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天聖経4-8



・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。 それでは愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を 推し量ることのできる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなり ません。しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受け たという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。だめになったというのです。  それでは愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには愛の基準が あったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基 準が何なのかということが問題です。  私たちは天国に行きたく思います。しかし天国に行ってからは、そのような教育は受けられません。 地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大 変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるのというのです。その教育とは何なの でしょうか。天国は心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。  神様がこの地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子・娘をつくるためです。 どのような息子・娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐 露することのできる息子・娘をつくるためです。  それではアダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の 関係ですから、父母が行く所にはいつもついて行かなければなりません。父母が山に登れば山につい て行き、谷に下りれば谷について行き、洞くつの中に入れば洞くつの中について行かなければなりま せん。いつも父母と共にいなければならないのです。  もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的 な方ですから絶対的に会いたく思われるのです。絶対的な方ですから、好きになるのも絶対的に好き になるのです。「あー神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないな らいないで」ではいけません。絶対的でなければなりません。(五一-七一)  もし神様と内外とも一つになった立場にいれば習わないでもみな博学になるというのです。研究し て知るよりも、もっとそうだというのです。天地がどうなっているのか、霊界がどうなっているのか、 人生がどうなっているのか。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すのに、万物の霊長 は、習ってから食べ物を探したり、死ぬこと生きることを知るのではありません。神様に対すればす ぐにさっと分かるようになっています。  そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらずそのような人になれなかったのは 堕落のためです。堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき 間には、今まで積もってきた汚いものが覆っているのでこれを取ってしまえば、だんだん作用が強く なるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。そうすることのできる 道を、今まで人々は追求してきました。(五六-一五三) ◆二 父母は子女に何を教えるのだろうか  真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくらいいといっても自分の父母に代わることはでき ないし、真理の内容がいくらいいといっても自分の夫に代わることもできないし、また自分の妻や息 子・娘たちに代わることはできません。真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、 夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。  それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真 理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、 それはどういうことですか。みな同じことです。真理が成立するには愛と生命がなければできないの です。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と 欲望がなければなりません。  ここで欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。ですから一番の核心は何でしょうか。 生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人 間の父であると同時に、母です。ですから核心は父母なのです。(二一-一八三)  また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげるこ とが最も偉大な、この世にない相続です。神様をよく紹介しなければなりません。神様の愛がどのよ 51
