第四章 再臨主の道



 北の故郷定州

 ◎1968年11月17日
 先生の故郷に一度,行ってみたいですか? 先生の故郷は,平安北道定州ですが、昔は平安道の人間を,中国人の親戚と考えていたでしょう? 昔に生まれていたら,皆さんとは因縁のない人間です。ところが今はどうでしょうか。どれほどの因縁があるでしょう。国内的ですか、国際的ですか。絶対的ですか、どうですか。
 我々統一教会は福地建設のために,故郷の地を訪れなければなりません。誰の故郷を訪ねるのですか。文先生の故郷を訪ねるのですか? 
 先生は兎狩りもやり,鹿狩りもやりました。皆さんを連れて、近いうちに行きたいですね。しかもそれが一生の願いであり、千秋万代の恨となっている人間一人ぐらいは連れて行くかも知れません。連れて行けばいいですか? 
 三千万を統一するなら、三千万民族全体を統一思想によって武装させなければなりません。統一思想とは、どんな思想なのか。文先生の思想です。この文先生の思想を,三千万民族のすべてに植えつけて、思想武装させるのです。兎狩りをするとき、兎の子たちをそっと両方から追い込んでゆくと、初めは岩の間に潜んでいるのですが、追い上がってゆくとてっぺんまで、どうすることもできない段階まで行くのです。そうなればそれ以上追わなくても「助けてください」となるのです。ではと、お辞儀を受けて捕まえるのです。国家防衛もこれと同じことです。
 アカの群れが山川を染めている以北には、皆さんが愛して従っている師の故郷があるのです。どうせ皆さんは、この師の故郷の山川を訪ねてみる時が来るのです。統一思想、統一主義に従う数多くの民族、人類が、ここを自分の故郷だとする時が来るのです。
 わが故郷の川岸、この故郷を愛し、この故郷のために死に、この故郷の土に埋められたいと願う時が来るのです。このように世界万民が欽慕し、思慕する国を造ろうというのが統一主義なのです。きっとこんな時が来るのです。(「復帰の主流」から)

 1991年12月5日、文師は北朝鮮当局が用意したヘリコプターで、故郷定州の地に降り立ちました。地獄のような興南の刑務所から解放されてより、実に41年ぶりの還故郷です。「主は雲に乗って来る」とはこのことでしょうか。
 金日成をアボジと仰ぐ北は、家庭的な共産主義ともいうべき主体思想によって支配されている国です。文師の半生は共産主義との闘いでもありました。金日成は兄エサウであり、文師は弟ヤコブの立場です。エサウがヤコブを殺そうとしたように、金日成は何度か刺客を送った怨讐の二人です。その金日成と文鮮明師が、突然に抱き合って手を握ったのですから、世間はあっと驚き、協会内部の人も驚いたのです。しかしそのような事が、偶然に起る事ではありません。文師の愛と祈りと、神の摂理が背後で働いていたのです。
 現在は多くの人々が、文師の故郷定州を訪れています。その生家はきちんと整備されて保存され、平和公園にする準備がされています。文師の予言の通り、福地建設が進められているのです。
 文師の今日までの路程についてはすでに多くのことが語られ、書物にもなっています。ここでは文師自身が語られた内的な事由を中心に、神の摂理について考えてみます。

 第三イスラエル韓国

 ◎1957年10月20日
 背信の起源は何を通して起るのか。言葉を通して起るのです。それゆえ終わりの日にも、天の前に立てられるべき民族があるとしたら、この民族はある一時、言語までも背信される立場に立つのであり、その国の言葉を代身する文字があったとしたら、その文字までも背信され、さらにはその国の民族性までも蹂躙される立場になるのです。
 では今日、世紀末的なこの終末の時を見渡してみるとき、そのような国がどこかといえば、まさに韓国なのです。韓国は歴史上に数多くの民族の侵略を受けてきて、多くの背信者たちがでました。我々は日帝の圧政下において、我々の言語も失ってしまいました。我々の文字も、我々の民族性も、我々の誇りも、我々の理念も、みな抹殺されたのです。またさらには、今日では同じ民族同志が互いに背信する立場におかれています。同じ民族同士が互いに背信すると同時に、兄弟同士が背信し、父母、親戚が背信し、父子の間で背信する、そんな背信の峠を経てきているのです。
 それではこの民族はどうしなければならないか。この民族は神が人類の前に背信されたその悲しみの心情を、ある一時、ある瞬間に受けるのです。その時にこの民族は、イエス様が神の心に背信した民族に対して呪うのではなく、むしろ彼らのためにゲッセマネの園で祈祷されたように,今日この民族も背信する世界のために、天に向かって祈祷しなければなりません。それでこそ、この民族の生きる道があるのです。(「み旨に背信する者となるな」から)

 神はイスラエル民族を選民として立て、そして二千年前にメシヤとしてイエス様を送られたのです。しかしイスラエル民族は神のみ旨を知らず、イエス様を十字架にかけてしまい、選民としての位置を失ってしまったのです。キリスト教は異邦の地から出発して、世界に広まりました。キリスト教は第二のイスラエルです。しかしそれは国のない民、霊的なカナン復帰であったのです。
 1948年、世界の東西で二つの国が同時に独立しました。イスラエルと韓国です。この二つの国には多くの共通点があります。小国ですが優秀な民族であり、長い歴史と高い文化を持ち、宗教的な資質に恵まれています。家系というものを大切にし、特に韓国には族譜という家系図があって、何十代も前からの先祖が分かるのです。両親を敬うことにおいて特別な伝統があります。イスラエルは常に他国から侵略され、捕虜にされ、ローマの属国にされ、ついには国を失ってしまうのですが、二千年も世界を流浪する民となっても常に祖国の宗教と伝統を守り、滅びなかったのです。
 韓国もまた常に他国から侵略され、悲劇的な歴史をたどってきました。韓国は「恨」の国です。虐げられ、苦しめられた恨みが積もりつもって胸の底に染みているのですが、しかし日本のように仇討ちという考えはなく、じっと耐えているのです。神の六千年の悲しみの心情に、最もよく通じる民族が韓民族なのです。
 ヨハネの黙示録には「生ける神の印を持って、日の出る方から上がって来る」と預言されています。ノストラダムスも「メシヤは東の国に来る」と予言しています。また韓国には昔からメシヤ降臨の予言があります。その最大の預言者が南師古です。彼は救い主の姓を「文」と、はっきり書き残しているのです。またイエスはキリスト教の土台の上に降臨しなければなりませんが、韓国は東洋で最もキリスト教が盛んな国です。仏教、儒教の伝統の上に、キリスト教が広まったのです。

