第一章 終わりの日と大審判


 終末の現象

 ここに引用するみ言の多くは、主に今から30年、40年前、前本部教会と呼ばれている狭い日本家屋ふうの教会で、まだわずかな信徒たちを前にして語られたものです。今は記念教会として世界中から信徒が訪れる聖地となっているその家について、文師はこう語っています。

 ◎1963年8月11日
 これからこの家に、すべての世界人類が訪ねて来るのです。訪ねて来るのですよ。夢のような話でしょうか。私がここで暮らし、ここでみ旨を捜し求めたので、私が指導する理念に従って国境を越えて訪ねて来るのです。家を新しく建てるなら今でも建てられます。しかしながらこの家は、歴史的な行事を成した所であり、天と地が慟哭した所です。多くの人々が慟哭した場です。血を流し、身もだえして訴えた場です。(「主人がいない父のみ旨」から)

 その頃の文師の説教に「今が終わりの日である」という言葉がよくでてきます。
 20世紀が終わる今日、その頃に文師が語られたみ言が、現実に終末的な現象として現れてきているのです。キリスト教には終末思想があります。ハルマゲドンの戦いが起こって、天は焼け落ちて地は燃え崩れる、と信じる人々もいます。人為的にそれを起こそうとした悪魔的な教団もありました。本当にそのような天変地異が起るのでしょうか。確かに環境破壊、地球温暖化は重大な問題ですが、近い将来に人類が滅亡するとも思えません。しかしこのままではいけないと、誰もが思っているのです。
 文師は終末の現象を、このように語っています。

 ◎1960年9月4日
 終末とはどんな時か。終末とはどんな時かと言うならば、自分たちが命を懸けるどんなことに対しても、愛着心がだんだん薄れていって、ついには失ってしまう時です。そんな終末時代が必ず来る時がなければならないのです。これはなぜでしょうか。世の中の愛着心を持っていては、天のみ旨を達成できないからです。
 とすれば神は必ず目的を達成し、み旨を果たそうとされるなら、必ず地上の人類、あるいは国家に対する愛着心、民族に対する愛着心、あるいは自分の学問に対する愛着心、さらには家庭に対して、あるいは父子の関係における、各分野、各部署における愛着心を断ち切ってしまわれようと、天は摂理されていることを総括的に見ることができるのです。さらには現在を総括的に観察してみると、民主と共産世界が対決しています。こんな思潮が行けば行くほど、民主陣営にある人間も民主陣営に対する愛着心を失ってゆくのです。その反面、共産主義者たちも共産主義に対する愛着心を失ってしまう方向へと、必ず世界は動いてゆくのです。このように闘争的な現象を経て、人間に対する愛着心を絶つ方向へと、これまでの歴史は展開して終末的な路程へと流れていることは事実なのです。(「神と共なる愛着心をもて」から)

 東欧やソ連の人々が共産主義に対する愛着心を失い、ついには共産主義を捨ててしまったことは歴史的事実です。それでは民主主義はどうでしょうか。民主主義の中心国家であるアメリカは、キリスト教精神によって建国された国です。建国わずか200年で世界の中心となったのですが、そのアメリカの人々の心から次第に神が失われると、アメリカは荒廃していったのです。家庭は崩壊し、麻薬とフリーセックスによってアメリカの青年はむしばまれています。民主主義によって、21世紀の人類はユートピアを迎える、とはもはや誰も考えないでしょう。世界はまさに終末的な混乱に陥っているのです。行くべき方向を失っているのです。
 それにしても、このみ言が語られた1960年という年代に注目してください。今から40年前といえば、共産主義が世界を赤化しようと広がっていた時です。多くの若者が共産主義思想にひかれ、革命に情熱を燃やした時代です。一方、民主主義陣営の日本や韓国でも、経済的な繁栄を目指した人々は懸命に働きました。貧しくても希望に燃えていた時代です。そのような時に、共産主義の崩壊を予言し、民主主義の崩壊をさえ予言していた人物がいたということは、驚くべき事実というべきでしょう。

 すべてが金と物に支配される時が終末

 ◎1963年8月11日
 滅ぶ財物によって主権が売られ、滅ぶ祭物によって歴史が売られる時代になるのです。お金というもので自身の信用を売り払い、人格を売り、自由を売り払ってしまう時代になるのです。いかなる分野であってもお金で処理してしまう時代が来たら、その時が終末です。家庭においても同じことです。夫の対しても、妻に対しても、息子・娘に対しても、お金で処理してしまい、お金で売ってしまい、お金で行ったり来たりする世界、世の中で最も尊いということから、最も卑しいことに至るまで、すべてお金のために売られ、移動するそんな現象が起る世界になった時が、終末が来たということです。(「主人がいない父のみ旨}から)

