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図解ー勝共理論5


図解・勝共理論 45 共産主義唯物論 18

自然界に支配逆転の質的変化なし
代案は「質と量の均衡的発展の法則」

 マルクス主義は対立物における支配と被支配の関係が逆転するとき事物の質的変化が生じると主張します。それで突然の飛躍的な質的変化として社会革命をとらえ、それを支配・被支配の力関係の逆転とみるのです。
 毛沢東はこう言います。
 「(事物の内部の新旧2つの側面の矛盾は)しだいに闘争の結果、新しい側面は、小から大にかわり、支配的なものになる。古い側面は、大から小にかわり、しだいに滅亡するものにかわる。そして一たび新しい側面が古い側面にたいして支配的な地位を獲得するとき、古い事物の性質は新しい事物の性質にかわる」(『矛盾論』)
 これをコンフォースは「個体、液体、気体という物体の状態は、それぞれ物体の分子の状態を特徴づけるところの牽引と反発の統一におけるちがった支配関係に対応している」(『唯物論と弁証法』)と述べ、支配被支配の関係で質的変化を説明しました。
 たしかに水の状態変化では、氷は分子間力(牽引力)が分子の運動エネルギー(反発力)に勝っており、これに対して氷が水になるとき、分子の運動エネルギーが分子間力にうち勝ちます。しかし、これを支配関係の逆転とみるなら、水が水蒸気になるときは支配関係の逆転ではなく、分子の運動エネルギーがさらに支配的になっただけです。
 しかも水の状態変化は、発展とは関係のない可逆的(逆の方向の変化も可能)現象にすぎません。自然界に支配・被支配関係の逆転で質的移行がなされた例は存在しません。
 統一思想では、事物は性相と形状の相対的な両側面をもっており、その相対物の授受作用によって変化、発展(成長)していると見ます。そのとき性相と形状は主体と対象の関係にあり同時的、漸次的に変化します。ここに質と量はそれぞれ性相と形状に相当するものですから、結局、質と量は同時的、漸次的に変化していくと言えます。
 マルクス主義は量の変化が先次的で質の変化が後次的としますが、実際はそうではありません。質と量の変化は同時的で、量(形状)的変化を通じて、すなわち量を手段として質(性相)的変化として現れるものです。
 たとえば植物や動物が成長する場合、種子や卵の中には成長後の花や動物の性質の原型が理念(性相)として初めから宿っており(受精卵のDNAに)、それが物質的、量的な素材を通じて現実化されるのです。
 したがって質と量は現象的にみれば同時的に変化し、しかも両者の相互関係において質が原因的・主管的であり、量が結果的・被主管的です。これを「質と量の均衡的発展の法則」または「性相と形状の均衡的発展の法則」と呼びます。これが「量から質への転化の法則」の代案です。


図解・勝共理論 46 共産主義唯物論 19

「否定の否定の法則」とは
革命正当化のための架空の理論

 今回から「否定の否定の法則」を見ます。この「法則」は、対立物が統一と闘争つまり正反合によって発展するとした考え方を、確度を換えて説明したものです。マルクスは「否定の否定の法則」について、こう言います。
「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である」(『資本論』)
 階級のなかった原始共産社会が否定されて階級社会が生まれ、その階級社会が否定されて、再び階級のない共産主義社会が到来する。否定の否定によって、共産主義社会はかつての原始共産社会よりはるかに発展した第三の段階にいたる。このように否定の否定によって歴史は前進的・上昇的に発展すると言うわけです。
 したがって「否定の否定の法則」とは次のように言えるでしょう。
 ―― 一つの事物は発展が進む間に二重に否定され、初めの出発した段階に戻る。それは元の状態に戻るのではなく、より高い水準においての復帰であり、螺旋型の発展となる――。
 エンゲルスは否定の否定の例として、哲学史における古代唯物論と、その後に起こった観念論および近代に起こった唯物論との関係をあげます。観念論を古代唯物論の否定とし、近代唯物論を観念論の否定、すなわち古代唯物論の否定の否定と規定しています。
 「弁証法における否定とは、単に否というものでもなければ、なにかの物を存在しないと言いきることでも、またそれを任意な仕方でこわしてしまうことでもない」(エンゲルス『唯物論と弁証法』)
 レーニンは「単なる否定でもなければ、でたらめな否定でもなく、また懐疑的な否定、動揺、疑いでもない。そうではなくて、それは、連関するモメントとしての、発展のモメントとしての否定であり、肯定的なものを保持した否定、すなわちどんな動揺も、どんな折中主義も持たない否定である」(『哲学ノート』)としています。
 このように「でたらめな否定」ではなく「先行の状態の止揚としての否定」(イシチョンコ)として、資本主義社会は「否定の否定の法則」にしたがって共産主義社会へと移行するとしたのです。
 ここでも革命の正当化のために巧妙に「法則」化されています。次回からこの間違いをみます。


