第七章 21世紀のユートピア


 聖人とメシヤ

 聖人とメシヤはどのように違うのでしょうか? 
 この世界が善なる理想的な世界だとは、どの国家、どの民族も思わないのです。この悪の世を俗世と言います。俗世において富と権力を握り、立身出世するには悪の世界で泥にまみれる覚悟がいるのです。政治家や実業家で、聖人を呼ばれる人はいないのです。
 聖者、聖人とは、俗世を捨てて山中や修道院に入って求道の道を歩む孤高の人のイメージがあります。釈迦も王国の王子の立場を捨て、妻子を捨て、苦行を重ねて真理を求めて悟りを開いたのです。やがて師を慕う人々が集まって一つの集団を形成していったのが仏教の始まりです。
 聖者の人格を慕い、その教えの下に集まってある地域的な楽園を造ろうというのが、ユートピア運動です。しかしそれが民族的な、国家的な運動にはなりませんでした。さらには世界的、人類的な革新運動にはなり得なかったのです。マルクス主義という思想によってそれを目指したのが、共産主義革命でした。しかしユートピアとはならなかったのです。
 聖人の道とは、神と自分との縦的な関係における求道の道です。人間は神の僕である天使長に誘惑されて、その主管下に入ったのですから、僕の僕になったのです。求道の道はここからが出発です。
 僕の僕ー僕ー養子ー庶子ー実子ー母ー父ー神。この縦的な8段階を歩むのが、聖人の道です。聖人は誰からも尊敬され、崇拝されます。あまり批判する人も、攻撃する人もいません。聖女マザーテレサと彼女を慕う人々は、神の愛によって多くの貧しい人々、病んだ人々を助けました。貧しい人々を助け、病気を癒すことは立派なことですが、それで世界が変わるというものではありません。奇跡では人間は変わらないのです。最大の奇跡は、人間の心を変えることです。
 メシヤとは、神様のことを誰よりもよく知っている人のことです。常に神と対話して、神の願いを成就することができる人です。人間は堕落して神との因縁が切れたのですから、イエス様が「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われたように、メシヤとは神と人間の仲保となるお方です。また天界と地上界が分離してしまったのですから、無形の神を代身するお方がメシヤです。
 現代において、メシヤを自称する人が少なくないようです。霊通する人がすべて、神様と通じているわけではありません。その人の霊的な高さに相応する霊界に通じるのであって、ときには悪霊と通じる教祖も出現するのです。いや、新興宗教のほとんどが悪霊現象といっても過言ではありません。本当に神に通じ、神を代身するメシヤはイエス様であり、そして再臨の主ただお一人です。ですから軽々しく信じるべきではありません。「信じるのではなく、知らなければならない」と文師は言われます。研究せよ、と言われるのです。
 私たちはこれまで文師のみ言と、その路程の一端を見てきました。そのみ言は300巻以上の書物となり、毎日8時間読んでも2年はかかるのです。そしてさらに文師は行動の人であり、神のみ旨を実現されるお方です。文師のイメージは聖人のそれとは違うようです。反対派は偽メシヤのように言い、きわめてダーテイなレッテルを貼り付けています。文師ほど悪口を言われ、狂った人のように言われる宗教家もいないのです。文師はこう言われます。
 「事実、先生は狂ったといえば狂っているのです。ところで、何に狂っているかが問題です。神の国を創るのに狂っているのです」(「み旨の行く道」から)
 聖人の道が神と人間との縦的な道であるなら、メシヤの道はそれを横的に展開して、世界人類にまで拡大する道です。メシヤの道は縦的な8段階と共に、個人ー家庭ー氏族ー民族ー国家ー世界ー天宙ー神、この横的な8段階を歩むのです。1989年8月31日「八定式」が制定されました。これはメシヤの縦横の8段階を勝利した、という宣布であったのです。
 「あなたはメシヤですか?」というある人の問いに、文師は「あなたもメシヤにならなければならないのです」と答えられました。私たちも個人の救いから、家庭ー氏族へと横的に展開する氏族のメシヤの道を歩まなければならないのです。
 家庭を変えようとすれば摩擦が生じ、民族、国家を動かそうとすれば当然、動かされまいとする旧勢力の抵抗が起ります。家の者が怨讐になり、国家が反対し、世界的な迫害が起るのです。