 そんな時が現代であることを、誰も否定することができません。かっての日本人はお金を卑しいものと考え、金よりも信義や名誉を重んじたものですが、今は金がすべてです。金のためなら何でもするという社会が、人間に平安と幸福をもたらすはずがありません。
 バブルに浮かれ、バブルに沈んで悲惨な末路をたどる人があとを絶ちません。お金のためにわが子をさえ殺す時代です。お金のために振りまわされる人生です。テレビはいまや第三の権力ですが、スポンサーによって成り立っている以上、彼らもお金に支配されているのです。金と物に支配され、精神の尊厳を失ってしまう時が、まさに終末の現象であると、文師は語るのです。

 ◎1959年9月20日
 終わりの日になればなるほど、世界的な恐怖がある一方からやってくるのではなく、四方から襲ってきて、終わりの日になればなるほど、良心的な人々は恐怖に襲われるという事実を、皆さんは見聞きしてよく知るのです。ですから良心的であり、芸術的な人、特に文学系統の人々が、自分の思いのままに生きられない恐怖の思潮に襲われる時が来るのです。今、事実がこのようになっているのです。(「二の世界に対している私」から)」

 物と金が支配する世の中で、良心的に、精神の喜びを見出そうとする人々が生きづらいのは当然のことです。文学は本来、人間の生きる目的と喜びを探求するものでなければならないはずです。精神の喜びが忘却され、ただ肉体的な快楽だけを追求する世界では、文学も死んでしまうのでしょう。優れた作家が自殺しています。
 登校拒否の子供、会社に行きたくない人、ノイローゼにかかる人、あるいは突然に社会人が出家して、仏門に入る人がふえているというのです。これも終末の現象でしょうか。
 仏教では、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみがあると言うのです。この苦しみに満ちた人生を、苦海と表現するのです。それは悲しみの海であり、寂しい海であり、凄まじい海であり、恐ろしい海であるというのです。このような人生に救いを求め、多くの先人たちが宗教を立て、哲学と思想によって、あるいは武力によって革命を繰り返してきました。その総決算の時が今、迫っているのです。

 ◎1963年2月5日
 今日この地上では最後の定着地に向かって、急行列車の速さ以上の速力で、自分の運命を引きづって行く死の波涛が、自分のしっぽに、裾に、肢体に押し寄せ、押し流しているのです。今は自分が死ぬか生きるかが指一本に懸かって、ここに命の綱をかけ、前後左右に避けなければ死ぬのであり、最後の最後に来ているということを、世界人類がすべて感じる時代的な環境、時代的な環境というより時代的な刹那に面しているのです。さあ、こんな環境で今、家庭が破滅しているのです。元に戻ろうにも戻る力がないのです。(「私」から)

 蒔いたとおりに刈り取る時

 ◎1968年11月17日
 人類歴史はアダムとエバが16歳の処女と童貞の時、神の天道を離れて自分たちの誤った愛によって出発したのです。世界的な終末である今日、青少年たちの頽廃も、その結果であると言えるのです。秋を迎えれば,実を取り入れるのと同じことです。青少年たちが誤って堕落しているのは、先祖が誤って植えた種を刈り取っているのです。(「復帰の主流」から) 

 神の実在と,サタンの存在、そして人間の堕落を抜きにしては,文師のみ言を理解することはできません。そしてさらには神の心情を実感する段階にまで至らなければならないのですが、そのためにはまず「統一原理」を学ばなければなりません。
 キリスト教では,人間は「原罪」を負っているとしています。仏教では「魔」ということを言います。旧約聖書にはしきりに「汚れている」という言葉がでてきます。あるいは神道などでも、穢れを清めると言います。人間は神の子であり,何でも可能な,素晴らしい存在なのです、と教える肯定的な宗教も、裏を返せば人間が何らかの原因で堕落したということでしょう。
 神はアダムとエバをエデンの園に連れて行き、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」と言われたのです。ところが第三章になると,狡猾なへびが登場して、エバをそそのかすのです。エバは神の命令に反してその実を食べ、アダムにも与えたので彼も食べました。彼らは食べた後では自分たちが裸であることが分かって、神を恐れて木の間に身を隠しました。神は怒り,アダムとエバをエデンの園から追放してしまいました。これが失楽園の物語です。
 これは単なる寓話、お話に過ぎないのでしょうか。それとももっと根源的な、神の秘密が隠されているのでしょうか。単なる果実を食べただけで死ぬでしょうか。またそんな物を神が置いておくのか、という疑問がわいてきます。またそれが原因なら、なぜ全知全能の神が人間の堕落を止められなかったのか、という疑問がわきます。その他,旧約聖書には訳の分からないところがあります。
 「統一原理」はこれを見事に解明したのです。詳しくは「堕落論」を学ばなければなりませんが、アダムとエバは神が祝福して結婚させる直前に、肉体関係を結んでしまったのです。そこに「へび」の悪なる血統が入ってしまったのです。神の悲痛な心情は次の章にゆずるとして、人類はエバの不倫と、カインの殺人から始まって,今日まで連綿とつづいて世界に生み広かったのです。
 神がモーセに与えた十戒の、戒めの最たるものが「殺すなかれ」であり、「不倫するなかれ」であったのです。ユダヤ教では不倫は死罪にあたるのです。江戸時代の日本でもそうだったのです。そして女性は、その貞操を命よりも大切に守ったのです。
 ところが今日、不倫は良いか悪いかという議論が、まじめに交わされているのです。また女性の貞操、純潔の意味も分からなくなっているのです。神が信じられなければ、神の戒めも意味がありません。大人たちは子供に純潔の意義を説明できません。コンドーム教育では不純異性行為を奨励しているようなものです。
 その結果、どのようになったでしょうか。青少年たちは肉体の欲望のままに走り、少女たちは援助交際という名のもとに身を売って恥じるところがないというのです。
 中学生が恐ろしい猟奇殺人を犯し,先生をナイフで刺し、強盗を働いたりしています。そんな事件が連日のように報じられています。これが終末的現象であることは,誰の目にも明らかなことです。