図解・勝共理論 47 共産主義唯物論 20

虚偽で固めた「法則」
自然界にあり得ない法則例

 エンゲルスは「否定の否定の法則」を大麦や蝶を例にこう言います(『反デューリング論』)。
 大麦の粒は発芽する際、麦粒は消滅し否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現れる。さらに植物は生長し、開花して受精、最後にふたたび大麦粒が生じると、茎は死滅し、今度はそれが否定される。これが否定の否定で、その結果、初めの麦粒は一粒ではなくて、10倍、20倍、30倍の数で得られます。
 つまり、大麦の種子が発芽して植物になることを種子の否定、その植物から新しい大麦粒が生ずることを否定の否定と言います。否定は対立物の闘争、すなわち種子の中の胚乳と胚芽、種皮と胚芽の闘争によって否定され植物に転じると言うのです。
 また蝶は卵から、卵の否定によって生まれ、変態を経て成長し交尾した後、雌は多くの卵を生むと再び否定されて死ぬ。このように「否定の否定の法則」は自然界を支配する法則とします。
 しかし、実際は種子が否定されて発芽するのでありません。種子の中で胚芽は植物の芽になるために、胚乳は胚芽が成長するための養分として存在し、種皮はある一定の期間、胚芽と胚乳を保護するためにあります。
 胚芽も胚乳も種皮も、みな発芽して植物になるという共通目的のもとに存在しているのです。大麦の種子は大麦になる目的のもとに種皮に保護され、胚芽と胚乳が互いに肯定しあいながら授受作用(闘争ではない)を行って芽になるのです。
 また芽と種皮は闘争していません。種皮は一定期間、胚芽や胚乳を保護する役割を終えれば、衣を脱ぐように芽が出、種皮は芽が発芽しやすいように脆弱になります。
 また、植物が否定されて新しい種を生じるというのも間違いです。大麦は闘争によって否定されて枯れるのではなく、その使命(目的)を終えて自然に枯れるのです。
 またリンゴのような多年生の樹木の場合は毎年、新しい果実を実らせても枯れません。種子(果実)が植物を否定して生じるわけではないのです。
 エンゲルスの主張は一年生のときには一見、そのように見えますが、多年生のときには通じません。だから法則であり得ません。
 蝶の例もまったく同じで、卵を生むことによって否定されて死ぬのではなく、蝶としての使命(目的)を終えたから死ぬのです。また植物に多年生の植物があるように、動物にも一度の産卵や子を産んで死ぬのではない動物(鶏や犬など)がたくさんいます。
 「否定の否定の法則」は虚偽なのです。






