなりません。焼きカルビは皿に盛ら なければならないし、テンジャンクッ(注・韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れられてこそ、もろも ろの味を味わえるのと同じです。風味のよいテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘 れることができないのです。同じように、人間も風味のよい味に似た、そういう愛を一度味わえば変 わることがないのです。  甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも 簡単に求めることができれば、それは真の愛だとはいえないのです。  最近はインスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なので す。香水風呂に入って休浴したといっても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に 体を入れて洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋で、長くたてば深まるものだといえるので す。  夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みかき粉のにおいのた めに、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする 人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みかき粉のにおいを味わう ためにするのか分からないほどです。(祝福家庭と理想天国I-三五四)  皆さんが好きな、愛する人と出会えば抱擁したいし、口づけもしたいのは、自然な異性間の本能な のです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相手を探し出す ための人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性 に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理 念をもとにして男性と女性が出会うとき生まれるものです。(祝福家庭と理想天国I-三五五) 31
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 第六章 思春期の変化と真なる結婚 ◆一 結婚の意義  結婚とは幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式であるといえます。それゆえ、結婚は人生におけ る重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとって最も偉大なものであり、結婚はそのような 愛を現して確認する儀式なのです。  なぜ結婚式を「祝福を受ける」と言うのでしょうか。私たちの原理から見るとき、アダムとエバが 堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、アダムとエバは神 様の実体対象として、神様が主体であれば彼らは対象になるのです。そして、愛の主体となられる神 様から対象的な立場の愛を連結させることのできるその祝福の基台は、アダムとエバが個性を完成し、 結婚することによって成されるのです。  完成とは結局、結婚のことをいうのであり、結婚とは神様の愛の顕現のことをいうのです。言うな らば、結婚がなければ、今日、人間世界における愛というものが始まらなかったというのです。その 愛の主人は誰でしょうか。人間ではなく神様であられることを私たちは知らなければなりません。そ の神様の愛が人間の中に現れるようになるとき、神様の喜び、誇りとなり、神様の愛としてこれを感 じることができるのです。  愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛 を成就しようとすれば男性自体だけではだめなのです。女性も同じです。このようにアダムとエバが 愛で一つになることによって初めて、神様の愛を受けることができるのです。このような観点から見 るとき、私たち人間は神様から生まれたものであることが分かるのです。(祝福家庭と理想天国I- 三五六)  天地間のすべての道理が主体と対象から成っているように、男女が結婚するのも天地間の道理なの です。男性が右側なら女性が左側になるのは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら 女性がその対象となるのは、神様との縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから結婚をする のは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を合わせるためにするの です。それゆえ、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができる ように生まれたのです。  結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助 け合うことのできる相対的な位置で授け受けしながら、神様の前へ出ていく場合において、神様の愛 を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。  神様が男性と女性を天に造らず、地に造られたのは、平面的基準で神様の愛を横的に成すためです。 すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であられる神様と、二人で一つに なった愛が、縦的な愛の因縁を結び得るというのです。この事実は極めて重要です。(祝福家庭と理 想天国I-三五七) ◆二 なぜ結婚するのか  男性は女性を探すために生まれ、女性は男性を探すために生まれました。女性と男性は二人合わせ て、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできませ ん。一人で接してもそれは一方的なのです。立体的で球形的な愛に接することはできません。それゆ え、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。  本然の世界にあっては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用においては偉大な中心 が生じ、球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入っ てくるというのです。そこにおいて心と体が一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I-三五九)  結婚はなぜするのですか。天国へ行くために役に立つから、そうするのです。なぜなら、天国には 結婚をしなければ行くことができないからです。それゆえ、天国へ行く資格者になるためには結婚を しなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。神様に似ることです。どのようにし て神様に似るのでしょうか。神様のみ言を実践する人になることです。神様の愛を「私」の愛にする ことであり、神様が語る言葉を「私」の言葉として語ることができればいいのです。 32
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  それゆえ、「私」は神様に代わり世界に向かって、「人類よ、お前は天国に行かなければならな い」と言うのです。その次には「天国に行くためには神様のように『私』が人類を愛して連れてい く」、となればよいのです。そういう人は、神様の人であり、天の側の人であり、天国へ行くことの できる候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというの です。さあ、結婚はなぜするといいましたか。天国に行くために、そして人類のためにです。  男性の前にいるその女性は神様の娘であり、人類の女性を代表した娘であることを男性たちは知ら なければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛すること ができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければだめです。女性はその反対です。「あれは 『私』 の夫である」と考えてはいけないというのです。「私」の夫であるという前に神様の息子で あり、人類の男性を代表した男性であると考えなさい。  人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することのできる女性になればいい のです。そして「私」が男性として右足になり、女性として左足になり、人類のため、神様のための 愛の足跡を家庭を通して伝えるのだと考えて結婚しなければなりません。 結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のた めなのです。そして、結婚したということはそのような証拠を見せますと宣布したことになるのです。  結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができま す。そして死ぬとき、これを成していたなら間違いなく天国へ行くというのです。(祝福家庭と理想 天国I-三六〇) ◆三 真の結婚観  本来、心と休が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎・新婦として神様 の前に喜ぶことのできる対象圏を成し、神様の祝福を受けることを通して神様の愛による家庭が形成 されていたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。その完成圏に現れたア ダムとエバになっていたなら、それはどういう立場でしょうか。祝福を受ける立場です。  恵みの中で一番貴い恵みは神様の愛です。その次は神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様が 愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。皆さ んはなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実休園で引き継いだのと同じであるため、ア ダムとエバを造って神様が喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。  その次は、神様が天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たち に、神様は主管権を賦与されました。その権限をもって秩序的段階にとどまることのできる、そんな 世界が理想的天国であると見るのです。それゆえ、結婚するその時には、神様の愛を相続し、再創造 の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになるのです。ですから結婚式というのは、愛の顕 現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。(祝福家庭と理想天国I-三五六)  私たちの結婚観は宇宙の座布団を・・。宇宙の座布団、分かりまか。宇宙で一番いい絹は何ですか。 洋緞(注・高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて新婚生活をすること よりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛し合う! そう考えるのです。  愛を中心として、所有権を「私」 一代で決定する瞬間だというのです。「私」の当代に所有権が 来るのです。その所有とは女性の所有が決定されるのです。その女性はどのような女性ですか。宇宙 の半分です! これをひったくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくるのです。考えてみなさ い。  また、女性はなぜ結婚をしなければならないのでしょうか。男性にくっついて、一八○度と一八○ 度が合わさって、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚するのです! このように考 えるとき、統一教会の思想が素晴らしいというのです。  結婚は私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、 ハンサムな人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければな らないという原則が分かったなら、結婚も相対のためにするという観念をもたなければなりません。 いくら醜い人でも美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。人間として生まれ て相対を神様のように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりももっと愛することができるという 観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛する 33



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