 善の方向と悪の方向

 ◎1959年9月20日
 終わりの日になればなるほど、ある人は恐怖心にとらわれ、その反面その反対の喜びにかられる人もいるのです。このような動きが現れるのは,必然的な現象です。きわめて悪なる人間だけがいるかと思えば、きわめて善なる人もいるのです。きわめて善なる人間には,きわめて悪なるものは侵犯できず、きわめて悪なる人間には、きわめて善なるものが関与できないのです。この社会は神が抱くことができません。どんな神霊なる人も、どんな天の恩賜のある人も、これに合わせようにも合わせることができない時が来るのです。
 その時が来れば、きわめて悪なる世界に生きている人間、天と因縁を結んでいない場にいる人々は、栄落なく審判台にのぼるのです。(「二つの世界に対している私」から)
 
 終末が人類滅亡の時であるとしたら,私たちは希望を持つことができません。もし神がおられるなら。必ず人類を救おうとされるはずです。終末とは、悪の世が滅び,善の世が来る、善と悪が交差する混乱の時であると言えるのです。
 現代の終末的な現象は目をおおうばかりであり、これからさらにもっと激しく、もっと悲惨になるのではないでしょうか。エイズで多くの人間が死に、社会構造に変化が起こって失業者があふれるかも知れません。
 しかし一方で人類歴史は,確実に自由と人権と博愛の世界へと向かっているのです。人種差別,男女差別をなくす運動が盛んであり,ゆき過ぎた自由と人権が問題になるほどです。公害の問題はあるとしても、科学の発達は私たちの生活を豊かに,便利にしています。交通,通信の発達は地球を狭くしています。世界はやがて一つになり、地球は一つの村のようになり、人類は兄弟のようになる日が来ることでしょう。
 このような終末の時に、天と因縁を結んでいない人は,栄えている人、落ちている人の別なく、審判台にのぼるというのです。「ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」(ナタイ24:40)とイエス様が語った時が来るのです。

 ◎1966年1月2日
 悪と善の方向はどのように違うのか。善は常に絶対者たる神を中心に相対的な立場に立つことであり、悪は自分を中心に主体的な場に立つことです。善なることとは何か。自分を犠牲にして,全体目的の前にプラスするものが善です。それでは悪とは何か。全体を自分に引き寄せることです。悪と善とは方向が異なるのです。
 個人主義思想は天地間に許すことができないものです。それゆえ個人主義の思想は終末にはすべて、むごたらしい運命に遇うのです。それで愛する妻子も、父母も、宗教も、国家も、すべて失う段階に入ってゆくのです。自分ひとりを中心にゆくことは、終わりの日にはすべて整備されなければなりません。宇宙の原則から見るとき、悪は反発するようになっているのです。それで良心は常に悪に対して言うこともなく反対するのです。(「審判の目的」から)

 ◎1958年3月1日
 人間は堕落することによって,天的な心情と良心,体を失ったのです。ところが人間はこんなひどい事実を知らないまま,自分を中心とする体,自分を中心とする心、自分を中心とする情を追い求めているのです。このような人間を抱えて、自分を越えてゆく方向へと率いる神の摂理がなかったとしたら、人類は滅亡してゆくのです。人類は滅亡するのです。
 こんな人類を目覚めさせようと、私たちの心を通じて日々の生活に命令される天に対して限りなく感謝しなければなりません。今日まで自分を中心に生きてきた堕落した人間は、落ちるところまで落ちてしまったのです。それで自分を中心にして、地を捜し求めているのです。しかし堕落した人間は,本然の立場に行くべき復帰の運命におかれているのです。(「愛天者と愛国者になろう」から)

 人間堕落の結果を結論から言えば、すべてが自己中心になったということです。自分の欲望、自分の利益,自分の快楽、自分を中心とした支配欲にかられてたどった歴史が,人類歴史です。競争し奪い合う世界ですから,当然争いの歴史,戦争の歴史でした。自分個人を中心にして戦い,自分の一族,自分の民族,自分の国家を中心にして戦ってきたのです。国土を中心に奪い合う帝国主義の戦いが、第一次大戦前後まででした。このような戦いを繰り返すなら,人類は滅亡へと駆け上ってしまうのです。
 個人の人権と自由は大切としても、それが個人主義から利己主義になれば、やがては疎外が起り,断絶が生じ,孤独になり、冷え冷えとした家庭,社会になってしまい、精神の喜びを失ってただ肉体の快楽のみに走り、やがては破滅してゆくのです。

