ある人が地獄の入口にたどりつきました。地獄の入口に、門番の鬼がいました。鬼にあいさつをしたら、その鬼に言われました。「おい、どうしてお前はここへ来たのだ。お前はまだ息があるではないか。もう一度、地上に帰りなさい」。その人が帰ろうとしたら、「おい、ちょっと待ちなさい。せっかくここまで来たのだから、中をちょっと見ていきなさい」と言って、地獄へ案内してくれました。

そこでは、ちょうど食事が始まるところでした。たくさんの人が丸いテーブルを囲んで、すわっています。手にはフォークを持っていますが、そのフォークが何メートルもある長いものです。ご馳走が運ばれてきました。腹がへっているので、みんな先を争って料理にフォークを突っ込み、食べようとします。でも、柄の長いフォークにさした料理は、自分の口に入れることができません。無理して食べようとしても、料理はだれの口にも入らず、お互いにののしりあっています。

「地獄というところは、本当に恐ろしいところだ。もう帰ります」と、門番に言いました。そしたら、「おい、天国というところがある。この上だ。ついでに見ていきなさい」と門番が言ったので、「さて、どのような世界か」と思って、天国へ連れて行ってもらいました。
天国も食事の最中でした。驚いたことに、地獄と同じように、長いフォークを手に持っていました。でも、違っているところがありました。料理をフォークにさして、自分の口に入らないと思うと、「私の口には入りません。あなた、どうぞ」と言って、他の人の口に入れてあげているのです。口に入れてもらった人は、「ありがとう。今度は、あなたがどうぞ」と言って、料理をお互いに食べさせあって、みんなニコニコ、楽しそうに話をしながら食べていました。

 

これは、お坊さんがよく語るお話で、ある校長先生が生徒たちの前で、みんなが助け合って生活するようにと話されたものです。その内容は、信仰生活をしている私たちにも、重要なテーマを浮き彫りにしてくれています。私たちが「他主的自覚」ということを理解するためには、このお話が相応しいと思ってインターネットで検索して探しました。

今、「相対理想絶対圏」ということを強調されています。「自主的自覚」によって堕落が起こったのですが、それは、自分のために自ら悟ったということです。それに対して、天国は、「他主的自覚」でなければならないのです。「他主的自覚」とは、私が主人ではなく、相対圏が絶対であるということです。相対圏を中心として、私が悟らないといけない。相対圏とひとつとならなければならない、それこそが神様の願われる世界です。ですから「相対理想絶対圏」が天国です。一心、一体、一念、一和がなされなければならないのです。夫婦の愛も、もう一度考えて見なければなりません。夫は妻のために、妻は夫のために生きるのですが、その「ために」の前に、「絶対」が付くのです。

天国と地獄のフォーク(箸)のお話は、これで終わりではありません。長いフォーク(箸)とは何でしょうか?私たち信仰者にとって、それは「祈り」であるに違いありません。なぜなら、「祈り」は、地球の果てまでも届くことができるだからです。そればかりか、真心の祈りは天の神様まで届き、無限の恵みをいただくことができるのですから、それ以上、長いフォーク(箸)はありません。問題は、ほとんどの信仰者の祈りや願望は、あるいは夫婦愛は、その動機までも分析していけば、詰まるところ、自分の利益のために成されているということです。「自主的自覚」です。長いフォーク(箸)を自分のために使っていて、なかなか祈りは自分を幸せにしてくれないと不平を言っているのです。











文鮮明先生が生涯実践し教育してこられた「為に生きる」という統一原理の根本理念は、一般の奉仕やボランティアと同じ次元で理解してはいけません。祈りましょう。「他主的自覚」で神の為に、人の為に、祈りましょう。たとえ手足が不自由でも愛は実践できるのが人間です。祈ってもらっているというだけで、人は責任感が湧いてきます。区域で伝道名簿を作り、祈りあっていけば、神様がたくさんの福を他の人に下さるでしょう。それを祈りが聞かれたと分かって喜べば、その人が自分のことをそんなに喜んでくれたといって、たくさん祈ってくれて何倍もの福をくれるようになります。きっと、必ず。天国は、どこそこにあるというのではなく、ここにあるのです。アーメン。