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図解ー勝共理論2

図解・勝共理論 28 唯物弁証法 1

弁証法はギリシャに由来
近代に継承されマルクスへ

 共産主義はふつう弁証法的唯物論と言いますが、勝共理論はこれを共産主義唯物論と唯物弁証法にわけて論じています。今回から唯物弁証法に入ります。
 では、弁証法とは何でしょうか。もともと弁証法という言葉(英dialectic 独Dialektik)は、対話・問答を意味するギリシャ語のディアレクティケーやディアロゴスに由来しますので、本来は対話術や問答法、あるいは論争術や弁論術を意味します。
 簡単に言いますと、話し合っている段階で真理をつかむということです。たとえば、1人の人が意見(これを正)を言うと、それに対して別の人が違った意見(これを反)を出します。その2つの意見を合わせて(これを総合)、より深い真理に近づいていく、こういう正・反・総合といった論理展開が弁証法と言うわけです。
 ギリシャ時代には、まずゼノンがいます。アリストテレスから弁証法の創始者と呼ばれたゼノンの弁証法は、相手の主張の矛盾を暴露し、自己の主張の正しさを論証しようとする弁論術でした。飛んでいる矢はとまっているとの「飛矢静止論」が有名です。ソフィストのいわゆる詭弁も一種の弁論術です。
 ソクラテスの弁証法は他人との対話を通じて真の知恵を得ようとする文字通りの問答法でした。それがプラトンやアリストテレスに至ると、問答法というよりは、むしろ思考や推理の方法という性格が強くなり、思考法として弁証法が扱われるようになります。
 これに対して、ヘラクレイトスの弁証法は問答法や思考法ではなく、万物の中に矛盾が含まれており、その闘争によって、万物は流転(発展)するというものです。ヘーゲルはヘラクレイトスを真の弁証法の創始者と呼び、マルクスもこれを継承しています。
 ギリシャ時代以降、中世においても弁証法に関する研究はほとんどありませんでしたが、近代に至って再び弁証法が論じられるようになります。それはカントによってです。彼は経験によって裏付けられない推論を先験的弁証法と呼びました。たとえば「宇宙は有限である」という命題と「宇宙は無限である」という命題が同時に成り立つとし、そのような人間の認識能力の限界を超えた世界を扱った宇宙像を「仮象」と呼びました。
 これを受け継いだフィヒテは、こう考えました。「自我は絶対的に自己自身を定立する」(第一命題)。すると、必ず同時に「自我に対して非我が反定立される」(第二命題)。さらに非我はいかに自我に対立するものであっても自我によって自我のうちに定立されねばならない(第三命題・総合)。このフィヒテの定立・反定立・総合のトリアーデ形式が後にへーゲルの観念弁証法となり、それをマルクスは唯物弁証法へと発展させたのです。
 弁証法にはこうした歴史的な流れがあります。


図解・勝共理論 29 唯物弁証法 2

ヘーゲル弁証法に原型
思考を唯物的にひっくり返す

 ヘーゲルは弁証法を世界全体を貫く一般法則として捉えました。これをヘーゲル弁証法または観念的弁証法と呼びます。マルクスはこのヘーゲル弁証法の思考パターンをほぼそのまま受け入れ、それを唯物論的に組み直して自己の目的(革命)を遂行するための理論として作り上げていったのです。
 マルクス自身、自分の弁証法はヘーゲルのものをそっくりひっくり返して打ち立てたと述べています(『資本論』第二版後記)。ヘーゲル弁証法は観念的弁証法ですが、そこから「観念」を取ってしまい「唯物論」に結合させて「唯物弁証法」を作ったと言うわけです。では、ヘーゲル弁証法はどのようなものでしょうか。
 ヘーゲルの弁証法は、絶対者(絶対精神)が自己を実現していくプロセスを言うもので、それを「概念の自己展開」「理念
の自己展開」と呼びます。そこで概念弁証法とか観念弁証法とも名付けられるのです。
 それによれば、1つの概念または1つの事物は、それ自身のうちに自己と対立する契機をもっており、この対立・矛盾を止揚(アウフヘーベンー=あるものを否定しながら、より高い段階でこれを保持すること)することによって、より高次なものへと発展していくという法則があります。その発展過程をヘーゲルは「即自・対自・即自対自」といい、それは普通「正・反・合」とか「定立・反定立・総合」の3段階過程として知られています。
 これをさらに詳しくみますと、絶対精神は自己展開において、まず論理において、「有・本質・概念」の3段階過程を経るが、概念の段階で絶対精神が「主管性・客観性・理念」の3段階を経て絶対理念にまで高まり、その後に自己を外化(疎外)して自然となり、「力学・物理学・生物学」の3段階を経て、次に人間を通じて「主観的精神・客観的精神・絶対精神」と発展して、弁証法的展開の出発点であった本来の段階に帰還すると言うのです。
 このヘーゲルの思考法を受け継ぎ、そしてマルクス自身がいうように唯物論にひっくり返したのです。このことをエンゲルスは「これら(唯物弁証法の)3法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがって単なる思考法則として展開されている。……われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである」(エンゲルス『自然の弁証法』)と述べています。