 ◎1957年9月22日
 終わりの日には,自分が好きだというものによって,審判を受ける時が来るのです。皆さんは何を願いますか。博士になることを願いますか。間違えば博位が,皆さんの首をくくる時が来るのです。あるいは権勢を願いますか。その権勢が,皆さんの首をくくるのです。そして恩恵を受ける人は、その恩恵によって残る時が来るのです。これがいわゆる,大審判というものです。自分が好きだという条件,自分が生命視していたその一つの条件が、皆さんを審判台に渡すかも知れないのです。(「本郷の因縁を捜して行こう」から)

 つまりこれまでの自分を中心としてた目的観,価値観ではどうにもならない時が来ているのです。すでに先の見える人々はそのことに気づき、企業戦争も競争から共存に向かおうとしているようです。競争,闘争から、調和,共栄に向かおうとしているのです。今や人類全体が、新しい価値観、新しい生き方を要求される時代に入ったのです。それを導く中心的な人物が必要です。人類は今,救い主を捜し求めているのです。

 審判の日が来なければならない

 ◎1962年10月28日
 皆さんがどんな運命におかれているかと言うなら、避けようにも避けられない,自分自身を立てて誇る何ものも持たない群れなのです。そんな群れにいますから、これを誰が誇れる場まで率いるのでしょうか。誰が解放の場まで率いるのでしょうか。これを誰が平和の世界まで、自由の世界まで,幸福の世界まで導いてくれるのでしょうか。このようなことが人類が願うユートピア,理想郷なのです。
 それではこれがあるのかというとき、私はあると,堂々と答えることができるのです。なぜ? 神がいることを、よく知っているからです。ですから公義の審判をなさる時、世界的な大審判主として来られる神が、もしもこの世界に登場されるなら、今日この世界を指導している人々の上に、王冠を授けられるでしょうか? その人々がうっかり誤れば、天倫の風が襲いかかって・・・。この歴史的は思潮の前に,一つの波として遠くの台風を引き起こしてやって来るというのです。
 今日の地球上、この地球上に暮らしている人類は知らないのですが、はるか遠い創造主がおられるその世界から,高気圧的台風圏が発動して,地球を襲撃するための一日が来るというのです。その波が襲いかかって来るのです。自分が誇りたい,自分が立てたく、自分が大事にしたい、自分のものだと主張するそんな何かと、天が立てようとされるそれが一度にぶつかる時、その時に残るものだけが残るのです。
 それでは、今日この時はいかなる時か? 大きな波が押し寄せてきて、そこに一つの波が加わって入ってくる終わりの日なのです。終わりの日になるということを考えてみるとき、地上において騒動となる、地上で起る思潮の恐怖が問題ではなく、この思潮の恐怖を越えて吹き荒れ,一つの所に追い込んでしまうそんなある時,高気圧的な台風圏が,我々のこの地球上に襲来する、その日がなければならないのです!(「人類の結実」から)

 ここで言われる地球を襲う天の台風圏とは、外的に地球が破壊されるというような事ではないはずです。それではユートピア、理想郷も来ないからです。文師ははっきりと,人類の理想郷はあると語るのです。なぜなら、神が実在することを知っているからだというのです。神を信じるのではなく、知っているというのです。
 新しい建物を建てるには、古い建物を壊さなければなりません。建設の前には破壊がなければなりません。恐るべき終わりの日が、来なければならないというのです。その時、古い建物に執着する人々にとっては恐怖の時であるかも知れません。自分の悪しき欲望のままに生きた人々の世界が,阿鼻叫喚の地獄世界になるのが終末です。その人々にとって、神は恐るべき裁き主となることでしょう。

 天の言葉を聞くとき

 ◎1960年10月20日 
 終わりの日には,頭に油を塗って密室に入って祈祷せよと言われました。人間の言葉を聞いてはだめです。人間の言葉を聞いてはだめな時なのです。新郎の言葉のみを聞かなければならない時です。牧師も,信仰の同志も,最後の峠にきたら自分の助けにはならないのです。自分は天国に行き、彼は地獄に行くその人間が自分にすがりつくのです。愛する親友が水に溺れたら,助けようと水に飛び込めばその親友がすがりつくのと同じです。その時は同情することができない時です。どんな指導者も,自分の命を救ってはくれないのです。そんな時が来るのです。
 このような時をまず迎える地域,教団,社会においては混乱が起るのです。牧師が長老を信ぜず、長老が牧師を信ぜず、平信徒が教団を信ぜず、教派は教派同士で信じられず、社会や政党もお互いが信じられないのです。国民が大統領を信ぜず、大統領は国民を信ぜず、民は国を信じられない中で、みなひっくり返ってしまうのです。四方を見回しても信じられない混乱の世の中です。
 自分の父母が信じられないのです。みな分かれてしまうのです。これが民主主義です。みな分かれて、みな失って,孤独につき当たるのです。孤独な立場で天の心情に接続させるのです。(「真に行きたい所」から)

