第五章 地獄の解放


 牢獄の王者

 「救世主は必ず獄中生活を送る」と、ノストラダムスと南師古が予言しています。文師は今日まで合わせて六度、監獄に入っています。これほど多くの獄中生活を送った宗教家はいないのではないでしょうか。しかもいつの場合も無罪であり、また避けようと思えば避けられたのです。文師はむしろ自ら進んで、獄中生活に入って行かれたように見えるのです。

  ◎1970年8月12日
 神様が先生に、どれほど多くの約束をされたでしょうか。天の総理大臣の席や、天の全権など、私が願うままにすべてを与えるのです。先生がこの話を聞いたときは、天下がみな自分の眼の下に豆粒にように感じて、思い通りに動かせるような気分になったものでした。しかしこんな気分だけでは、この道は求めて行けないのです。逆にひとまわり回って、本来の場に着いて相続を受けるのです。
 最も高く昇ったその場から降りていって、再びその場まで昇って来なければならないのです。逆に行くのです。神は祝福を約束された後で、どこに送られたかというと、監獄に送ったのです。逆にどん底に放り込むのです。そこに行ってみろというのです。
 黄金はどこにあっても、金色の光を放つのです。先生は刑務所に入っても、所長までも感動させたのです。私を笑い者にした刑事たちは先生を憎んだのですが、刑務所の所長までも感動させたのです。そこでは多くの言葉は必要ありません。自ら変わらない立場に立てば、神が同情されるのです。神が抱えて同情されれば、世の中に何も怖いものはないのです。この時はまるで春のようです。
 こうなると刑務所にいる人々が、先生の夢を見るのです。起きてハッとして、何号の監房の誰それだと、私を思うのです。それで朝になると私を訪ねてきて「安らかにお休みですか」と挨拶するのです。刑務官たちも、暑くなればアイスなど買ってくれるのです。求めもしないのに、なぜでしょう? 天が共に行く道だからです。この道はどんなに占領しようとしても、できないのです。(「心情と公式生活」から)

 最も長く、過酷であったのが興南の獄中生活でした。そこでは日に三度、三口で食べ終わるほどの雑穀が食事のすべてです。この食事で囚人は過酷な労働を強いられるのです。もし仕事を怠ければ、さらに食事が減らされるのです。囚人はどんなに疲れて体が弱っても、食事を減らされるのを恐れて仕事に行くのです。雑穀を口に入れたまま、息絶える囚人もいました。
 文師はどうしたらこの食事で、興南の獄中を生き延びるかを考られました。そしてその食事の半分を、他の囚人に与えようと決意されたのです。興南での豆一粒はこの世の牛一頭、と言われるほに貴重な食物です。その食事の半分を他の囚人にあげるのですから、もらった囚人の喜びは非情なものです。その喜びが生きる霊的な力となって、返ってくるのです。
 「力というものは、授け受ける授受作用によってのみ生じる」というのが、授受作用の法則です。ですから神様も、存在する力を得るためには授ける対象が必要でした。そのために万物と人間を創造されたのでした。与えようとする情的な力が、愛です。
 この授受作用の法則を、文師は興南で実践されたのです。それから三週間ほどして、三口の食事を全部食べたのです。すると天から余分にいただいたように思えたそうです。
 主人たちは文師と同じ組で、共に働くことを願いました。文師には神がついている、という噂が広まったのです。看守たちは文師を過酷に扱うと、夢の中でひどい苦痛を受けるのでした。また夢に先祖が現れて、文師がいかなる人であるかを教えてくれたのです。こうしてみ言を語らなくても、霊界が伝道してくれて、文師に従う十二弟子が興南の牢獄から復帰されたのでした。
 牢獄はこの世の地獄です。この地獄を解放しなければ、人類の解放は成し得ないのです。

 ダンベリー刑務所

 1984年7月20日、文師は神山氏と共にダンベリー刑務所に収監されます。容疑は7500ドルの脱税でした。宗教団体における信者の献金には税金がかからないのが米国の法律であり、教主の名で預金することは普通のことでした。ですから文師が有罪なら、アメリカの数ある宗教団体の指導者はみな有罪ということになります。それでアメリカのキリスト教界の牧師たちは「文師と共に一週間入獄する」という声明を出して、文師の裁判と入獄の不当性を訴えたのでした。
 この裁判は実は脱税問題ではなく、アメリカ政府による宗教迫害であり、人種迫害であり、その目的は文師と統一教会をアメリカから追い出すことにあったのです。その時、文師はアメリカ国外にあり、そのまま帰らなければ服役しなくてすんだのです。政府は文師が本気で入獄するために帰って来るとは考えていなかったようです。

 ◎1984年5月19日
 私は監獄に行かなければなりません。私を監獄に閉じ込めるや、アメリカがとても困難になるのです。米国務省もどこでも「どうか外国に行くなら行ってください」と言うのです。私が行かないのです。行かなかったら、これは困るのです。デモが起こり、別の騒動が起きるのです。(中略)
 私が一つ問うてみましょう。皆さんはどのように考えますか? 私が監獄に行くのが良いか、監獄に行かないで、外国に行くのが良いか? 二つの道があったらどの道をとるのが良いでしょうか? 目を閉じて答えてみてください。目を閉じるのです。先生だけが見ているから・・・。
 それで、監獄に行くほうが良いというほうでしょうか? 死ぬのを覚悟して、行かなければならないでしょうか? 
 「一番目です」(通訳者)
 「違います。お父様が言われるように、先ほどのようにすることがみ旨だ、とされましたから、そんな方向で語られましたから、弱ったことですが、これが・・・。そして外国暮らしをされたら、再び来られる機会があるかという説明をして、話をしなければならないのに、そんな説明をしなければ、この人たちは理解できないでしょう。私はこのように見ます。言い換えれば、お父様が今の今まで、私が監獄に行けばみ旨が成るのだ、こんな方向で強調されてこられましたから、この人たちは説得されても率直な考えはそうではありません。そしてお父様が無罪で行かれるのか、行かれることが変わらなければ、再び帰って来られるのかという副題があって、従ってこれが・・・。これは、この人たちには分かりません。これは世論ではありません」(金宣教師)
 「今みればそうですが」(文師苦笑される)
 「原理を知らないので」
 「いま一度説明してあげなさい」(「一情会の意義」から)

