進化論

 前に有機物のスープの中からは核酸とタンパク質は偶然には生じないと書きましたが、ソ連の生物学者で進化論者のメドニコフも「細胞内で核酸と蛋白質は...きわめて複雑な過程によって合成される。このような生物が偶然に生ずる確率は、現実的にはゼロである」と言っているが、このような偶然が起こり次々に確率が高まってきたのでは...と言っているが苦し紛れの言い逃れです。
一つのタンパク質が偶然に得られる確率についてD.T ギッシュは「わずか12の異なる種類のアミノ酸でできた分子量が34000のタンパク質(約340のアミノ酸でできた蛋白質)を考え、これらのアミノ酸の配列を考えると、それは実に10の300乗通りにもなる。と言うことは原始地球上には10の300乗通りの、おなじ12種のアミノ酸からなる、分子量34000の蛋白質分子が出来たかも知れないことになる。もしこれらの異なった分子のそれぞれ一つずつがあったとしても、全質量は約10の280乗グラムになる。地球の重さは10の28乗グラムである。こんな中から必要な分子をどうして捜すことができるか」。
次の問題もあります。細胞内で核酸とタンパク質が合成されるが、極めて複雑な過程でしかもタンパク質は核酸の指令によつて形成されながら、一方では核酸はタンパク質(酵素)が存在していないと形成されないと言う関係です。ところが原始の海ではタンパク質は核酸なしで、核酸は酵素なしで形成されなければならず、進化論者はこれらが偶然にできたと言っていますが全くあり得ないことです。


 その他にも色々多くの問題があります。例えば核酸とタンパク質合成のシステムはどのように発生したか? 生物の光合成や酸素呼吸のメカニズムの発生は? 生物に必要な約2000種の酵素はどのように発生したか? 細胞分裂のメカニズムの発生はいかにして? 有性生殖はいかにして発生したか?...これらのどれ一つをとって見ても、自然に発生したとは、絶対に考えられない事です。
進化論で進化の原因と考えられているのが突然変異ですが突然変異は微小でランダムな無方向の変化に過ぎず一挙に新しい形態や機能を生じさせると言うものではない。また一般的に、突然変異は生物にとって有害であり、破壊的でもあるのです。
ド・フリースは月見草の変種を発見したのであり、モーガンはショウジョウバエの変種を発見したに過ぎず突然変異ではなく、あくまでもショウジョウバエに過ぎないのです。ダーウインがガラパゴス諸島で観察したのも、鳥のくちばしや羽の変化したものに過ぎず彼はそれを「種は変化している」と結論ずけ、ついには人間は猿から進化したと解釈するようになったのです。これはまさに拡大解釈のなにものでもありません。


 自然選択説では生物のさまざまな変異の中から、自然によって有益なもの、すなわち生存に適したものが選ばれ、そうでないものは滅んでいくと言います。そして進化に関わる変異は個体変異ではなく突然変異でなくてはならない。しかし突然変異はほとんど有害で破壊的なものです。このような突然変異に基ずく自然選択によって、どのようにして複雑で高度な新しい種が形成されるのでしょうか。ダーウインは「自然選択は生物にとってごく微小の遺伝的変化の保存と集積によってのみ作用することができる」と言いその微小な変化の積み重ねによって大きな変化が起きると言っています。ところが生物が漸進的に進化したと見るとき、自然選択ではとても説明のつかない飛躍があまりにも多いのです。例えば無性生殖生物から雌雄のある有性生殖生物への飛躍、生物に初めて眼や耳ができた時の飛躍、動物の本能などの出現などです。これらの諸問題はすべての進化論者が認めている所で色々な説はあるが有効な仮説はなく、説明のつかないので自選選択の偶然牲によるものであるとかたずけているのです。


 かえるの卵はかえるに、にわとりの卵はにわとりに成長させるのは遺伝子の働きによるもので、それは遺伝子に刻まれている情報、すなわち遺伝暗号によって指令されていて、その遺伝暗号とはDNAの塩基配列の仕方にほかならないのです。しかしこのような内容をもった、遺伝暗号が何によって生じたのかは誰にも解りません。フランスの分子生物学者モノーは「遺伝暗号およびその翻訳機構の起源は問題と言うよりまったくの謎である」と言い、F・ヒッチングも「キリンの首」で「遺伝暗号の起源については生物学者は明かに何も知らない....どのようにしてそれが向上してきたのかも疑問のままに...」と述べている。ところが進化論者たちは、このような遺伝暗号を有するDNAが自然に、偶然に発生し向上してきたと主張しているのです。