 ◎1966年1月2日
 私が今までこのようにやってきて、どれほど多くを知ってみたでしょうか。統一教会の文先生を捕らえて殺そうと、世界がどれほど迫害したか知れません。誰が悪口を言われたくてこの事をするでしょうか。知ってみて、また知ってみて、間違いのない原則によってやっていることなのです。これを知っているがゆえに、この道を歩んでいるのです。
 それで、主は雲に乗って来るのですか。水蒸気に乗って来るという話ですか? そのように考えることが、まさに異端です。社会を惑わし、実際の地上に新しい世界ができることを拒否しているのです。荒唐無稽な、雲をつかむような話を教えているのです。
 「信ずれば天国に行く」という話で欲張りにして、「信じなければ地獄に行く」という話で脅迫、恐喝してキリスト教が今まで発展してきたのです。これは半恐喝です。これではいけないのです。
 来られる主は、サジとハシを持って来るのです。つまり人間として来るということです。こんな話をして、また統一教会が異端でしょうか? 
 このようなことを見るとき、選民として立てられるためには、全世界が反対したとしても天に向かって行く場に立つということを知るのです。そんな意味において、世界史的な終末期に選民圏を完全に立てるある理念を持って出る宗教団体があるとしたら、その宗教団体は、この世界が両手を挙げて反対する場に立たなければならない、という結論がでるのです。このような事実を知っているので、ここで語る人間も今まで40余年の間、反対され、監獄に囚われ、追われる立場に立ったのです。
 世の中の人々が統一教会の名前を聞いただけで、頭がガンガンする時が早く来いというのです。(「審判の目的」から)

 文師は既成教会からは迫害され、共産主義から攻撃され、世の常識的な人々からも嫌われているのです。しかしどんなに迫害されても、神は文師の生命だけは守っておられることを見てきました。文師は常に神の命令の通りに行動されるお方です。そして人間的に見てどんなに難しい事であっても、神が導いておられることが分かるのです。文師を守り導き、役事する神は、今も生きて働いておられる神様なのです。
 神は人類歴史を通して、生きて働いておられるのです。そして時代は動き、ある終結点に向かっているのです。イエス様が降臨された時、イスラエル民族は時代の動きが分からなかったのです。旧約の律法に縛られて、新しい福音の訪れを聞く耳を持たなかったのです。同様にイエス以後の二千年において、神は働かれ、歴史は動いているのです。キリスト教が二千年前の聖書に残された、イエスのみ言だけに止まっているなら、イスラエル民族の過ちを、再び犯すことになるかも知れないのです。
 イエス以後の今日まで、歴史の背後で神がどのように働いてこられたか、文師自身の講義を聞いてみましょう。

 神の摂理歴史

 ◎1958年2月16日
 我々がイエス以後の二千年の歴史を回顧してみれば、数多くのキリスト教徒たちが神を再び捜し求める運動をしてきたことを知っています。それで激しく迫害してきたローマがキリスト教を公認するに至り、ついにはローマ法王庁を立てて、法王権を中心とした政治をするようになり、さらには封建社会を形成していったのです。
 ところが中世に入り、再び法王庁が腐敗して人本主義の思想がキリスト教に入ることによって、中世以後のキリスト教徒においては、神を捨てることが起きるようになったのです。すなわち、多くの人々が人本主義の思想によって流されてしまったのです。こうして啓蒙思潮を経て結局、唯物史観が現われたのです。
 これは人間の理性を重視する合理主義と、経験主義の哲学思想を根拠としているのです。それで世界は今、唯物史観と資本主義の思潮によって、物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に転落してしまったのです。
 それでは中世の封建社会を、誰が崩壊させたのか? 天が崩壊させたのです。神はローマ法王を中心にみ旨を成そうとされたのですが、その法王庁が腐敗してしまったので、これを壊されたのです。天を信じる人々が天倫のみ旨に背反したので、人本主義の思想を立てて、彼らを打ったのです。
 そんな中で神は摂理の基点を失わないために、天を案じる一人の人間、ルターを中心にして宗教改革を起こしました。このように神は片方は壊し、片方は立てる摂理をされたのです。そしてキリスト教を通した第二のイスラエル型を経て、文芸復興を経て、一大混乱をたどった後に、人本主義的な理性の哲学を中心とする、啓蒙思想に敵対してゆく摂理をされてきたのです。 
 啓蒙主義者であるヴォルテールやルソー、モンテユスキーのような人々はキリスト教が破滅すると知っていたのです。ところがドイツで清廉な人物たちが現われ、神秘性をうたって神の実体的な内的経験を主張したのです。これが英国を経て、ウエスレー兄弟の復興運動を起こしたのです。さらにクエイカー教派を起こし、神秘的な内的体験をするようになったのです。
 反面、人間は神を愛することを忘れ、人間を愛する理性も忘れ、物質を愛することだけを知る、唯物思潮的な主義にまで至ってしまったのです。堕落した人間であっても、必ず本然の立場に帰らなければならないので、いつの時にかこの物質を中心とする思潮を打つ時が来るのです。
 今日は神を中心とした中世も過ぎて、理性哲学を中心にして支配した時代も消え去り、18世紀に成立した唯物思潮を中心とする、唯物論的な理念も光を失っている状態です。これからの世界は人間が物質を愛しても満足を得ることができず、過去の歴史的な人間の教えに従っても、現実の問題を打開することができない、そんな悲惨な世界です。ですから物質的な生産力を通して、社会の繁栄を指向する共産主義の理念をもっては、到底世界を支配することはできません。
 21世紀を契機として、我々の前に原子力時代を迎えて物質文明の世界的な支配を破壊させる時代が来るのです。
 その次には、どんな時代が来るのか? 愛を求めて楽しむ時代が訪れるのです。互いの為に与える時代が、我々の前に訪れるのです。
 神の摂理は反対の経路を経て、逆に役事されてくるのです。六千年の歴史を今日我々が振り返って見れば、旧約時代は物質を求める時代、すなわち物質を祭物にして神の前にでて行く時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエス様を祭物に捧げた時代でした。
 そしてこれからの成約時代は、すべての人間が神の前に実体祭物になって、全万物を統合することができる基準を越えて、愛を支配する時代になるのです。(「全天宙は愛の一日を捜してさまよう」から)