図解・勝共理論 30 唯物弁証法 3

マルクス主義弁証法の特徴
運動・発展の法則と位置付ける

 マルクスの唯物弁証法を体系的に整理し、さらに自然界においてそれを検証しようとしたのが、エンゲルスでした。彼は『自然の弁証法』の中で「弁証法とは自然、人間社会および思考の一般的な運動・発展法則に関する科学」とし、次の3つの法則にまとめました。
 ?量から質への転化の法則
 これは質的変化は量的変化によってのみ起こるという法則です。量的な変化がある一定の段階に達すると、飛躍的に質的変化が起こるというもので、一般的には「量的変化の質的変化への転化の法則」と呼ばれます。
 ?対立物の相互浸透の法則(矛盾の法則)
 これは「対立物の統一と闘争の法則」もしくは「矛盾の法則」とも呼ばれます。事物の内部には互いに分かちえない関係(統一)にありながらも互いに排除し合う(闘争)もの、すなわち対立物があり、その対立物の統一と闘争によって発展するというものです。
 ?否定の否定の法則
 これは発展運動の前進的・上昇的であることを示す発展の法則で、事物の発展において古い段階が否定されることによって新しい段階に移り、それがふたたび否定されることによって第三の段階に移ることをいいます。この第3の段階への移行は、高い次元における第1の段階に復帰することを意味し、このように発展は螺旋形の発展になると言います。
 以上、エンゲルスは3つの法則として唯物弁証法をまとめましたが、スターリンはさらに検討を加え、それを次の4点としました(『弁証法的唯物論と史的唯物論』)。今日、共産主義の教科書的な文献は概ねこのスターリンの見解にそっています。
 ?事物を相互関連性において理解する
 観念論のように事物を切り離して見るようなことをせず、関連のある一つの全体とみなし、お互い有機的に関連、制約しあっていると見ます。 
 ?事物を運動、生成、発展、消滅から理解する
 事物を静止と不動、停滞と不変の状態をみなさず、不断の運動と変化、発展と見ます。
 ?発展を漸次的な量的変化が飛躍的な質的変化へと移行する過程として理解する
 発展の過程を少しずつの量的変化が突然、急速に質の変化へと飛躍的に移っていくと見ます。
 ?発展を対立物(矛盾)の闘争による変転過程として理解する
 事物は本来、それ自身の中に矛盾をかかえており、これらの対立物の闘争によって発展していくと見ます。
 以上の諸点を次回から検証します。




図解・勝共理論 31 唯物弁証法 4

「相互関連性と変化」を強調
革命を正当化の党派的理論

 事物を相互関連性と変化でとらえるというのが唯物弁証法の特徴です。これに対して事物を固定的にとらえるのが形而上学であると、マルクス主義者は思想を二分します。
 エンゲルスはこう言います。
 「それはこの考え方[形而上学]が個々の事物にとらわれてそれらの関連を忘れ、それらの存在にとらわれてそれらの生成と消滅とを忘れ、それらを静止にとらわれてそれらの運動を忘れるからであり、木ばかりを見て森を見ないからである」(『反デューリング論』)
 このようにエンゲルスは言うのですが、もともと形而上学は存在するものの最高原理を思弁的にとらえようとする哲学の特殊な分野を意味しています。すでに見ましたヘーゲル弁証法で明らかなように観念論にも相互関連性と変化の視点があります。
 しかしマルクス主義者は自分たちの考え方以外はすべて形而上学と見なし、形而上学は事物を不変な固定されたものとしてとらえているとの枠組みをはめます。
 つまり事物を相互関連性と変化でとらえるのは唯物弁証法のみであると主張するわけです。
 そこにこだわるのは理由があります。その理由をスターリンは「世界は不断の運動と発展のうちにあるならば…資本主義制度を社会主義制度にとりかえることができる」と率直に述べています。
 つまり、マルクス主義者は唯物弁証法によって不断の運動と発展を強調するのは、プロレタリアートを革命に駆り立てようとするからです。革命を正当化するための理論という共産主義の党派性がここでも浮き彫りになっています。
 さて、相互関連性といえば、現在の私たちにとっては当たり前のことのように思われます。宇宙の星団と星団の関係や地球上の食物連鎖、生態系といった概念はまさに宇宙のすべての事物がどれ一つとして孤立して存在しているものはない、まさに相互関連性を証明する何ものでもないでしょう。
 ですから唯物弁証法が事物を相互関連性でとらえることは正しいことです。しかし、唯物弁証法が問題なのは、なぜ相互関連性があるのか、その理由を問わず、また相互関連性があるのなら全体と個体をどうとらえ、個体のあり方をどう考えるのか、このことについてもまったく論及しないことです。
 革命を正当化するためだけの相互関連論だから曖昧になっているのです。





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