 ◎1969年6月8日
 第二次大戦当時、アジアにおいてサタン側のエバ国家が日本であることを、皆さんはよく知っています。それでは日本の前に、なぜ韓国が40年間支配を受けてきたのか。原理の観点から見ると、これは終わりの日に、エバがアダムを主管したことを蕩減復帰するための歴史的な使命があるからです。
 堕落したエバがアダムを支配したと同様に、国家的な基準においてやはりサタン側のエバ国家が、天の側のアダム国家を支配する一時がなくては蕩減復帰にならないのです。
 ですから韓国が日本の支配を受けたとしても、解放を中心としてここに必ず、アダム的な主体の権限を持って現れる役事がなければならないのです。
 この役事がどんな役事かというと、まさに神霊的な群れが集団をなして準備しなければならないのです。解放を前後して神の特別な選択を受けた、すなわち天の復帰の使命をなす役軍たちは、日帝の弾圧によって満州の原野や、深い山中に入って人知れずに神と密接な関係を結んだのでした。こんな隠れた役軍が多かったのです。このように他人が知らない神霊的な組織運動が、北から南へと連結されてきたのでした。
 このような役事をなした数多くの人々は、内部では日本が滅ぶことを公然と発表したのです。滅びる日と時間まで、啓示を受けたのでした。それでその時、大多数の神霊的な人々は、日本が1945年8月15日を中心に滅びるということを、普遍的な常識として知っていたのです。従って「日本は必ず滅びるから終わりまで辛抱しなさい。サタンに屈伏しないで気概を持て。ここに勝利の基台を踏み越えなければ、来られる主様を迎えられない」としたのでした。ですから、主様は韓国の解放と共に来る、ということを多くの人々が知っていました。韓国の解放を迎えると共に、この地上に主様が来るという啓示を受けて、準備する集団が多くあったのです。(「哀れな復帰の役軍」から)

 日本の圧政は凄まじく、残酷を極めたのですが、最もひどい弾圧を受けたのがキリスト教徒です。信者を教会に集めて火を放ち、焼き殺すということまでやったのです。しかし韓国のキリスト教は、その期間に飛躍的に発展したのです。それはメシヤが来るという信仰があったからです。神は韓民族を第三イスラエルとして立てられたのです。ただしヒットラー的な選民思想とは違います。最も家族のために犠牲になり、奉仕する者がその家庭の代表者になるように、世界のために最も犠牲になり、最も為に生きる国が、選民としてメシヤを迎えるという思想です。
 日帝時代には抗日運動も盛んでした。中でも1919年3月1日の、3・1独立運動は有名です。東洋のジャンヌダルクと呼ばれた少女、ユガンスンを先頭に、一日だけの独立を勝ち取ったのです。それから10か月が過ぎた1920年1月6日(旧暦)、文鮮明師は誕生しました。

 神の召命

 文家は名門の家系です。その始祖、文多省は歴史に名を残す賢者でした。
 文師の祖父、文致国氏は孫の文少年について、家族にこう話していたそうです。
 「将来、偉大な人物になるから何でもあの子の望む通りにするように」
 文師は幼いときから、あらゆる面でとび抜けた存在でした。他の子とは違っていたのです。よほど自尊心が強く、不義に対しては絶対に我慢しないのです。ですから村の人は、文少年を恐れていました。しかし気の毒な人を見れば、何でもみなあげてしまうのです。文少年は村人の噂のまとでした。うまくいけば英雄になるが、日帝の圧政の下では死ぬしかないだろうと。
 文師には8人の兄弟姉妹がいました。6人が女でした。お母さんは子供たちのためにすべてを犠牲にして働いたのです。一日中機織をして、それを数十年も続けたのです。お母さんはとても文少年を愛していました。また兄さんも弟を愛していました。弟の為ならどんなことでもする兄さんだったのです。弟がどんな人物になるかは分からなくても、弟が一番の歴史的な弟であることを、霊界で教えられていたのです。
 しかし文師の家族や親戚には、不幸が次々に襲いかかるのです。約7年の間、災難と風波の連続でした。13人の家族のうち、5人が死んで8人になり、そのうえ犬が死に、牛が死に、兄さんが狂い、姉さんが狂い・・・。
 文師はそんな中で、摂理的に見るとき、そうならざるを得ない背後の事由があることを知っておられました。サタンの活動のゆえに、歴史的な蕩減を払わなければならないのです。

 ◎1970年2月某日
 南北に分けられたのです。うちの家庭の事情が拡大して、国家の事情になりました。兄と弟が一つの場に集まって、父母様に侍ることができないように、今南北韓がそっくりの事情になっています。間違いなく兄さんは北傀の手によって殺されたのです。北韓の地に残っている一家親戚は、言うにいえない受難と逆境の中で死んでしまったか、今もそのように生きているのです。歴史的過程から見るとき、必ずこのような過程を経なければならないのです。
 先生の最も近かった親友たち、天で祝福される立場の親友たちは、みな連れてゆかれました。みな除かれてしまったのです。世の中で信じられることは全部、切り捨てられたのです。
 兄弟たちを見ても、私が最も愛していた妹を連れてゆかれました。私が監獄にいる時、何の罪かは知りませんが連れてゆかれました。また息子を見ても、二番目が連れてゆかれるのです。娘も二番目を連れてゆかれました。このような事を見るとき、蕩減は許しがないのです。先生であっても、許しの例外がないのです。
 このような歴史的摂理の背後を探ってみると、神は地と因縁のある心情的な繋がりを持つ一切の関係を切ってしまうのです。これは私自身を滅ぼそうという摂理ではなく、完全な勝利の基点を願われる神の愛であることを、私は知っています。いつどんな時にサタンが、その先祖を通して、家庭を通して、兄弟を通して、自身に入ってくるか分からないからなのです。ですから、清算する内容をもって天の側を代身する背景を持たなければ、蕩減の場に出て行けないのです。(「完全なる蕩減」から)