 これまでの歴史は善と悪の闘争史です。カインがアベルを打ち殺して歴史は出発したのです。ですから悪は先に打ってくるのです。そして結局は先に打った方が負けるのです。第一次大戦も先に攻撃した方が負け、第二次大戦もそうでした。
 善と悪がぶつかれば、少し善なるものは、少し悪なるものよりも、やや後に滅びるのです。より悪なるものがまず滅び、やや悪なるものが後に滅びるのです。神はより善なるものの方に付くからです。とすれば、神はいないという唯物主義が先に滅びるという結論になるのです。しかし資本主義も神を失えばどうなるでしょうか?
 共産主義の本家、ソ連邦は崩壊し、東西ドイツ、南北ベトナムも統一されました。地球上で唯一分断された国家、韓半島に引かれた38度線には、人類歴史の上でどのような意味があるのでしょうか?

 韓半島の統一

 1945年、第二次世界大戦が終結した時点が、イエス以後の二千年にして訪れたメシヤ再臨の時であったことはすでに述べました。その国が韓国でした。8月15日の終戦の日が、韓国では日帝40年の圧政が終わった光復節です。ところが戦勝国の側であるはずの韓国が、38度線によって分断され、米ソ冷戦の祭物にされたのはどうしたわけでしょうか。逆に敗戦国の日本が、朝鮮動乱のおかげで奇跡的に復興して繁栄し、経済大国になったのです。

 ◎1969年5月11日
 先生がこの道を出発する時、キリスト教が先生を受け入れていたら、世界は今日のようにはならなかったのです。先生が皆さんにこんな話をするのは、皆さんの感情を一時的に慰めるためではありません。ここに立つ先生は、そんな人間ではありません。世界をどのように料理するか、どのようにすれば世界を料理できるかを案じる先生なのです。そんな中で「世界はきっとこうなる」という確信をもってきたのです。
 皆さんは今まで数十年の間、先生の話を信じて従ってきました。その理由はどこにあるのでしょうか。先生が「共産党は8代を越えられない」と話したことがありました。間違いなくそのようになるのです。今まで先生が話したことで間違ったことがありません。このような明らかな結果を見てきましたので、皆さんは今まで先生に従ってきたのです。
 先生が話したことが世界の動きに一致して、世界的なすべての事件が我々の動きと一致しているということは、いい加減に成ったことではありません。今まで、この世界は知りませんでした。しかしながらこれからはこの世界が明確に知るのです。(中略)

 もしも韓国のキリスト教界が自分を受け入れていたら「世界は7年間で統一する道が開かれた」と文師は語ります。一般の人にはにわかには信じられない話でしょう。しかし文師の予言とその結果をよくよく見ると、神の摂理がそうだということが分かるのです。神の摂理に人間が100%信じて従うなら、確かにそのようになったはずです。

 既成教会が反対したことは、文先生一人に反対したことに止まるのではありません。そこには歴史的な問題まで引っかかるのです。民主世界を縮小したものが韓国であり、共産世界を縮小したものも韓国です。ですからこの韓国において、世界的な事件が起こるのです。キリスト教はカイン的なユダヤ教がつくったのですから、アベル的なキリスト教がなければならないのです。このアベル的なキリスト教は、必ず異邦の地、すなわち怨讐の世界に現われなければならないのです。
 ヤコブもハランの地に行き、イスラエル民族もエジプトに行ってきて、エジプトから再び復帰してきたのです。先生が以北に入ったのは、こんな移動と同じことだったのです。統一教会の文先生が以北に入った動きによって、統一教会は異邦の宗教になったのです。初めの基盤をサタンに奪われたからです。それで異邦を祝福して出てきたのです。(「家庭」から)