 肉体の欲望にのみ走る若者ばかりではありません。人生を真剣に考え,真理をあえぎ求めてさまよう若者も多いのです。しかし人間の思想,人間の言葉を聞いてはならない時だというのです。共産主義も民主主義も終わりの時です。何が真理か分からなくなって、孤独の中で必死に求めるときに、天の心情に接すると文師は語るのです。

 ◎1960年5月29日
 それで終わりの日には「私はアブラハムだ」という人間も出るのです。皆さんがパコダ公園のような所に行って探ってみてください。そこでどんな事を言うか。みな動機があることなのです。「私はパウロだ,私はイエスだ,私は神だ,私は何々だ」と叫んでいる人間が出るのです。これはなぜそうなるのか。僕と息子と父が出会う、世紀末的な時の総清算をする時だからです。葉っぱと枝と幹が、いっぺんに接ぎ木されて生かされるということです。幹の父、枝の息子、葉っぱの僕がいっぺんに現れるのです。世界の思潮はこのようになってゆくのです。心情を中心に接ぎ木された人々を、この世の中の主人公として立てるための事が,終わりの日の神の役事なのです。(「一つになろうとされるお父様」から)

 イエス様は終末に来る救い主について「『見よ,彼は荒野にいる』と言っても出て行くな。また『見よ、彼はへやの中にいる』と言っても,信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ24:26)と語っています。終末には多くの霊的な人々が現れ、さまざまな新興宗教が悩める若者を集めています。世を惑わす偽キリストも出るのです。しかし宗教を悪いものと決めつけてはなりません。本ものがいなずまのように現れるというのです。天の声を聞かなければなりません。

 ◎1963年8月11日
 世界には数多くの宗教があります。宗族と民族ごとに宗教があるのです。あるべき神様が一つの世界を指向するために、その地域と環境に適応する宗教を立てて,歴史を収拾されるからです。
 それゆえ今日,民主主義を収拾することができる新しい宗教が必要なのです。キリスト教において民主主義が現れ,キリスト教が民主主義を収拾できなかったら,キリスト教と民主主義は滅びるのです。民主主義を飲み込んでしまい,共産主義を飲み込んでしまう宗教、共産主義理論より以上の内容を持つ宗教が現れなければなりません。(「主人がいない父のみ旨」から)

 新しい理念、新しい革命

 ◎1957年9月29日
 歴史の最後の終結時代に至ったのです。いろんな社会の風習や環境、自然現象、すなわち気風や貞節なども、この一つの目的を成就するために動員されているのです。このような時に面している皆さんは,皆さん自身が人倫にかなうそんな理念のみでは、この目的を達成できないということを感じるのです。 このような事を成すための歴史ですから、この広大なる宇宙は個人から出発して、全体の目的に向かって、すなわち統一的な帰一点に向かって動いているのです。ところでこの帰一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるようになるのです。この帰一点もやはり,一つの中心を離れては永遠の関係を結ぶことができないので、人間が考える人倫的な標準を越えて天倫と、あるいは全体の目的と連なる一つの中心を通したすべての力の目的体として、現れるようになるのです。これがまさに歴史的な終末時代に現れるようになる,新しい革命なのです。
 20世紀の文明圏、あるいは各自が面している分野において、私たちが新しい革命的な条件を捜し立てるなら、この条件は人倫の理念を通すと同時に、天倫の理念を通すことができる価値を持っているのです。それゆえ皆さんがこのような革命的な条件を,人生路程において生の目的の中心として捜し立てられなかったなら,皆さんは人間の全体目的と関係を結ぶことができないのです。
 ですから今日すべての事が、終わりにきているのです。政治なら政治,哲学なら哲学、宗教なら宗教、すべてが終わりにきているのです。今までの宗教は、宗教としての使命をあえぎながらも遂行してきたのですが、究極的に捜し立てるべき一つの基準を未だに示すことができないでいるのです。政治も哲学もどんな文化的な路程も、やはりそうなのです。
 しかし今,全宇宙が一つの目的を通した統一の理念を中心に、動いてゆくべき時なのです。宇宙を創造された創造主がおられる以上、これは必然的な課業として、創造主の理念を通すその時には、今まで信じてきたその程度、今まで崇めてきたある文化的な条件をもってしては、このような問題を打開しようにも打開できないのです。
 言い換えれば,今まで長い歴史過程を通して人間の良心を中心に、また体を中心にしてこの問題を解決しようとしてきたのですが,完全に解決できなかったのです。すなわちこのような人間の究極的な問題を解決するためには今までの宗教,今までの哲学、今までの科学をもってしては到底だめなのです。
 ですから、どんなに20世紀の科学文明を誇る現代の人間であっても、科学を通した新しい宗教の理念を捜し求める新しい科学,哲学を通しても、哲学それ自体に止まらない新しい理念を、捜し求めなければならないのです。このような時代が,皆さんの前に必ず到来するのです。(「道とその目的と価値」から)

