第二章 神の願いと神の悲しみ


 人間の生きる道

 すべてのものに愛着心を失うのが終末の現象でした。主義や思想も若者をひきつける力がありません。政治家や官僚は腐敗し、立身出世という言葉も色あせています。少年たちに夢があるでしょうか。目的を見失えば努力も忍耐も意味がありません。青少年をどう教育したらいいのか、親や教師も分からなくなっているのです。人生の目的が何か、答えられる人がいるでしょうか。文師の言葉に耳を傾けてみましょう。

 ◎1960年6月26日
 ところが我々は今、どのような生活をしているでしょうか。彷徨の生活をしているのです。行く道を知らず、彷徨しているのです。なぜ彷徨するようになったのか。中心が立っていないので、目的意識を喪失してしまったからです。また、自分の生命の価値と、生命が関係しているある絶対的な内容を知らないからです。それゆえ彷徨しているのです。我々の生活の価値、我々の生の中心、我々が望みみる目的、このようなことが永遠なる神の心情と同じ基準の上にあるなら、問題は解決されるのです。しかし人間は未だにこんな基準を立てられないまま、彷徨しているのです。
 今皆さんは、皆さん自身に「自分はどんな立場で彷徨しているのか」と反問すべき時がきたのです。皆さんが彷徨している自身であることを認める他ないうことは、自身に中心がないからです。それゆえ自分が中心を持っているか、さらには目的意識を持っているか、ということが問題になるのです。人間は絶対的な生命の中心を持ち、またここに価値を感じて、目的意識を持たねばなりません。その後に万天下の前に現れるなら、初めて自身の場をつかむことができるのです。
 これが本来、神様が人間を創造された目的であったのですが、人間はこのような内容を失ってしまったのです。ですから全世界人類は中心を求められずに彷徨しているのです。彷徨しているのみならず、混沌として、混乱している立場におかれているのです。このように自分自身を立てることができない立場にある人間は、恐怖と焦燥と不安を感じざるを得ないのです。(「道を失った羊とお父様」から)

 見えないものは信じられないのが人間です。しかし見えないもののほうが、実は重要なのです。人間には心と体があります。心は見えませんが、明確に存在しています。「あなたは心のない人だ」と言われれば最大の侮辱です。心は見えませんが、広いとか狭いとか、暖かいとか冷たいとか、形があるように表現するのです。そしてその心の相が顔に表れます。特に目は心の窓というほど心を表します。
 天を見上げれば、多くの惑星が集まって太陽系をつくっているのですが、この惑星が回るのに勝手に動いているのではありません。厳然とした法則にしたがって、互いに衝突しないで、時計よりも正確に運行しています。そしてこの地球には生き物が生存する条件を、奇跡的にすべて備えているというのです。これが偶然にできるでしょうか。
 医学は人体の構造を次第に明らかにしてきましたが、そこに創造の神秘を感じざるを得ないのです。またそのすべての情報が、微小な精子一個にインプットされているのです。さらには細胞の一つ一つにもインプットされているというのです。今ではクローン羊なるものまで誕生しています。科学者はクローン人間まで造りかねません。さすがにそれは止められています。それは神の創造の神秘の領域だからです。
 極微の世界を研究する学者たちは、分子・原子・素粒子から、見えないエネルギーの存在をつきとめ、さらにその第一原因となるものの存在につき当たっているのです。ここに至って、宗教と科学が一致点を見出そうとしているのが現代です。

 ◎1958年3月16日
 我々が本質的な面で人間をより深く考えてみるなら、自分の体も自分のものではなく、自分の心も自分のものではないということを、否定することができません。また、創られた全体の被造世界、全宇宙もその主人が被造万物それ自体のようですが、より深く考えてみれば、創造主のものであることを、誰もが否定できないのです。
 例をあげると、この地球は主人が地球自体であると考えやすいのですが、この地球も宇宙に属している存在であることを否定できません。また、地球の上に存在しているすべての万物も、自らが主人であり、自ら存在し始めているように考えやすいのですが、万物もやはり地球の因縁から外れて存在できないことを、また否定できません。
 このようにすべての存在を探ってみれば、大きなものから小さなものに至るまで、すべてが切っても切れない因縁を結んでいます。地球を探ってみるときも、我々はこの地球が自ら存在できないことを知っています。すなわち、全体と切っても切れない因縁を結んでいって、自然法度によって運行されるときのみ、地球としての存在要件を完備するのです。このように地球を中心にして見るときにも、地球の原因者である創造主がいることを公認するなら、この宇宙は創造主である神によって生じ、地球は宇宙によって生じ、この地球に存在している万物は、地球によって生じているということを、皆さんは否定することができません。
 それでは今日、この地球上に存在している万物の根源者、すなわち人間の父母のような存在とは、何でしょうか。宇宙ということを否定できません。ところで宇宙の父母、根源者が何であるかに対しては、未だ解明されていないのが事実です。(「あなたは誰のものか」から)

