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図解ー勝共理論

図解・勝共理論 39 唯物弁証法 12

生と死は同時に存在しない
細胞の交替を生物の生死と混同

 エンゲルスは、生物の生と死も矛盾(対立物)の例としてとりあげ、生物の生命を生と死の対立としてとらえなければならないと、次のように言います。
 「(生命は)事物と過程そのもののなかに存在するところの、たえず自己を定立しかつ解決しつつある矛盾であるわけだ。そしてこの矛盾がやめば、ただちに生命もやみ、死がはじまるのである」(『反デューリング論』)
 エンゲルスの言う対立物とは、その個体内部に存在するものですから、では生物はそれ自体内でいかなる生と死の対立によって生きているというのでしょうか。
 たとえば70歳の人なら、その人生70年は生と死が対立する期間でなければなりません。しかし、その人の70年間は頭脳、神経、内臓どれひとつをとってみても、病気や傷害を除いて、みな生き続けてきたのであり、死んだり生きたりするものは何ひとつも見いだせません。
 もちろん、一つ一つの細胞の不断の交替があります。エンゲルスもこのことに言及し、次のように言っています。
 「(生物は)どの瞬間においてでも、同一のものであって同一のものではない。どの瞬間においてでも、それから外からもたらされた物質を消化し、別の物質を排泄する。どの瞬間においても、その体内の細胞は死んでゆき、新しい細胞がつくられてゆく。いずれにしても遅かれ早かれ時がたてば、この体内の物質はすっかり新しいものになり、別の物質原子におきかえられる。従って、どの生物もつねに同一のものでありながら、しかも別のものなのである」(同)
 確かに、40兆個もあるとされる人間の細胞は数カ月ですっかり新しい細胞にとって替わられます。しかし、それでいて私自身は別人に替わったわけでありません。
 つまり、人間における生と死の対立を言うとき、生は「人間の生」を、死は「人間の死」を意味しなければならないはずです。「人間の生」の対立概念は「人間の死」だからです。細胞の死は「人間の死」とは何ら関係ないのです。かえって「人間の生」のために古い細胞は死んでいき、新しい細胞と交替しているのです。
 人間以外の生物の場合も同様でしょう。単細胞生物の場合は「細胞の死」はそのままその生物の「生」の終わりを意味しているのであって、生と死が共存することはありえません。
 したがって、すべての生物の存在期間中は「生」に対立する「死」はありえないのであり、生と死の対立として生命をとらえる共産主義唯物論はまったくの間違いなのです。


図解・勝共理論 40 唯物弁証法 13

自然界に「矛盾」はない
レーニンの事例は全て間違い

 レーニンは、対立物の例として、数学ではプラスとマイナスや微分と積分、力学では作用と反作用、物理学では陽電気と陰電気、化学では諸原子の化合と分解、社会科学では階級闘争を挙げます。
 では、これらは本当に対立物でしょうか。
 プラスとマイナスは、量的な測定に増加と減少を示す相対的な二方向があり、微分と積分は演算に二つの方向があるということです。面積や体重を測定するときには積分、速度を測定するときには微分というように、どちらかの演算を用います。
 すでに述べたように、唯物弁証法の矛盾とは対立物が同時的に一存在物にあり、その対立物の闘争によって発展するというものです。そうあるためには両者の同時的関与が要求されますが、実際の計算では加算と減算、微分と積分を同時に行いません。加算か減算か、微分か積分か、計算はいつも一方向です。ですから、これらは対立物や闘争と関係ありません。
 作用と反作用はどうでしょうか。物体Aが物体Bに力を及ぼしているとき(作用)、物体Bも物体Aに力を及ぼしており(反作用)、その二つの力の大きさが等しく向きが反対というのが、作用・反作用の法則です。
 作用と反作用は同時的ですから一見、矛盾に見えます。しかし唯物弁証法で言えば、この二つの作用は一方が他方を打倒する力として作用しなければならないはずですが、実際はそうではなく相対的に均衡しています。作用と反作用は調和であって矛盾ではないのです。
 陽電気と陰電気は互いに引き合い原子や分子を構成する力となり、電場(電界)を形成し、電気現象を生じさせるのであって、対立物ではありません。対立を言うなら互いに排斥し合う陽電気と陽電気、陰電気と陰電気がそうですが、これらが反発するのは陽電気と陰電気が引き合い、宇宙秩序を形成するためです。
 化学における化合と分解では、個々の分子は化合か分解かのどちらか一方に関与しており、ひとつの分子が同時に化合と分解の二つの反応に関与するのではありません。一定の条件の下では一方の反応の速度が他方の速度より大きいので、全体として化合か分解かのどちらか一方に反応が進みます。化合と分解は矛盾、闘争ではなく相対的な二つの反応なのです。
 最後に社会における階級闘争ですが、階級間のすべてに闘争があったのでもなく、また闘争によって社会が発展したのでもありません(唯物史観で詳述)。
 以上、唯物弁証法が示した対立物(矛盾)はことごとく間違っています。闘争を正当化するための方便にすぎないのです。