 「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」(またい16:21)という聖書の有名な場面を彷彿とさせます。
 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずもございません」ペテロはイエスをいさめるのですが、歯切れは悪いものの、金宣教師も同じことを文師に言うのです。文師は「サタンよ、引きさがれ」とは叱責されませんでした。笑いながらもう一度、通訳者に説明させています。
 文師の路程を見てみますと、摂理が発展する前には必ず獄中生活があるのです。第二次大戦が終わって、メシヤとして出発する直前に、日本憲兵の拷問と獄中生活がありました。統一教会が出発する前には興南の獄中生活です。そして原理を国中に伝播する前には西大門刑務所に拘束されます。ダンベリー入獄は、世界に摂理を展開するための十字架であり、蕩減であったのです。もしも文師がアメリカから撤退したなら、統一教会は世界的にはならなかったのです。イエス様が十字架にかからなかったなら、キリスト教がなかったようにです。
 それはともかくとして、文師はダンベリー刑務所でどのように過され、また文師が入監されることによって、刑務所内がどのように変わったのでしょうか。それは「為に生きる」生き方の、一つの実験場であったのです。
 1985年7月20日、入監一年目の記念日に野外で語られた「アメリカの生きる道」という、5,6時間に及びみ言の中から、ダンベリーの様子を語られた部分を訳してみました。入監中の身でありながら野外で集会が開かれたのは、社会復帰の準備のために、外出自由なハーフハウスとうい所におられたからです。完全出監はそれから一か月後のことでした。

 いろいろな層の人々に会う所が監獄

 社会において監獄といえば、とても受け入れがたい所と思ってします。ところで監獄に入っている人間が、すべて罪人ではありません。素晴らしい人間が多いのです。利用され、罪を着せられて入ってきた人、マフイアに家族を皆殺しにすると脅迫されて罪を着せられて入ってきた人、いろんな種類の人間がいたのです。先生は刑務所生活に対しては専門家ですので、あの人は何の罪をやったのかということを、すでに知っているのです。良い人か悪い人か、みな分かるのです。
 そこは社会悪が集約された展示場のような所ですから、いろんな階層の人間に出会うことができるのです。この世界の心理状態は、座れば不平です。二人の人間が座っても、三人が座っても十人が座っても、座れば不平を言うのです。全部、自分が良いというのです。自分たちは罪がないと言うのです。世の中が悪く、判事が悪く、検事が悪いというのです。その次には国に対する不平を言うのです。
 先生がアメリカで最も悪い人間という噂が立っていたのです。それでここに入ってきたのです。ここに入ってきた最初の気分がどうだったか、考えてみてください。今は転換している人間にビル・セパードという人間がいますが、この人の父親が将軍でした。将軍の息子として、自分の家庭がみじめな歴史の中で生まれた人間として、とても義憤心が強いのです。レバレンド・ムーンがまさに悪なる人間であったなら、六か月以内にレバレンド・ムーンを除去するという共謀をして、仲間をつくっていた人間だったのです。このようにしてクラブをつくっていた人間なのです。こんな環境を皆さんは、想像することができないでしょう。
 ですからそこに行くには、うまく作戦を立てなければならないのです。皆さんは社会に伝道に行ってぶつかる困難が、問題ではないというのです。この人々は、神経が最高度に立っていますので、ここでは何をやらかすか分からないのです。包丁を握ったら、いくらでもやってしまうのです。
 ここでどんな事が起こるかというのです。昨年のことですが、運動器具が置いてある運動室があったのです。ここで鉄アレイを振り回して運動しているのですが、誰かが横の人間と組んで、鉄の固まりで一人の人間を殴り殺したのです。ところが誰が殴り殺したのか、今も分からないのです。それでみな下級刑務所に追いやられた事件があったのです。そんな所なのです。
 さあ、それで三か月が過ぎると、近い人々が全部、私を尊敬し始めたのです。半年が過ぎたら、環境がだんだん戻ってきたのです。一年が過ぎて出る時には、相当に名残りを惜しむ人が多かったのです。
 敬礼式には二人以外は参席させなかったのです。多くの人を除いたのです。敬礼式に参席させてください、とこのように頼む人がいましたので、彼が出てゆく前の聖日に一度参席させたのです。今ここに私が来ていることを知って、会うのを待っているのです。皆さんは敬礼式に参席するのがいやでしょう? これがなければ良いのに、そうでしょう?
 問題が違うというのです。次元が違うのです。私が出る時、収容者たちに私が出ることを話もしなかったので、誰に聞いても私が出る日が何日かが分からないので、指折り数えているのです。終いには、あと何日残っているとか言って。