 神の創造の動機と人間の生きる目的

 ◎1968年11月17日
 それでは我々は何を中心に生まれ、何を中心にして行き、何を中心に生きるのか? 
 これは神を抜きにしてはだめなのです。神を抜きにしては、動機がない因縁になってしまうのです。動機がない人間は、どんなに事を成就しようとしても、その結果を刈り取ることができず、価値を認められることがないのです。ある建物を造るときにも、設計者の設計に従って建築するのです。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とする建物にはならないのです。
 人間も同じです。我々の個体をおいて見るとき、本然の因縁がどのようになっているかを知らねばなりません。我々の心は、神を捜し求めているのです。善の故郷を捜し求めているのです。善の国を求め、善の宗教を欽慕し、善の宇宙、善の世界を憧憬しているのです。それではこの憧憬する世界を、どこに行って捜し求めるのか。その世界は個人にとどまるのではなく、家庭を根本とする神に出会わなければならないのです。
 神自体を中心にしてみれば、神にも一つの体があり、一つの心があるのです。神に心と体があるなら、ここには必ず生活圏があるのです。神の生活圏において、父母と子女の因縁が出発するなら、必ずここには社会構成が起るのであり、この社会構成を中心に国家なら国家の目的、世界なら世界の目的が行く方向の基準が立つのです。このような問題をおいて見るとき、一番初めの起点がどこかというと、この起点は皆さん自身にあるのではなく、神にあるのです。
 それゆえ今日、堕落した人間に最も重要なものが何かといえば、神を知るということです。歴史過程において、どれほど身もだえて来られた神であるかを知り、いかなる方向を通ってこられた神であるかを知り、また神がどんな目的を成そうとされているかを、明確に知らなければなりません。(「我々の因縁」から)

 神にも体があり、心があり、生活圏があるというのは「創造原理」を学んでいない人には理解しにくいかも知れません。人間に心と体があるように、人間の生みの親である神にも、心と体があるということです。これを性相と形状の二性性相といいます。無形の神は性相と形状の二性性相の中和的主体である、と原理は定義づけています。
 神は唯一であり、絶対者であり、全知全能で、すべてを持っておられるお方、それ自体が完全な創造主、とキリスト教では考えます。しかし神おひとりであっては、絶対にできないことがあります。それは喜ぶということです。人間が喜ぶ時も誰かを愛し、誰かに愛され、誰かに認められ、賞賛される時です。まったく一人で喋ったり笑ったりしていたら狂った人です。神も喜びを得るには、必ずその相対を必要とするのです。無形の神が、その体としての人間の肉身を創り、そしてそこに心としての、命の息を吹き込んだのがアダムです。

 ◎1960年6月26日
 神が被造物を創造されるとき、必ず目的があって創られたのです。極めて小さな一個体から大宇宙まで、被造世界全体を創造される過程には、必ず目的があったということを、否定できないのです。
 それでは神が人間を創造された目的が、何でしょうか。神のみが知っておられるその何かを、人間を通して成そうとされて人間を創られ、今まで人間と因縁を結んでこられたという事実を、我々は生活を通して推し量っても余りあるのです。
 人間はこの何かを求めているのです。人間のみならず、人間を創られた絶対者、神様もその何かを求めておられるのです。人間は何を求めているのか。最も価値あるものを求めているのです。それでは最も価値あるものとは、何でしょう。自分の個体を例にあげていうなら、これは間違いなく生命なのです。これは誰もが認めることであり、実生活でその価値を体じゅつすることなのです。我々はこのような生命の価値を慕い求めているのです。同時にこの生命の価値の前に、対象となる価値を求めているのです。
 それではこの対象の価値を求めた後には、どうなるのでしょうか。相対的な基準が決定されれば、ここにとどまるのではなく、必ず万宇宙と共に動いて作用するのです。これは必然的な結論です。何によってこの結論を下せるのか。物理的な現象を見ても、そうだというのです。絶対的な関係を結べば必ず作用して運動する現象、また直線的な運動よりも円形的な運動をする現象、また個体よりも全体と関係を結ぶために動いている物理的な現象を見ても、こんな結論を下すことができるのです。(「道を失った羊をお父様」から)

 愛と授受作用

 「原理」といういものは一宗派の教理にとどまるものではなく、人間の生き方の原則でなければなりません。宇宙に厳然とした法則があるように、人間の生き方にも、創造主が定めた原理原則があるということです。その一つの重要なポイントが授受作用の法則です。宗教家も倫理道徳を説く人も,他人を愛し,他人の為に生きよ、と教えます。夫は妻の為に、妻は夫の為に生きれば家庭はうまくゆく、ということは経験的に知っているのです。ではなぜそうなのか、ということは説明できないのです。原理はこれを理論的に教えます。

 ◎1967年8月13日
 共産主義や民主主義を問わず、科学者たちはこの宇宙、この自然が物質でできているとしています。それでは物質は何でできるのか。物質は力によってできるのです。しかし力はそれ自体では生じないのです。力も作用しなければ相対的な基準が造成されないので、力が出てこないのです。皆さんの体で作用して発生する力も、四肢五体において授け受けして出てくるものです。授け受けるそれに比例して力が出てくるのです。
 力がある前に授け受ける作用がなければなりません。それでは授け受ける作用をするには、どうしなければならないか。独りでは絶対に授け受ける作用はできません。これは否定する道がありません。従って授け受ける作用をするためには、絶対的に必要なものが相対です。これはすべての存在様相の絶対的な要件です。相対がなければ授け受けできないということです。
 ですから人間が存在するためには、自身の体からまず授け受ける過程を経るのです。男も女も相対的な要件を得ていって,互いに授け受けてこそ存在することができるのです。もしも男は女が必要ないとし、女が男は必要ないとしたなら、百年もしないで世界はみな滅んでしまうのです。人間が存在するためには、すなわち授け受けるためには、相対を必要としているので、今まで男と女が互いに愛して家庭を成してきたのです。ですから愛とは、授け受ける作用を起こす力をいうのです。これは男と女が授け受ける作用の力なのです。
 ですから愛という力の母体が生じるためには、授け受ける作用がなければならず、授け受ける作用があるためには、男と女が絶対的に必要な要件なのです。すなわち、相対要件が必要だということです。
 この天宙の出発は、どのようになったのでしょうか。また、今まで発展してきたものの出発は何でしょうか。共産主義者たちが言う矛盾による闘争に由来するものではなく、相対的な関係が成立するところから始まったものなのです。すなわち、相対的な関係を追求するところに、宇宙が発生し始めたのです。(「万民が願う統一世界」から)