 恐ろしい事実ですが、文師が以北に入ってから金日成は独裁者の地位をかため、ソ連は勢力をのばし、毛沢東が政権を握って東西冷戦の構図ができあがったのです。一つになるはずであった世界が、完全に二つに分離したのです。カインとアベルとに分立される神の復帰摂理歴史が終末に至って、韓半島に38度線として引かれたのです。
 1950年6月25日、突如北朝鮮軍は38度線を突破して進撃してきました。朝鮮動乱の勃発です。南は釜山の一角に追い詰められたのですが、マッカーサー元帥は仁川上陸作戦を敢行して、北朝鮮軍を押し返したのでした。

 両虎三八大開之運 清兵三万再乱入

 400年前の予言書「格庵遺録」に、三八という数字がはっきりと示され、朝鮮動乱の様子が書き残されているのは、神の摂理においてよほど重要な意味があるからでしょう。
 韓半島の統一は韓民族の願いであると同時に、人類の願いでもあるのです。それは民主世界と共産世界を統一することであり、宗教的にいえば、カインとアベルが一体となることです。つまり人類統一の願いが、韓半島の統一に懸かっているのです。
 本然のアダムの国が立つためには、それを協助するエバの国、つまり母の国がなければなりません。人材を育て、経済的に支えることが母の使命です。本来のエバ国家はイギリスであったのですが、キリスト教が文師に反対することによって、怨讐の国であり、異教の国である日本が母の国として立てられたのです。それがゆえに神が祝福され、戦後の日本は経済的に奇跡的な復興をとげたことは、知る人ぞ知る事実なのです。
 神の国、地上天国を建設することがみ旨の目的ですが、その具体的は文師の目標が、韓半島の統一にあるのです。それは政治的な統一でも、軍事的な統一でもありません。神の愛を中心とする、真の愛の理念による統一でなければならないのです。今日までの文師の路程は、すべてがこの一点に向かってまっしぐらに進んでいるのです。神の摂理的な年数に、驚くほど合致した路程なのです。とすれば、その先に未来が見えてくるのではないでしょうか? 

 1992年、メシヤ宣言

 1945年から再臨主の路程が出発するのですが、キリスト教が受け入れないことによって、再臨主は再びイエスの十字架の道、40年の荒野路程にでるのです。では40年が経過した1985年とは、文師にとってどのような年であったのでしょうか。
 その前年の1月2日、文師は最愛の息子、興進ニムを事故で失っています。文師が韓国で勝共講演会の演壇に立った同じ時刻に、その事故は起きたのです。文師の身代わりにサタンは愛する息子を奪ったのです。事故は年末に起きたのですが、年を越えた新年の2日、霊界の代表という立場で行かれたのです。
 そして7月20日、文師はダンベリーに収監されます。
 1985年8月20日、文師は釈放されます。40年の荒野路程の終わりです。最愛の息子を奪われ、自身は監獄に入るという、人生これ以上の災難はありません。しかし文師はこれらの事をあらかじめ予期されていたかのように、平然と越えて行かれました。愛する息子の死の直後の説教も、普段と変わらないものでした。蕩減の期間が終わる最後の年がいかに厳しいものであるかを、文師は知っておられたのです。
 人間が幼年期、少年期、青年期の各7年の3段階で、21歳で成人となるように、摂理にも蘇生・長成・完成、各7年間の21年路程があるのです。
 40年の荒野路程が終結した1985年から7年目の92年が、21年路程の蘇生期が完成する時です。1945年から7年間で世界的になったと言われる、1952年と同じ年にあたるわけです。文師の業績が誰の目にも見えるようになったのは、85年以降のことです。それまでは投入しても投入しても、海に石を投げ込むように、見えなかったのです。
 韓半島の以北、北朝鮮人民共和国の背後には共産主義の本家、ソ連がついています。韓国の背後には民主主義のアメリカがついています。この韓半島を統一するには、ソ連とアメリカを動かさなければなりません。それを助けるのが、日本の使命です。それで統一教会は日本伝道につづいて、アメリカ伝道が出発したのです。
 アメリカ伝道がどのように進展して、神が選んだアメリカ大統領レーガンをどのようにして当選させたか、そしてソ連の大統領ゴルバチョフが、どのような理由でアメリカに屈伏するようになったのか、ここで詳しく説明する必要はないでしょう。文鮮明師の右腕として活躍してこられた、朴ポーヒ博士の大著「証言」(世界日報社)に、文師の業績が詳しく書かれています。
 1989年8月31日、アラスカにおいて「八定式」が行われました。メシヤとしての縦横の8段階を勝利して、天父主義時代が到来したことを宣言されたのです。カインとアベルが争う時代、すなわち兄弟主義の時代、自由と共産が争う時代が終わって、天父主義の時代に入ったという宣言です。それから70日後にベルリンの壁が崩壊したことは歴史的事実です。
 1991年12月6日、文師と金日成主席の会談が行われました。不倶戴天の仇敵のように思われていた両者が、兄弟のように抱き合って現われたのですから世界はあっと驚いたのです。怨讐の双子の兄エサウと抱き合って和解したヤコブの21年路程を、文師もまた歩まれたのです。
 1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領は辞任しました。ここにソ連邦は崩壊したのです。レーニンから数えて、スターリン、マレンコフ、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チエルネンコ、そしてゴルバチョフは8代目の大統領です。
 「共産主義は8代を越えられない」という文師の予言は的中したのです。文師は単に予言する人ではなく、神の摂理を実行して実現する人です。
 1992年8月25日、ソウルにおいて3万双の「祝福式典」が挙行されました。また文師はここに公的に、人類の救世主であり、真の父母であるという「メシヤ宣言」をされたのです。時に文師72歳です。
 「救世主は72歳から海印を持ち、金のごとき貴い尺をもって測り善悪を判断し、その調達は無窮無尽で神を信じて来たりし民は天を呼び、万歳を叫ぶことだろう」
 南師古の「格庵遺録」にはこのように予言されているのです。