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 うなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様の ように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母に ならなければなりません。(九三-三三六)  私たち統一教会員は何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。神様と人類と世 界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まったし、このような方向も愛 のために始まったし、このような目的も愛のために始まったし、男性も女性も愛のために始まったし、 父母も愛のために始まったし、息子・娘も愛のために始まったし、宇宙のすべてのものも、愛の贈り 物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きて いった人は間違いなく、神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(九三-一九一)  祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息 子・娘に勉強しなさいと言ったからといって、その息子・娘が親孝行になり忠臣になるのではありま せん。とんでもありません。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道 は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させることのできる愛の道理を教えなけ ればなりません。  ですから父母が息子・娘を連れて回りご飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流 せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には 「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。父母が我が子のためだけに涙を流 したのではなかったということが分かるようになります。  自分の子供を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を分 別がつけばつくほど知るようになるのです。自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子供を案じる からといって、その子供たちがよくなるのではありません。愛の糧を食べさせて育てなければなりま せん。正しい愛を求めていくことのできる方向感覚を教えてあげなければなりません。  分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だ と思っていたのに掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになりま す。(二二九-七七) ◆三 父母がまず手本を示すべきである  子女を教育するためには、父母が先に実践しなければなりません。父母がお手本となって、み旨の 前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして、父母がどのような言葉を語っても子女たちが一言 半句も口答えせず、父母をおそれ敬うことのできる立場に立たなければなりません。そのようにしな ければ子女たちがついて行かないというのです。そのためには天の教育をしなければなりません。  教えてあげるには、父母が先にお手本にならなければなりません。子供に親孝行しなさいと教える 前に先に親孝行しなければなりません。皆さん自身がまず天の法度に従って親孝行な息子・娘になっ てこそそこから天の伝統的親孝行の因縁が成立するのです。お父さんが家庭で親孝行するようにお前 も親孝行しなければならないし、お父さんが国のために追われながらも闘争の歴史をつづってきたよ うに、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。(三〇-一一三)  父母が子供に親孝行しなさいと教えてあげて親孝行な息子をつくるのではありません。自ら親孝行 しようという心が湧き出るようにしなければなりません。ですから、そのようなことは一朝一夕にし てできるものではなく、長い期間を通じて影響を及ぼさなければなりません。ここで影響を及ぼすと いうのはどういうことでしょうか。お父さんがするように子供がついて来ることができるように生活 を通して子供にお手本を見せてあげなければならないのです。このようなことを実践する専門家にな らなければなりません。(二九-九九)  自分の子供に教える時は「お前は立派な人になりなさい」とだけ言わないで、「立派な人になるた めには、このような道を経てからなりなさい」‘と言わなければなりません。お父さんはお父さんな りに責任を果たし、お兄さんはお兄さんとしての責任を果たさなければなりません。お姉さんはお姉 さんとしての責任を果たさなければなりません。  言い換えれば、真の男性、真の女性の道を行くことのできる因縁をわきまえることのできる、法度 からそれない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て一国の民になることのできる道が生じるので はありませんか。(祝福家庭と理想天国I-一〇四一) 52
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  父母はどのようにしなければならないでしょうか。父母が互いに愛し合うように兄弟姉妹同士愛し 合えるように教えると同時に、私が国を愛するので、お前も国をこのように愛しなさいと教えなけれ ばなりません。そのようになれば他の教育は必要がありません。祈祷する時も私がこのようにするの で私の子供もこのようにするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。 自分が先に標準になったのちにこそ、子供をそのような位置に立てることができます。自分が先にそ のような位置に立てば、神様は自然にその子供もそのような方向に導いていくのです。ですからここ で私たち白身を中心としてその方向を変えることができなければ、霊界に行っても責任追求を受ける ことになることでしょう。(祝福家庭と理想天国I-一〇四〇)  皆さんの家庭で子供たちが、うちのお父さんとお母さんは世界のどのような王宮の王や皇后よりも 素晴らしいと思うようにしなければなりません。また子供たちにお父さんとお母さんの関係が天下に ない近い関係だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を 立てなければなりません。