 全知全能の神も独りでは、絶対に喜びという活力を得ることができないのです。それで「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)のです。そして「うめよ、ふえよ、よろずのものを治めよ」と祝福されました。これを神の三大祝福といいます。
 神の人間創造の動機は、息子・娘としての人間を創り、愛して共に喜びたいという真の愛の心情です。真の愛は相対の為にすべてを投入することです。投入しても決して代償を求めないのが真の愛です。この世の親でも子供のためには自分を犠牲にしても悔いないように、真に愛はすべてを与えることが喜びなのです。神もアダムのためにすべてを投入されたのです。アダムとエバの誕生は、神の最大の喜びの瞬間であったのです。
 人間は神の息子・娘として、神の相対として創造されました。親は息子・娘が成長して親以上に立派になることを願うものです。子供が立派に成長して悲しむ親はいません。神もそうです。とすれば、人間が生きる目的も、神のように完成するということです。この世でお金持ちになり、権力を握って人々を支配することが成功ではありません。やがて人間の肉体は滅び、その心だけが霊界に行くとしたなら、心の完成、つまり神のような愛の人格を完成した人が、天国に行くという話は理論的なのです。

 人間の構造と価値

 ◎1958年3月16日
 皆さんは、地が自分の父母であると感じたことがありますか。我々の体は地のすべての元素で結合されています。地が我々の根源であることを否定できない人間であるのです。ところが人間は自分を、地が抱いているという事実を忘れて生きている時が多いのです。今皆さんは、物質の父母が地であることを知っているのですが、さらに自身を一つの人格体として生んだ父母があるという事実を,知らねばなりません。
 それでは人間はどのような存在として創られたのか。
 物質的なすべての要素を持っている存在,天の理念を代身することができる実体形状として立てるということが、神様が人間を土と水と空気で創られた理由であったのです。このような創造主の理念を通して創造された人間ですから、人間自体に神の神性に和することができる、ある要素がなかったとしたならば、この人間自体にはどんな理想も希望も所願もあり得ないことが、創造の原則となっているのです。
 神様は人間を創られるとき、すべての物質と通じることができる物質的な要素の結実体として肉身をこしらえ、この肉身を主管する霊を吹き込んで人間を創ったのです。
 物質が一つの存在性を現すためには、地球や万宇宙と通じる因縁を持っているように、人間も地を父母として、さらには理念的な主体である天を父母としていることを信じる人間になるべきことを、皆さんははっきりと知らねばなりません。
 それでは人間は何であるのか。物質的なすべての因縁を代身した実体(肉身)と、神霊的なすべての因縁を代身した実体(霊)が結合した,一つの実体として創られた自体が、まさに人間であるのです。このような価値を持つ人間ですから,創造主の前に愉しむことができ、敬礼することができ、創造主をたたえることができるのです。このような人間自体は極めて小さな一個人ですが、全宇宙を代身して天の栄光を表すことができる天宙的な価値を持つ存在なのです。また天はこのような価値を持つ完成された人間と相対することを,願っておられるのです。(「あなたは誰のものか」から)

 動物には肉身があり、遺伝的にインプットされた本能はありますが、創造力や美的感覚は備わっていません。つまり動物には精神と呼ぶべきものがないのです。しかし人間の肉身は動物と同じ要素でできていますが、その上に霊人体というもの、神に通じることができる精神があるのです。ですから人間の精神を通して、地上世界と天上世界が和動することができるのです。それゆえ人間は万物の霊長であると言えるのです。
 動物は自ら努力しなくても、そのまま完成するのです。彼らは子育てを誰に学んだのでもないのに、立派に育てます。逆にいえば,動物には自由がありません。しかし人間は教育され,努力しなければ完成できません。その上で創意工夫して何かを創造する能力を持っています。神は人間にのみ、創造の自由というものを付与されたのです。ですから人間は、自由のためには時に命を懸けることもあるのです。しかし自由はまた重荷でもあります。それは人間の責任でもあるからです。人間は自由によって自己を完成するのであって、人間が堕落するということは、自由を拘束されること、あるいは放棄することです。これが人間にのみ与えられた「責任分担」であって、神は人間に与えた5%の責任分担には、干渉されないという原則を立てられたのです。なぜなら、創造主に似るものとなるためには、自由と責任が絶対的条件であるからです。
 では神はなぜ、地のすべての元素で人間の肉身を創り、その肉身に霊を吹き込んだのでしょうか。人間が心と体の二性性相からできているということは,素晴らしい恵みです。肉身だけで土に帰って終わるなら、どんなにか虚しいことでしょう。あらゆることをやって財産を築き、権力を握ったとしても、最後は悲劇で終わるのです。
 では霊だけの世界はどうでしょうか。永遠に極楽で暮らしたとしても、新しい生命の誕生がありません。繁殖も変化もなければ、面白みがありません。プロ野球フアンが春の開幕が待ち遠しいのは、新しいスターの登場が見たいからです。これが十年一日のように、いや千年でも同じ顔ぶれではまるで面白くはないでしょう。