 幼いころの文師は探究心が旺盛で、自然から多くのことを学びました。山を見ればその反対側はどうなっているのか、行ってみなければ気がすまないというふうです。一度やり始めたら、徹底的にやりとげるのです。
 文少年は夢を抱いていました。それは学者になって博士になることです。それも一つや二つではなく、いくつもの博士号を得ることです。しかしさらに成長すると、世の中の矛盾に気づくようになったのです。時は日帝圧政の時代です。みじめな韓民族の姿を見るとき、その人たちを救い、さらには人類の救済ということを考えるのです。自分だけが幸福になったとしても、人類が不幸なら何になるだろうか。
 文師の一家は兄さんの病気をきっかけに、キリスト教徒になりました。文少年も長老派の教会に通い、聖書も熱心に勉強しました。そのうちいろんな矛盾に気づき、牧師に問うのですが、満足な答えが返ってきません。しかもイエス様は、すべてを語っていないというのです。文少年は猫頭山という猫の頭に似た奇岩の山に入り、神に直接祈るようになったのです。そのころから、霊眼が開けたのです。
 1935年4月17日、復活祭の日、数え年16歳の文少年に、イエス様が霊的に現れたのです。イエス様は自分がやり残した使命を、文師が成就してくれることを懇切に願ったのです。神と人類の解放という、途方もない使命です。文師は何度も辞退したそうですが、ついにイエス様の願いを受けたのでした。

 ◎1964年3月15日
 私はどの場に行っても、この体があれば何でもできるのです。そしてやってみなかったことがありません。何でも一度とりかかれば、終わりを見なかったことがないのです。おそらく神様も、知恵ぶかいお方として私のような人間、特種を選ばれたようです。
 一度手をつけ始めたことは命を懸けて、死んでもやり遂げなければ満足しないのです。下らないと思えば初めからやりません。誰でも一度捕まえたらそっちが滅ぶかこっちが滅ぶか、二つに一つです。
 私がこの道を行く時も「神様はいるのですか?」と最後まで問いつめ、神様がおられることをはっきりと知って、出発したのです。次には「神様に所願がありますか?」と問うて、神様に所願があることを知りました。また「神様、私が必要ですか?」と申し上げ、私が必要なことを知りました。
 「それでは、どのくらい必要ですか?」と迫ったのです。このように私が一度求めるなら、神様が答えてくださるか、でなければ包みをくるんで行くしかないのです。(「復帰の道」から)

 それ以来、文師は非情に無口になり、誰ひとり知らないうちに原理を探求する道を歩まれたのです。人間を研究し、想像もできない霊界を探求されたのです。「イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされた」と「原理講論」の序文に記されています。

 日本への留学

 文師は故郷定州を離れ、ソウルの京城商工実務学校に入学します。1938年、文師18歳の時、黒石洞での下宿生活からの出発です。

 ◎1969年2月2日
 黒石洞の坂道は、先生がいつも通った道です。先生は学校に通うのに電車に乗らなかったのです。電車に乗ってもかなり遠いのですが、歩いて行ったのです。金がなくてそうしたのではありません。黒石洞の坂を越えるときに見ると、道端で功徳を願って往く人の手にすがる人がいるので、電車に乗らないでそのお金をあげたのです。一度などは彼らをつかまえて限りなく泣いたこともあります。父母がいるのかと聞いてみれば、ないと言い、兄弟がいるのかと聞いてみればいないと言う彼らに、先生が父母兄弟に代わって慰めてやれないことに・・・。
 皆さんの中で教会に行くとき、ある人は中央庁の方から、あるいは鐘路や東大門の方から南大門を経て歩いて来る人がいるでしょう。そんな時、先生が少年時代に5,6月の酷暑の中で汗をたらたら流して歩いたことを考えてごらんなさい。また電車やバス、あるいはタクシーに乗って楽に来ても、過ぎし日に先生が歩いた基準を考え、先生がこの国この民族の恨を解いてあげ、この国この民族に神が安らぐその日を、焦る思いで待っているのと、同じ心を抱いて行かねばなりません。 
 こんな心情を誰にも話さないのです。言わなくても分かる人には分かるのです。先生が学生時代に祈祷するとき、息もつまる祈祷をたくさんしました。しかし誰も、なぜそんな祈祷をするのか、その理由は分からないのです。二十歳前後の青年が息もつまる祈祷をするのを見た人々は「あの青年はなぜあのように祈祷するのか?」と異常に思うのですが、そこには他人が知らない内的な心情が宿っているのです。
 先生は神の愛を夢にも忘れることがありません。先べん万べんこの体が砕けて粉々になる恨があったとしても、忘れることはありません。過ぎた歴史過程において、神は先生がいかなる場に行ったとしても共におられ、先生のためにこのように苦労そしたということは、先生においては否定できない歴史的な事実なのです。ですから神様に対してああだこうだと言えないのです。(中略)

 涙を流して祈祷する青年に、事情は分からなくても、同情する人が多かったのです。下宿のおばさんは、祝日のような日には主人のために用意した膳を持ってきてくれるのでした。神様は女性たちが精誠を込めたその食べ物を、文青年に食べさせるために、彼女の心を動かしたのです。こんな役事が多かったのです。
 文師はやがて、日本留学に出発します。

 日本に行く時は、普通は釜山から船に乗って行くので、ソウルから釜山まで汽車で8時間かかります。私は汽車に乗った時から、オーバーをかぶって慟哭したのです。涙が止まらなくて、目と鼻と唇がはれるほど泣いたことを、今も忘れられません。
 この民族のために涙を流したことからいえば、先生はいかなる愛国者よりも多くの涙を流したのです。先生が日本に留学に行った1941年4月1日の午前2時、釜山の埠頭から韓国を眺め、祈祷したことを忘れることができません。「私は今たとえ離れても、おまえをさらに愛し、おまえの為にさらに多くの涙を流すだろう」と約束したのです。(「私のみ旨と信念」から)