そうして「うちのお父さんとお母さんは世の中の誰よりも誇らしいお父さ んとお母さんだ」と言えるように、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。  世の中の親たちを見れば、子供たちがその横で、「お父さん、お母さんどうして喧嘩するの!どう して喧嘩するの?」と言っても乱闘します。涙を見せない家庭で育った皆さんの子供たちがそのよう な世の中の姿を見て、「やっぱりうちのお父さんとお母さんは世の中で一番だ! 本当に素晴らしく 聖なる両親だ」ということが感じられるように、皆さんは子供たちにお手本を見せなければなりませ ん。  父母は、子供たちが骨髄からあふれ出る心情であこがれる父母と子の紺一を立て、黙々と天の家 訓・家法を立てていかなければならないのです。そのようにすることによって子供たちも後代におい て、自分のお父さんとお母さんのような立場に立とうとするのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇 四二) ◆四 父母は友達の中の友達、先生の中の先生  愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は自分から来るものではありません。愛とは相手か ら来るものです。相手かいなくなれば愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば男 性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子供も相対的です。愛というものは相手なくしては成 されないのです。これを「三対象の愛」といいます。  三対象の愛を体得できない者は完全な神様の愛を体験したという立場に立つことができません。 「神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子・娘を産んで、それくらい喜ばう」これ が統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世 界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成す る中で、喜びと満足を感じながら彼らが大きくなって結婚する日を願われたのが神様の願いです。  これと同じように、お父さんとお母さんは息子・娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、いい夫婦 の縁を結んであげなければならないというのです。いい夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄える のです。  神様と一つになって「神様がアダムとエバを造られて愛されたように私たちも神様のその愛を見 習って息子・娘を愛さなければならない」と言ってどこにでも連れて回りたがり、いつでも抱いて歩 きたがり、仕事をする時も連れて行きたがり、ご飯を食べる時も一緒に食べたがればそのようなお父 さんとお母さんを息子・娘が好むのです。友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじやもじや頭 の若者が自分の息子・娘の友達ではありません。  友達の中の友達は誰かといえば、まさにお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。 さらには、友達よりももっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりま せん。ですから父母は友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。  父母が「こらっ、お前、そのようにしたらだめだ」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらな かったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしたらだめだ」と言ったりしながら教育してはいけませ ん。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前それでいいのか。」と言えば「そうだ、ぼくが こうしたらお父さんとお母さんが悲しがるからいけないや」と言うことができるように教育しなけれ ばなりません。  ですから父母は、子供の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。 53
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバし かいませんでした。その次には神様しかいません。天使長とも友達になることは願われませんでした。 天使長は僕です。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから父母は先生の中の先生で あり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。  愛は神様から始まります。ですから結局、相対の愛も誰によるものかといえば父母によるものです。 ですから父母が「おい、お前たちが愛し合うのはお前たちによるのではなく父母の恩徳によるもの だ」と言う時子女たちは「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このような相対を得 てくれなかったら大変なことになるところだった」と、こうならなければいけません。  ですから恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は誰から受けなければならないのでしょう か。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって鳩のように楽しくクゥクゥクゥと愛し合うの を見てそれを見習わなければなりません。「ああ、うちのお父さんとお母さんがあのように愛し合う のを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのようにクゥクゥクゥと愛するこ とのできるそのような相対が必要だ」このようにならなければならないし、父母はそのようになるよ うに教えなければなりません。  