 ダーウインの進化論では微小の変異が積み重なることによって新種の形成に至るという漸進主義(gradualism)の上に立っており、生物はなだらかに、ゆっくりと進化すると言っている。しかし最近ではそのような進化の漸進性が疑問とされています。なぜなら化石生物の歴史が漸進主義と全く相容れないからです。1972年米国のエルドリッジとグールドは「区切り平衝説」を発表しました。種は通常、何も変化しない長い平衝期を経た後、突如として、その平衝を断つような形で変化するというのです。「その先祖が少しずつ変形することにより徐々に現れてくるのでなく、一挙に、完全にできあがった状態で出現する」というのです。


 多くの進化論者が他の進化論者の説を批判しながら新しい進化論説を語っており、そして進化と生き残りを偶然性と運を重要視しているのです。では、例え、突然変異で一匹が新しい何ものかに変化したとしても、繁殖は雄、雌、両方必要なのにペアーで発生してくるのでしょうか? 種が別の種に変ったとして、異なる種同志では繁殖は絶対におこりません。犬と猫を掛け合わせても子供は産まれません。サルと人も同じです。種と種の間の区切りは厳格なのです。{良い例えに「サルにシエィクスピアの名作をタイプさせる法」と言って「サルにでたらめにタイプをさせ、違う文字を打ったらそれを消し最初の文字が出たらそれを残し、次々とこれを繰り返せば誰の文章でもできる。つまり、どんな複雑で巧妙な生物でも段階を踏んで改革すればできあがる」}と言っているが、その正しい文字を選ぶのは自然なのでしょうか? この本で正しい所は進化論者を批判している所と事実を観察して述べているところだけです。結局は進化論の理論が間違っているので、それを基盤にいくら新しい説を述べても間違いは間違いなのです。
彼は進化の説明に「神様を持ち出すのはルール違反」と言っています。こういう人間が若者を教育して唯物論者へと導いていくのは神への挑戦と冒涜、ある日、真理の解る時がきたら、神の存在を知ったらどういう態度を、また責任を取るのでしょう。きっと彼は人間として産まれたことを後悔するに違いありません。
マルクスの共産主義思想と進化論とは神の存在を否定するサタンの思想です。両者とも、神ではなくて物質的な環境が人間を造ったと言っているのです。ですから、くどくなる様ですが長々と進化論の説明をしてきたのです。


 進化論者たちは自然淘汰説を主張していますが、生物は果たして生存に適していると言うだけで存在しているのでしょうか。もしそうならば、繁殖力の強い雑草のみが生い茂り、昆虫のみが飛び交うような自然になったでしょう。しかし実際はそうではなく、美しい花が咲き甘い果実が実り、小鳥は美しくさえずっています。 神が人間と万物を創造されたのはそれらを愛して喜ぶためでした。披造物の方から見れば、人間の存在目的は神を喜ばせるためであり、万物の存在目的は人間を喜ばせるためのものです。
 存在目的は個体目的と全体目的の2つがあり、個体目的とは、自己の生存、繁殖、維持を図ることであり、全体目的とは、より高次な存在のために存在することです。つまりより高級な生物、人間のために存在するのが万物の全体目的です。このようにすべてのものは二重目的として存在しています。


 とにかくダーウイニズムには多くの問題が指摘されているにもかかわらず、それが今日まで正論として受け入れられているのは、それに代るキリスト教の説く創造論が世の中の人々に受け入れ難いからです。 キリスト教根本主義(fundamentalism)の創造論によれば{6千年前に、6日間で創造がおこなわれた。創造はまさに瞬間的であり、そして最初の人間アダムとエバは「土のちりから」瞬間的に造られた}と言っているのです。
 サー・アーサー・キースは次のように言っています。「進化は証明されていないし、証明できない。私たちがこれを信じるのは、唯一の代案が特殊創造だからである。この方法は全く考えられない」。と言っています。しかし聖書は真理を文字通り表現したものでなく、書かれた当時の人々が理解できるような表現で表されており、現代ではそれにふさわしい表現によつて解釈する必要があります。これから新しい創造の理論を述べていきます。