図解・勝共理論 41 唯物弁証法 14

「闘争による発展」あり得ず
相対物の授受作用で発展する

 前回まで「対立物」の間違いを見てきました。今回は「対立物の闘争による発展」の間違いについて考えます。
 共産主義は闘争による発展の例として卵を持ち出します。ひよこ(胚子)は殻を打ち破って、初めてひよこに孵ることができるというのです。
 殻と中のひよこ(胚子)を対立物と捉え、殻は殻のままでいようとし、逆にひよこ(胚子)はこれを打ち破ろうとする。現状を固定化する輩(殻)を闘争によって打倒(つついて割る)しなければ発展(ひよこの誕生)はないと言うのです。
 これを社会に適用して、現状を肯定する資本家階級を労働者階級が闘争(革命)によって打倒しない限り、社会は進歩しない。だから革命は必要不可欠とするのです。
 はたしてそうでしょうか。卵は殻や胚子、卵黄・卵白などから成り立っています。中身は胚子と卵黄・卵白ですが、両者は利害が相反する存在(対立物)でしょうか。胚子は受精した幼生のことで、ひよこになるために卵黄と卵白から養分を吸収して成長します。つまり胚子は卵黄と卵白を必要とし、卵黄と卵白は胚子の成長のために蓄えてきた養分を提供します。
 これが仮に胚子が卵黄と卵白からの養分の摂取を拒否し、または卵黄と卵白が養分の提供を拒否し、互いに相手を排斥し合うなら対立物ですが、実際は排斥し合いません。
 胚子と卵黄・卵白はひよこになるという共通目的をもった相対物であって、両者の調和ある授受作用によって、ひよこが誕生するのです。このように事物の中にあるのは対立物でなく相対物であり、この相対物の授受作用によって事物は発展していきます。
 殻は、中のひよこが成長して外で生存できるまで、ひよこを守っているのです。受精から約3週間経つと殻はひよこが外に出やすいように薄くなっていきます。すると、ひよこは光を感じて外に出る時期を悟り、薄くなった殻を難なく破って出てきます。
 仮に殻がより一層固くなり、ひよこを外に出さないようにし、一方のひよこは死に物狂いで殻に闘争を挑み、つつきまくれば、それこそ対立闘争ですが、実際はそうではありません。
 卵の生存とひよこの誕生という共通目的を中心にそれぞれの要素がうまく授受作用する。それで立派な鶏になっていくのです。これが「相対物の授受作用の法則」です。矛盾がないので「調和の法則」とも呼びます。




図解・勝共理論 42 唯物弁証法 15

発展と反復の違い説明できず
生命の本質を理解しない誤謬

 唯物弁証法は内部的な矛盾によって発展すると主張します。前回紹介した卵のように、胚子(否定)と殻や卵黄・卵白(肯定)の内部的な矛盾によって、ひよこへと発展するとしたわけです(元に戻らないので不可逆的と言います)。
 では、反復運動はどうでしょうか。たとえば水が水蒸気や氷になり、また元に戻ったりします(可逆的)。この反復運動と発展運動の違いはどこから生じるのか、唯物弁証法では明確な説明ができません。
 毛沢東によれば、「鶏の卵は適当な温度を与えられると鶏に変化するが、しかし温度は石を鶏に変えることはできない。両者の根拠が違うからである」(『矛盾論』)と、卵は内部に原因(内部矛盾)があるから発展するとしました。旧ソ連の学者コーンフォースも同じ見解を示しています。
 ところが、その一方で毛沢東は「たとえ外部的な力によって動かされる機械的運動であっても、事物の内部の矛盾性を通じて起こらねばならない」と言いました。
 コーンフォースも「水は熱せられなければ沸騰しない。しかし、熱を加えられた結果として水が沸騰するという過程は、水の分子を特徴づける引力と斥力の内部矛盾が基礎の上で生じているのである」(『唯物論と弁証法』)と、水の反復運動でも内部矛盾が基礎になるとしました。
 これでは前進運動と反復運動には根本的な差異がなくなってしまいます。このことは実は重大な意味をもっています。
 唯物弁証法を歴史に適用した唯物史観において、社会発展を不可逆的な前進運動と捉え、資本主義社会から社会主義社会に発展する革命論を展開しているからです。
 それが仮に歴史に反復運動もあるとするなら、ギリシャ時代の循環史観のように反復して繰り返すことも可能となります。そうなれば唯物史観の社会の段階的発展理論や革命論はその必然性を失ってしまい、無用なものになってしまうのです。
 統一思想は、すべての事物はその中にある主体と対象が共通目的を中心に授受作用することで変化し発展すると見ます。そのとき、内部に自律性(生命、意志)があれば前進運動すなわち発展運動として現れます。
 生物は生命をもっているから前進運動を行い、無機物(水など)は生命がないから機械的運動(反復運動)を行っていると見るわけです。共産主義は生命現象まで高次の物質現象と見なしているので、両者の区別がつかないのです。発展の原因を理解するには、生命の本質を理解しなければなりません。



