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天聖経4-7


・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 た」と呼べば、相対的に「お前」と答えるし、「やあ」と呼べば「うん」と答えるのです。 夫が愛する妻を慕わしくやさしく「お前」と呼べば、親しくやわらかく「どうしたの」と答えます。 しかし、無愛想に呼べば同じように「何だよ」と答えるのです。山びこと同じで、みな相対的だとい うのです。  愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は笑うとき目を一層大きく開くのに、女 性は笑うときそっと目を閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦 は愛に酔った幸福な夫婦だということができるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-八八八) ◆五 会えば会うほどいっそう会いたいのが夫婦の愛  男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成し て愛を授け受ける時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り 回したり物理的な力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょ男性が女性に 対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるで しょう。男性と女性の間の愛において、力だけでもだめであり、心で愛するといって、それだけでい いのでもありません。  愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょう し、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(祝福家 庭と理想天国I-八九〇)  人はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというの です。いつも食べるご飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、新鮮であるように、夫婦間 の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。  妻と夫が互いに見詰め合えば見詰め合うほど、もっと見詰めたいし、一日中共にいたくなければな りません。愛は互いに恋しがるとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目をあけて愛 をくださいといえば、愛をくれる人も気分が良いでしょう。ぼうっとしていると、愛が来ても逃げて いくということを知らなければなりません。  愛する人が真剣でなく、消極的に出るとどれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは愛する者同士共 にいることがいいですか、離れているのがいいでしょうか。近くに共にいればいるほどいいのです。 なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するのでいいというのです。  一番いいことが何でしょうか。食べることですか。おなかがすいた時、ご飯を見てよかったといっ て食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物を上げ れば嫌になります。けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。  愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくな るのです。そうでしょう。見てもまた見たいし、また見てもまた見たくなるのです。だから互いが、 お前が前に立ち、私が後ろに立つといいながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始 まるのです。  愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それ は幸福に酔って、ふらふらになるからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性 が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き 起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出した りもします。  愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして、眠りたがります。だから 昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。また、結婚す る前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったこと も、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性に おいてよく起こる変化だといえます。  神様は人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいまし た。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私 はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせ るでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互い 41
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 をたたえ合う甘い話だけだというのです。  この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜 語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。(祝福家庭と理想天国I-八九 四) ◆六 夫婦の愛の発展過程  男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程 を見れば、最初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って 愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手で口を覆うのです。  愛が口付けから始まるからです。愛が次第に成熟すれば、その結実として息子・娘が生まれるよう になるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできるかぎは、夫だ けがもっているのです。  夫が妻の愛の聖所を開けることのできるかぎを二つやそれ以上もっているなら、その夫はサタンで す。また妻の聖所が開くのは、夫がもっているかぎだけでなければならないにもかかわらず、どんな かぎでも開くならば、それもまたサタンなのです。  