 1999年、終わりの時

 西暦999年、ヨーロッパの人々は世の終わりが来たと思ったのです。この世の限りと騒ぎまくる人もいれば、罪を悔いて泣き叫ぶ人もいれば、強欲な金持ちもすべての財産を人々に与えて、世の終わりを待ったそうです。しかし大晦日も何事もなく過ぎ去ると、また元の強欲な人間に戻ってしまったのです。
 1999年、7の月に恐怖の大王が空から降りてくる、というノストラダムスの予言を人類破滅と解釈する予言書が流行しました。しかし何事もなく新千年を迎えると、人々は終末の予言を忘れてしまいました。しかし人類は今のままの生き方で、21世紀を黄金の世紀にすることができるのでしょうか。
 地球環境の問題、食料問題、人口問題、エネギー問題、倫理道徳の問題、すべてがこのままでは未来がありません。個人から国家に至るまで、これまでのように自己中心的な生き方をするなら、人類に未来はないのです。21世紀を迎えて、人類は滅亡か繁栄かの、岐路に立たされているのです。
 「韓半島において、世界的な事件が起きる」と文師は言われます。韓半島の統一こそは北も南も、韓民族の共通の願いなのです。神のみ旨も韓半島の統一にあるのです。
 北朝鮮人民共和国の実態はベールに覆われたままですが、食料不足は深刻なようですし、政府の重要人物までが亡命している事実を見るとき、金王朝の崩壊は時間の問題のようにも見えます。しかし東欧諸国のように民衆が立ち上がって、独裁者を倒して解放するということは考えられません。北朝鮮は鎖国状態であり、外部からの情報がすべて遮断されています。人民は金王朝に絶対的な忠誠を誓う教育を受けて育つのです。
 金日成主席が死去した時に一番に弔問に訪れたのが、朴ポーヒ氏です。その時の人民の嘆き悲しむ様子を見て、朴氏は「文鮮明師がもしも死去したとしてもこのように悲しむだろうか」と反省させられたと述べています。それほど主体思想によって教育されているのです。
 38度線はどのようにして撤去されるのでしょうか、これが問題です。強引に軍事的に撤去しようとすれば、どのような結果を招くでしょうか。北朝鮮の核査察問題が起こった時、一触即発の危機があったのです。アメリカはイラクとの湾岸戦争のように、防衛的先制攻撃を真剣に考えたのです。もしそれを実行していたらどうなったでしょうか。北朝鮮は徹底した軍国主義の国家です。人民のすべてが兵士であり、勝利のためには役に立たない人民は飢え死にしてもやむを得ず、とさえ考えているようです。その国を針で突いたらどうなるでしょうか。   
 北のミサイルは日本を標的にしているのです。核を保有していないとしても、原発を攻撃されたらその惨状は想像もできません。毒ガス、細菌兵器をあるようです。もしも事変が起きれば勝敗にかかわらず、その惨状は6・25動乱の比ではないのです。文師はこの事を最も案じられ、危機を未然に防ぐことに全力を傾注されたのです。
 もう一つの道は、政治的な統一です。すなわち、南北統一選挙をやるということです。これは容易には実行できないのです。選挙人口は南が多いのですが、北は完全に一致しているのに、韓国は一人の候補者を立てることができません。また南にも北を支援する人がいます。北の候補者が勝てば、南は戦わずして北に支配されるでしょう。またもしも南が勝っても、北がすみやかに解放されるとは思われません。
 では半世紀にわたる南北対立が、さらにそのまま続くのでしょうか。歴史は必ず動くのです。金王朝は崩れかかっていますが、しかし強力な軍事力があります。座して死を待つよりは最後の一戦を交えて、と考える軍部が暴発すれば、韓半島に動乱が起きるのです。
 韓半島に敷かれた一線が破れる時、日本が震撼し、世界が揺れ動くのです。韓半島の統一は東西ドイツのように、南が北を吸収統合することは難しいのです。どちらの体面も損なうことなく、両者が納得できる統一でなければなりません。そのためには、民主主義と共産主義を越えた、一段階上の理念によって統一されなければならないのです。すなわち、真の愛による統一です。
 韓国はキリスト教の伝道が、アジアで最も成功した国です。韓国の既成キリスト教界は文師と統一教会を迫害しましたが、ひとたび文師を再臨主と認めた瞬間に転換するでしょう。韓国の中学では宗教の時間がありますが、その教材に「原理」を中心とする教科書が使用されているのです。
 北の主体思想とは、金日成を主体とする宗教国家のようなものです。その上に神様を戴いたなら、即座に転換するのです。それが全体主義の特徴でもあります。
 このように考えると、神が韓半島にメシヤを送られた意味が分かるのです。比較的小さな国で、単一民族で、宗教的な伝統と歴史をもつ優れた民族であり、神の六千年の悲しみに通じる「恨の国」が韓国です。この国が祭物として、カインとアベルとに分断されたのです。アベルがカインを愛し、カインがアベルに従えば、アダムが立つのです。
 アダムの国、すなわち本然の神の国が立つ最初の地が、韓半島ではないでしょうか。池の水が凍るのもある一点からです。そしてそれは序々に、池全体に広がってゆくのです。その一点が韓半島であり、その国があまりに素晴らしければ、世界の国々がそれに倣うことでしょう。1999年からさらに7年が経過した2006年が、完成期が完結する年です。その時こそ、アダムの国が立つ時です。そのためには、人間が責任分担の5%を果たすという条件があることは、言うまでもありません。