図解・勝共理論 48 共産主義唯物論 21

代案は「肯定的発展の法則」
否定の概念捏造で誤りを隠蔽

 唯物弁証法の「否定の否定の法則」ではそもそも「否定」の概念事態が間違っています
 たとえば、卵が胚子と黄身・白身が対立しつつ存在しているといった説明をします。レーニンは否定について、こう言いました。
 「単なる否定でもなければ、でたらめな否定でもなく、また懐疑的な否定、動揺、疑いでもない。そうではなくて、それは連関のモメントとしての発展のモメントとしての否定であり、肯定的なものを保持した否定」(『哲学ノート』)。
 つまり「否定」の概念に破壊、絶滅という否定的意味と、統一、保存のような肯定的意味のような正反対の二つの意味を含ませているのです。それで一見、いかなる現象も説明できるかのように錯覚させるわけです。これは対立物の「統一と闘争」という概念でも同じで錯覚させます。
 このように概念を曖昧模糊なものにするところが唯物弁証法のミソなのです。この論理を使って、自分たちが不利となれば、否定を破壊を伴わない平和的な意味に解釈して革命の本音を隠し(まさに現在の日本共産党)、有利となれば闘争の意味に解釈して大衆を扇動して革命に動員する(将来の共産党にあり得る)、こういう革命の隠れ蓑とされるのが「否定の否定の法則」なる似非法則と言ってよいでしょう。
 さて、統一思想はどのような代案を持っているのでしょうか。私たちは代案として「肯定的発展の法則」を提示します。
 すべての事物は自然においても社会において、その中にある主体的要素と対象的要素が円滑な授受作用を行うことにより、あるいは他の事物との間で主体と対象の関係を結びながら円満な授受作用を行うことによって肯定的に発展している、というのが「肯定的発展の法則」です。
 発展運動とは生命体の運動であり、そこには目的性と時間性と段階性があります。つまり発展運動とはある目的を実現する方向に向かって、一定の時間を経過しながら段階的に前進していく運動のことです。
 すべての存在は主体と対象の授受作用による円環運動を行うことによってその存在の永続性を維持していると見ます。無生物の場合は、たとえば地球が太陽の周りを回るような円環運動をしており、生物の場合は種族保存と数の増殖と質の多様化のために継代現象として時間的な円環運動、すなわち螺旋形運動を行っていると見るわけです。



図解・勝共理論 49 共産主義唯物論 22

革命目的の作為「法則」
弁証法から授受法への転換を

 今回は唯物弁証法の最終回です。
 マルクスはヘーゲル弁証法をひっくり返して唯物弁証法を確立したと言いますが、ヘーゲルは神を前提とし、概念を出発点として弁証法を立てました。それで演繹的に結論を先に立て、その結論に導くような説明の仕方で、連続的に自然と歴史を説明しました。
 ですからマルクスが本来、神を否定し物質を出発点として理論を立てるには、その理論の展開は演繹的であってはならず、帰納的であるべきでした。にもかかわらず、マルクスはヘーゲル同様に結論を先に立てて理論を展開しました。ここがそもそも間違いのもとです。
 マルクスが歴史の発展を矛盾による発展(闘争による発展)と主張するには、まず自然界の発展現象の実例を挙げて、それが間違いなく闘争による発展であることを証明し、次に社会を時代的に客観的に分析して、その分析の結果を総合的に判断して、そこから自然法則と同じような法則が社会にも適用していることを帰納的に導きだす。こうした科学的方法が必要でした。
 ところが、マルクスは自然界の現象を一つだに検証しないで、しかも社会を客観的に研究することもなく、いきなり唯物弁証法と唯物史観のあらましを確立してしまったのです(『ドイツ・イデオロギー』1946年、『哲学の貧困』1847年)。まさに初めに結論ありき、だったわけです。
 それをエンゲルスは後で『反デューリング論』(1878)と『自然の弁証法』(1883年)の中で、自然現象が弁証法であることを証明したとしました。しかし、ここで使った手法も自然現象を弁証法に合うように説明するという演繹的なものであり、マルクス同様に初めに結論ありき、でした。
 エンゲルスは一見、自然を検証するかのような態度をとっていますが、それは弁証法に適合すると見られる数少ない例だけを取り上げて、それがあたかも全自然現象の代表例であるかように装ったにすぎません。
 まさに『共産党宣言』(1946年)でマルクスが叫んだように、「共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止[革命]という一つの言葉に要約することができる」ための唯物弁証法であったわけです。
 その結果、あくまでも暴力革命を合理化させる理論として、これまで本シリーズで見てきたように唯物弁証法の「法則」はことごとく間違ったものになりました。 
 唯物弁証法から授受法への転換を私たちは薦めます。








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