 新たな神を認識すべき時

 ◎1960年5月29日
 今まで我々は神を求めるのに,儀式の神を求めていたのです。み言の神を求めていたのです。関係の神を求めていたのです。しかし、動機の神は知らなかったのです。聖書のみ言を見ても、堕落以後に生まれた関係の神は知っているのです。神様が我々の先祖たちにどのように対され,堕落した後孫がどのように対したかは、知っているのです。しかし堕落することを防がなかった神の事情は知らないのです。神様が堕落したアダムとエバを追われる他はなかった動機は知らないのです。動機を知らないので、解決する方法がありません。世の中のこともそうです。ある問題があるとき、その動機から知って解決すれば,後患がないのです。
 我々が聖書66巻にみな通じても、聖書の中に潜んでいる動機の神と、過程の神と,結果の神を知らなければ役に立たないのです。過程の神は歴史路程に現れているので知ることができるのです。四千年の間、千辛万苦してイスラエル民族を率いて、メシヤの足場を立てるのにどんなに苦心されたでしょうか。これはあえて推し量ることができます。しかし我々が過程の神を知るにしても、はっきりと知ることができません。動機を知らずに、分かったとはいえないのです。
 それでは結果の神は、どのようなものでしょうか。どのように審判されるのか。皆さんが今、神の心情がどうだかも知らないで喜んでいるのですか。だめです。動機のない結果はあり得ないのです。すべてのことは動機を経て,結果が出るのです。これが自然科学の現象です。人間がこのように造ったのではありません。天理原則がこのようになっており、神の法度がこのようになっているという話です。突然変異ということはないのです。秩序的なのです。動機を中心にして原理原則的な過程を経て,実体的な目的体が形成される世界が、創造理念世界です。(「一つになろうとされるお父様」から)

 「家庭を根本とする神に出会わなければならない」とありました。神と人間は父母と子女の関係です。文師が発見した神は、父なる神でした。それも名目的に天のお父様、と唱える神様ではなく,人間を息子・娘として愛したいという心情に染みるお父様であったのです。アダムとエバが完成して子女を繁殖し、そこに神を中心とした夫婦,子女が完全一体となる家庭を造ることが、神の創造目的であったのです。ここに人間は夫婦の愛、父母の愛、子女の愛、さらには兄弟の愛を体じゅつして霊界に行くなら、神と共に永遠に天国で暮らすというのです。
 肉身があるということはある意味では不自由ですが、肉身がなければできないことがあります。ですから地上生活は、霊界に行く準備期間でもあるのです。人間は7,80年の地上生活で、その主体たる神の知・情・意に感応して霊人体を完成して、神の完全相対になるということが神の創造目的であり、それがまた人間が生きる人生の目的でもあるわけです。神様はその息子・娘のために、万物世界を創造されました。そして最後に神の友となるアダムとエバを創造され、聖書に記されているように「はなはだ良かった」と喜ばれたのです。

 天の心情が宿る万物世界

 ◎1959年6月28日
 神の創造過程を探ってみると、神は真のご自身の形状を代身する本然のアダムとエバ、真の善の父母、我々人類の先祖であるアダムとエバを創るために、五日の間にすべての万物を創られました。六日目に万物を支配することができる一人の主人公を創られました。この主人公を創って、神はどんな心情で眺められたか。皆さんは再び回想して、お父様と、心から呼べる人間になることを願います。
 私たちは私たちの視線を刺激する森羅万象に,毎日のように接しています。しかし皆さんは、その日その如くの心情、あるいはその如くの感情によって、森羅万象に接することができません。しかし人間が堕落しなければ善をちゅうしんにとする本然の自然になったのです。また、であれば我々はこの自然を見てどのように感じ、また我々を創られた神はどのように感じたかということを、皆さんはもう一度考えてみなければなりません。
 野に育つ小さな草の一株にも、神のみ手が及んでいるのです。草木の一株にも、神の無限なる内的な心情の因縁が結ばれていることを、我々は再度、想起してみなければなりません。
 単に草木のみならず、野原で飛び回っている獣や昆虫、あるいは鳥類を問わず、これらは無頓着にできたのではなく、徹頭徹尾、神の内的な心情を通して創られ、実体のみ手を経て創られたことを、私たちは再度感じてみなければなりません。
 もしも創られた万物を神が愛するなら、私たちはどう考えるべきかといえば、神が万物を創られて、みな良いものではあるのですが、その中で最も愛するものが何でしょうか。草なら草の中で、神が最も愛する草が何であるかを、考えてみなければなりません。このようなことを皆さんが時間を惜しまずに考える、そんな場にとどまるとしたら、皆さんは人間を創る前に、万物を通した神の恩賜に接することができるのです。
 そして一株の草を摘んでも楽しみ、これがその日の所望の対象であるという事実を思って喜びの心情でそれが神のみ手を経て生まれた草であることを体じゅつしなければなりません。そんな人間がいたなら、彼は堕落した人間であっても、太初に天地を創造された神の創造の心情世界において、神の友となるのです。そうではないでしょうか。(「慕わしきエデン」から)

 文師は自然を愛されるお方です。週に一度は自然に親しめと言われます。自然万物に神の心情が込められているのであり、動物や昆虫は堕落していないからです。人間はその万物の総合的な実体相であり、神を代身した万物の主管主になるべき存在だったのです。人間は自然界から多くのことを発見し、分析して科学を発達させてきました。しかし芸術は何かに対して見て感じる感情を表現するものです。ですから芸術は科学よりも先に立つのです。山に登って草の一株を見るとき、「これは何の草で、何の種で、何の元素が符号してこのようになった」といのと、「やあ、美しいなあ」と感嘆する心と、どっちが尊いでしょうか。心情で対する時、一対一で対するのではありません。全体に対しているのです。分析的に対するのとは比べるべくもないのです、と文師は語ります。