 文師は早稲田高等工学校電気工学科に入学されます。なぜ電気を学ぼうとされたかは分かりませんが、技術者は必要ということで、戦線には送られませんでした。人文系の韓国留学生は最前線に送られて、ほとんどが戦死したのです。また文師が帰郷する時、船に乗ろうとすると、急に足が動かなくなって乗らなかったのでした。その船は敵の魚雷を受けて、沈没しました。また繰り上げ卒業の後は、満州電気に就職が決まっていたのですが、文師はそれを取り消されています。もし満州に行っていたら、シベリヤに抑留されていたことでしょう。このように、神はメシヤの命だけは守られるのです。
 文師の東京での学生生活は、修行僧のような生活でした。山中にこもって修行するのではなく、この世の中に身をおいての修行です。文師は無口な、むしろ目立たない学生だったそうです。日本の名所旧跡にも行ったことがなく、部屋にこもって聖書や哲学の勉強をされました。韓国語、英語、日本語の聖書には、びっしりと赤線が引かれていたのです。
 日本での良い思い出は、下宿のおばさんが親切にしてくれたことと、坂の上の家に重い練炭をリヤカーで運んだとき、そこの女主人がチップをくれたことだったそうです。それ以外に楽しい思い出がないほど、それは厳しい生活だったのです。

 ◎1965年10月8日
 休日のような時には、川崎にある会社などによく行きました。そこには硫酸タンクがあって、労働者がその硫酸タンクの中に入って浄化するのです。その装置は何年間か使ったら使えなくなって捨てるのです。その中では、15分以上仕事をすることができません。そんな所で闘って仕事をしたのです。
 お金がなくてそんな仕事をしたのではありません。先生の兄さんは、先生がどんな男かをよく知っていたのです。先生の使命についてはよく分からなくても、世界にかけがいのない男であることを、よく知っていたのです。天からの啓示を受ける熱烈な信者でした。ですからお金が必要だと電報を打てば、すぐに送ってくれたのです。先生はお金があれば、全部親友に与えました。
 なぜこんなことをしたのか。「誰よりも日本を愛する条件を立てる」こんなことを考えたのです。いろんな所に行きました。大きな杉の木を抱きしめて、涙を流して泣いたこともあります。
 韓国が日本の政権下にあったとき、先生は何度も留置所に連れてゆかれました。ひと月に一度は警察に呼ばれました。その警察署は高田馬場駅の、早稲田大学の右側にありました。
 先生が韓国に帰ろうとすれば、韓国に連絡がゆくのです。「某が韓国に帰った」と。学生ですが、要注意人物でした。しかし普通の人は先生をよく知りません。先生を見れば、着ているものはヨレヨレの古着で、テカテカに光っているのです。髪の毛はポマードもつけす、また歩くときは下から45度以上、上を見ません。そんなことをしました。(「先生の東京遊学時代」から)

 人間を救うためには人間を研究しなければなりません。山にこもったり修道院に入って人間研究ができるでしょうか。文師はあらゆることをやったのです。断食をするかと思えば、腹いっぱい食べたり、貧民窟に泊まったり、一流ホテルに宿泊してみたりもしました。酒は飲まないのですが、酒場の女の事情を聞いてあげたりもしたのです。あるいは路傍で、大声で演説されたこともあったそうです。日本留学中は原理解明において重要な期間であったのです。こうして神の召命を受けてからの9年間で、原理の解明は成ったのです。
 「先生が千辛万苦、ついに捜し求めた霊界のすべての秘密と内容は、宝華中の宝華であり、何ものにも代えられない尊いものなのです」(「私のみ旨と信念」から)

 1943年9月、戦中のこととて半年早く卒業となりました。文師は帰郷して鹿島組に電気技師として就職しますが、翌年の10月、日本留学中の抗日運動が発覚したとして逮捕され、悪名高き日本憲兵による拷問を受けます。関連した者を暴露せよと責めたのです。文師は生涯に何度か拷問を受けますが、この時の拷問が最も過酷でした。気絶すれば水をかけ、息を吹き返せばまた責めるのです。しかし先生は耐えられ、ついに彼らも諦めたのです。1954年2月に文師は解放されます。
 こうして8月15日を迎え、日本の敗戦とともに韓国は日帝40年の圧政から解放されるのです。この日を韓国では、光復節と呼んでいます。

 先生は日本から多くの拷問を受けました。しかし戦争が終わって、拷問をしたその特高刑事に復讐しようとする友達たちを集め、「哀れなのは負けた日本だ。すでに主権を失って、膝を屈している哀れな人間を打つ者は、神が罰せられる」と話したのです。また韓国から追われている日本人をひそかに呼んで「拷問される前に早く帰りなさい」と言って、荷物をまとめることもしてやったのです。(「私のみ旨と信念」から)

 み旨の出発

 イエス様は十字架の道を行くことによって、実体で地上に天国を建設する神のみ旨は果たすことができませんでした。しかし霊的に復活することによってキリスト教が出発して、今日まで霊界で導いて来られたのです。キリスト教の再臨の時はいつか。
 「ただ天の父のみが知っておられる」とイエス様は明確に語りませんでした。その時がまさに第二次世界大戦が終結した直後の、1945年であったのです。
 メシヤを迎えるには時があります。それは世界が一つになった時です。その時の主権者がカインの立場に立ち、アベルの立場のメシヤを迎えて一体になった時、人類は神の元に復帰することができるのです。
 イエスの時代、世界はローマの傘の下で一つになっていたのです。神は選民イスラエルに、愛する独り子イエスを送られました。しかしイスラエル民族がイエスをメシヤとして信じるためには、その代表となる者が証して、従わなければなりません。それが洗礼ヨハネであったことはすでに見てきました。
 世界大戦が終わった時、世界はアメリカを中心に一つになっていたのです。アメリカは連合国の中心であり、ソ連はまだ力が弱く、中共も北朝鮮も建国以前です。そのアメリカはキリスト教国です。韓国はユダヤのような立場です。韓国キリスト教はユダヤ教と同じです。その韓国のキリスト教の洗礼ヨハネ的な人物が、再臨のキリストを受け入れたら、神のみ旨は韓国からアメリカ、そして世界への道が開かれたのです。であれば七年間でメシヤは立ったのです。これが再臨主の、秘められた第一次路程であったのです。
 モーセは第一次路程が失敗してミデアンの荒野出て行き、イエスは40日の断食とサタンの試練を受け、そして十字架の道を行ったのでした。

