四位基台について


台風の早朝、目を覚ますと、風の音とともにJR線の列車の音が聞こえてきた。300メートル先から音が波のようになって青い稲穂の上をここまで伝わってくるのだ。言葉や音楽も波の連続が起こって離れたところに伝わるのだ。光も、同じだ。光は波動性と粒子性を持っている。波であり粒でもあるというのだ。どういうことなのか。

あっ!そうだ!!これは、「四位基台」で学んだ正分合の三段階原則の「時間性」と、球形運動の中心及び三点の四位による「空間性」ということと同じではないか。神様の天地創造は、「光あれ」すなわち極小粒子の創造から始ったが、最初の第1号の四位基台が「時間性」と「空間性」、すなわち波動性と粒子性の「光」だったと考えていいのではないか。光を時間性から観察すれば波であり、空間性からとらえれば粒子なのである。

素粒子を例にすれば、神を<正>とし授受作用する原子核(主体)と電子(対象)を<分>、合生体を<合>とする正分合作用が「波のように」繰り返しながら、次元を高めながら発展させて、森羅万象が創造され、最後には神の子女である人間の家庭的四位基台(父母・夫婦・子女)に結実したのである。

「父母と夫婦と子女」は愛の時間性と空間性の四位基台を現わしている。愛の連続性の縦的波として、親子、先祖と子孫という歴史的連帯の中で私の人生が重要な意味を持っている。横的には、家庭の兄弟愛を拡大した人類愛に人生の意味があることを教えている。私たちは四位基台における三大王権と四大心情圏を学んできた。

四位基台は存在基台であり、神の創造目的である。(この世の中でこんなすばらしいことを知っている人がいないとは、こんな悲劇があろうか。)そして人類歴史は4数及び40数を中心に血を流しながら復帰摂理歴史が繰り返し展開してきたのである。

四位基台が光のように波動性と粒子性であるということは、四位基台は“静か”ではないということだ。継続は力なりということは重い教訓である。四位基台は波として激しく動いて正分合作用を続けている、発展し続けているということを知らなければならないと思う。これが「天運」ということだと思う。「二人もしくは三人が心を合わせた」(聖書)ところに天運があるのであり、その一つの基台が拡大しアベル(中心)としての基台をつることができれば、周辺を感化できる「天運」を生むのである。

今、自分の心は四位基台を形成しながら発展しつつあるのか、じっとしているだけなのか。水は流れなければ死んでいく。毎日、再臨主のみ言の訓読(訓はみ言が流れるの意)によって心に天の波動エネルギーを注入しよう。天の「波動」と一つとなって実践しよう。天の心情、生きた今の天の心情と一つになろう。御父母様の涙と一つになろう。我々統一教会は四位基台軍団となろう。私が天運を巻き起こそう!そこに霊界から善霊たちが降りてきてともに活動するのだ。

重要なのは、神を中心とする四位基台でなければならない。絶対信仰と絶対愛と絶対服従でこそ、100%神を中心とすることができる。神を中心とした四位基台だけが、「結晶」と呼べる。本来は無数の愛の結晶で出来た世界が天国であった。しかし、世の中はサタンを中心とする四位基台で固められている。今、家庭祭壇が与えられた。家庭祭壇を中心に絶対信仰で毎朝訓読しよう。天の波動と共鳴するために。訓読しよう。激しく。





運命


ベートーベンの交響曲第5番「運命」第1楽章を聴く。何とこれは神様の啓示ではないのか。「ジャジャジャジャーン」で、いきなり人類始祖の堕落で受けた神ご自身の衝撃から始る。どれほど、親なる神様の絶望は大きく深かっただろうか。目が真っ暗になられたのではないだろうか。洪水で我が子を失った親が絶叫している姿‥‥

美しく創った自然界も荒れ野にしか見えない。愛する息子と娘を失い、愛ということが悲しみと痛みを痛撃する傷口と化した。誰もいない荒野にさまよいながら、復帰の道を決意される神様。さまよいながら、救いの摂理をされる神様が、善であると信じた人間の不信と失敗によって幾度も裏切られていく。

モーセ、イスラエル民族、ダビデ・ソロモン王、そしてイエス様の十字架。衝撃から始った人類歴史は、残酷にもそれだけでは終わらなかった。神様はそのたびに怨讐を許し愛して立ち直られた。そして神様は、再臨摂理を待つ間に、一人の作曲家の心にこの「運命」を届けたのではないか。

再臨摂理も困難な道を越えながら、栄光の日に近づいていく‥‥
神様の心情を訪ねながらこの曲を聴き終わると、思わず大きな拍手をしていた。

(第2楽章は、天国で勝利者をたたえ、苦労した子女たちを愛で包もうとされる神様の御心情を表しているかのようだ。)





夏の日の光の中で


八月の朝の窓から、強い光が入ってくる。ソファーに寝転んでしばらく窓の向こうの空を見つめていた。善人でも悪人でもこの地上のどの家でもその窓からは等しく同じ光が差し込むのだ。これは普遍の真理である。このように自然の中に神様の愛の姿を象徴的に現わしておられる。自然は神様の愛の化身である。