 40年以上も前に語られた内容ですが、これからの人類を導くべき重要なみ言と考えられます。人間が立てた思想、哲学では必ずそれに反するものが現れてここに闘争が起り、革命と反革命を繰り返してきたのが人類歴史です。唯物論は共産主義世界の実現によって歴史は終結すると考えたのですが、この壮大な歴史の実験は多大な犠牲を伴って失敗に終わりました。では民主主義によって歴史は終結するのか。資本主義世界の現状がそれを否定しています。
 ここにおいて私たちは、結果の世界でのみ考えては,人間存在の目的が分からないことに気づくのです。歴史の方向は間違いなく帰一点に向かっているのですが、結果的な存在からではなく、原因的な存在、すなわち創造主に帰らなければ人間の究極的な目的は解決できないということです。そのように考えれば、この人類歴史の背後に神が摂理しておられるということが理解できるのです。
 歴史は西洋的、外的な物質文明と,東洋的な内的精神文明とが、800年ごとに交互に栄えてきたという事実を、歴史家が解明しています。その交差する約100年間が非常な混乱の時代なのです。20世紀の終わりはまた,西洋的な外的物質文明の終わりの時でもあるのです。そしてこの100年間は,歴史上かってない悲惨な世界戦争の世紀でした。なぜこのような事実が起るのか、歴史家は分かりません。文師は次のように語ります。

 神が外的な全盛時代を打たれる理由

 ◎1967年5月21日
 外的な全盛時代になれば,内的な全盛時代へと出発しなければならないのです。そのようにして外的な全盛時代が傾いたなら、これを肥料にして内的な全盛時代が発展することができるのです。すなわち,外的な全盛時代の滅びが,内的な全盛時代の発展の要因になるのです。腐敗した環境が,新しい理念を中心に、一致団結するようにするのです。すなわち低気圧と高気圧の大きな差異によって台風が起るように,新しい理念が世界史的な出発の動機になって、新しい歴史的な革命が起ってくるのです。
 釈迦のような貴族も、その時代の内的な全盛時代を準備する人だったのです。その時も外的な全盛時代だったのですが、社会環境は腐敗していたのです。このような環境の中でも準備する人々は、その環境以上に上がることができる内的な全盛時代を迎えていったのです。
 神は内的な全盛時代を出発することができる土台を造らなければ,絶対に外的な全盛時代を与えられないのです。与えたら滅びるのです。これを知らなければなりません。外的な全盛時代を打つことは、内的な全盛時代を与えるためなのです。ですからどの時代でも、内的な全盛時代の指導者たちは、環境的に迫害されたのです。釈迦も、孔子も、マホメットもそうであり、イエス様もそうだったのです。これは皆さんが歴史を探ってみれば分かることです。
 それでは、なぜそうなのか? 外的な迫害に比例して,内的に強固な根を持つためなのです。神がごらんになるとき、肉身の基準よりも心の基準が高いように,外的な基準よりも内的な基準が高いゆえに、肉的な外的基準を打って、内的基準に吸収させようとなさるのです。歴史上のすべての民族はこのような過程を経てきたのです。
 それではキリスト教をおいて見るとき,キリスト教はいつまで追われるのか。いつまでも外的な全盛時代だけがあるのではありません。神様はその時代を通して,内的な全盛時代を成してこられるのです。キリスト教は今まで、世界的は全盛時代を迎えてみないのです。勿論、自身の教派を中心に,国家的、宗族的,家庭的には全盛となることができても、キリスト教理念を中心に天運と共に,世界を標準とする全盛時代は未だに迎えてみなかったのです。
 こんな原則をおいて見るとき、キリスト教が全盛時代を迎えようとするには、この時代がどうならねばならないか。世紀末的な腐敗の時代が到来しなければなりません。
 それでは腐敗する動機が何であるか? 第一は天を知らないことであり、第二は地を知らないことです。天と地を知らないこと、すなわち神と人を知らないことが腐敗の原因なのです。ここから腐敗が始まるのです。
 堕落が何であるか。天を見忘れ,地を見忘れ、神を見忘れ、人間を見忘れ、人間を主とした愛をなしたところから起ったのです。ですからいかなる社会も、淫乱がはびこる社会は滅びるのです。(「全盛時代」から)