図解・勝共理論 43 唯物弁証法 16

「量から質への転化の法則」の狙い
革命を正当化するための詭弁

 今回から「量的変化の質的変化への転化の法則」すなわち「量から質への転化の法則」を扱います。
 この「法則」は簡単にいいますと、事物の発展において漸次的(だんだん、次第に)な量的変化が徐々に蓄積されて、ある一定の点に達すると、突然に飛躍的な質的変化が引き起こされる、と言うものです。
 マルクス主義者がこの「法則」を科学的だとして特に強調するのは、これを根拠に暴力革命もまた科学的、正当的であると言いたいがためです。このことをスターリンはずばりこう述べています。
 「緩慢な量的変化が、急速な突然の質的変化へ移行することが発展の法則をなしているならば、被抑圧階級のおこなう革命的変革が、まったく自然な、不可避的な現象であるということは、明白である。つまり、資本主義から社会主義への移行、資本主義的抑圧からの労働者階級の解放は、緩慢な変化によってでなしに、改良によってでなしに、ただ資本主義制度の質的変化、すなわち革命によってのみ実現されうるのである」(『弁証法的唯物論と史的唯物論』)。
 ここでは「急速な突然の質的変化」というところがミソです。つまり唯物弁証法はこの「法則」によって資本主義社会が革命という突然の質的変化を通じて社会主義社会へと発展すると主張するのです。
 こうした見解はスターリンだけのものではありません。そもそもマルクスが言い出したことです。彼は『資本論』でこう述べています。
 「貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。……生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(『資本論』)
 資本主義社会の中で、労働闘争や学生闘争などがどんどん広がっていき、また矛盾もどんどん拡大していくと、もはや資本主義というシステムではどうしようもなくなる。すると「外皮が爆破」すなわち革命が起こる。ここでマルクスは「最期を告げる鐘が鳴る」という有名な一節で、革命によって資本主義社会が終わって社会主義社会が到来すると告げたのです。
 このように「量から質への転化の法則」は革命を正当化するためのものです。


図解・勝共理論 44 唯物弁証法 17

水の状態変化に「突然」なし
実証例はことごとく非科学的

 「量から質への転化の法則」を実証する例として、エンゲルスは水の状態変化を提示します。
 「水は標準気圧のもとでは、摂氏零度で液体状態から固体状態に移行し、摂氏100度では液体状態から気体状態に移行するのであって、従ってこの場合にはこれら2つの転換点では、温度の単なる量的変化が水の質的に変化した状態をひき起こすのである」(『反デューリング論』)
 水の水蒸気や氷への変化は、水分子の分子間力と分子運動エネルギーの相互関係によって起こる状態の変化です。この水の状態変化は、はたしてエンゲルスが言うように突然の質的変化なのでしょうか。
 摂氏零度で水が氷になるとき、一瞬のうちに水から氷への質的変化が起こるわけではありません。融解熱に等しい熱を取り去るにつれて(すなわち量的変化につれて)徐々に水は氷になるのです。
 また水が水蒸気になるときも同じで蒸発熱に等しい熱を加えるにつれて(量的変化)徐々に水蒸気になるのです。
 しかも、水から水蒸気への変化は沸点(100度)だけで生ずるのではなく、常温でも蒸気圧が飽和点に達するまではどんどん蒸発し続けます。
 ですから、エンゲルスの説明は間違っています。量的変化が一定の点に達するとそれが突然に飛躍的な質的変化を引き起こすという現象は存在しないのです。
 旧ソ連の理論家コンフォースは、綱の切断やボイラーの爆発の例をあげます。
 「重いものをひきあげる綱には、だんだん重い荷をつけていくことはできるが、どこまで荷が重くなってもなおそれをひきあげられるような綱はない。ある一定の点までくると、綱は切れざるをえない。ボイラーは蒸気の圧力をある程度強くなっても、それに耐えられることができる。しかし、ある点までくると爆発してしまう」(『唯物論と弁証法』)
 なるほど綱は切れ、ボイラーは爆発しますが、それがどうして量から質への転化の法則を実証する例になるのでしょうか。
 仮に、綱の量的変化(荷重によって伸びる綱の長さの変化)やボイラーの量的変化(蒸気の圧力によって膨張するボイラーの体積の変化)がある点に達したとき、綱あるいはボイラーの質が飛躍的に変化して新しい質の綱、新しい質のボイラーとなれば実証例になりますが、実際は綱やボイラーは破壊されてしまうだけのことです。
 つまり、切断や破壊によっては新しい質の綱やボイラーはまったく現れることができません。これはこの法則の間違いを示しています。








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