 ◎1969年6月8日
 今、先生がお話します。先生が復帰摂理歴史を成すためには、どうしなければならないか。李龍道牧師を中心とした三代の継代の中の一人が誰かというと、金百文でした。金百文は男性を中心としてエデン復帰の使命を負った二番目の人でした。この人が信仰生活において、最高の場にまで至っていたのです。その集団に神のみ旨があることを知って、先生は訪ねて行きました。この時が解放直後の、1945年10月でした。この集団は洗礼ヨハネの集団でした。そこに訪ねて何をしなければならないか? 
 蕩減復帰歴史を経るのです。洗礼ヨハネがヨルダン川でイエス様を祝福したように必ず祝福しなければなりません。このような蕩減歴史を経るのです。
 それで先生がこの集団に行って6か月以上の間、何をしたでしょうか? 僕暮らしをしたのです。み旨はすべて知っているのですが、これを相続するために誰もできないような精誠をつくしたのです。この時に先生が流した涙は、皆さんは考えることもできません。皆さんが想像もできない懇切な心情で祈祷したのです。この時、先生が祈祷した床には涙が染み込んでいるのです。そこでは世の中のように工作してこっそり人を引き抜くことはできません。真は真ですから、真の価値が分かるときまで待って、神の復帰の内容を備えた人的資源を、この集団から発掘しなければならないのです。ですからその集団の中で、言葉にもならない僕暮らしをしたのです。
 しかしながら先生は、彼が教える真理の内容を批判することもありました。このようなことを啓示を受けて、口さえ開けば彼らを完全に屈伏させることができたのですが、何も話さずに奉仕の生活を続けたのです。このようにしていると、神が共におられました。
 その人々も霊的に冴えている人たちですから、天が彼らに命令を下すのです。三月の復活祭を迎えて、彼の食口たちを中心に天の役事が起ったのです。それで自分に従うすべての食口たちの前で、先生を祝福したのです。洗礼ヨハネが相続の継代を受けたような役事が起ったのです。白い衣服を着て、その祝福を行ったのです。どんな祝福をしたかというと、ソロモン王の祝福をしたのです。
 先生にこのような祝福を与えたので、その集団で神霊なる恩恵の役事をする婦人たちや食口たちのすべてが、金先生に従わないで文先生に従え、という啓示を受けたのです。これは異常でしょう? 今まで精誠をつくして侍った金先生に従わないで、文先生に従えというのです。その時先生は、先生自身を表にだしたり弁明したりしないで、じっと待っていたのです。その時神は、前後をすべて備えておかれたのです。準備する基準がすべて出来ていたのです。しかし七か月が過ぎた時、その集団ではみ旨が果たせないことを知りました。また、既成教会の反対を受けるようになたのです。(「哀れな復帰の役軍たち」から)

 イスラエル修道院を指導していた金百文という人物は、洗礼ヨハネとしての重要な使命を持った方でした。そして文という青年が「ソロモン王のような人」という神の啓示を受けたのでした。彼は一度は信徒たちの前で証したのですが、信徒たちが文師に従えという啓示を受けて動揺すると、彼は神の啓示を握りつぶしたのでした。
 洗礼ヨハネがイエス様の弟子なることができなかったように、ふらりとやって来た自分よりも年下の青年に師として仕えるということは、人間的にはとても困難なことです。神が準備した男性を中心とした摂理が失敗に終わったことを、文師は悟られたのです。

 ◎1965年12月26日
 神の復帰摂理から見れば、この時の民族には外的な希望が芽生えているようですが、内的には絶望が芽生え始めていたのです。先生はこの時から最低の瀬戸際の道を経て、試練と苦痛を経て行ったのです。私は第一次の路程で勝利の基盤を築くことができず、第二次の路程を行かなければならなかったので、苦難の道へと行ったのでした。第二次路程とは、イエス・キリストがこの地上に来られ、十字架の道へと行かれたことを蕩減する路程をいうのです。ですから監獄でも、求めて入らなければならなかったのです。(「人類歴史は復帰摂理歴史」から)

 平壌に変わったおばあさんがいるという便りがありました。「私はエホバの夫人だ」というい女性がいるという消息です。常識的には狂っているような婦人ですが、文師はこの噂を聞いて非常に喜んだのです。

 ◎1969年6月8日
 先生はその噂を聞いて、祈祷したのです。「天よ! 復帰の使命を中心とする天倫の法度の基をこの三千里半島に備えて下さったので、そんな婦人を通して神が築いてこられたことを解決する問題が残っていますから、私が平壌に行きます」と祈祷したのです。それで1946年6月2日、先生は自分の行くべき道を決め、当時特別集会を開いていた金百文氏の修道院を去る決心をしたのです。しかし人間には道理があります。人が出会って離れる時は、行くという挨拶をして行かなければなりません。
 その時は解放直後ですから米を買うのも大変で、先生はこの時トラックに積んだ米を買に行ったことがありました。それでリュックを背負ってトラックから米を持ってくるつもりで出発したのですが、行く途中でいきなり「北韓に行け」という天からの命令が下ったのです。それで以北に向かったのです。米も何もかも放って。
 この時、聖進の母親と聖進を残して行ったのです。皆さんはこれを分かってください。
 結局、既成教会が受け入れないで、このようになったのです。これは不可避なことでした。再蕩減歴史をするのです。自身の息子・娘を抱いては、復帰歴史ができないのです。ですから完全に知らない第三者の立場になって、復帰歴史をやってきたのです。以北に行く時、監獄に入ることを覚悟して行きました。それでイエス様が失った十二弟子を、監獄で捜し求めるのです。すべてのことを神様が導いてくださったのです。
 38度線を越える時も、虹が前を導いたのです。120里の道を、直接導いたのです。こんな驚くべき引導を受けて平壌に行き、そのおばあさんに会って蕩減復帰の歴史を歩むのです。(中略)