夫がもった愛のかぎが妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子・娘が 誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない 愛の結晶体なのです。息子・娘を通して、神様が人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を 体得するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見 てもわが愛する人・・(パンソリ『春香伝』)」と歌い、喜ぶようになるのです。  愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉 で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ただひた すらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛が染み込んでいるからです。(祝福家庭と理想天国I -八九四)  夫と妻の関係でも、愛の強力な力で結ばれたなら、相対が何をしようと、どのようなことをしても、 うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身 振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのよ うな夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。  結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し 合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛 し合うことは、本来恥ずかしがることではありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しい ことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向 に流れてきました。  エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人かいない所では、そのよ うなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし 人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸 になって踊るのみでなく、何かをしたとしても誰が干渉するでしょうか。  ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさい。夫婦同士なのに何のかかわりがありま すか。この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければ なりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。(祝 福家庭と理想天国I-八九一)  真実の幸福といえば、相対者とともに愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることがで きます。愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元 で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。(祝福家 庭と理想天国I-三七一) ◆七 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか 42
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになる という、そのような漠然とした理由のためだけではありません。愛は四方性を備えなければなりませ ん。  そうしながら、立体的に前後・左右と相関性を備えなければなりません。このような愛であるので、 夫はその女性と左右の側で、相対として愛の四方性を成すようになるのであり、したがって、このよ うな妻は夫がいないことによって、全宇宙が保護するその立場から、保護を受けられない立場に落ち ることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。  愛する妻を見れば、なぜいいのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護 され得る基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受ける横的な愛の関係 を結び、縦的な宇宙の力と接することのできる場をもつようになることで、宇宙の保護力によってそ の相対をもつ者は、無限にうれしくなるのです。  ですから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。ですから、 踊りを踊り、歌を歌うようになり、共に一団となって回るのです。  踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことをなぜ、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡 大するためです。多くの人々がレバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーン がアメリカに行って、アメリカの若い彼らと徹夜しながら、彼らを教育して運動をさせながら、時に は彼らとともに踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何のためですか。保護圏の拡大が私と関係がある からです。宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとして も、恐れることなく押し続けていくのです。  いくら幸福をうたい、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦のうち、一人が 死ねば悲しくてわあわあ泣きます。一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方だけだと かわいそうだといいますか。天地が喜ぶことのできるすべての重要な日々の前に、不合格者であるか らです。天地法度の規律の前に外れたというのです。明らかにその法度を通してだけ、天地の運勢は 回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。  悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみが生じるのは、天地 法度とは順応しない立場にあるということです。心がうれしく、いいというのは何ですか。その人を 世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲 しみがそのように分かれるようになっているのです。夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば、泣く ようになります。  なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法の前に不合格の基準に該当すれば、この宇宙の公的な力 がその人を押し出すようになり、またそのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。 それでは、喜びはどのようにして生じるのでしょうか。そのような宇宙の公法に一致する自分となれ ば、宇宙の力が彼を抱こうとします。  その力が大きければ大きいほど、強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、彼はその内的 な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこか ら生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の 公法を中心として生じます。  それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで一致していく道であ り、またこの道は、天運が行く道です。一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫 婦が一心となって行く道です。  皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。ですから互いに争い合い、泣きわめき、 死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品とし て見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知って いるので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(祝福家庭と理想天国I-九〇二) ◆八 死ぬときまでに永遠に成すべき夫婦の愛  夫婦が互いに愛し合うことにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若いときだけ愛すると いうなら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠 43
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 に」とも言いますが、死ぬときまで、その次に永遠に愛することを望むというのです。永遠は未来を 中心として、全体をいうのです。  死ぬときまで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。 そうでしょう。「永遠に」は全体的であり、「死ぬとき」まではすべて愛するということです。そう してこそ、相対が喜ぶのです。  この場にいる娘たちが今からお嫁に行けば、夫に間違いなく「あなた、私を愛しますか」と聞いて みることでしょう。愛するといえば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋 ねたとき、すべてを愛すると返答してこそ、気分をよくするのです。男性もそうです。仕方がありま せん。神様の調和がそのようになっているのです。  人々は結婚するとき、互いに死ぬまで愛するといいます。愛するという言葉を語るとき、ただ死ぬ まで愛するという言葉と、「ずーっと」十年、百年、億万年愛するという言葉の中で、どれを願いま すか。ただ死ぬまで愛するという言葉を願いますか。ここにいる女性たち、返答してごらんなさい。 ただ死ぬまで愛するという言葉より、ずーっと億万年愛するという言葉を語れば、もっと喜ぶことで しょう。これが十年、百年、このように長くなるほど、もっとよいのです。  夫が妻と出会い、「ずーっと」、その次に十年が過ぎても「ずーっと」、また五十歳、年を取って も「死ぬまで愛する」と言うことができるなら、その妻は、自分の年取った旦那さんがどれほどいい か分からないのです。そういうものです。おなかが出て、うんうんとうなるとしても、喜ぶのです。 (祝福家庭と理想天国I-八八四)  真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人はある程度成熟すれば家庭を築くようになります が、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラ スされる愛の家庭を築かなければなりません。  その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていくことのできる、永遠なる愛の 実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。 また、そのような夫婦が神様の愛に同参できるのです。(祝福家庭と理想天国I-八八二)  妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなけ ればならないのです。初恋で結ばれた縁が最高の縁です。人が何をいおうと最高です。このようなも のは何億上げても買うことができないのです。  このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょうか。すべ ての人がその程度にはならなければならないというのです。妻は夫によく従い、よく助けなければな りません。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。  現実に一生の間、そのように暮らさなければならないのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたの で、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために、新しい歴史を創造してきたの です。  統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体をもって展開する ことのできる夫婦です。最高の文学を展開することのできる夫婦です。最高の理想と世界最高の文化 世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受ける甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければなら ないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないので す。(祝福家庭と理想天国I-八八四) 第八章 真なる父母の愛 ◆一 父母の限りない愛の心  子供を産んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子・娘を通じて恵みを受け たいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあればその息子・娘に永 44
