2、霊界で見た天国と地獄(1997-6-1)

霊界で見た天国と地獄

 天国という名詞がどこから出てきたのか、私は知らないが、すべてが天国とかエデンとかいう文字を書いている。天国(エデン)とは、思いと行動が正に一つになる所です。

 例えば「今日、何かを食べたい」と考えれば、考えると同時に、自分の前に豪華な御馳走が準備されているのです。また「きょうは誰かと一緒に、どこかに行かなければならない」と考えれば、既にそこに行っているのです。
「服を着ないで、人が裸になって歩けばどうか」と思うと、本当に素っ裸になった自分になってしまい、ひとしきり笑いました。

 「目の見えない人と、目の見える人が、共に天国に来たら、見えない人と見える人との差はどうか」と考えたら、おじいさんと子供が私の前に立っていました。
子供は盲人で、おじいさんは目のよく見える人だったが「天国にも盲人がいますか?」と聞くと、子供が「地上にいるときは盲人だったのですが、天国には盲人という表現もないばかりでなく、見えないものがありません。すべて見ることができます」と答えました。
「おじいさんは見えるはずなのに、なぜここに来られたか」と言うと、「目で見ることができるものと、心で見ることができるものがある。」と答えながら、「目は見える物体だけ見るが、心で見るものは、その人に今現れないとしても、それはもっと明かるく見える」という難しい答えをしました。

 天国には、宝石よりもっと明かるい光がいつも周囲にあります。その明かるい光のために、お互い困難を覆うことができず、互いが読みとるようになるから、目と心によってすべてが分かるようになる所です。天国は光で表現するなら、輝く金髪、光り輝く恍惚の金の光とでも言えるかもしれません。いつも心が平和である所です。言葉では表現できなくて、説明することの難しい所が、まさに天国です。

 地獄は、お腹が空いて、つらさ、ねたみ、嫉妬、不便なものがあまりにも多い所です。いつもつらいから、けんかしかすることがないのです。すべて不便です。

 例えば、天国は安心して歩く自由があるが、地獄は自分の思いどおりになるものが一つもない所です。思いどおりにならないから、人のものを奪って来て、盗み食いします。
 地獄とは、人間の世の中で考えるより、ずっと想像しにくい所です。

 地上でお父様が愛の話を出されると、いつも「凸と凹」に関するみ言を語られたので、愛といえば「凸と凹」を考えるようになりましたが、愛というこの言葉が、いかにとてつもないものかということを知りました。

 神様の愛というものは、膨大に広がっています。経験したことを書いてみると、次のようです。

 「相軒よ」と呼ばれるその声に、すべてが溶け出すような愛の感性を感じるのです。それは、どんな凶悪犯も、許すしかない感性をもたせるものです。愛の体臭や香りが、すべてを忘れさせる平安感、暖かさ、安堵感の音声を感じます。一言で「愛」という単語自体がふさわしくないのです。もう少し良い、もっと柔らかい言葉がないかという感じをもつようになります。

 歩むとき、言葉を話すとき、服を着るとき、「愛」という言葉自体に納得できず、考えて、また考えて、「愛」より愛をもっと濃く美しく表現する文句がないかと考えると、神様がおっしゃるには、「相軒よ! それが愛だよ」と言われました。

 「愛」という言葉一つだけ完璧に意味が分かるなら、地上には争いも苦難もなくなるはずです。「愛」という言葉は、それを完璧に解釈する者がいません。それが「愛」です。

 天国とは、愛で一つになったまま、調和しながら暮らしていくから、あらゆる心配や気がかりがありえない所です。
 地獄とは、愛を忘れたまま、それが何か、わからない世界で暮らしていくから、争いながら、心配、気がかり、不平、不満に囲まれて、ぐるぐる回っています。

 要約すれば、天国は愛の至聖所であり、地獄は愛に背を向けた所です。易しく言えば、天国は愛しかなく、地獄は愛という言葉が芽も出さない所です。それゆえ、地獄の解放は、愛の芽を出して、愛の実を結んでこそ可能なのです。
(きょうは興奮なさらずに統一思想研究院でお目にかかるときのように、落ち着いて静かに語られた。)

(1997年6月1日)