 統一教会はアメリカに必要な宗教

 これからそこにいる収容者たちは全部、レバレンド・ムーンを一度は訪ねてくるのです。皆さんは来れないのです。我々の保安メンバーが電話を受けません。会う人の中にはとても有名な人が多いので、連絡しても会うのが難しいのです。ここから出た人たちの中で、今まで統計を見ると36%がまた戻ってくるのです。これが統計です。
 私が監獄に入っているとき、アメリカの収容者が50万人を越えるのですが、そのすべての収容者たちが、レバレンド・ムーンが自分と同じ収容者だと自慢せて家に連絡しない人がいなかったのです。我々のキャンプにいる人も全部が自慢したのです。レバレンド・ムーンがいると。(笑い)電話が道端にあるのですが、通り過ぎて私がいると、妻に電話しているのに来て、何度も挨拶するのです。このように有名になったのです。
 これがなぜ、こうなるのでしょうか? 夫人たちはだいたい夫が監獄に入ったら、入った時にみな逃げてしまうのです。家庭を破壊させて逃げ出す人が多いのです。自分の夫が罪をつくって刑務所に入って、自分の体面が立たないとこうなのです。このように悪いということだけを考えているので、レバレンド・ムーン一人を中心として、家庭に慰労の雰囲気をつくる、一つの宣伝材料の作用をしているのです。そこにいる人々の年齢比率を見ると、だいたい30歳前後の人々が多いのです。次にそれを越えるとだんだん少なくなってきます。そこにいる人々の中で、42%以上は麻薬で入ってくる人々です。
 そしてだいたいキリスト教の信仰をしてきた人々です。キリスト教の歴史背景をもっていない人はいないのです。全部がキリスト教や、カソリック信者の家庭の人々なのです。こんな若い人々がこのようになったという事実は、キリスト教指導者たる牧師や神父たちが、責任を果たさなかったことを意味しています。彼らが悔い改めなければならないとうことを、切実に感じたのです。
 こんなことを考えるとき、私がアメリカに来て、我々がアメリカにおいて新しい旗を揚げていって、このように腐敗して死の道に落ちている若い人々にどれほどの影響を与えているでしょうか? 良い面で影響を与えているか、悪い面で影響を与えているかという問題を、現在の実情を中心に深刻に分析してみなければならないのです。
 それで我々統一教会員たちの中にも今、麻薬のゆえに苦悶している人がいるのです。み旨を知っても今まで、麻薬を断ち切ることができずにこんな犯罪的行動をしている人のパーセントが、だんだん増えてゆくか減ってゆくか、という問題を見てみるとき、皆さんたちはどうでしょうか? 一度質問してみましょう。減っていますか? 「はい」ですから統一教会はどんな国よりも、アメリカに必要な宗教であることを知らなければなりません。
 面白いことに、私が麻薬を禁止しているのに、闇の世界をすべて知っているのです。このような代表者が監獄に入ってきて、大麻草を吸い、麻薬を吸っている人たちが、私の前ではみな恐れてはいないのです。他の人はこれを吸っていることを知れば全部、報告してしまうのです。しかしレバレンド・ムーンは絶対に言わないのです。これを信じているので麻薬を吸うのをためらわないのです。こんな行動をしていても報告しないので、私を誰よりも信じるというのです。吸うのを止めたいのだが、先生もご存知のように、ここは自由のない世界ですから、これでも吸っていることで慰められるので仕方がないと言いながら、吸っているのですね。
 そして多くの若い人たちが自分たちの問題を尋ねるなら、私が話してあげるのです。難しい問題をどのように解決するかと話すとき、これこれのように解決したら良いと。そうしていると噂が広まったのですね。すべての人が難しい事があれば、私のところに来て頼むのです。自分が行く時もそのまま行かないで、私のところに来て挨拶して行くのです。
 ここに一番の問題の男がいたのです。麻薬をよくやり、トラブルを起こす人間がいたのですが、私が食堂にいるので暇さえあれば座って、私に何かと尋ねるのです。それで一言ふたこと答えると、この男がレバレンド・ムーンのファンになったのです。それでその男にはハーフ・ムーンならぬクオータームーン(4分の1)という名が付いたのです。これがニックネームになったのです。
 こんな話をなぜするかというと、この世界も人間が住む世界ですから、人間味をもって暮らせばこの世界にも面白味があるというのです。これが何の話か、分かりますか? 
 この世界はサタンの実体たる人間たちが集まっている所です。サタンたちが集まっている所に、天の責任を負う人間が入ってきて、その人たちから尊敬を受けなければなりません。ですから天がより素晴らしい修練をさせるために、私をここに送られたのだと考えたのです。私がここに入って、アメリカの監房制度に対して多くのことを考えました。これを私に任せるなら、六か月以内に全部、清掃作業をしていって・・・。
 この人たちは食べた後にはやることがなくて、空しく時を過すのが慣わしなのです。ですから40日修練を何回もやるのです。120日修練会をしっかりやって全部、精神を鍛えるのです。我々ムーニーが一区域づつ、3000区域なら区域ごとに10名づつで3万人を・・・。我々に任せれば彼らを連れていって仕事をさせ、自分の一家を成す道があるのです。これが可能だと見るのです。
 5年の刑を受けて服役している人たちに、3分の1を減ずるとしたらどんな事でもできるでしょう。政府ではいろんな」方法をやってみました。宗教団体に全部任せてみたのですがすべて失敗して、今ではどうしようもないのです。国家予算を使ってもできることではないので、そのままになっているのです。一年に12億ドルにもなる資金を投資しても教化することができないので、放置しているのです。これはだんだん下がってゆくのです。
 このお金を私に任せて、50万人を私に任せるなら、80%は転向するのです。100%近く転向するでしょう。地獄を天国化させるということを、今回は発見したのです。前科一犯、二犯、三犯の罪人たちも収監者という名で、これからは全部が同僚になっていって、新しい分野を開拓することができる基盤が持てるということを発見したのです。これを一度やってみたいと思いませんか?
 であれば刑務所に入って数か月づつ、一年づつ暮らしてみなければなりません。でなければだめです。心だけではできません。
 この世界を知るには実体で入って、経験しなければなりません。刑務所にいる人たちは特別な人たちなのです。大胆で義理がたく、正義にもえて正しく、このようなことを判断することを知る人たちなのです。理論的なのです。きれいです。世の中の人々もこんな罪をみんな負っているのですが、運が悪くて引っかかってしまった人が大部分なのです。この世の中にはもっと悪い人間が、いくらでもいるのです。
 私が一度尋ねてみましょう。ここで麻薬をやっている人、手を上げて。昔に経験したことがある人は? 大部分ではないの、これ。麻薬というものが若い人々を廃人にしてしまうということは知っているのです。皆さんは中国においての阿片戦争を知っているでしょう? こんな事実がすべて歴史の因縁法則、蕩減法による報応であると見るのです。悔い改めなければなりません。この報応が、この西欧社会に現れたのです。白人たちの文化が終わる時が来た、このように見るのです。
 この人たちを見てみると苦労するのを嫌がり、熱心に研究することを嫌うのです。今のアメリカ人は平安に暮らすことを好んで難しいことを嫌うのです。これがこの国の風潮です。個人の利益を追求するそんなことが、すべて実用主義ですから、全部が倒れて滅んでゆくのです。
 それでレバレンド・ムーンを天が召命され、滅びるなら哀れですから生かすために注射をして、手術して切り取ってから生かすためのみ業をするので、これが嫌だと反対しているのが、今の西欧社会の実情なのです。皆さんがですね、今日ここに来ていますから、一度問うてみましょう。我々がいなければアメリカに希望がないということを、今はっきりと知ったでしょう?
 私が十年前にアメリカに来て、皆さんにこんな話をすると、「先生がアメリカにやって来て、アメリカも分からないで初めて来て、アメリカが滅ぶとか言って、これは何の話ですか?」とこうだったのです。ところが十年たって、近頃になると、これが理解できるようになったのです。
 ですから今、皆さんがこれを知ったなら、どれほど惨めなアメリカであるかを知ったなら、今から皆さんが働く時が来たと考えなけれなりません。十年前にここに来て、どんなに話しても耳に入らず、どんなに行動しても動かなかったのですが、今は間違いないでしょう。滅んでゆくのです。これを目で見て、事実ととして感じるので、皆さんたちは今から国を抱えて働くべき時が来たと見るのです。