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 遠に残してあげたいでしょう。  そのような希望の心を抱いてその息子・娘がまっすぐに育ち万国から崇められ万世にたたえられる 息子・娘になることを堕落した人間も願っています。夜も昼もその息子・娘がけがをしないかと保護 し、切ない心情でもどかしがるのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。  胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子供が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがし ても愛でその環境を忘れることができるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心がそうであ るならば、ましてや愛の主体であられる神様が本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそ のお心がどれほど切なかったでしょうか。  皆さん一度考えてみてください。皆さんが子供を抱いて育てるとき子守歌を歌ってあげ、独り言で 話しかけ、立派になることを願うその心は父母ならば誰でももっていることでしょう。いくら甲斐性 がなく、足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、 この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落し た父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。(二〇-二○九)  父母は息子が罪を犯して牢獄へ行けば「あの野郎よく行った」と言うのではなく、その子を許し、 涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もしもその息子が 死刑囚になって死ぬ時刻となれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば、慟哭するでしょ う。  この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救うことのできる道が一つ でもあるならばどのような冒険でも生命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっている ので、父母の愛は貴いのです。自分の体を打ち、自分の体を失ってでも自分を犠牲にしながら子供の ためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。(九一-一四八)  子供を愛する父母は子供を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、 お前のために血と汗を流したんだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。  父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子・王女以上にしてあげたいのですが、それ以上して あげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしてもこれだけしかできなくてすまない」と言うの です。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。  それで父母の愛を好むのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛 しても愛し足りないことがないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りず、やりきれない 思いこのようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが 愛の出発の伝統的な動機です。(六〇-八四)  父母は子供に対して自分の一番いいものを全部あげたいのです。それが父母の心です。これは誰に 似てそうなのかといえば神様に似てそうなのです。それでは神様はどのようなお方でしょうか。子供 となる人間が本当に現れれば彼には自分よりもっと貴いものをあげようとずるお方が神様なのです。 (五六-一四七) ◆二 子供がより素晴らしくなることを願う父母の心  ここで中年以上の皆さんに「昔、若い時に自分の相対を探すのに自分よりできの悪い人を求めまし たか、それとも自分より素晴らしい人を求めましたか。」と聞くならば、答えはみな同じことでしょ う。できの悪い人ではなく、素晴らしい人です。東西洋の誰に聞いてもそのような結論を下すことで しょう。ましてや、愛する父母が子供に対する時は、その子供が父母である自分よりもできの悪いこ とを願う父母はいないのです。  ある美男・美女が結婚して初めて子供を産んだ時、その子の顔を見るとその父母の順に比べると何 でもないようなでたらめな顔でもその父母に対して、あなたの子供はあなたよりもきれいだと褒めれ ば褒めるほど、その父母はとても気分がよくなるのです。  父母の心情について考える時、おばさんの顔がきれいだとしてもそのおばさんが抱いている赤ちゃ んを見て通り過ぎるおじさんが「わー! この子はお母さんより何千万倍もかわいい」と言えば喜び ます。それは、お母さんがその赤ちゃんよりも何千万倍もブスだという言葉です。 45
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  でもそんな言葉を言われて「何ですって? 私より何千万倍もかわいいって? そんな私は何千万 倍もブスだってことじやないの?」と言いながら食って掛かるお母さんはいません。ただうれしくて どうしていいか分からないのです。これが母親の心です。このような心は誰に似たのでしょうか。お 母さんは結果的な存在であって、動機的な存在ではありません。  息子が父親よりもできの悪いことを願う家庭があるならばその家は滅びるのです。父親は大統領な のに息子がそれより劣るようになって、そのような形態が数代か続けばその家はだんだん滅びるので す。しまいには肩身の狭い立場になるのです。息子がお父さんに「お父さん以上にやりたいのですが、 いいでしょうか。」と言えば、お父さんが「やいこの野郎!」と言うでしょうか。「そうかやってみ なさい」と言うでしょうか。後者を選ぶのです。(四一-二八三)  どのような父母でも家庭の責任を任せるために自分の身代わりを立てる時は、自分よりもできない 者を身代わりに立てることを願いません。なぜそうなのでしょうか。子供が自分より優れてはいけな いと考える父母は絶対にいないからです。また国を中心として見る時も、やはり同じです。 国の主権者は、自分以上の主権者が現れることを願う主権者にならなければなりません。家庭におい ても、国家においても、誰彼を問わず、自分より素晴らしく、自分よりすべてのものを備えている後 継者が現れることを願わなければなりません。これは歴史の変遷を超越する、永遠に近い要求条件で す。  父母の愛が永遠に持続するためにはその伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子 女たちが相続者です。私たちが子女たちを、そのような伝統の相続者になるように教育しなければな りません。そしてその伝統をより高い価値に向上させることのできる方法が私たちには必要です。  各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならないし、その伝統を継承するだけでなく未 来に向かって発展させなければなりません。そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女の 勝ることを熱望する、そのような真の家庭からのみ出発することができます。  このような熱い望みをもった父母たちは絶えず、子女たちに注意を傾け励ましてあげることでしょ う。そのような父母は子女たちが彼らよりもっと素晴らしくなれるその日を待ち望んで、子供たちに できる限り最善の条件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母は子女たち の幸福のためにすべてのことを犠牲にするでしょうし、甚だしくは子女たちを父母よりもっと素晴ら しくしてあげる方向に、進んで強要したりもするでしょう。  父母は子供が自分より素晴らしいとき幸福を感じます。ですから女性として生まれて自分よりもで きの悪い息子・娘を産めば、天の国に入る面目を失います。お父さんとお母さんは、自分を愛する以 上に自分の息子・娘を愛することができなければなりません。また子女もそのように考えるとき自動 的に愛の世界が現れて、天国が築かれることでしょう。(祝福家庭と理想天国II一〇〇七) ◆三 父母の愛は永遠不変の愛  父母が子供を愛する愛のその起源的な動機はどこから始まったのでしょうか。男女を中心とする愛 は変わる愛ですが、そこから生まれた息子・娘を中心とする愛はなぜ変わらないのでしょうか。これ は、その男女を中心とする愛から来た愛ではありません。変わらない愛は横的な夫婦の因縁でできた ものではなく、縦的なある流れの起源を通じて関係ができたものに違いありません。そのような縦的 な主体は誰でしょうか。  そのような主体を私たちは神様といいます。その愛は夫婦が思いのままにできる愛ではありません。 その愛の前に私がしたければするし、したくなければしない立場には立つことができません。それは 切っても切れないものです。横的な因縁では触れることができません。ですから、父母が子供を愛す るその愛は永遠不変です。  今日、民主社会において、個人主義思想が澎湃したこの時代において、子供たちは「新時代と旧時 代は次元が違う」と言いますが、子供たちはそのように変わってもその父母の心は旧時代であるとか 新時代であるとか叫ぶからといって「お前がそうなら私はこうしよう」と言うようにはなっていませ ん。父母の愛はそうではないのです。それは動物も同じです。赤ちゃんを愛するにも自分の生命を超 越するのです。(四八-一五五)  それではそのような愛はどこから来たのでしょうか。私自身が第一のある相対的な結果の存在なら ばそれは第一のある力の因縁の中から来たものです。それは、私たち人間として触れることができる ものではありません。ですから「父母が子供を愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」と 46
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 言う入を見ましたか。  もしある父母がこの愛を革命して人類歴史を改造してしまうといって「私は父母は父母だけれど、 子供を愛さない」と主張したとしましょう。しかしその父母は、子供のへその緒が離れる瞬間、子供 を愛する心が自然に湧くことでしょう。すべての生物はものの高低を問わず自分の子供を愛さざるを 得なくなっているのです。  愛するために生命を投入して、生命を踏み台にしてでも愛したく思う作用があるのを見る時、永遠 不変という概念に近いのが父母の愛です。それは「絶対性」を求めていくにおいて「絶対」それ自体 にはなれませんが、人間の前に一番近い支石にはなれます。ただ一つの土台になり得るのです。その 次に、これが人間の世の中においてそれでも、歴史を見るとき永遠の土台になっているのではないか というのです。  そのような父母の愛はどこから来たのでしょうか。それはお父さんから何か勧められて習ったので もなく、自分の相対に忠告されて習ったのでもなく、自分自身がこうだろうと思って出てきたのでも ありません。自然にそうなるのです。愛というものは自然にそうなるところで成立するのです。(四 八-一五六)  本質的な愛を分析してみれば愛には革命がないことを知ることができます。父母が子供を愛するの は真の愛に該当します。ですから人間始祖の時から人が子供を愛した心や数千年後の後孫である私た ちが子供を愛する心は同じなのです。また数千年後に私たちの後孫たちが子供を愛する心も同じこと でしょう。  愛には発展もなく終わりもないのです。革命の必要のない純粋なものが真の愛です。それでは神様 の愛とはどのようなものでしょうか。神様がある存在を絶対的な基準の立場に立ててその存在性を認 定し、彼を愛されるならばその愛は、それ以上革命の必要のない愛です。(一八-一二) ◆四 すべてを投入する父母の愛  愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見 てみてもそこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の 因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の 関係を結ぶことができないのです。ですから愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。 また生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定さ れるのです。(三二-一五)  例えば、子供に対する父母の愛はただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨から 湧き出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているので す。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれてい るということを感じる時、父母からは子供を愛する心が自然に湧き出るのです。  あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、そ の因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているので愛さざるを得ないのです。このよう なことを私たちは家庭生活でよく感じているのです。(三二-一五)  それでは神様はどのようなお方かという時、千年万年与えてもまた与えたいそのような心を絶えず もっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであって、与えてから 「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。 万民はなぜ神様が好きで、ついて行かなければならないのでしょうか。  神様をなぜ愛さなければならないのかというと、神様は万民のためにすべてのものを下さり、また 下さりながらも恥ずかしがり、「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍何千倍もっ といいものを上げるから・・」とおっしゃりながらきょう現在、下さったことで満足するのではなく 与えられながらも未来にもっといいものを上げると約束され、与えることのできる心の余裕をもって いらっしゃるお方だからです。  そのような方と共にいればたとえ食べられず、貧しくても、幸福だというのです。食べられない立 場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。何の話かといえぼ かえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母をもっ た子供が「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難 47