新しい創造論

 進化論者たちは自然淘汰説を主張していますが、生物ははたして生存に適していると言うだけで存在しているのでしょうか。もしそうならば、繁殖力の強い雑草のみが生い茂り、昆虫のみが飛び交うような自然になったでしょう。しかし実際はそうではなく、美しい花が咲き甘い果実が実り、小鳥は美しくさえずっています。 神が人間と万物を創造されたのはそれらを愛して喜ぶためでした。披造物の方から見れば、人間の存在目的は神を喜ばせるためであり、万物の存在目的は人間を喜ばせるためのものです。
 存在目的は個体目的と全体目的の2つがあり、個体目的とは、自己の生存、繁殖、維持を図ることであり、全体目的とは、より高次な存在のために存在することです。つまりより高級な生物、人間のために存在するのが万物の全体目的です。このようにすべてのものは二重目的として存在しています。果物がおいしいのも種が撒き散らされ、繁殖に適しており、色とりどりの美しい花、小鳥の声、蝶の羽の美しさなどもみなそれぞれ生存、繁殖に有利な面があるかも知れないが、本質的には人間を喜ばせるためにあるのです。


 ネオダーウイニズムは生物を生存への適性という面から見て論じていますが、それは個体目的だけの観点に過ぎません。適性生存は生物の存在の一面に過ぎず、生物が、生存に適しているというだけでなく、本質的には人間のために存在していることを理解するとき、私たちは初めて正しい自然観を持つことができるのです。 生物はそれぞれ一定のデザインに従って造られていますが、進化論者たちは自然選択がデザインを作り出したと主張しています。そしてグールドーは「ダーウィニズムの心髄は、自然淘汰が適者を創造するという主張にある」と述べ自然選択が造り主に変ったと言っています。
 自然選択とは本来、多くの変異のうちでどれが生存に適しているかを判定する作用だったはずです。従って自然選択は改良されたデザインを選択することはできます。しかし、それはデザインを改良し、造ると言うこととは全く別のことです。ところが進化論者は単に選択するだけの作用である自然選択に、デザインを改良し創造する作用まで与えているのです。
 自然選択説には論理の飛躍やすり替えがあります。従って神がデザインされたと見るほうが合理的で自然な解釈であるといわざるを得ないのです。
一方、新ラマルク主義は環境の変化に対応して種が自ら変化すると主張しています。が彼らが明かにしているのは免疫性の獲得とか薬品耐性の獲得などで、種の変化とはとても結びつかない低い次元のものです。ネオダーウィニズムも新ラマルク主義も、ともに種の枠内での変化を「拡大解釈」して種が変化すると解釈しているのです。


 一つの種が形態においても機能においても総合的な変化をして別の新しい種に変って行くためには、何らかの創造的な入力を認めなくてはなりません。そこに神のエネルギーが加わって作用することによつて飛躍的な変化が起こり、新しい種が創造されたのです。神がロゴス(言葉、理法)に従って飛躍的な変化を起こされたのです。
ではどのように成されたのでしょうか。これを生物的にいえば、遺伝子の組換え、あるいはプログラムの変更がどのように成されたかと言うことです。
最近の分子生物学では、細胞間、個体間、あるいは種と種の間でウイルスが遺伝子を運ぶと言うことが解っています。彼らはウイルスの本来の機能は病気を起こすことにあるのではなく、種を越えて遺伝子を伝達したり混ぜ合わせることにあると言うのです。
 そのほかにも遺伝子によって支配されている病気が催眠術による治療で治ったと言うような例があり、精神が遺伝子のメカニズムにも働きかけることが可能であると言う一例です。
神の力が作用することによって、遺伝子のプログラムが変更され新しい種が創造されたのですが古い種は必ずしも滅びたのではなく、多くの古い種はそのまま残されたのです。創造の過程においてのみ必要であった生物は新しい生物の出現とともに滅びました。
 また創造は連続的ではなく段階的に行なわれ神の力が作用し、一つの種が創造された後は成長期間そして準備期間ともいうべき一定の時間を経過した後に、再び神の力が作用して新しい種が創造される、このような方法で創造が行なわれたのです。これを「段階的創造」と言います。 これはグールドの主張する「区切り平衝説」と似ているが、彼は突然変異と自然淘汰によって種は変化していると主張しているので、根本的に創造論とは異なります。

続き


「進化論から新創造論へ」より引用抜粋


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