 愛のペンでサインだけすればいい

さあ、それでは先生のような人間が監獄に入っても本性的にこのような基準がありますから、彼らの本性の心が惹かれてくるのです。合わせようとするのです。これは刑務所だけのことですが、私が見えないと一回りふた回りして捜す連中がいるのです。どうして捜すのかというと、そこは一日向こう側では働くのだが、今日ははその日なので先生はどこかと捜したがおられなくて、何度も回って捜したというのです。
 それで「なぜそうする? こいつが!」と言えば、自分の心がなぜそうなるのか、分からないと言うのです。なぜそうなのか、心がしきりに付いてゆくのです。ですから天の人は天の人同士が集うのです。先生が皆さんを結婚させてあげたことは驚くべきことです。天宙保護圏に入ったということを、知らなければなりません。
 さて、エンパイヤーステートビルが売られるとき、何が移動するでしょうか? 紙が一枚移っただけです。そこに商店がそのままあっても良いというのです。みなあるがままなのです。何がチェンジしたかというと、紙が一枚です。紙が一枚、甲という人から乙という人に移されることによってその家が移されるのです。紙一枚でビルが移されるのです。紙にサイン一つしたことがお金です。この宇宙がどんなに大きくても、宇宙が行ったり来たりするのではなく、サイン一つでなるのです。主人のサインが交差すればなるのです。
 神にあった所有権が、サインだけすれば真の父母の所有権になるのです。その次には皆さんが主人になるのです。この主人を中心として、私がこれからサインすることができる特権、この資格さえあればすべてが移ってゆくのです、紙切れで。人間の目には見えないのですが、でもそうなるのです。
 宇宙が引かれてゆくのです。行ったり来たりするのです。所有権を書くときはインクとペンで書かなければなりません。何のインクですか? 愛のペンであり、愛のインクだったのです。
 それで、先生がそんなサインをする資格があるでしょうか? これが問題です。エンパイヤーステートビルの主人でなければならないでしょう。全体的な主人になれません、今までは。ですから先生がやれということをみなやって、先生が課題としたすべての学科をパスしてこそ、サインをもらうことができるのです。
 先生のこのような特権があったなら、私が黒人世界に行っても黒人世界に宇宙が付いてくるのです。私がここにいたのが韓国に行けば、韓国に天宙が付いてくるのであり、私がアメリカにいれば、アメリカを世界の人々が注目して見つめるのです。
 女性たち、「わたしの夫が今日から先生のみ言を聞けば、その目が真の愛の目に変わるのだ」と関心を持つでしょう。真の愛の唇でわたしにキスするのだ、という希望を持つでしょう。真の愛の言葉でわたしに囁き、愛の声を聞くことができる、という希望を持つでしょう。真の愛の触感をもって、わたしを求めてくるという希望を持つというのです。また男たちも、うちの妻はいまこんな相対者となって現れる、という希望を持つでしょう。
 ある人のことですが、笑っても唇を閉じて笑い、うつむいて笑うのです。こんな人が今は首をあげて笑い、口を開いて笑い、私の前に来て笑わなければならないでしょう。このように変わらなければなりません。来て触っても、クッションのようにボリュームありげに触るのです。振動を感じてピアノを弾くように。
 先生は監獄でこのようなことを、とてもたくさん研究したのです。ごはんを食べて、やることがないのですね。「男と女が幸福に暮らすにはこうするのだ」このように私が本を書けば、多くの人が読むのは間違いないのですが、本を書けばこれが神聖なこととしてよりも、悪い意味で利用して活用しようという奴が多いので、本を書く考えはありません。