 新天新地の夜明け

 では、21世紀のユートピアの青写真とは、どのようなものでしょうか?
 まず、この地球星を守らなければなりません。このままでは生物が生きてゆけなくなり、やがては人間も生きてゆけなくなるでしょう。それは人間が欲望のままに、地球環境を破壊してきたからです。モノに対する欲望は限りがありません。その欲望を追求し続ければ、奪いあいの競争社会になり、企業エゴ、国家エゴが、結局このかけがいのない地球をだめにしてしまうのです。
 神は万物を創造され、そして人間を創造されて「万物を治めよ」と祝福されたのです。神に代わって、万物を真の愛によって主管しなさいという祝福です。ところが人間は悪しき欲望のままに万物を支配し、自然を破壊してきたのです。お金はなければ不便ですが、お金に対する執着が人生の目的になっては悲惨です。お金に振りまわされる一生になってしまいます。つまり万物を主管すべき人間が、万物に主管される人生になってしまうのです。余分なお金はかえって人を不幸にします。万物に主管されるということは、万物以下に落ちたということです。これが堕落の結果です。
 理想社会は人体構造に似た社会です。それぞれの器官が二重の目的を持っているのです。胃はそれ自体が食物を消化すると同時に、腸に送ります。腸はまた栄養を吸収して体全体の為に送ります。すべてが自体の目的と同時に、全体の為に存在しているのです。がん細胞のように勝手に増殖したなら、やがては全体を滅ぼし、自分も滅びるのです。人間もまた自体の為に生きると同時に、全体の為に生きているのです。
 お金は体脂肪のようなものです。人間は飢えたときのために、余分な栄養分を脂肪として蓄積するのです。お金持ちは腹に脂肪を貯めこんでいるようなものです。飢えるという不安がなくなったなら、つまり生活の不安、老後の不安がない社会になれば、人間は富に執着する必要がなくなるのです。理想社会は富の平準化が必要です。そのためには、互いの為に生きる真の愛の理念がなければなりません。
 情報通信や交通は、神経や血管にあたるでしょうか。インターネットは地球を一つにする、神経組織のようなものです。地球が一つの村のようになるためには、自由にどこへでも行けて住める世界でなければなりません。文師はこのように語ります。