 歴史にイエスが登場した時は、ローマ帝国の全盛時代でした。イエスの足跡は当時の歴史文書にほとんど残っていないのですが、内的な全盛時代はそこから出発して、400年後にはローマを征服したのです。キリスト教はローマの国教になったのです。しかし帝国は滅びました。その主な原因は淫乱がはびこって、内部から崩壊していったのです。
 現代のローマがアメリカです。文師はアメリカの青年たちが享楽主義に流れるのを見て、このままではアメリカは滅びると考えたのです。それで「アメリカよ神に帰れ」という運動を展開されました。今アメリカに新しい純潔運動、家庭復帰運動が起っています。アメリカにやや遅れて日本の若者も、享楽主義の方向に流れています。若者のみならず、日本社会が腐敗堕落の方向に流れています。しかしそういう世紀末的な時代が、来なければならないというのです。
 新しい理念による、新しい革命が起らなければ、人類は21世紀のユートピアを迎えることができません。それは人間による思想からではなく、天宙的な理念でなければならないと文師は語るのです。
 アダムとエバが堕落行為を犯した直後、彼らは神を恐れて木の間に身を隠しました。堕落とは神に背を向け,背走したことです。神との縦的な因縁が切れてしまったのです。その神と人間の縦的な関係を復帰するために、地上に来られたのがイエス様です。メシヤとは、神の事情と心情に最も通じた人、神を父と呼び、神と一体になったお方です。
 科学を通した新しい宗教の必要性を文師は説くのです。まさに今、科学は宗教に近づいているのです。最近の量子物理学者たちは、彼らの仮説が古い教典の内容と一致することに驚きを隠せません。近い将来,科学が神と霊界の実在を証明する時代が来るのではないでしょうか。神と霊界を信じる段階から、知る時代です。もし人間の霊魂,人間の心というものが永生するとしたら、人間の生き方が根本的に変わらざるを得なくなるのです。
 金持ちになり、成功したい。希望校に入学したい。勝負に勝ちたい。こういう自己中心的な欲望に迎合する御利益宗教が,本ものの宗教であるはずがありません。「戦争中、日本の勝利を神に祈ったが,日本は負けた。だから神などいない」という人がいました。もしもこんな神がいて、日本が勝ってそのまま軍国主義が続いたとしたら、考えただけでもぞっとする話です。神などいない、物と金がすべてだと考えたのかどうか、戦後の日本は経済的に大発展をしました。しかし天道に背けば天運を失い,天道に従えば天運が到来するということは、個人から国家まで共通する真理です。今日、日本の外的な全盛時代が終わろうとしている背後に、神の摂理があるということを、考えてみなければならないでしょう。

 大いなる審判の時

 ◎1960年9月4日
 それでは、どうして神はこんな方向へと行かねばならないのか。
 悪の世の中と善の世の中,悪の世界で一つの峠を越えるためには,必ず清算しなければならないのです。これを清算する時がいつかと言えば,審判時代なのです。その時が審判時代です。我々が世の中のすべてのことに愛着心をもって終わりまでしがみついていたら、天の前に大いなる審判の場を越えることができません。ですから天は全部整理させようというのです。ついには自分を信じられず、愛する人までも信じられないという孤独の境地にまで追われ、愛着心をもって世の中に誇る何ものもないという立場まで追い込まれるのです。このように追われ,人間の力ではもいうだめだと誰もが思う時に,再び天を願い,天に対する愛着心を呼び起こす摂理のみ旨があるのです。そのようになるのです。
 それでは我々がこの時代において、この時代が審判の時ならば、どのような審判がなされるのか。み言審判と同時に、人格審判があり、人格審判と同時に心情審判があるのです。原理を学んでいますから,皆さんはよく知っています。ただ名目的に審判するのではありません。火を降り注いでこの地に天変地異を起こして、すべてを滅ぼすのではありません。絶対にそうはなりません。
 必ず審判には、み言審判があり,その次には人格審判があり、そして心情審判があるのです。
 それで神の救援の目的は宇宙的な、さらには天宙的な目的達成であります。ですから今日、人間が必要とするみ言審判時代に要求するそのみ言は、やはり天宙の理念を越えることができるみ言でなければならないのです。ですから個人が救いを受けようというのではありません。世界観から、天宙観から徹頭徹尾、原則的なそのみ言を中心として自分がぶつかる時、今の自分自身は神のみ言の前に,土くれが光を受けて造られたように、ここに生命が生まれ、感情が生まれ,理念的な方向を捜し求めてゆくのです。そんな真のみ言を,人間は必要としているのです。(「神と共なる愛着心を持て」から)

 歴史上には宗教や思想を中心としたユートピア運動が何度かありましたが、結局はみな消えてしまったのです。民族と民族が対立し,宗教と宗教が争い,思想と思想がぶつかってきました。その範囲がだんだん大きくなって、民主と共産の二大陣営の対立という冷戦構造があったのですが、それが現在は崩れて混乱しています。しかし歴史は後戻りすることはないのです。やがて人類は一つになる過程に、今あると考えられます。

 ◎1959年9月20日
 今日は終わりの日です。我々が終わりの日だと言っているこの時代は、世界主義時代へと入ってゆくのです。この世界と遠いことではないのです。天心があるなら,天心を中心とする天宙主義時代へと入ってゆくのです。
 それでは、宇宙の心はどこに向かって行くのか? 自分を主とする時代は過ぎたのです。家庭を主とする時代も過ぎたのです。社会を主とし、民族を主とする時代も過ぎたのです。一国家を主とする時代も過ぎました。今は世界主義時代が来たのです。ある理念の下に世界を主とすべき段階に入ったのです。(「二つの世界に対している私」から)