 為に生きれば天国の門が自動的に開かれる

 さあ、私が一つ尋ねてみましょう。皆さんが他の為にどれほど苦労したかという問題を考えてみるとき、私はこのように苦労した、私は生活の60%以上を他の為に苦労してきた、と言えるそんな歴史がありますか? 皆さん自身が、皆さんの心に問うてみてください。皆さん自身がよく知っているでしょう。自分が悪い人間か、良い人間か、欲張りか、宇宙における寄生虫かを皆さん自身がよく分かっているでしょう。すべて良心的に批判してみてください。皆さん自身がよく知っているのです。自分がどんな種類の人間であるかということを。
 それでは何パーセント? 我々がいう95%ということは、神の95%は他のために生き、あとの5%は自分の為に生きるということです。こんな意味であることを知らなければなりません。
 95%とは何のことですか? これはどこからでた言葉ですか? これを問う人はいませんか? 95%がどこからでたかと問うてみれば、答える人間は一人もいないのです。これが何かといえば、生きるにおいて他の為に生きるということが95%だということです。
 しかし自分が生存して、自分の立場を守るのに5%だけいるのです。5%は自分の為になければなりません。これがなければ倒れて滅んでしまいます。倒れてしまうので仕方なく、5%は自分のことを考えなければなりません。
 これは先生のことですが、先生は原理を知って生活の中で誰のために生きてきたか? 神の為に、全体の為に生きてきたのです。一生を他の為に生きてきました。自分の為なら5%を中心にして、自分が病気にならずに健康で、すべての知識的な分野においても負けないように生きるだけです。自分を中心にして、自分を保護するための5%を生きる、とこのように考えるだけです。
 監獄に入っても95%を他のために生きようとするので、朝早く起きて清掃して、汚れたところをきれいにして片づける日課を始めるのです。ですから誰が嫌うでしょうか。ごらんなさい、私の日課がどのようになっているかと言えばですね。食堂に出ていって、休むことなく何かをやっているのが習慣になっているので、食堂に行っても他の人は仕事がないのです。みんな食堂に座っていびきをかいて眠ったり、いろいろ喋っているのですが、先生はしっかり立って待っているのです。習慣がそうなっているのです。何か仕事があれば、私がまず行って手伝うのです。ですからその食堂で有名になったのです。
 彼らにも良心があるのですね。それで、自分たちは座っているにのレバレンド・ムーンはいつも立っておられるから、どうかこちらに来て座ってください。いろんな人がそう言っても座らないのです。ですから、誰が嫌うでしょうか。
 どこへ行ってもそうなのです。学校に行けば学生たちが全部、私のところに来てすべての秘密を話すのです。教会でも女性食口まで、私に秘密を打ち明けます。全部がそうなのです。自分たちの95%を為に生きるという人に、この世で会うことができますか?
 皆さんが一生を生きて、95%を他の為に生きた人間には、天国門がからりと開くのです。四方に十二の真珠門がからりと夜でも昼でも、永遠に開かれるのです。
 私が入って行くとき、そこに番人がいても入ることができ、後で入ってもようこそおいでなさいと言うのです。突きとばされたり、尻をぶたれておまえは何だ、とはされないのです。自由なのです。逆に入ってもですよ、自由なのです。私がこんな世界を知っている人間だというのです。それでこそ、あちら側の世界をパスする通過証を受けられることを知っているので、このみ業をするのです。
 皆さんたち、良心的に考えてください。さあ、30%他の為に生きたという人、手を上げて。これは誰が決定することですか? 神様が決めるのですか、皆さんが決めるのですか? 皆さんは何もないではないかというのです。私がアメリカに来て十年暮らして、多くの人間が出入りしましたが、イーストガーデン内で私が個人的に叱った人間は一人もないのです。12年の間に闘いもし、いろんな事もありましたが、聞いても分からなければさっと許したのです。
 だからイーストガーデンで、一番面白くない主人がレバレンド・ムーンです。このように面白くない人間なのに、いま十年になる人も先生の側を去るのが嫌だと、ここで暮らそうという人間がたくさんいるのです。これはどうしてでしょうか? そのうしろに神の愛を根拠として、縛られているのでそうなのです。そんな何かがあるのですね。
 ここ西欧社会でもそうなのです。皆さんは西欧社会の人であり、私は東洋人です。ところが皆さんは先生が好きだというのです。心が好むのです、心が。先生がいるところに行きたくて、全部が関心を持っているのです。なぜ? これがなぜそうなのかと言うのです。心がそうであるのです。先生の為にはですね、皆さんは95%先生の為に犠牲になろうとしなければなりません。これは先生にも可能だというのです。先生もそれによって蕩減条件を立てることができるのです。
 皆さんは先生とは他人と同じ立場ですが、95%為に生きる心が皆さんの本心からわき起ってくるのは、なぜでしょう? 神の愛の因縁が、先生と皆さんの因縁になっているからだということを知らなければなりません。これは異常なことです。先生の前では自分の主張をしたいとは思わないのです。100%自分がないというのです。これが何かといえば、父母を中心とする本然の子女の愛の因縁が芽生えているからです。皆さんは分からないでしょうが、本然の愛の因縁が芽生えているのです。95%為に生きる本然の愛の因縁が、皆さんの周辺に生じているのです。
 これを皆さんの息子・娘が経験するなら、ここに神の愛があるということを知るようになるのです。これを平面的に世界化する可能性を拡大させていって、皆さんの天国版図が広がってゆくのです。このように愛の基礎に従って、比例的に拡大するという事実を知らなければなりません。