そのようになればその息子・娘たちがお父さんとお母さんがしてきたように繰り返すので世界は善 なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというので す。(五七-一一九) ◆五 愛の鞭  ヨハネの黙示録を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい」、中途半端ではいけないとあります。 愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば鞭打ってもいいというのです。子供を 育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は冷たく対すべき時もあります。子供が間 違った時、皆さんが叱ってあげなければ分別力を失います。先生がよく見えても一方では厳しいこと を知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし善に対しては何千度の溶鉱炉のように 熱いのです。  最近学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカ はもうだめだな」と思いました。自ら進んで「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わ なければなりません。韓国の諺に「憎い人にはご飯もっと上げて、かわいい人には鞭を上げなさい」 という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。  父母の鞭が痛いのを忘れてその愛の前に涙を流すことのできる人にならなければなりません。 人は近ければ近いほど賞金を上げるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」とかえって 懲らしめるのです。隣り近所の子なら間違っても知らないふりをするでしょうが、自分の子供なら 「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら「お前、いいことをしたのか、悪いことをしたの か。」と言います。それはたたくことよりももっと多く思ってあげるからです。しかし思いやりより も多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐になります。怨讐 の中でも大きな怨讐になるというのです。  愛するとしてもこん棒を持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。しか し、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。すなわち、十くらい愛して五くらい鞭打てば五く らいの愛が残っているので有り難く思うというのです。  子供が受け入れなくても子供を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりももっと大きな愛を もって現れ、愛するようになればその不良のような子供でも悔い改めて帰ることができます。しかし 子供に対して自分が育ててきた功労を自慢しながら子供を三回でもとがめれば、その子供はふろしき を包むのです。しかしその子供に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛する ようになるとき、その子供は帰ってくるのです。もっと大きな愛は小さい愛をすべて消化・統合する ことのできる主動性があるからです。  この世でも子供がきついからといって「勉強するな」と言う父母は本当に子供を愛する父母ではな いというのです。鞭打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜそう なのですか。今よくなろうというのではなく、未来によくなろうというのです。父母は子供の未来に 大きな夢をかけてそうするのです。  子女を生んで育てるためには真の愛で生んで育てなければなりません。そうして家庭が一つになり、 54
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だといいます。ですから父母は子供の成長を見守りながら 教育し、正しく成長しなさいと「愛の鞭」を加えたりもします。間違ったという理由で父母に叱られ たりたたかれたりしたといって不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓として密かに自重 しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は正しく 成長し神様がいらっしゃる中心に接近して行くことができるのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇 二七) ◆六 勉強は何のためにするのか  勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか。みな初めは仕方なく通うのです。なかでも、特に 小学生たちは我が怖くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通うのではありません。初めはみな そうだというのです。仕方なく通ってみると、あとでその味を覚えて、学ぶために通うようになるの です。そのようになると、お父さんとお母さんは驚くのです。その味を感じ、そのような刺激的な内 容がそこにあるということを知れば勉強するのがおもしろくなるのです。  そのおもしろさということ自体を見れば悪いものです。しかし相対的に勉強してみると自分が思い どおりにできる範囲が広くなるので、そこに味を覚えて勉強するのです。勉強すること自体が好きな 人は一人もいません。勉強することによって自分の活動できる範囲が広がるので好きになるのです。 (三六-一二〇)  学校に行く学生に対して我は「一生懸命勉強しなさい」と言います。それは易しくない道です。苦 痛の道です。しかしそれは未来のために準備しなさいという予告です。教授たちが壇上に立って弟子 たちに一生懸命教えるのも、未来のための準備です。農夫が田畑へ行って一生懸命働くのも、未来の ための準備です。この国に天国を建設するための準備です。(一四七-二○五)  皆さんは学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強してどこに使おうと思いますか。