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 いですか。  その場は未来のために互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望が共にあるのではなく明日 の希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励することのできる爆発的な場がま さしくそのような場です。  ですからそこで現れる現象は悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込み現実圏内で 価値をたたえることのできる場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから愛の 圏内に生きる人は不幸がないという結論が出ます。(三六-二九一)  父母は愛する子供に対してすべてを投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を 物語るのでしょうか。神様は神様のために投入するのではありません。自分のために存在するのでは なく、相手のために存在しようとする、相手のために生きる神様の立場に立とうということです。  神様が神様のために存在しようとすれば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子供に投入 し、その子供と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。(六九-六二) ◆五 子供に対する父母の愛は絶対的  先生は幼いころ、かささぎのような鳥の巣をたくさん見ました。鳥の巣を見ようと木に登ってみる と親鳥が来てつつきます。ですから、それは決死的です。一度だけではありません。追い払うとたた かれながらも飛んでいってまた来ます。これを見る時、自分の生命を越えて、愛する雛を保護しよう とする動物世界の力があることを否定できません。  人も同じです。愛のために生命を投入できなければなりません。そのような人が真の人です。本当 に善なる人とはどのような人でしょうか。愛を根本とし、自分の生命を投げ出して、愛する人を保護 しようとする人です。そこには主体的な善があるのであり、相対的な善の論理を立てることができる のです。これは永遠不変です。(一八六-一八)  私がアメリカのダンベリー刑務所にいた時おもしろいものを見ました。坂道を平たいテニスコート にするために毎日ブルドーザーで押す作業を、長い間しました。また、雨期になると作業が中止に なったりし、乾期になるまで待つのです。二、三週間ほどたってから作業をする時そこに水鳥が雛を 生んでいました。そこに囚人たちが運動がてら散歩するコースがあるのですが、そこからわずか三 メートル離れた所に水鳥が巣を作りました。  その水鳥の色がちょっと見ただけでは分かりません。ですから通り過ぎる人には分かりません。そ の保護色がどれほどよくできているでしょうか。卵から生まれ、割れるまでは人々が通りながらも分 かりませんでした。うつぶせになった姿を横から見ると黒い砂利の色のような保護色だったので分か らなかったのです。それから雛が孵化し、何かをくわえて食べさせ声がちゆんちゆんとして、ようや くみな分かるようになりました。  意地悪い者たちは、いろんなことをしてからかっていました。しかしその水鳥が自分の子供たちに 対してどれほど保護力があるのかといえば、えさを探してくわえてくる時絶対に自分の子供の近くに 飛んできません。他の所に下りて、雛がいる所まで引きずってくるのです。  なぜそうするのかといえば、雛たちを保護するために方向を変えるのです。そのように雛を育てて いきます。この雛たちがだんだん大きくなって、人がそのそばに近づこうものなら親鳥がつついて大 変です。雛を見るなというのです。  誰がそのように教えたのでしょうか。それが宇宙の力です。神様の愛を軸としてすべての水は平面 的位置にあるので位置は低いですが、その平行線上の基準は変わらないようになっています。 二三六-二三)  蜜蜂が花を探し回って蜜の味を味わったら足を深く入れ、お尻を突き出して吸いつきます。先生は 蜂についてよく知っています。蜜を吸う蜂をピンセントで引っ張ると尾が取れても花から離れません。 真の愛はそのような愛です。自分の生命までも忘れて捨てられるのです。  計算していくらの利益になるからというものではありません。生命までも捨てて忘れていくことの できる道が真の愛の道です。父母はその道を行きます。子供を愛する父母は子供が死地に行くなら子 供のために死地に立とうとします。愛の前に自分の命をうずめていこうとするのが父母の心です。そ 48
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 の愛が真の愛です。  ある人がこの世で誇ることのできる金銀財宝を得て血と汗を流して多くの財産を築いても、子供が 死ぬ運命にさらされたならその子供を生かすためには外的なものが問題ではなく、自分の生命までも 投入して生かそうとします。(三四-一六一) ◆六 限りない父母の愛  私たちが愛というものを中心として見るとき、父母の子供に向かう愛の限界点はどこまでなので しょうか。父母は子供が幼い時だけ愛そうとするのではなく、生涯を通じて、さらには永遠を通じて 愛そうとするのです。愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによってさらに 価値を感じることのできる親子の関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かが その関係圏内から生じるというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇一九)  お母さんの愛やお父さんの愛は人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世でいくら高 い地位にある人も、自分の子供の前ではどうすることもできません。父母の愛は子供の前に無条件で あり無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。  ですから父母の愛を受けられずに大きくなった孤児たちは何よりも父母の愛を渇望するようになる のです。孤児たちは寝る家があり、食べものがあったとしても、彼らの胸にいつも満たされない思い と慕わしい気持ちがありますが、それが何かといえば父母の愛です。  皆さんは愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受けて育てられ、大きくなったことを 知るようになります。年を取っても若くても父母はその子供をいつも愛するようになっているのです。 もし七十歳になる息子がいたとしても昔自分が育てたその基準をもっていつも子供を見つめるのが父 母の心なのです。  