 ◎1960年10月28日
 ところで今日、この世界は何によって塞がれているでしょうか。鉄条網があるのです。国境があるのです。誰が線を引いたのですか、この鉄条網を? アメリカに行くのに、なぜこんなに複雑ですか。鉄条網、撤廃運動です。個人と個人が対するときは、全部が戦うのです。個人闘争時代においては、個人鉄条網を持っているのです。その次には家庭を主とする闘争時代においては、家庭鉄条網、氏族、民族、国家鉄条網、鉄条網を持っているのです。今は世界が二つになり、国家観念時代に移っているのです。世界的な主義時代の鉄条網を越えなければなりません。二大思潮がぶつかっています。一つの世界を指向するために。二が一に最も近いでしょう? ですから終わりの日です。(「人類の結実」から)

 国境を引いて、国家と国家が対立する時代は終わるのです。ヨーロッパ地域、南北アメリカ地域、アジア地域というようになり、世界政府ができるでしょう。その時には地域のどこへでも行けるような交通網が必要です。
 文師は国際ハイウエー構想を提唱されました。アジアからヨーロッパ、ロシアを巡る壮大な構想です。その時、日本は絶海の孤島になってしまいます。そこで提唱されたのが「日韓トンネル」です。九州と釜山を結ぶ海底トンネルの構想です。単に構想だけではなく、海底トンネルの調査はすでに終了しているということです。
 人間は小指の爪が剥がれただけでも、非常な痛みを覚えるものです。同様にどこかの地域の人々が飢え苦しんでいるのに、飽きるほど食べて残りを捨てているような世界は、理想世界ではありません。富の平準化が自然に行われるような、愛の心情の世界にならなければなりません。
 人口爆発の問題、食料問題にも文師は心を砕いておられます。
 肉や穀物だけでは土地に限界があります。文師の海にかける思いは格別なものがあります。自ら釣り舟を設計され、土地の漁師も及ばないほど、熱心に釣りをされます。水産業は統一グループの重要な位置を占めています。人類の食料問題は、海にかかっているのです。
 また文師は南米で、農園を開拓される先頭に立って働かれています。新天地の開拓です。地球村では自由に移動して生活するのです。
 競争の時代から、調和の時代になるのです。個人エゴ、民族エゴ、国家エゴを捨てて、世界が一つの地球村になることが理想世界です。これが「共生共栄共義主義」です。そのためには、人類が価値観の大転換をしなければなりません。最終的な革命、心情の革命です。一地域、一国家の革命ではりません。人類全体の心情的な革命です。新しい天地を迎えるためには、ノアの洪水のような大混乱があることでしょう。それを乗り越えた時、人類は21世紀のユートピアを迎えることができるのです。

 本然の文化世界

 ◎1958年2月16日
 無限動力を中心とする物質文明の時代は来ているのです。一番初め、人間は生食時代があり、その次には火食時代があり、次には水食時代、すなわち水の栄養を取る時代が来るのです。これから科学的食料によって我々の健康を保つ時代が訪れるのです。我々人間の努力が必要な時代は越えてゆくのです。
 この時、我々は何をするのでしょうか? この時に残るものは芸術文化であり、我々は美と愛の道を求めてさまようのです。これは良いことです。
 しかし人類が天理法度に外れて、この道を求めてさまよったら、結局はどこへ行き、どのようになってしまうのでしょうか? これは今日、宗教を尊ぶ人々が案じなければならないことです。
 現代の文明は世界の真相を知らないであえぎ苦しむ宗教が、必要のない段階にまで来たのです。宗教は人間が行かずとしても行かざるを得ない、そのような道を提示しなければならない使命を負っているのです。二千年の歴史を回顧してみるとき、数多くの革命がありました。人類はこの革命の過程を経ていって、一つの統一世界を指向しているということを、皆さんは知らなければなりません。(中略)

 21世紀の人類に、エネルギー問題は最も重要です。石油エネルギーには限界があります。原子エネルギーはあまりに危険で、地球を汚染します。文師は今から40年前に「無限動力の時代が来ている」と言われています。
 「宇宙空間には無限のエネルギーが充満している」と主張する人々がいるのです。無限動力の時代が本当に来るのでしょうか。また来なければ、千年の王国はないのです。
 水食時代が来るというのは面白い発想です。人間は食べるために苦労して働き,食べるために膨大な時間を費やしてきました。また食べることに,少なからぬ楽しみを見出しているのです。ところでドリンクのようなものを一本の飲むだけで健康が保てるとなったら、人間の生活はずいぶんと楽になることでしょう。また科学はさらに進歩して、単純な労働はすべて機械やロボットがやる時代になるでしょう。そうなれば人間は、わずかな労働時間で生活できることになります。つまり人類全体が、貴族のような生活です。昔の貴族は奴隷によってその生活を支えられていたのですが、未来の貴族に仕えるのはロボットです。
 さあ、それでは人間は何をするかが問題です。
 残るものは芸術とスポーツ、そして自然の美です。人間が富や権力を誇る時代は終わるのです。地上生活は霊界への準備の期間であるとすれば、霊界に持ってゆけないものは価値が乏しいのです。モノやお金は持って行けません。土地を持ってゆけるでしょうか。地上における所有観念というものを,捨てなければなりません。土地もお金も,地上にある間に一時的に借りたものです。霊界に行く時はお返しするべきです。