 そのおばあさんの家で文師は僕の僕の立場で、女性でもやらないような洗濯でも何でも命令される通りにやったのです。するとそのおばあさんに神の啓示が下るのです。「彼は養子のなかで一番だ」こうして啓示がどんどん上がって、イエス様の弟だ、となるのです。
 ついにはイエス様より文師のほうが素晴らしいというのです。さらには、文師はアダムの立場で、自分はエバの立場だから、文師に従わなければならない、となったのです。主管性転倒の復帰の役事が起ったのです。ですからそのおばあさんの精神は、とても混乱してしまったのです。

 蕩減復帰歴史は僕の基準から上がってくるので、先生自身を中心にして、必ず僕の扱いを受けなければならなかったのです。ですから僕のような扱いを受けたその立場で、精誠をつくせば復帰が成るのです。この期間は先生が「原理は必ずこうだ」ということを展開する時まで、実験をした期間です。事実がそうかそうでないかということを、実験する期間だったのです。このようにすれば、天は必ずそんな祝福をしなければなりません。
 僕の僕の立場から、祝福復帰をしてきたのです。これを過ぎると僕の中で最高の僕になるのです。こうしてさらに精誠をつくせば、養子の立場で養子の祝福を受けるのです。男性からの祝福の相続を受ければ、女性からも祝福の相続を受けなければなりません。でなければ復帰ができないのです。ですから金百文の集団を中心に、男性の前に祝福を受けましたから、女性からも祝福復帰をしなければなりません。(「哀れな復帰の役軍たち」から)

 洗礼ヨハネの不信により、ユダヤ教はイエスをメシヤとして受け入れることができず、キリスト教はユダヤ教から離れて異邦の地から出発しました。再臨主の路程においても、それと同様の事が起るのです。既成キリスト教が反対することによって異邦の地、共産主義の国の北韓から、そのどん底の牢獄からみ旨は出発するのです。

 ◎1960年1月6日
 このようにして今、内外の祝福基準を得たので、どこに行っても闘うことができるのです。この基準が成るまで、内外の霊的な試練は言うことができません。どのような試練まであるかというと、40日の試練期間があったのです。この時は霊界のすべての霊人たちが全部、このおばあさんの側になって押し寄せたのです。イエス様までが先生のところにきて「このおばあさんはエホバの夫人であり、神が愛する娘だから、どうか侍らなければなりません」と言うのです。しかしながら先生は天理の原則をもって、彼らと闘ったのです。先生は独り40日間、今まで来ては行った数多くの道人たち、イエスと神まで全部が動員された全霊界と闘ったのです。戦場の天地にすることができないので、天は40日の期間が満ちれば初めて判決を下さなければなりません。
 天理の原則、これがなければ天地が滅ぶのです。先生が求めて行く道は、間違いありません。先生は最後の決戦において勝利したという判決を受けたのです。イエス以下、数多くの霊人たちが逆賊として追い、反対した文という人間の主張が、復帰の恨を解く原理であり、天倫の秘訣中の秘訣であるという判決を受けて、勝利の基準を立てたのです。
 先生はこんな判決を受けるためにイエスとも闘い、神とも闘ったのです。このようにして統一教会が生まれたのです。(中略)
 復帰摂理を見るとき、既成教会が解放直後にみ旨を受け入れて、この若者の後に従ったなら、韓国はこのように惨めにならなかったのです。であれば38度線が立ち塞がることもなかったのです。38度線がなければ国際情勢はこのようにはならなかったのです。そしてソ連もきっとなかったのです。(「再臨期における洗礼ヨハネ的使命の生活と我々の覚悟」から)

 再臨主のゴルゴダの道

◎1967年6月4日
 先生は監獄に入って髪の毛を剃られる時、神の前に祈祷したのです。私が願って頭を剃られるのではなく、怨讐の手に引かれて強制されて剃られるのですと。その時、先生はどんなに輝いていたか知れません。剃り落とされる髪の毛を見ながら、自分が願った幸福を捨て、その上、怨讐の前に頭を剃られることは悲しいことです。復帰の事由を連ねてゆく路程において、そのすべての逆境が恨み多いことです。しかし、過ぎる時は恨みがましくとも、過ぎてみればこれをすべて神が私を記憶してくださるので、それにうち克つことができたのです。幾日も拷問を受け、鞭打たれて倒れるその場であっても同じことです。私が鞭打たれるのは自分のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、自分が流す涙は、この民族の痛みを代身する蕩減の涙であったのです。(「蕩減が行く道」から)

 平壌は東洋のエルサレムと言われたほど、キリスト教の盛んな所でした。そこで文師は伝道を開始されました。汗と涙を流して大声で神のみ旨を語り、聞く人に感銘を与えて、たちまり数十人の食口が集まりました。しかし信徒を奪われた既成教会や、食口の家族、また異様な泣き声と祈りの声を聞かされる近所の人の反対が起こりました。
 その北韓に「腹中教」という変わったキリスト教の集団がありました。その人たちは天からの啓示の通りに、精誠の限りをつくして来るべき主の衣服をすべて準備したのです。全財産を捧げてイエス様の恨を解くべく、日に三度着替える衣服を準備して、イエスの再臨を待ち焦がれていたのです。
 「これから来る主様は西洋人として来るのではなく、韓国人として来る。背はこうで体格はこうだ」と全部教えられていたのです。それからまた、主様に出会う時は「春香伝」の物語のように、監獄で出会うということも教えらていました。
 その頃、北韓はすでに共産主権が支配していました。彼らは事あれば宗教を抹殺しようと機会を待っていたのです。共産当局は「腹中教」の幹部と許氏を、詐欺の容疑で逮捕したのです。そして文師も、南からのスパイ容疑で拘束されました。平壌に着いてわずか二か月のことでした。こうして大同保安所に、一同が集められたのです。
 共産当局の拷問はあまりに苛烈なものでした。文師は仮死状態になり、刑務所の外に放り出されました。そこを弟子たちに発見されて連れ戻されますが、回復の望みもないと思えるほどでした。しかし文師は奇跡的に一命をとり留めました。だが「腹中教」の許氏は獄死して、ここに神が準備したメシヤを迎える基台は、男性・女性ともに、完全に失われたのです。再臨主の第一次路程の喪失です。残るはゴルゴダの道、イエスが十字架に逝って黄泉に下ったそのどん底から、復帰して来なければならないのです。
 文師は伝道を再開されますが、1948年2月に再び拘束されて4月7日、5年の刑を宣告されます。興南刑務所は生きた地獄です。ひと口のごはんを口に入れたまま、囚人が力つきて息絶えれば他の囚人がその口をこじ開けて、口中の雑穀を奪い合って食うという地獄絵図が展開されるのです。興南での5年の刑は、死刑の宣告と同じことでした。