それは 幸福のためでしょう。幸福は愛を抜いてはあり得ません。ですから学校へ行くのは愛の道を短縮させ るためだといえるでしょう。人間において幸福の門が開かれる時とは、結婚の時です。  幸福の門を開くために勉強するのはとてもいい方法だといえるでしょう。しかしその勉強がお金も うけのために、権力をもつためにするのなら間違いだといえます。勉強は真の愛で愛することができ るように学ぶものでなければなりません。お嬢さんたちが大学へ行って学士になろうとするその結論 が何ですか。いい新郎を得ようというのです。それ以外に何もありません。そしてある男性がいくら 立派になったとしても、その家庭が一つにならなかったならその男性は不幸な人です。(祝福家庭と 理想天国I-三七二)  勉強するのも真の男性に出会い真の母になるためにしなければなりません。真の母になるためには、 まず国のために勉強しなければならないし、夫を真の夫として侍り真の夫に侍る真の妻にならなけれ ばなりません。このような自分になれなければ真の夫に侍ることもできないし、真の息子をもつこと もできないのです。女性は真の妻となって一家庭の主婦として夫と百年偕老(夫婦になって仲睦まじ く共に老いること)しなければなりません。  お嫁に行くために勉強するなら大学を出た人たちはみな百年偕老しなければならないでしょう。し かし百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか。調べるまでもないことです。文字を一 字も知らない者たちがもっと長く共に生きるというのです。男性や女性が生まれて長い教育期間を経 て成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会い幸福な暮らしをするためであるといえます。 最近の世の中では結婚相手に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対 者を得るためのものであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に生きれば財物もついてくるし名誉 もついてくるのだといえます。(祝福家庭と理想天国I-三七三) ◆七 真の父母と先生の教え  父母は自分の息子・娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子供が 多い父母が農村であるいは仕事場できつい仕事をする時、貧しくとも背負子を背負い畑の草取りをし、 畝間や田んぼで耕したりするのは、千年万年、子供の幸福のためです。父母の額から流れる苦労の汗 は自分のためのものではありません。その汗の結実が子供を愛する心とともに絡み合えば、そこには 新しい創造の役事が展開されるのです。いくら畑で草取りをし仕事場で荷物を背負ってもその足取り には新しい希望が宿っているのです。(二五-九七) 55
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭  わが国(韓国) に四千万の国民が住んでいますが子供を愛さない親もたくさんいます。彼らの中 で誰よりも子供を愛する気持ちを、十年、二十年以上持続できる父母がいるなら、そこには親孝行の 子供が出てこざるを得ません。息子と娘たちはその父母の顔を見るだけで、手を見るだけで、自分た ちのために苦労したということを知るようになるのです。このように骨髄から湧き出る父母の愛を感 じるとき、そこからは長い歳月の深い事情が流れてくるのです。  このように、子供を国のために貢献させることによってその父母は国家的な父母、あるいは世界的 な父母になるのです。また皆さんが父母の願いを叶えてあげようとする心情に徹して勉強するように なるとき、新しい担い手になるのです。皆さんの中にそのような感情と思いをもてない人がいるとす れば、その人は勉強するといってもまともにすることはできません。  もし父母が子供に「私がお前を愛し、お前のために骨を祈り、お前のために苦労して汗を流すのは、 私を思うよりは、この国をもっと愛しなさいという意味からだ」と言う愛国の志士の心情をもって教 育すれば、そのような父母の下で愛の教育を受けた子供は父母が願う愛国の志士になるために努力す ることでしょう。彼は父母の愛を回想するたびに四千万民族のことを思うことでしょう。そして民族 のために勉強するでしょうし、自分の民族が悲惨な目に遭う時は自分の父母以上に悲惨さを感じるこ とでしょう。  しかし、そのような立場にだけ立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立 場に立って成し遂げた土台がなければなりません。それでこそ、国民が千年万年慕うことのできる要 因になるのです。そうでなければそれはすべて過ぎ去ってしまいます。このようなすべての問題を考 えるなら深刻です。皆さんの学校に、どのようなことがあっても自分の弟子たちに正しい思想を引き 継がせるために苦労する先生がいるならば、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら、皆さん の手をつかんで涙を流し、次のように勧めることでしょう。  「私のために順応しないで国に対して順応しなさい。私のために尽くすよりも国のために尽くしな さい」。このような教えを受けた弟子たちは、その先生が果たせなかった意志を果たすことでしょう。 このように、先生は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国 家と世界の価値を大切に思いながら子供のために精誠を尽くせば、その先生と弟子とその父母と息 子・娘たちは棟梁の器(一国を支える人材)になることでしょう。(二五-九八) ◆八 世界とともに生きることのできる教育  宗教は元の教えです。神様の元の教えは人類を教え、人類を愛そうというものです。それ以外には ありません。ですから真の父母は子女に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてあげます。人 倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。皆さんは誰のために父母を 愛さなければならないのか、考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、 誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。  愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限の愛を語られま した。最後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕うその目的を 知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。神様のためで す。神様のために愛さなければなりません。  自分のために愛する者は死んでみてください、どこへ行くか。皆さんが子供を産んで乳を飲ませか わいいと言いますが、誰のためにかわいがりますか。それは天と地の身代わりとしてかわいがらなけ ればなりません。この国、この世界のために、神様のためにかわいがらなければならないのです。神 様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのにその縁を 通じて生まれた息子・娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。  子供を抱いて乳を飲ませるおばさんたち、天と地を身代わりして神様の愛する息子・娘を抱くとい う切実な心情で自分の息子・娘を抱かなければなりません。皆さん、恵みを受けることを願いますか。 永生することを願いますか。そうするためには、公的な人にならなければなりません。子供を教育す るとき、自分の息子・娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息 子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を胸に抱いて乳を飲ませる時には この地球上の人類を代表した母の立場で、人類を代表した赤ちやんに乳を上げるという心で与えなけ ればなりません。そして自分の子供にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子供に も自分の子供だという心情で対するお母さんになってください。  そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ちやんたちは必ず偉大な人物になることでしょう。すぐに 56
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 はならなかったとしても、一代二代を経ていくうちに必ずその後孫の中に世界を動かすことのできる 人物が生まれることでしょう。これが公式です。そのようになるのです。  素晴らしいお母さんたちは子供を胸に抱いて、世界を動かすことのできる善なる存在になるために は、どのような困難な立場でも耐えられなければならないとその子供に教えます。それはお母さんた ちが、善は滅びないという天理を知っているからです。善は何によって動くのでしょうか。私のため にではありません。ご飯を食べるのも私のために食べるのではなく天宙のために食べなければなりま せん。  花嫁を迎えるのも自分のためではなく、み旨のために結婚しなければなりません。世界を目標にし なければなりません。経験するのも世界を中心としなければなりません。そのようにする人は格好が 悪く見えても本当に味のある素晴らしい人です。七十年ないし八十年の瞬きするような人生を過ぎれ ば永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きています。永遠に生きる世界の時間圏内に 入ってその世界と連結させることのできる道を知れば、その永遠は私のものになるのです。  ご飯は栗飯を食べ、服はたとえ見すぼらしい風呂敷のようなものをまとっていたとしても、世界を 中心として「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生きてこのようになった」と言うこ とのできる、幅広く絶え間ない話題をもっている人が住んでいる所ならば、そこにいる子供たちは優 秀な人になるというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇四七) 第十章 復帰すべき人類の真の家庭 ◆一 神様の救援摂理の目的  神様の一番必要なものが何かが問題です。神様を何と言いますか。神様は真の愛の王であり主人で す。もしも、真の愛の王であり、新郎であられる方が神様ならば、相対者になる皇后が必要だという ことが絶対的原理なのです。では神様という絶対的なお方の前に真の愛の相対になれる方が誰なのか と尋ねてみると、それは真の人間です。神様の愛と一体になるアダムとエバだったのです。皆さんは お金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければすべて無駄なことです。 夫は妻が必要であり、子供が必要です。妻は夫が必要であり、子供が必要なのです。そのような愛の 対象が暮らす場所が家庭という所です。  良心の欲望をいっぱいに満たすことのできる愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の相対であ る男性と女性が一つになり、その愛の中で息子・娘をもち、幸せに暮らすことのできるその家庭で、 神様の真の愛を中心とした地上天国の初出発の基地とならなければならないのです。私たち人間も、 愛する対象が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れるのを願うのと同じように、神様 も自分の愛する相対が無限の価値ある存在になることを願われるのです。そのような人が真の人間な のです。皆さん! そのような男性と女性が堕落しないで完成しなければならないのが、まさにアダ ムとエバだったという事実を知りませんでした。(祝福家庭と理想天国I-七九)  堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子・娘をみな失ってしまいました。神様が所有でき る真の息子・娘がいなかったのです。神様の真の愛を中心として血統的な因縁をもつことのできる神 様の家庭がなかったのです。  堕落した父母によって、偽りの愛と偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことによって、私たち の心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子・娘の間に殺戮戦 が起こりました。  