 為に生きようとする人間は宇宙が保護する

 先生は監獄にいるとき、三度の食事以外は食べませんでした。そこには一緒にいる人たちがいますので、週に一度は飲むことが許されていたのですが、私は飲まないのです。オレンジもあるのですが、私がまず手を出すことはありません。できるだけ間食をしないのです。そんな習慣にしておいたのです。それはなぜでしょうか? 考えてみてください。アフリカの人々が飢えているのです。世界が飢えているというのです。先生のお金で買っておいた物を、自分たちが食べるのですからどんなに済まないことでしょうか? 来て食べろと騒いでも食べないのです。こんな思いが必要なのです。これは誰かが教えることではありません。自分がこのように習慣化しなければならないのです。
 今もですね、このように出てきて果物もあるのですが、手をつけないのです。それで一週間ぐらいすると、しわしわになってしまうのです。ですから食べない菓子を部屋に飾っておくことになります。イーストガーデンでは、先生は菓子を食べない人だと思っているでしょう。これはそうじゃないのです。その代わり、食事の時には食べるのです。ところが本を読んでいて、朝食を抜かしてしまうのです。
 さて、炊事場にいますので、盗みに来る人がどんなに多いか知れません。卵をこっそり隠して盗んでゆく奴が。そんな事を全部、私が見て見ぬふりをしているのです。ですから良心の呵責を受けて、卵を隠してゆく者が誰もいなくなったのです。時にはそこの責任者があげても、いらないと言って受け取らないのです。だからとても困ったのですね。黙っていても困るというのです。先生がみんな知っていても沈黙を守っているので、自分たちがいけないことが分かって、良心の呵責を受けるのです。
 そこにいる責任者が、私が昼食の時間になっても仕事をしているので、いつか私のところに来て「昼食の時間になったので、早く食事にしなさい」と言うのです。昼食、朝食を逃してしまうので、朝にも催促して朝食をあげようと、自分のものも与えようとするのです。人間はそうなのです。人間の良心は監獄でもみな同じなのです。
 さあ、このように暮らしてみれば監獄に行っても親友ができ、私を擁護しようという人間が生じることを知らなければなまりません。皆さんはきょう、この話を忘れてはなりません。これはとても尊い話なのです。
 天からこのように受けたので、受けたようにこの伝統を伝授しなければなりません。95%は他の為に生きようとする人は、滅びることがないのです。滅びる道に来れば、宇宙が保護します。死に道に行かせたら、反対に殺そうとした人が滅びるのです。だめなようであり、滅びるようであり、全部なくなってしまうようであっても、これが生き残って興り、発展するというのです。反対だというのです。これはなぜ、そうなるのでしょうか? 神が保護するからです。宇宙が保護するからなのです。
 それではこのような人々が生きる世界は、どんな世界でしょうか? 考えてみてください。そんな人々が生きる世界が、地上天国なのです。まず、自分の夫と妻にこのように対し、父母にこのように対し、子女にこのように対さなければなりません。ここから始まるのです。
 ですからこんな原則から見るとき、アメリカの家庭がどれほど矛盾していて、サタン化した家庭であるかということを、皆さんはよく知っているのです。そんな場に入れば、一晩寝るのも地獄です。一日暮らすこと、一年暮らすことが地獄だというのです。

 95パーセントということの意味

 一週間ごとの爪を切りながら「爪よ、おまえはどうしてこんなに伸びたのか。このように暮らしたので伸びたの? うまく切ってあげるから」このようにして自分の手を愛するのです。お風呂に入る時も自分の体を愛して、自分の顔を見て「目よ、よく見えるか。疲れていないか? と慰め、耳も慰めれば自らが慰めを受けるのです。
 さあ、私が監獄生活もたくさんしたのですが、こんな生活をしてみれば監獄で私のために、命を投げ出して従ってくる人々をたくさん見たのです。工場で働く時も、彼らは先生のそば近くに来て働こうをとするのです。本当に!
 面白いことに、このように過していると、自分と一緒にいるレイリーに「レバレンド・ムーンにこんなことをちょっと話したいのだが、紹介してもらうとありがたい」と言う人がいるのです。それで「私が行って話す」と言うと、「アイゴー、わたしは気が引けて話ができません」とこうなのです。気兼ねして、彼の前に何度行っても、口が開かないのです。これは異常なことです。それでレイリーに、
 「同じ部屋にいるんだから、気楽に話をするの?」と聞いてみると、そうだと言うのです。「面白い話をします」と言うので「本当か?」と言ったのです。
 仲間うちでは口が動くのです。ワイルドで、拳を振り回している人間が、なぜこのようになるのか分からないというのです。だから異常だというのです。そんな何かがあるのです。そうだからといって、良いと言うのです。それでも良いのです。レバレンド・ムーンには異常な力があるというのです。さあ、分かりますか?
 こんな生活が習慣化して、天の心情を知り、神がどのようにおられるかを知り、このように全体の為に生きてみれば、自然に語らなくても権威が生じるのです。木々が育つときに「自分は権威ありげに育った」と言うでしょうか? そのまま育ってみれば権威が備わって、園の主人になって数千数万の植物世界を率いて生きているのです。95%が何を語っているか、分かりますか?
 先生は農場に行けば働く人の友になり、山に行けば炭焼く人の友になるのです。一遍に親友になるのです。そんな心があるので、この仕事をやってきたのです。その人間を自分の側にしてしまうには、95%を中心として生きてゆけばいいのです。そうすれば瞬く間にそんな環境が生まれてくるのです。そのように生きてみれば、周囲の人々が全部保護しようとするのです。これは尊い話です。一度このように生きてみなさい。勉強をするにも自分の為にやるのではなく、多くの人の為にやるのです。そうすれば天国に行きますか、地獄に行きますか? 天国です。これは事実です。
 それでは誰が最も高い霊界に行くでしょうか? 他の為に生きれば神様の懐ふかく、すっぽりと入り込むのです。皆さんもこのように先生の言うことを聞き、実践して生きて霊界に行くなら、先生の近くにおいでくださいと、宇宙が自然に引っぱって行くのです。