年を取っても心情はだんだん近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど息子に尽くす心はもっ と広くなることを私たちは、この世で子供に対する結びつきを見るとき、よく知ることができるので す。(祝福家庭と理想天国I-一〇二〇)  父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、疲れることを知りません。なぜですか。 愛するからです。自分の骨身を削ってその代価がいくらか帳簿に付けておきますか。そうしないで しょう。かえって、すべてを与えられないことをもどかしく思うでしょう。赤ちゃんに乳を与えるの に、飲まなければどうして飲まないのかともどかしく思います。  乳を飲むことは、実は、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていくことではありませんか。 ある意味ではどろぼうの中の最高のどろぼうではありませんか。それでもそのお母さんは赤ちゃんが 乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。 (祝福家庭と理想天国I-一〇二一)  お母さんの胸に埋もれている赤ちゃんを見るとき父母は愛を中心として愛の感触に触れ、またその 赤ちゃんを抱くことによって自分の幸福よりも天地が平和の境地に入るので、いい雰囲気が芽生える ことを感じるのです。  それゆえ、赤ちゃんがいくら気性が激しくても「さあさあやってみなさい」と言うことのできる雅 量の心があるのです。ですから父母は、子供を無限に愛することができるというのです。ある意味で はその赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、そのように考える人はいないので す。  それは何かといえば、お母さんとしての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ちゃん によって見つける新しいものが多いからです。そのような時には通じる何かがあります。その境地は、 誰も思いのままにすることができないものです。(祝福家庭と理想天国I-一〇二一) ◆七 父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる  何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機としてその愛で円満に育った人なら愛がどのよう なものかということを知っています。お父さんとお母さんを愛するので、父母の間の愛がどのような 49
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 ものかを父母を通じて習うのです。それが子供には二つとない喜びになるのです。愛を体得すること は、父母をもった立場でなければできないことです。  子女の間の愛はどうでなければならないでしょうか。何を基準にして愛さなければならないでしょ うか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟姉妹たちも愛し合わなければなりません。愛は誰か ら習うのかというと、それは父母から習わなければなりません。息子・娘がお父さんとお母さんに対 して「私のお父さんとお母さんは世界で一番素晴らしい人だ。神様のような存在だ!」と言うことが できなければなりません。  夫婦間の変わらない心といちずな愛を見て、子女たちが「その愛を見本として、子女である私たち も一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭を築くことができるのです。また子供が成長して思春 期になれば、心と心情が一つになることのできる相対を求めるようになります。これは結婚を通して 成すことができます。  ですから相手をこの上なく大切にして、愛と心情の基準を立てるために努力する道は男性が行くべ き道であり、女性が行くべき道でもあります。ですからお母さんとお父さんも神様の心と神様の愛に 一致し、子供も父母に似て、神様の心と神様の愛に一致できる家庭にならなければなりません。  父母の愛を中心として兄の立場に立った人が自分を犠牲にしつつ、父母の身代わりとして弟たちを 愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は兄弟たちの中で一番苦労をたくさんしなけれ ばならない責任ある立場です。父母の立場も同じです。子供に代わって、子供よりももっと苦労する 立場が父母の立場です。父母が愛を中心として子供のためには、涙が交差する場をも甘受しようとす るなら、子供たちは涙を流しながらもその父母についていきたく思うのです。  神様を中心として一つになるとき、千態万象となって回るようになるのです。ですから兄弟間で愛 することも、父母が子供を愛することに倣って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛 し、一元化した家庭には家庭愛が花咲くのです。これがまた社会愛になります。これがさらに民族を 愛する民族愛になります。そして、このように愛すれば世界愛になるのです。  皆さん自身が父母の愛を受けるのはなぜでしょうか。夫婦であるお父さんとお母さんが互いに支え 合い、愛し合うその動機が皆さんによって成されるからです。分かりましたか。ですからその動機を 中心として兄弟同士愛し合うその愛は変わらないでしょう。  それを中心として隣人を自分の体のように思って生活するとき、正しい社会環境が展開されるので す。家庭を中心として見ればその家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずその ような過程を経なければなりません。家庭と家庭をみな合わせなければなりません。そうすればこそ、 その中で愛が広がるのです。  こうして国家の範囲でも一つに合わさるのです。ここで社会はいろいろな階層に分かれるように なっています。会社には社長という代表者がいるでしょう。そうでしょう。国家の責任者が今何人で すか。一人でしょう。一人の責任者がいます。このような姿に統一されるのであり、形だけが大きく なるのです。このように、分かれていても一つになるのが四位基台の原則です。(祝福家庭と理想天 国I-九一七) 第九章 真なる子女教育 ◆一 父母は子女をどう教育すべきか  父母は息子・娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありま せん。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないので す。天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母 さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だということを教えなけ ればなりません。  ですから初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として神様の前に愛の教育を受けなければなりま せん。では、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、ア ダムとエバは神様から愛の教育を受けなければなりません。 50



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