 ◎1960年6月19日
 こんな立場におかれている人間ですから、万物の霊長なのです。それでは人間が万物の霊長として決定する、本質的な内容が何でしょうか。愛なのです愛。人間はこの愛の感情を、無限世界にまで因縁を持つ中心位置にいるので、万物の霊長となることができることを、よくよく知らなければなりません。
 皆さん、ごらんなさい。人間は自分が愛することは何でも良いとし、かわいいというのです。そうではありませんか? ところが最も愛すべき万物は、かわいがることを知らないのです。こんな人々が、神の息子・娘でしょうか? 
 嘆息する万物の恨を解いてあげるべき責任を負う皆さんは、草木の一本にも六千年前にそれらを創られた時の、神の心情と創造のみ手を体じゅつしなければなりません。そんな心を持たねばなりません。
 ですから道を歩いていても、草の一株を見て涙し、木を抱えても泣くというのです。主人を失ってしまって、どんなに寂しかったろう、というのです。ここで語るこの人間は、たくさん泣いてみたのです。岩を抱えて泣き、風が吹くのを見ても泣いたのです。(「神の愛と共に生きる者となろう」から)

 少年時代の文師は熱心に自然世界を探求し、神が人間の親であることを知って泣かれたのです。木を抱えて泣き、草をつかんで泣き、目が熟したカボチャのようになったということです。それはまるで「草と相撲を取っている」ようだったというのです。文師が見出された神は、親なる神、心情の神、愛なる神であり、また悲しみの神であったのです。

 ◎1960年6月19日
 「神様!」と呼ぶ瞬間、神と共に和することができ、説明を聞かなくてもその存在価値を100%認めることができる世界が、心情の世界であり、愛の世界です。説明を必要とする世界は、理知の世界です。今日この世界は新しい理知を論じ、哲学を立ててきたのですが、心情を持つ人間は絶対に支配されないのです。
 最後にはある理知によって解明することができる心情ではなく、ある理知によって解明できない無限の愛の心情世界、説明はしませんが、絶対的なものを求めなければなりません。ある理論で解明できるものなら、人間も創造することができるのです。我々は神を解明できません。神の愛も解明できません。しかしあるのです。皆さんが、皆さんの生命を解明できますか?
 天的な無限の宇宙の感情と和することができる境地に入ったなら、そんな人間になったなら、今日人間はこのように生きていないのです。今日このような20世紀文明の科学世界は、とうの昔にすべて成っていたのです。何千年前にみな出来ていたのです。20世紀の文明は、400年かけて成った文明です。文芸復興以後の文明です。
 今日、私たちは嘆息してあえぎ、死ぬの生きるのと大騒ぎです。こんな道を経るのが当然なのです。ところで人間は結局のところ、行く道は求道の道なのです。世の中に信じられるものがなく、頼るところがなく、行く道は求道の道なのです。求道の道を行く人々は、ある意味では人生行路の落伍者です。社会生活において落伍して捨てられた群れです。捨てられた群れではありますが、捨てられた群れによって、歴史は今まで収拾されてきたのです。現文明もまた、排斥された群れによって発展してきているのです。(「神と共に生きる者となろう」から)

 悪に占領された人間と天地

 本来は神の息子・娘であり、万物の霊長であり、素晴らしい存在であるはずの人間が悪に染まり、悪の社会になり、その歴史が悲惨な戦争の歴史になってしまったのはなぜでしょうか。私たちの良心は常に善の方向に向かおうとするのに、体はなぜか良心に逆らって悪なる方向に行ってしまうのです。私たちの体には、神とは別のものが潜んでいるとしか思えません。
 聖人パウロは「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と「ローマ人への手紙」で告白しています。

 ◎1960年11月27日
 善の理念を立ててゆく絶対者、すなわち神が存在するなら、その神の前に反対となるものがあるのですが、これが罪であり、鬼神であり、サタンなのです。これは人間の怨讐であると同時に、神の怨讐であると規定せざるを得ないのです。
 私たちは神があるということを主張する前に、私たちの周辺に誰がいるかを、まず知らなければなりません。私たちの周辺には、神ではなく神の怨讐である鬼神が、私たちを取り囲んでいるという事実を知ってこそなのです。
 人間が堕落することによって、創造主、神は人間を怨讐の懐に渡したのです。であれば人間のために創られたすべての万物も、悪なる怨讐サタンに渡されたのです。本来、神は私たちの心の主人であり、私たちの体の主人であり、私たちの生活の主人ですが、人間がしかじかの曲折によって神に背反して、神のみ旨と反対の立場であえいでいるのです。誰によってこのようになったのか。神の怨讐である悪神によってこのようになったという事実を、私たちは知らなければなりません。
 人間には体があり、心があります。さらには心情があります。心情と心と体をもって世界に出てゆくとき、事情が絡みつく生活舞台を離れてなすことはできません。今日私たちが感じ、見てさわり、食べて暮らしているこの世の中は、誰が占領しているのか。神が主管しているのではなく、神の怨讐サタンが占領しているのです。(中略)
 サタンが占領している所は、天地の全体です。この地はサタンが占領している場、怨讐が占領している場なのです。本来人間は怨讐に占領されて生きるようにはなっていないのですが、主人の教えを違えたことによって、主人の命令を違えたら死ぬというその道を行って、怨讐の捕虜になったのです。捕虜ですよ。このような宗族として繁殖していったのが、今日の人類なのです。天地の大怨讐があるのであり、これは歴史的な怨讐であり、この時代的な怨讐であり、また未来の怨讐でもあるのです。これは人類の怨讐であると同時に、万物の怨讐であり、神の怨讐なのです。(「怨讐に対するお父様の恨み」から)