 ダンベリーを通したイエスの復活

 先生は興南でに獄中生活が、サウルでの獄中生活が、日帝時代に監獄に入った日々、ダンベリーに入った事実を忘れることができません。先生は天の前に「アイゴー! 私はダンベリーに入りますので、私を助けてください」という祈祷は一度もしなかったのです。
 ダンベリーでは先生はまず初めに黙って働く人、二番目は本を読む人、三番目は瞑想する人、四番目は水泳をする人というイメージを残しました。プールが近かったので時間があれば水泳をしたのです。それで収容者はみな知っていたのです。そこは朝食が早いのです。今もその人たちは熱心に働く人を見れば、レバレンド・ムーンを回想するのです。本を読む人を見れば、レバレンド・ムーンを回想するのです。瞑想する人を見るとき、プールで水泳をする人を見るとき、レバレンド・ムーンを回想するのです。プールではいろんな事件があったのです。プールに行けばレバレンド・ムーンを思い出させるのです。私が過したその足跡に、誰が見ても回想の因縁が残っているのです。そんな生活をしてきたのです。
 先生は決してうまくやったという考えはしません。私がアメリカを経てきたので、アメリカの皆さんも先生に対して回想することが多いでしょう。ある時には12時間、16時間、時間を超越して夜を徹して、仕事をちゃんとやったかと叱り、そんないろんな思い出される事件が多いでしょう。
 さあ、問題は簡単なことです。先生がなぜ厳格にやるかといえば、摂理の道を短縮させなければならないからです。簡単なことです。これ以外にないのです。蕩減復帰路程を40年以内に短縮させる、というみ旨をやっているのです。こんな時には冒険が伴います。そして誰もが私を嫌うのです。また、この道は誰もが嫌う道です。またここには死が横たわっているのです。ここにはいろんな困難が伴っているのです。譬えようもない困難な道なのです。
 昨年のこの日、ダンベリーに入る時にも「私が知る復帰摂理を短縮させるためには、冒険と生死を分けるそんな境地も行かなければなりません」として行ったのです。アダムとエバ、父母が失敗した事によってこんな世界になったので、これを私が責任を負って蕩減しなければ生きてゆく道がないと、地獄の門を開いて愛の天上世界と連結する責任があるとみるのです。
 ゴルゴダで死んでいったイエスが、ゴルゴダで復活してくるのです。そんな時です、今の時が。それで反対なのです。失った肉を求め、霊肉を中心とする復活圏を得て、地上に君臨するというのです。イエスは十字架を背負い、その国と教会、その家庭とその妻とその後孫以上のすべてのものを失ったのですが、レバレンド・ムーンはすべてのものを捜し求めてゆくのです。
 こんな場において今日を記念することができたのは、歴史的な意義があることです。これを知って今日を意義あるように過すことを願います。今日の夕べはここで過すのです。
 この期間に私が成した事は、本当にたくさんあるのです。アメリカを生かすために成したことが多いのです。国を求める基盤を築くのに精誠をつくしました。アメリカ教会も私が創りました。私が教えてあげて創り、この道を築いたのです。もしも先生がいなければどうなったでしょうか。
 今、統一教会を通した道のみが唯一生きる道であることを、既成教会指導者たちが知り始めたということは、驚くべき事実です。ボストンでは700人が集まったのです。火が燃え始めたのです。
 自由派たちをごらんなさい。共産主義、自由主義の連中、世俗的博愛主義者たち、彼らは宗教が必要ないのです。宗教が必要ないというのです。彼らは物質をもって世界を支配しようと考えるのです。その次には人権を中心として、神の理想を見るのです。黄金万能主義と人権万能主義を叫ぶ彼らを、宗教が必要ないという現存の自由主義の連中を、神主義へと再び帰らせなければ、アメリカの生きる道がないのです。教派を越えてキリスト教の牧師たちを一つにして、これを神の名において団結させなければなりません。
 統一教会の目的が何かといえば、共産主義の防御、キリスト教の再復興、青少年の淪落防止(家庭倫理と道徳の完成)この三つの目標を成すために、この広大な大国の各界各層を集わしめなければなりません。(「アメリカの生きる道」から)

 文師はダンベリー収監中に、全米の牧師たちに原理のビデオと本を配布することを指示され、また新聞社の創設や、マスメデアの建設を押し進められました。監獄が統一教会の本部になり、摂理は大きく発展したのです。
 1985年8月20日、文師はダンベリー刑務所を出監されます。その日「神と自由のバンケット」が催され、全米60教派以上の牧師、聖職者が参席したのです。アメリカのキリスト教界は多数に分かれ、また白人牧師と黒人牧師は同席しないものとされていたのですが、この席上で文師を間にはさんで、白人牧師と黒人牧師が同じテーブルに着くという奇跡が起きたのです。
 「為に生きる」が文師のモットーであり、教えの中心です。個人は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は民族の為、民族は国家の為、国家は世界の為、世界は神の為に生きるべきことを、常に強調されるのです。文師は100%神の為に生きておられるお方です。ですから神を否定するサタンが、最も恐れ、最も嫌い、最も反対する人物が文鮮明師であるのです。

 為に生きる世界

 世の為、人の為、利他主義を唱える道徳家は数あるとはいえ、理論的に解明して体系化し、実践して一つの運動として世界的に展開している人物は、文鮮明師の他にはいないと断言できるのです。1975年、韓国の有識者たちを集めて開催された「希望の日韓国晩餐会」(朝鮮ホテルグランホール)におけるみ言も「為に生きる世界」でした。

