人生の果てにゆく道より抜粋
霊界から見た祝福式

霊界から見た祝福式

 私たちは肉身を持っているときには、肉眼だけでお父様を見ていた。しかし、私たちが肉身を脱いで、霊眼で見たお父様の姿はみごとなものである。お父様は、私たちが直接に見ることのできないお方である。
天上での神様は、見えなくて明るい光彩のような姿であると表現したことがあるが、地上の真のお父様は、まるで火柱のようにものすごい光を発散している姿である。その光の中にお父様の体が顕現している。そしてその光はとても明るく、まばゆい巨大な光であるために、突然に目を向けると、いつもまぶしくなってしまう。私たちはゆっくりとじっくりとお父様を見なければならない。

 また、この巨大な火花のような柱の中でお父様が祝福式において語られるときには、その唇の中からも、きらびやかな光が発散され、その場に立つ多くの善霊の姿は、世界中に満ちあふれる美しくまばゆい光彩の中で、さながら天国の善男善女が立っている姿であり、そのような姿勢をしている。
その光の中を美しい歌や踊りや旋律が流れ、その中を軽やかに歩いていく一組一組の姿は、本当にうっとりするほど美しい姿そのものである。

 霊界でこの祝福式に参席した数多くの善霊たちは、この光景に陶酔して、自分たちが直接祝福を受けたかのような恩恵の心情を持っていた。
この行事の瞬間、瞬間、真の御父母様のお姿は、いろいろな色の光を発散なさる姿のようであった。地上でいくら幸せな人生を営んだ者であったとしても、肉眼に依存している限り、これほどに美しくきらびやかな光景は見ることができない。地上人が感じている幸福は、誇るには値しない。肉身を脱いだ善霊たちのほうが、はるかに美しい光景を経験しうる幸福の瞬間なのである。

 ここの善霊たちは、祝福行事に参席できた恩恵に対して、神様に何度も感謝を捧げている。かぐわしい香りに酔いしれて超然としている姿は、本当に美しさの極致である。その姿こそ、堕落していない人間の姿、神様の願われた本然のエデンの姿そのものではなかろうか。
皆が善良で謙虚な姿で、お互いに幸せな顔を見合わせながら幸福感に酔いしれている一方、この光景をご覧になる神様もやはり、ひとすじの光で私たちを包みながら、ほほえましく幸福な様子であられた。

 祝福の理想とは、このように美しく高貴なものである。この時の霊人たちは神様の子女であり、神様の芳しき香りと光をたどって常に引かれていくような様子である。ここで私たちが深く悟り、深く考えておくべきことは、この祝福という最高の位置にまで連れてきてくださった方は真の御父母様であるが、この位置を最後まで守るという責任は、私たち各自にあるという点である。
それは人間が、最高に貴いものとして造られた神様の子女だからである。永遠なる天国の民として、神様の子女として責任を負うべきなのは、まさに私自身なのである。したがって、祝福の価値をいつまでも胸に秘めて生きていかなければならなない。

1998.8.29