 人類が一つの家族にようになるためには、共通の理念がなければなりません。思想や宗教の統一が成されなければなりません。武力による統一を志した英雄は歴史上に数えることができますが、彼らはみな歴史の彼方に消えてしまいました。宗教の統一はさらにもっと困難です。それを志した宗教家さえいないように思えます。キリスト教とイスラム教と仏教が、一つになれるでしょうか。しかしよく考えてみれば、共通するものがあるのです。
 ユダヤ教の神も,キリスト教のエホバも,イスラム教のアラーも,仏教の仏、儒教でいう天も、同じ唯一の創造主を意味するとしたら、キリスト教の愛も,仏教の慈悲も,儒教の仁も、ともに神の心情を表しているのではないでしょうか。そこに普遍的な原則、天宙を貫く真理があるとしたなら、その理念の下に世界は一つになる可能性があると言えるのです。
 その天宙的な理念を持って来られるお方が、メシヤであり再臨主であるのです。それが天宙的理念である「原理」のみ言です。それを聞くこともなしに否定し、反対するするなら、審判を受けるというのです。
 また神はいない、神は死んだという思想を主張する者は、もし創造主がおられるなら審判を受けるべきです。また間違った教えを広める者は,真理が現れれば審判を受けるでしょう。あるいは既成の宗教,既成の概念にとらわれて、新しい真理に反対する者も審判を受けるでしょう。何が真理であるか、誰が本当のメシヤか、これから本格的な論争が起らなければなりません。「舌は火である」という聖句があります。火の審判とは、み言の審判、すなわち真理の審判でなければなりません。
 真理は幸福への道標ではあっても、幸福そのものではありません。真理を受け入れて学び、それを実践して血肉とする、つまり人格を完成しなければなりません。考えてみてください。すべての人がイエス様のようになったら、即、地上は天国になることでしょう。真理はその道を示すものです。これが人格の審判です。さらには天国の門をくぐるには、心情の審判があるというのです。
 神が親であることを認識するかどうかが、真理のみ言の審判であり、神の子にふさわしい人格を完成しているかが,人格の審判であり、子が親を慕う心情においてどうか、これが心情の審判です。その門を通過した者が天国に行くのです。イエス様を信ずれば天国に行く、という教えはあまりに安易な教えというべきです。あるいは過程的な教えです。イエス様はすべてのみ言を語ることができなかったのです。弟子たちはあまりに幼かったからです。

 終わりの日は希望の時

 ◎1957年10月27日
 今審判の日が近づいて来て,我々は艱難と悲しみの峠を越え、死の祭物となって新しい真理のみ言をにぎり、新しい人格を代表し、新しい生活理念を捜し立ててあげる天的な人間を中心に動き始めてこそ、真の生活をし、人生の目的を達成し,新しい永生の理想生活を出発するようになるのです。この事は神がなさなることでもなく、イエスがなさることでもなく、皆さん自身がしなければならないのです。
 イエス様は神のようなみ言のみを聖書に表されましたが、今内的なみ言を持って再び来られ、サタンの秘密を暴露し、サタンを永遠に底なしの地獄に閉じ込めるのです。それゆえ皆さんは、再び来られる主様から受ける真理の,主人公にならなければなりません。
 この真理のみ言は、神もうなずき,篤実な信徒もうなずき、サタンまでもうなずくみ言でなければなりません。このみ言の前には,正しく本然の心を持つ者であれば誰もが動かされ、ひかれるみ言でなければなりません。
 皆さんは真理のみ言を持ったイエス様が、祭物になってまでも神の前に畏敬なる心情を抱いたように、イエス様の前に畏敬を感じる新婦となり、父の前に祭物として捧げることができる人格を持つなら、人格審判の峠を越えるのです。そして真理審判の峠を越えることによって、神様がアダムとエバに祝福された、万物主管権を回復することができるのです。ここから新しい人生の出発が始まるのです。
 新郎・新婦の資格を得て、永遠なる神の愛を中心に、新しい生活が出発すること、これがいわゆる歴史的な願いであり、千年王国の基盤であるのです。皆さんは原理を学んで知っているように、天使長の愛以上の神の愛を受けことができる勝利の資格者になり「ハレルヤ、アーメン!」としなければなりません。
 こうしてサタンの死亡圏から解放され、自由と幸福と愛と善と美を中心に生き、自分を中心にせず、神と天倫を中心に生きなければなりません。そして主様の願いが私の願いであり、主様の愛が私の愛であり、主様の美が私の美となる一体として、万象の前に現れるとき、皆さんがイエス様を欽慕したように、万物も皆さんを欽慕するのです。こんな資格を持つ新婦となることが、終わりの日の希望なのです。(「イエスの摂理的生涯とその勝利的目的」から)

                 (第二章へ)

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