 ◎1975年1月16日
 皆さんはよくご存知ないでしょうが、私は霊的体験、すなわち霊界に対する内容を体験する機会が多かったのです。神がおられる本然の世界、今日教会でいう天国や地獄の構造が、何を基準にしているかと問うてみるならば、答えは簡単です。神の為に存在する者たちのみが入るところであり、為に生まれ、為に生き、為に死んでいった人々が入るところなのです。これが我々が本郷の理想的な構造ですから、神は人間をこの世界に訪ねこさせるために、歴史過程に数多くの宗教を立て、訓練させてこられたのです。
 それでは神はなぜ、為に存在せよという原則を立てなければならなかったのでしょうか。そのいくつかの要因を挙げてみましょう。我々の本心を推し量ってみるとき、自分の為に心からつくすあるお方に世話になった事実があるとすれば、皆さんの本心はそれをお返しするときに、100%世話になったら50%はポケットにしまいこんで、50%だけ返そうとするでしょうか、でなければ100%以上を返そうとするでしょうか。そのように問うてみれば、我々の本心は確実に答えるのです。100%以上返そうというのです。
 言い換えますと、Aという人間の前にBという人間が100%世話をかけたら、Bはこれを返すときに100%以上を返すのです。そうすればAは100%以上返すBに対して、よりパーセンテージを高くして与えたいのです。
 このように与え受けるときにおいて、この与え受ける度数が高まれば高まるほど、小さくなるのではなく、だんだん大きくなるので、ここにおいて永遠という概念が成立するのです。
 永遠という概念、これは自分の為というときには不可能なのです。運動ということを見ても、押して引くこの相対的な方向が大きければ大きいほど、早いということを知っています。
 知恵の王である神が、為にせよという法度を立てたことは、永遠とならしめるためなのです。この原則を知っておられるので、為にせよという原則を立てなければならないのです。
 永遠の概念が成立すると同時に、そのようになれば永遠に発展し、永遠に繁栄するのです。現在の位置において前進し、発展するのです。現在の位置において発展的な刺激を感じてこそ、幸福になることができるのです。このような要件を持っておりますので、神は為に存在せよという原則を立てられたのです。
 さらに一つ、なぜ為に存在せよという原則を立てるのか。例をあげれば、ある家庭に10人の家族がいたとします。そこで最も小さい弟がその10人の家族の為に、誰よりもその家庭の全体の為に生きたなら、幼い弟であっても父母も彼を立て、兄弟も彼を立てるのです。このようになることによって、日がたてばたつほど家庭の為に存在するその弟は、自動的にその家の中心存在になってゆくのです。自動的に中心存在として登場するのです。
 神がこの宇宙を創造されて以後、神ご自身が為に存在されるゆえに、為に存在するお方として万宇宙の中心存在としておられるように、為に存在する神に似たそんな人間は、どんなに幼い弟であっても、どんなに小さい息子であっても、彼は間違いなくその家系を中心として、中心的な場に出てゆくのです。今日の我々はこれを知らなかったのです。
 為に生きるここにおいて自ら後退するのではなく、為になれば為になるほど、その人間は中心存在として決定するのです。神がそうですからそのような場に立つ人間は、神が中心存在として立てざるを得ないのです。のみならず、そんな場だけが理想的な統一、完全統一を成就させることができるのです。
 今日の我々は他人から主管されることが死んでも耐えられない、そんな人間が多いのです。まして高名なる知識層の人々において、このようなことを多く見るのです。しかし一つ知っておくべきことは、為に存在するそのお方の主管を受けて生きることが、どんなに幸福であるかという事実を、夢にも考えてみなかったということであります。
 霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられる神は宇宙万有の存在の中で、為に存在する中心存在ですから、このお方の前に支配を受けることがどんなに幸福かと言う事実を知るべきです。千年、万年、支配されても感謝できる理想的な統一圏がこの場に成立することを知っているので、神は為に存在せよという原則を立てるのです。
 また一つの原因は、今日皆さんは「愛はわが愛だ。理想はわが理想だ」と考えていたのです。しかしそうではないのです。愛は自分から始まるのではなく、理想は自分から始まるのではないのです。生命よりも尊い愛と理想をどこから求められるかと言えば、ひとえに対象、対象がなくては求めることができないのです。今日我々はこれを考えていなかったのです。
 この高貴なる愛と理想を受けることができ、求めることができる存在が、対象です。ですから我々が謙遜にこの高貴なる愛と理想を受ける息子であるなら、最も為になる場に立たなければなりません。でなければそれを受けることができないので、神は為に存在せよという原則を立てられたという事実を、皆さんは記憶してください。
 世の人々は「人生とは何か」と言っています。このように人間には人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、さらには宇宙観の確立、神観の確立が問題になるのです。系統的な秩序をどこにおいて、その次元的系列をどのように連結させるかという問題は、最も深刻な問題であるのです。
 家庭の天国がどのようなものかと問うてみれば、妻は夫の為、夫は妻の為に生き、彼女の為に死ぬという立場に立ったとき、その家庭は天国に他ならないのです。
 「家和して万事成る」という言葉があります。国が興ることも同じです。国を治める主権者は自身の価値が、自身の主権を行使するところにあるのではなく、民の為とするならば、民は民自身の為とするよりも、より国の為に、このようになる日には、その国は天国になるのです。
 このような公式的な原則を拡大してゆくことによって、国家と民族を超越して互いに為とする世界を成したなら、この世界はまさに我々人間が願うユートピア的な愛の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることは間違いないのです。為に存在するというこの原則は、どこでも通じるのです。
 私がアメリカに行って、短い期間に問題を引き起こすようになった動機がどこにあったのでしょうか。私が韓国人であるのにアメリカ人以上に、アメリカを愛したところにあるのです。私は夜も昼もこの民族の為に血と汗を流し、アメリカの若者が崇高なる思想を持てるように努力したこと以外にはないのです。ただ一つ、私は為に活動し、為に生きてきたのです。このように生きてみれば、個人とぶつかればその個人と一つになり、団体とぶつかれば団体と和合するようになることを見てきたのです。(「為に生きる世界」から)

 「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようする者を断るな」(マタイ5:41)
 為に生きよというイエス様のみ言を、すべての人間が実践したなら、人間世界は間違いなく地上の天国になるでしょう。人の為に生きる人のことを、人格者と呼ぶのです。しかし私たちは心では思ってもまず自分を中心にして考え、人格者になることができません。天国の門に入るには「人格審判」があるのでした。では、どのようにしたら「人格審判」を通過することができるのでしょうか。

                  (第六章へ)

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