 ◎1969年2月2日
 しかしながら先生は、死なないことを知っていました。また平壌の刑務所に入りる時も、これこれの人に会うということまで知っていました。先生にある物が必要な時には、霊界から無知蒙昧な強盗、窃盗、殺人犯などの多くの囚人たちに「どの監房の番号が何番の人に、あるものをあげなさい」というお告げがあり、冬になって寒くなって先生に着る物がなければ、彼らをして着る物をあげさせ、また私が食べ物がなくて飢えている時には、だしぬけに人を通して先生の名前と番号を教えて、食べ物をあげさせるのです。こんなことが、一度や二度ではありません。
 平壌監獄に入れば誰々に会う、ということが分かっていましたので、希望を持って4月20日まで過したのです。この時、監房の窓にふれる柳の葉を眺めながら、思いに沈んだことが数日前のようです。今も記憶に生々しいのです。ここで天のみ旨に従うと約束した人々に出会ったのです。
 彼らと出会うことによってこの怨讐の地、最も深い谷底から、天の密会が始まったのです。ここに天の兵士の募集が始まったのです。
 ここから統一教会が出発して、以南に下って行ったのです。以北において国連軍がまず上陸した所が興南でした。これは神が急いで救わなければならない息子が、そこにいたからです。先生は知っていました。共産党たちはその先々日、一つの監房にいる人たちにごはんを食べさせると言って、全部連れて行ったのです。その人たちは殺されることも知らないで、めしを食わせるというので皆な行ったのです。先生はすでにそれを知っていました。「あなたたちは最後の道を行くのだ! だが私は死なないぞ」そう考えたのです。「あなたたちは皆な死んでも、私は死なない。どんな惨殺の悲運の場であっても、銃口に倒れる場であっても、私は決して死なないで生き残るのだ!」私はそれを知っていたのです。
 その年の10月12日に、刑期が7年以上になる囚人70人程度を、30里ほど離れた山中に連れて行って全部殺したのです。その当時、先生の刑期は5年ですから、その次、次の日には私が連れて行かれる番でした。ですから、神は急いだのです。13日の夜の街路を見ると、すでにサタンは駆けているのです。国連軍が興南に上陸したのです。それで共産軍は逃げるのに急いだのです。このようにしてついに10月14日、共産軍は去り、我々は興南から脱出して、以南へと下ったのでした。(「私のみ旨と信念」から)

 国連軍が仁川に上陸して、まず爆撃したのが興南です。仁川上陸作戦は神のメシヤ救出作戦でもあったのです。あるいは朝鮮動乱そのものが、神のメシヤ救出作戦かも知れません。爆弾は雨のように降ったのですが、文師の周囲半径12メートル以内には落ちませんでした。
 文師は若い弟子の金元弼氏と、足を骨折した朴正華氏を自転車の乗せ、あるいは背負って南下します。それは想像を絶する難行でしたが、「この人間を放ってどうして人類復帰ができるだろうか」という決意で歩まれたのです。
 1951年1月27日、文師は釜山に到着します。釜山は避難民であふれ、芋を洗うような混雑でした。

 統一教会の出発

 釜山を転々とした末に、文師と金青年は山の中腹に小屋を建てます。二畳ほどの小屋でしたが、王宮のように思えたそうです。文師はそこで「原理原本」を書き始められます。そしてさらに登って、畳二枚ほどの大きな岩の上で涙の祈祷をされました。その岩は「涙岩」と呼ばれて、聖地として世界中から信徒が訪れています。
 52年5月10日、「原理原本」の執筆を終えたその日、若い女性伝道師が小屋を訪れます。彼女は変わった青年がいると聞いてきたのですが、文師は彼女一人を前に、大声でみ言を語りました。後で考えると、それは「再臨論」であったそうです。
 乞食のような身なりの人間が、馬小屋よりもひどい所で、途方もないことを語っているのですから、信じられないのも当然です。しかし疑念がわくと足が動かなくなるのです。こうして既成教会の伝道師が、文師の弟子になったのです。多くの人々が霊界から導かれてきたのした。
 1954年5月1日、ソウルに「世界基督教統一神霊協会」が創立されました。
 55年には「梨花女子大事件」が起きます。キリスト教系の梨花女子大の生徒が、続々と統一教会に入教するので、学校当局は教授を送って真相を確かめようとしたのですが、その教授までもが入教してしまうという事態が起こったのです。学校側は政府を動かして統一教会潰そうとしました。マスコミは当初は統一教会に好意的でしたが、一転して徹底的に統一教会に反対する側に回ったのです。あらゆるダーテイなイメージを貼り付けたのです。
 7月4日、文師は異端的信仰を理由に,西大門刑務所に拘束されます。

 ◎1967年5月21日日
 こんな状況で、私は考えたのです。このような教派の前に歓迎される自分になるか? 
 この国と民族の前に、歓迎される統一教会を創るのか。統一教会が歴史の前に立つためには、教派の前に反対され、民族の前に反対されなければなりません。試練の途上でもまれなければなりません。彼らの前に歓迎されたら新しいものを創建することができず、第二の新しい世界へと出発することができないのです。私は統一教会が追われに追われ、迫害される事実を悪いとは考えないのです。
 イエス様はその時は追われに追われたのですが、そのなかで時代を克服することができる内的な基盤を造っておいたので、この基盤を通して新しい世界を創建してゆくことができたのです。同じように、統一教会が今は迫害され、難しい環境の中にあるのですが、これに屈することなく、打たれても絢爛たる全盛期を成さなければなりません。神の心情をにぎり、神の内的な愛を中心に、世界史的なすべての苦衷を克服できなければなりません。
 押し寄せる風波と、迫りくる試練と嘆息と絶望を克服するとき、我々は成功を約束し、勝利を誓い、いかなる艱難も防ぐことができると私は確信するのです。
 こんな立場から見るとき、追われに追われる場であっても希望を抱き、手錠を掛けられる獄中の身になっても希望を抱いて、明日を望み見て勝利の姿が羨ましくない場で、神の前に訴えなければならないのです。(「全盛時代」から)
 