 人間が堕落した「しかじかの曲折」とは何でしょうか。聖書にはしばしばサタンが登場します。ヨブをひどい目に遇わせたり、イエス様を試みたりするのですが、それが何であるかは明確に示されていません。また、神は唯一であるはずなのに、もう一人の悪神がいるとはどうしたことでしょうか。ある作家は「神は無能ぼんくらの神である」と書いています。アダムとエバが神が取って食べたら死ぬと言われた、そのリンゴのような果実を食べてしまったのが、キリスト教でいう「原罪」だというのですが、それではなぜ愛の神がそんな物を置いておくのか。そして食べようとするアダムとエバの行為を、神はなぜ止められなかったのか、キリスト教の神学をいくら学んでも分からないのです。
 「泣くな、見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録5:5)と聖書に記されているお方が、再臨主でないはずがありません。

 聖書の秘密

 ◎1960年5月29日
 ある金持ちが、まだ未熟で幼い何も知らない世間知らずの息子に「何の宝物はここにあり、何の宝物はそこにある」として、主人に背く僕や怨讐がいるところで相続させたなら、彼らは息子が持つままに、そっとしておくでしょうか。サタンはそんな立場です。神がすべてを語ったなら、神の息子・娘がする前に、サタンがまず知ってみてみなやってしまうのです。なぜそうなのか?
 神は堕落した世の中と離れているのです。この地は誰が支配しているのか。サタンが支配しているのです。空中の権勢を握るサタンが、地まで支配しているのです。それでこの地の上には、怨讐がいっぱいです。神が息子・娘に命令することを、息子・娘がやる前に怨讐たちが知ってまずやった後で、これをもって要求するなら聞かなければならないのです。公義の法度をもっているので、仕方がないのです。怨讐であったとしても、これがやれという命令に符号しているなら、認めなければなりません。
 ですから聖書は、秘事となっているのです。秘密です。悔しくも憤ろしいことです。聖書の難問題を抱えて「お父様、どうしてこのようになったのですか」と祈祷するとき、ここで語るこの人間はこんな事を感じたのです。「お父様、あなたはどうして、万民を救わなければならないお父様になったのですか」と訴えたら、神は「おまえの事情よりも、もっと痛ましいわたしの事情があるからだ」と言われるのです。(「一つになろうとされるお父様」から)

 「聖書は暗号で書かれている」とは文師の言葉です。その暗号を解く鍵が、イザヤ書の14章12節にあります。「そう明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった」とあるのがそれです。明けの明星とは知の天使長ルーシェル(あるいはルシファー)です。神の御使である知の天使長ルーシェルは、神の息子・娘として生まれたアダムとエバに嫉妬心を抱いて、エバを誘惑して霊的に一体となり、エバを通してアダムを奪ったのです。その瞬間に、悪の心情が血統的な罪として相続されました。その動機はあくまで自分を中心に考えたことでした。サタンは「この世の神」になったのです。
 文師が「原理」を解明するのに最も苦労されたのが、この「堕落論」であったということです。40日間に及ぶ凄まじいサタンとの、霊的な闘いがあったのです。最初はイエス様を始め、すべての聖人たちが反対し、神様までが違うと言われたそうです。しかし文師は断固として譲らず、ついには神も「そうだ」とうなずかれたのです。その瞬間、サタンも頭を下げたのでした。
 イエス様を信じながらもキリスト教の矛盾に苦しむ真摯な人々が、迫害を越えて統一教会に入教するのは、それらの疑問が霧のように晴れるからです。「創世記」の訳の分からない部分が、見事に解明されているからです。

 ◎1968年11月17日
 それでは神は、いかなる神様でしょうか。神はきっと我々人間と父子の関係におられる神ですから、アダムとエバに善悪を知る木の実を取って食べたら死ぬと言って、ただ見ているだけなら、そんな神様は必要ありません。そんな神様は革命です。革命してしまうというのは、ちょっと妙な言葉ですが。
 アダムとエバが、善悪を知る木の実を食べるとき、神は「わたしが心配したようになった。もうちょっとお食べ」とされましたか? 違います。心臓が縮みあがって、すべての感覚がどっと押し寄せるような、そんな立場におられたのです。「それを食べたらだめだ」と血を吐くようにふるえ、形容しがたい哀切きわまる時であったのであり、何も考えることができない、そんな立場に立っていた神様であったのです。そんな神が、アダムとエバが善悪の木の実を取って食べる時、見物だけしておられたのです。刃があれば歴史を切り、この天下を切り裂いて捨てたい気持ちであったのですが、そうはできないご自身の立場を嘆く他はなかった神様であったのです。
 このようなことをキリスト教徒たちは、へびがそそのかしたので取って食べた、というのです。甘い人たちです。ですから神様はどんなに寂しく、惨めで切ないことでしょう。歴史上の誰よりも寂しく切なく、惨めなのです。アダムとエバが善悪を知る木の実を取って食べる瞬間の心情が、爆発するように切ない心情のお方であったのです。
 堕落した人類始祖を見て、神は喜ぶことができません。例をあげれば、お祖父さんお祖母さんはいうに及ばず、村の人々が精誠をつくして千辛万苦、七代の独り子であって、非常に愛していたその息子が急に死んでしまったら、その父母の心はどうでしょうか? 子を持つ父母ならよく分かることです。(「復帰の主流」から)

 神の悲しみ

 文師のみ言から「神の悲しみ」について抜粋したら、たちまち何冊もの本ができるでしょう。若いころの文師の説教は神の悲しみを語り、イエス様の悲しみを語り、涙ながらに祈祷してはさらに語るのでした。汗と涙で床がびっしょり濡れるほどであったのです。統一教会は「泣く教会」という評判が立ったのでした。

