3、霊界で会った人たち4〈釈迦牟尼〉

霊界で会った人たち4〈釈迦牟尼〉

 釈迦牟尼は、仏教信者たちが大変気がかりにしている方です。李相軒が、お釈迦様に会った話をします。

 その方は、高い山のふもとに一人で座って、長いため息の日々を送っている方です。

「なぜそんなにため息と心配が多いのですか」と尋ねてみると、「あなたは私に会いに来たのではなく、私を分析しに来た方ではないのですか。神様の愛の中に生きる人が、なぜ私がこのようにため息の中に暮らしてるのか分からなくて聞くのですか?」と言います。

 「地上にいる数多くの仏教信徒は、4月8日になれば、私の誕生日だといって、ちょうちんを持って道端で祭りの雰囲気を演出するが、私はそれがさほどうれしくありません。神様の前におそれ多く、地上にいるとき、神様に仕える法を教えられなかったのが悔やまれます。私もまた、神様について知らずに生きたから、数多くの人たちを間違った道に導いたことになるのではないでしょうか? どうすればいいのですか」と嘆きながら切々と訴えられるのです。

 この方、釈迦牟尼は、いつも顔の光が明るくなく、高い山の中を歩くのを好み、人に会うのを嫌い、人がいない所を探して回っています。そうしながら、いつも神様に謝罪の祈りをし、この上ない精誠を尽くして敬礼を捧げておられます。

 釈迦の周囲には、何人かの信徒たちがいつも随行しながら、ともに散策するが、多くの人たちが集まった所には姿を見せないのです。釈迦がおられる所は、中間霊界の高級霊界圏であると感じられます。ここには、仏教信者たちがたくさんいますが、釈迦が彼らと交わりながら歩く姿を特に見たことがありません。

 私がなすべきことは、釈迦牟尼に「原理」と「統一思想」の講義をしてさしあげることであり、これからも続けてしてあげようと思います。

 性稟は実に謙遜で、顔を高く上げて眺める姿は見ることはありません。顔はいつも45度程度にうつむいた姿勢であり、最上の慈しみ深い姿で対話されます。
講義を聴くときは、終わるたびに、「御苦労様、ありがとう、御苦労様、ありがとう」という言葉を欠かされません。そして、その次のことを約束しょうとすれば、いつも容易に口を開かず、沈黙してから、「時間があれば、残った時間にいらっしやるように願います」という表情をされます。
とても有り難い感じではあるが、すまないという表情をして、断片的にしか話されません。実に慈愛に満ちて、謙遜であられました。

 釈迦は、神様とどのように会われるのでしょうか。地上で最高の位置におられる教祖であるために、ここでも最高のもてなしを受けるべきだと考える仏教信者たちがいるでしょう。彼らには、大変申し訳ないことですが、釈迦は、直接的に神様と会っておられません。

 しかし、間接的に高級霊界圏のお使いをする者を通じて、神様の伝達事項を時々受けます。その伝達事項を受けるとき、釈迦は我々がテレビの時代劇で見るような、ござを敷いて座りながら王様の命を受ける臣下のように、敬礼して神様の伝達を受けます。そして、また土下座しながら敬礼を捧げます。

 そのような釈迦の姿を、仏教信者たちが見るときもありますが、彼らはそれがなぜかを知らないでいます。また、神様の伝達事項は、しょっちゅうあるのではありません。それは主に神様が釈迦を慰労される内容のようです。すなわち、神様の愛の中に来るまでは、時間が必要なので、「静かに待て」という慰労の文章のようです。

 実にとてつもない事実を、私は発見しました。イエス様とは共に歩かれる神様が、なぜ釈迦牟尼とは共に歩かれず、伝達を送るだけなのでしょうか。イエス様は、神様に仕えた方ですが、釈迦牟尼は神なくして自ら完成できると考えたので、彼は神様の前に出ていくことができないようでした。しかし、神様は、許して慰労なさっていました。

(1997年8月11日)