猛暑は神様の愛の強烈なことを教えている。最も体力が消耗する八月のこの暑さの中で毎年よく咲くものだと思うのが、ムクゲやサルスベリだ。昨日もサルスベリの赤と白の花を摘んで手のひらの中で転がしながら、よくもこんなふわふわのフリルのような花を神様は創ったものだと思いながら眩しい空を見上げた。神様はありとあらゆる考えうるすべての形状の花や植物を創られた。

神を信じないということがあろうか。そのような人はどうかしている。イギリスのハーバート(1583〜1648)が主張した超越神教は創造主だけを認めて、その後の神との関係を認めないという。そんな馬鹿なことはない。不幸だ。神様は創造しただけでこの歴史に何もされていないのか。とんでもない。度重なる苦難を耐えてメシヤを送ってくださり、命のみ言をこのように下さった神様。いつも親として見つめてくださる神様。

しかし、そういう自分も神様が遠いと思う。全国の非原理の職場で頑張っている統一信徒たちの多くも、こんなに神様と遠い環境で日々歩んでいるのかと思う。神様が遠いことほどつらいことはない。神様が遠いのではない。自分が離れてしまっているのだ。

たとえば、責任者からのFAXを神様からの通知だと思っていない。(私は)ちょっと見るだけで、すぐ読まない。本気で読んでいない。これでは、中心者と心情を一つにすることはできるはずがない。命の管を自分で切ってしまっては世の中の自殺問題を悲しむ資格がない。命が天に繋がっていなければむなしい。さらに、御父母様のみ言に対する精誠がない。天聖経の訓読が命であり、最高の精誠だ。

提案がある。天聖経を全国のすべての人が同じ日に同じ箇所を訓読する。2600ページを7ページずつ訓読する。その7ページを直接訓読と要旨訓読と簡易訓読の三段階に分ける。祝福家庭は直接訓読、まだ充分学んでいない氏族などは要旨訓読(小冊子を作る)、一般の人たちには日めくりカレンダーや携帯メールのような簡易訓読を。そのようにして、全国民がみ言を訓読する運動を展開する。同じ内容を訓読していれば、氏族や一般の人々と共通の話題を持てたり、解説をしてあげたりできる。み言によって万民の死せる命が生きる。苦労している人、真理を求めている人に早くみ言を訓読させてあげたい。

今日はやはり暑かったが、4時ごろ街の木陰(やはりサルスベリ)に逃げ込むと、体全体を通り抜けていく涼しい風に生き返ったような身震いを覚えた。霊界に行ったときの神様の愛の光に包まれる時の感動と似ているか。これも、神様の愛の姿を教えてくれているのだろうか。

 

 


神様の愛の海の中を泳ごう

 

台所の汚れや油が流しから外に流れてマスに溜まるのですが、そのマスをきれいにするには、ゴミや泡状になった油粕をすくって外に出して、そしてホースで水を数分間流し込んでおくと、やがて透明な水になり、底がよく見えるようになります。

このことは、罪を清算し堕落性を脱ぐために信仰生活をどのように歩むかを示してくれていると思いました。私たちは、地上生活(信仰生活)で、原罪と遺伝的罪と連帯罪と自犯罪の4つの罪を償う事とともに、堕落性(その根本は自己中心性)を脱がなければなりません。

4つの罪が信仰生活のなかで自動的に償えるということもなく、堕落性は信仰生活の年数で薄まっていくというものでもありません。それでは、何によってそれが可能であるというのでしょうか。どうしたら、心と体が一つになるでしょうか。

 「訓読」とはみ言が流れると言う意味があるということですが、文字通りそういうことなのだと理解するようになりました。つまり、み言という水をどんどん、私というマスに流し込むことによって、私の心(霊人体)がだんんだんと澄んだ水になって、最後には真水になるのです。

ですから、み言の一行一行の深い意味を考えていくということ(私はこれが一番大事だと今まで考えてきました。)も悪くはないのですが、それ以上に(それこそお経のように、あるいはシャワーのように)どんどん訓読することがもっと大事だと理解するようになりました。御父母様も、訓読によってその時の神様と御父母様との心情関係が蘇り、それを私達が追体験することを願われておられるそうです。毎日毎日神様の愛の海の中で、汚れた私たちもだんだんと澄んだ真水になっていくことが出来るのです。

私は2003年の2月6日天一国祝福式から2004年のアテネ五輪まで1年半の間、テレビは見ませんでした。心を汚すだけだと思ったからです。もちろん、有益な情報も少なくないのですが、その損失よりもテレビを見ないことのプラスのほうがはるかに大きかったから、ずっとその状態が続きました。新聞も同様に有益なものですが、私は週刊誌の広告を見て心が汚れるのがいやだったので新聞も止めてしまいました。今の人々は情報も早いけれども、心を汚染させていくのもあっという間であると思います。子供たちが大人の商魂の犠牲になっているのは寒心にたえません。

不義の言葉が蔓延してどれほど人の心を蝕んでいるでしょうか。私個人もそうですが、家庭も社会もみ言を訓読して(訓読会をして)、神様の愛のシャワーの中で正しく生きていかなければなりません。神様の愛の海の中を自由に泳いでいきましょう。

これからは天聖経を日々ひたすら訓読してみ言を実践して生きていけば、全人類が天国(天一国)にはいるようになるのです。