それゆえ、神様がこのようになったことを復帰するための救援摂理は復帰摂理なので、失った真の 心と体が一つになった息子・娘として絶対的に一つになる夫婦、息子・娘が絶対的に神様の真の愛を 中心として完全に一つになり、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を築き、新婦宗教格で あるキリスト教と連結させ神様と結縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛に統一される家庭、氏 族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないのが神様の救援摂理の完成なのです。(祝福家 庭と理想天国I-八〇)  神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。神様が一番愛する息子・娘、神様の骨と肉を一つにでき、 そのような愛する息子・娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成することが神様のみ旨 だと言わざるを得ないということを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。次に、メシヤは 57
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 どのような方なのかということを、皆さんは知らなければなりません。  永遠な神様の真の愛を根にして、初めて地上に来られ、すべての宗教が願う理想を完成する方が再 臨のメシヤだということを私たちは知らなければなりません。そうして真の父母になり、失ってし まった真の愛を中心として真の生命と真の血統を全地上に理想家庭として立てようとするのが、神様 の救援摂理の目的でした。(祝福家庭と理想天国I-八〇) ◆二 サタンの所有物になったアダム家庭  アダムとエバが堕落することによって、神様は彼らを真の人類の祖先として、人類の父母として、 ご自身の息子・娘として対することができなくなってしまいました。アダムとエバは神様の前に掛け 替えのない息子・娘であったにもかかわらず、神様が息子・娘として対することのできない位置に 立ってしまったのです。神様はまた、アダムとエバが成人したのちには夫婦として祝福し、慰労の対 象にしようとされました。ところが彼らは、息子・娘としての慰労の対象になれないのはもちろん、 新郎・新婦としても慰労の対象になれませんでした。  神様も願われた所願が大きいゆえに、彼らに無限なる価値を賦与し、眺められたのですが、彼らが 堕落することによって、神様は彼らから、子女として慰労してくれる心情を感じられず、新郎・新婦 として、すなわち夫婦として慰労してくれる心情を感じられなかったのです。神様はアダムとエバが 未来に希望ある祖先として、すべての人類の前に一つの王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立 場に立つことを願われたのです。しかしながらこのような願いをもつ神様の前に、彼らは慰労の対象 となることができなかった事実を、皆さんは知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三 二七)  堕落はどこから始まったのですか。家庭で堕落したというのは何をしたのですか。善悪の実を取っ て食べたのですか。家庭的に堕落するというのは愛以外にありません。善悪の実を取って食べて堕落 しますか。善悪の実を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の実を取って食べたことが罪だと いうのですが、何千代何万代後孫が罪人になる善悪の実とは何なのでしょうか。これは血統的関係で す。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛 の問題だけです。過った愛が堕落の原因です。  不倫な淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムもまた、天使長と一つになったエバと 一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心にしたのではなく天使長を中心にした夫婦 関係を結び、家庭を築くようになったので、アダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血を 受け継ぐようになったのです。  したがって、本来のアダムとエバの息子は神様の長子、次子にならなければならなかったにもかか わらず、エバが不倫な情で天使長と関係を結んだため、神様の息子である長子と次子はサタンの所有 物になってしまったのです。  本来、創造理想の中では愛は所有を決定するようになります。愛の関係を結べば、その愛を中心に 主体と対象は必ず互いの所有権をもち合うようになるのが原理です。したがって、この原理的な基準 でよく見るとき、エバが天使と不倫なる愛の因縁によって堕落するようになったので、エバの後孫と して生まれる人間の所有権は天使長であるサタンにあるようになったのであり、サタンはその所有権 を堂々と主張できるようになったのです。  アダムとエバが堕落することによって神様の創造理想は成就されず、むしろ堕落した父母になった ことによって、原罪のある子女を繁殖するようになりました。そして堕落したアダムとエバの家庭を 中心にして氏族、民族、国家、世界へと発展してきたのが人類歴史なのです。それゆえに堕落以後今 日まで、神様の本然のみ旨を完成した立場に立った真の父母の理想が残されてきたのです。そして真 の父母を中心とした真の家庭と真の氏族、民族、国家、世界は今でも理想として残っているのです。 (祝福家庭と理想天国I-三二五) ◆三 堕落人間の願い  人間始祖アダムとエバは、堕落することによって堕落の血統をつくってしまいました。彼らは神様 が願う本然の理想世界、堕落していないその世界で神様と一体となり、神様の直系の血統を受けて息 子・娘を生むべき真の父母の立場になれず、サタンと因縁を結び、死んだ子供を生んだサタンの魁首 になったのです。ですから今日人類は、すべて偽りの父母に出会ったのです。ゆえに偽りの父母の血 58




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