 ◎1960年2月7日
 神の心情は引き裂かれているのです。神は慟哭されているのです。神の心情にはズタズタに裂かれた傷痕があるのです。民族が倒れ、新しい民族が興るときごとに、歴史のどの一頁にも心情の曲折が染みていることを、皆さん知らねばなりません。
 神は堕落の歴史路程において、このような心情を抱いてこられたので、皆さんはこんな伝統的な心情を抱く神と、心情的に結びつかなければなりません。であるなら無限に悲しかった神を知り、無限に苦しかった神を知らねばなりません。無限に憤り、悔しかった神を知らねばなりません。
 それでは誰のゆえに,神はそうなのでしょうか。人間のゆえの、我々のゆえに、この世界のゆえにです。ですから地上に生きる我々は、神の恨を解いてあげなければなりません。神の悲しみと苦痛が終わらない限り、悲しみの歴史を抱える神であることを知るなら、「お父様、あなたの悲しみを私に分け与えてください」とする息子・娘にならなければなりません。与えてくれなければ、奪ってでも負うのです。奪ってでも神の悲しみを負う、息子・娘にならねばなりません。お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の悔しさが私の悔しさだとする息子・娘が、この地上に出なければなりません。ところがこんな息子・娘が何人いるでしょうか。イエス様を信じて天国に行くの? イエス様を信じて平安になるの? そんな人間は天の逆賊です。やるべき事をみなやってこそ、天国に行くのです。やる事をみなやってこそ、福を受けるのです。やるべき事もやらないで、天国に行って福を受けるの? そんな人間は強盗です。これを知らなければなりません。(「新しい日」から)

 アダムが神の体であるなら、エバは神の妻ともいうべき存在です。そのエバを僕であるはずのルーシェルが奪ったのです。天使長が神に反逆してサタンすなわち、この世の神になったのです。人間は神の子であると同時に、サタンの血統を受け継いでいるのです。
 「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりに行おうと思っている」(ヨハネ8:44)とイエス様が言われたようにです。しかし罪を犯したわが子であっても、親としての心情の縁は切れないのです。

 ◎1960年5月29日
 この父は、恨を抱く父です。神は罪を犯して監獄に引かれて行く、息子のあとについてゆく父になったのです。自由なる神として知っていたのですが、その心にはどうにもならない手錠が掛けられているのです。長い歳月を一日のように、息子の死と、息子の疼きを案じる心でついて来られた神であることを、皆さんは知らねばなりません。
 「恨み多いことです。どうしてあなたは堕落した先祖の父になったのですか。あなたがお気の毒です」と祈祷しなければなりません。子たる心が爆発してわき起って訴える息子・娘がいるなら、神は彼を抱いて慟哭されるのです。神は喜びの中で我々に逢うとされるのではありません。鉄窓に閉じ込められ、引き裂かれて折られた父を抱いて「お父様、どんなに苦労されましたか。あなたが私の父であることが恨みです」と慟哭する息子・娘を求めてさまようのです。そんなお方が、神様なのです。
 すべての人が勝手にゆき、時代は流れても、親なる神がわが子に対する一片丹心は、誰も侵犯することができません。事態が複雑で、環境が複雑であるほど、神はより心配されるのです。六千年前には我々の先祖個人対して切なく思われたのですが、世界人類が死亡の沼であえいでいるこの時において、最も凄まじい心情で、切なく思われる神であることを知らねばなりません。ですから皆さんは、どうしようもない罪人なのです。不孝きわまりない者たちです。(「一つになろうとされるお父様」から)

 人間に知・情・意があるなら、その主体である神にも知・情・意があるのです。心情を中心としては、どうしようもなく弱いものが人間であるなら、神も天情、すなわち心情を中心として、どうしようもなく弱い神様であると、文師は語るのです。神は偉大であり、人間は卑小であるとしても、父子という観点に立てば、神も人間のように弱く小さくなるのです。文師が見出された神は、嘆き悲しむよれよれの老人のような神様だったのです。

 ◎1962年10月28日
 神は最も悲しいお方です。あなたが死にゆくお母さんを哀れといって泣くことよりも、神はより悲しいお方です。善を主張して万民から公認されたその立場で、民族の反逆者として追われて憤死する人間よりも、もっと憤ろしいお方なのです。憤り、哀れなという形容詞の主人公が誰ですか? 神様なのです。これを実感するように、実感できるように教えてあげるのが、宗教なのです。
 お父様の着物の裾は、栄光に映える裾ではないのです。血と汗に漬かる着物の裾なのです。その着物の裾はあなたの息子・娘が握ろうにも握ることができず、血の手形が押されている裾なのです。その足には、いばらを掻き分けてきた闘争歴史の傷痕があり、その威信は、個人が死んで個人の恨を求めて倒れる時、代わって受けるのです。一つの民族を立てて他の民族が倒れる時、民族が背反する時、代わって受けるために闘争されるお方なのです。
 痛恨なることです! 我々が信じてきた神は、このように哀れな神なのです。それで人類解放を主張し、神を解放するというのです。これが統一思想なのです。神を解放しよう! こんな神様なのです。(「人類の結実」から)

 神を解放しよう! このようなこと叫ぶ宗教が、かってあったでしょうか。救ってください、御利益をくださいというのが人間の欲心です。ですから理知的な人は、宗教とは弱者が信じるものであり、迷信であると考えやすいのです。
 しかし統一思想は、そのような宗教とは根本的に違う神観を持っています。神の創造理念からみれば、人間は神の相対であり、神と人間は親子であり、この体は神の体でもあります。イエス様が「わたしを見たものは神を見たのである」と胸を張って答えたように、堕落とは無関係の完成した人間は、神と一体平等であるはずです。人類の解放が、すなわち神の解放でもあるのです。神は人類の父でもあり、メシヤが神の代身であるなら、人類全体を救うのがメシヤの使命でなければなりません。