 マスコミは連日、統一教会の悪い噂を報道しました。小さな小学生までが「統一教会の文先生は悪い人間か?」と問えば、「その人は悪い人だと、うちのお母さんがそう言った」と答えるのでした。しかし文師は決して弁明しないのです。善なる者が打たれて、それが良いという日には、災いがかえって福となるのです。打たれて奪ってくるのが神側の作戦です。

 ◎1968年11月17日
 監獄の中で先生の噂が広まっても、一言も発しませんでした。すべての人が先生に好意を持ったのです。それで先生を訪ねて来た人も多かったのです。先生を冷遇する人々が会いに来れば、先生はすでに彼らの心を看破して「これからはそんな心で私の前に来るな」と叱りつけたのです。こうして刑務所を出るころには、彼らが先生に「何なりとして欲しいものはありませんか?」という程になったのです。それで先生は「私は食べたい物もありませんから、あなたたちで食べてください」と言ったのです。
 またここに牧師だという一人の紳士が、先生は異端であり怨讐の立場であると、初めは凄い剣幕で「あなたの主張する教理がだいたい何か?」と食ってかかったのです。なのに終いには時間を決めて訪ねてきて、相当に親しくなったこともありました。
 それくらいに噂が広がったので刑務所の所長まで会おうとしたのです。同じく入った弟子たちも、必死に先生に従って侍るので、人々は「世の中ではあのように悪口を言って反対しているが、果たして統一教会の先生は出来た人間であることよ」となったのです。(「復帰の主流」から)

 警察は手つくして統一教会を調べたのですが、何も発見できませんでした。こうして10月4日、無罪の判決が下ったのです。しかし無罪の報道は、新聞の片隅に小さく載っただけでした。

 真の父母が立つ日

 1957年9月22日
 皆さんはイエス様が歩んだ路程を、歩んで行かなければなりません。イエス様は父母から、兄弟から、あるいは教会と国家、世界から追われました。しかしイエス様は牧者の立場で天倫の変わらざる法度と理念を抱いてゆかれたの、この理念は生き残ったのです。そしてイエス様を中心とする勝利の環境が造られていったのです。
 このようにイエス様を迫害した人類であったので、蕩減復帰原則によってイエス様を求める人間は、父母が反対する環境、夫婦が反対する環境、国家が反対する環境を経て行かなければならないのです。(「本郷の因縁を捜して行こう」から)

 文師は弟子たちを精兵として訓練します。そしてイエス様が弟子たちに何も持たせないで伝道に送ったように、夏季40日間の伝道に出発させるのです。凄まじい迫害の中で、お金も持たずに伝道に出発する弟子たちも必死ですが、送り出す師も必死の思いであったのです。

 ◎1960年9月4日
 我々は正義の戦いに行く責任があるのです。こんな言葉を与えて皆さんを激励する、皆さんの前に立つこの人間も、胸が痛むのです。今回の巡回路程で、幼い者たちが血の涙を流して村から村へ追われ、みじめな事情にさらされ、しゃくり上げる涙が落ちるのを見る先生の心は痛むのです。心から慟哭したのです。
 「神様! この道がもし間違いであり、誤った道であり、自らの思いの何かから出たとしたら、その場で天罰を受けるでしょう」と祈ったのです。天罰を受けるのです。
 行かずとしても行かざるを得ず、死んでも行かねばならない使命があることを知り、この民族のみじめさと、この民族に神の苦労のみ手が秘められていることを知る限り、行かねばならないみ旨があるのです。どこの誰もが、比較する資格と知恵があれば、こんな道を行くことは願わないのです。しかし行かねばならない事情と、曲折が残っていることを見やるとき、涙をのんで倒れるたびに天が励まし、追われ打たれるそんな時、天の愛を抱き、今でなければ行く時がないという、責任と信念をもって誓いゆくのです。(「神と共なる愛着心を持て」から)

 この期間に弟子たちは多くの霊的な体験をし、神の実在を実感したのです。こうして迫害を越えて、統一教会は発展しました。
 58年には日本宣教が開始され、さらに翌年、アメリカ宣教が開始されます。

 ◎1961年1月1日
 神様が終わりの日に約束された一日は,父母の日です。真の父母に侍ることができる日です。言い換えれば,堕落によって父母を失ったこの地上に人類が、神の祝福を成すことができる本然の父母を,再び迎える日なのです。(「私がちはお父様の代身者となろう」から)

 イエス様は第二のアダムとして、エバを復帰すべきでしたが、十字架につかれて実体の真の父母になることができませんでした。聖霊とは霊的な母のことです。イエスと聖霊は、霊的な真の父母であったのです。
 文師の路程は、真の母を復帰する路程でもありました。文師が韓鶴子夫人に出会われたのは、夫人がまだ中学生の時です。文師はその瞬間、目と閉じて瞑想され、独り言のようにこう言われたそうです。
 「おお神よ、あなたは韓鶴子というこんな素晴らしい女性をこの韓国に送ってくださいました。感謝したします」(韓鶴子女史のみ言葉集「愛の世界」から)
 1960年3月27日「父母の日」が宣布され、4月11日、文鮮明師と韓鶴子女史のご聖婚式が挙行されました。人類の真の父母が、地上に立った記念すべき日です。鶴子夫人はまだ17歳でした。それからの七年間、真の母になるための厳しい蕩減期間が残されていたのです。
 4月16日、三弟子の合同結婚式が行われました。世間の反対は凄まじく、戸締りをしてひっそりと行われたのです。しかし真の父母が立つことによって神が許された「祝福」が、初めて成された歴史的な日であったのです。アダムとエバが失敗し、イエス様も実体の父母になることができず、宗教の道を求める人が独身を通して待ち焦がれた、真の父母による「祝福」の式典であったのです。

                  (第五章へ)

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