 神の願い

 ◎1960年6月5日
 人間始祖によって堕落という二文字が刻まれたその日から、人間はどさっと落ちたのです。どれくらい落ちたのか。内を見ても死んでおり、外を見ても死んだのです。神がこれ以上かき回しても捜せないほどの落ちたのです。
 こんな人間に薬を与え、注射して再び生かそうというのです。救援が何か。落ちて死ぬものを再び生かすということです。これが救援摂理です。(「イエス様はすべてのものを残して逝かれた」から)

 人間は堕落することによって、神とサタンの中間位置に立っているのです。私たちの良心を根拠としているものが天であり、体を根拠としているものがサタンなのです。この良心と体が闘っているのです。しかしその良心も、アダムとエバが堕落する以前の基準だというのです。本来の善なる人間、完成した人間が持つべき良心基準ではなく、あれが正しいかこれが正しいか、判決をつけることができない良心基準なのだと、文師は語ります。

 ◎1960年11月27日
 もしも堕落しなかったら、この良心基準はどこまで上がったでしょうか。神について解明する必要がない基準まで上がったのです。神が私たちの主人であることを、自動的に感じる基準まで上がったのです。このような良心基準が完結したら、この良心という種から生まれるべきものが何でしょうか。それは心情です。愛という言葉です。人間がこのような基準を持ったなら、神の愛を中心に万宇宙を支配するのです。
 愛は時間性を超越するのです。空間性を超越するのです。ですから良心作用も、心情に従って動くのです。
 ところが人間は堕落することによって、どんなことが起ったのか? 本来、神が立てられた良心基準、すなわち堕落することなく完成したアダムとエバの良心基準を持てなくなったのです。完成したアダムとエバの心情を、人間が持てなくなったのです。もしも神の創造計画どおりにアダムとエバが完成して、完成した心情を持つなら、神を忘れるでしょうか? 忘れはしないのです。天使が誰であり、万物が何であるかを知るのです。
 人間は万物の霊長として、心情においても心においても、体においても不足なく、絶対的な愛と心情に連結されて、絶対者を代身するに不足がないように創られていたのです。ところが堕落することによって、人間の心の基準は堕落したアダム、堕落したエバの基準から出発したのです。ですから皆さんの心では神があるのかなのか分からないのです。アダムとエバも神が取って食べてはならないと命令されたので、そのとおりに信じてきたのですが、神が現れないので自分たちが勝手に行動して堕落したのです。(「怨讐に対するお父様の恨み」から)

 取って食べたら死ぬといわれたその死とは,肉体的な死ではなく霊的な死、精神の死であったのです。もしも私たちが神の存在をはっきりと知り、霊界の様子を目に見えるように見ることができたなら、地上の生活も今とは全く違ったものになるでしょう。決して罪を犯すことができないし、罪を犯そうとも思わない愛の世界になることでしょう。ところが堕落することによって、天界が見えなくなって争っているのです。
 「この地上において生きている間、この悲しみを自分自身が解決できなかったら、霊界に行って悲しみの境界線圏内に入り、永遠に苦しみを受けるのです。そうなれば喜びとは、永遠に関係を結べません」(「我々の因縁」から)とは恐ろしいみ言です。

 ◎1960年2月7日
 それでは天の願いが何でしょうか。失ったエデンを再び捜し求めることです。天の願いが何でしょうか。創った園が死亡の恐怖を感じることなく、怨讐の侵略を受けない安息の園になることです。これが天が闘って捜し求める、所望の目的地なのです。それゆえ歴史は一つの世界に向かって行き、一つの理念世界を指向しているのです。今日、世界に主義や思想が現れ、動いています。しかしこれによって世界は終わることはないのです。動いている主義と思想が、新しい主義、新しい思想のようであっても、これは堕落の限界を越えられない主義であり、思想なのです。ですから皆さんの心が動いていても、これは悪の血統の因縁によって動いている心であることを知らねばなりません。皆さんの心情や愛も同じことです。
 それでは主義と思想は、どこに根拠をおくべきでしょうか。生活的な感情と、永遠なる理念と接続させることができる縦的なものを、基盤にしなければならないのです。そうではない主義や思想は、ある一時の悲しみと共に消え去ってしまうのです。それゆえ、天は人間の心と、人間の心情を革命するために,人類歴史を動かしてきたのです。(中略)
 堕落した人間も、父母たる者が子を愛する心は、二つではありません。これは絶対の中の絶対です。これは存在意識を越えて存在して動いているのです。これは万宇宙のいかなる原動力や、どんな存在物の主管圏内にとどまることなく、超越しているのです。愛は理念を超越しているのです。この基準は神の価値までも超越することができるのです。こんな基準が成る日には、悪に対して審判主の立場にある神も、審判主ではないという立場に立つことを、皆さんは知らなければなりません。(「新しい日」から)

 大審判とは何でしょうか。地上の人間を全滅させることではなく、大怨讐たるサタンを滅ぼすことです。そのためには天は時代々々ごとに、人間が新しい良心の衝撃を受けるようにされ、彼らの心と理念を開拓され、革命を通してサタンの勢力をうち崩してきたのです。ですから神は今まで、どれほど苦労されたでしょうか。私たちが見ることも知ることもない歴史路程において、神は闘ってこられたのです。このような観点から、人類歴史は神の復帰摂理歴史であるというのです。

                (第三章へ)

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