 人間には知、情、意があることを考えるとき、人間を創られ、全天地万物の主導的な主人公としておられる創造主は、より高次元的な原理法度を通す知、情、意の主体であられることを知るのです。そして歴史を探って見れば、個人から家庭、氏族,民族,国家,世界へと拡大していっているのです。またこのような外的な型を経て、内的な思想,及び観念を優先する時代へと入って来ているのです。
 人間個体におきましても、外的な面を経て、内的な精神面に向かっているのです。精神が主導的ですから、この精神を統一してこそ、一つの価値性を捜し立てることができ、そのようになれば統一的な目的に向かって正しい行路を歩むのです。
 世界もやはり同じことです。世界にも世界認識がありますから、一つの帰結点である精神統一のために、世界を一つに束ねることができる世界構造が出てくるのです。これがまさに今日、民主と共産が対立して闘っている姿です。この時に霊界と天宙を創造された神様が、天宙の統一理念を実現されようとされるので、霊界の理念と地上の理念が相反してぶつかるということを、皆さんは知らなければなりません。(「全天宙は愛の一日を捜してさまよう」から)

 精神は肉体からの健全な生きる力によって成育し、肉体は精神からの、善なる要素によって活力を得るのです。心と体は二つではなく、授受作用することによって一体となるのです。また精神は天からの愛の波動を受けて成長するのです。
 人間の精神は創造主の知、情、意に感応して、知と情が授受作用すれば肉体が感応して行動するのです。それが愛の行為となって他の為に生きるときは善たなり、ある形態をもって表現するものが芸術です。肉体を鍛錬して美と力と業を競うのがスポーツです。スポーツには精神力も欠かせない要素です。
 文師の活動は実に多方面にわたっているのですが、芸術、スポーツの分野にも力を注がれています。リトルエンジェルスを始め、バレエ団、オーケストラを創設され、またプロサッカーチームもあります。「祝福式典」は有名ですが、正式には「世界文化体育大典」であって、その一環として祝福式典が行われるのです。
 21世紀の人類は仕事や出世に人生の目的をおくことから、自己を表現することに生きがいを見出すようになるでしょう。肉体的な快楽はさらなる快楽を求めて、決して満たされるということがないのです。それは精神が満たされないからです。そして結局は頽廃して,不幸な結果に終わるのです。
 真理を求めて学ぶなら、あきるということがありません。学ぶほど,充実するのです。また芸術作品を創造することは、神の創造に似る行為です。芸術作品を鑑賞することも素晴らしい充実した時間となるのです。アマチュアオーケストラの一員としてシンフォニーを演奏したり、絵を描いたりすることが,人間の喜びになるでしょう。またそのような場が、互いし愛しあい、為に生きる実践の場となることでしょう。その第一の場が家庭であり、さらにそれは社会的な広がりがなければなりません。これからの社会人は学生時代のように、クラブ活動をするようになるでしょう。
 このような観点から、教育は本然の知,情、意を育成する教育でなければなりません。知識を詰め込み、記憶力のみをテストする教育は,精神の向上とは何らの関係もないものです。脳でいえば右脳の教育が必要です。今の教育は左脳の教育であって、知,情,意の、知に偏っているのです。
 知はサタン的な方向に用いれば,悪となります。発明発見も武器に用いれば殺人兵器となります。また美にも、頽廃的な美があります。これはサタン的な美です。映画や音楽にも、劣情を刺激するものがあります。創造主の知,情、意に感応する本然の文化でなければ,天国的な文化とはいえません。
 食べるための苦労がなくなる世界とは,どのような世界でしょうか。霊界に近づくのです。ことに近年,テレビやインターネットの発達によって、世界中どことでも交信することができ、見て話をすることができる世界とは、霊界と同じではないでしょうか。しかし一方ではモノを奪いあって争っています。地上の理念と霊界の理念が相反してぶつかっているのが、終末の様相です。
 黄金の21世紀の人類が貴族のようになるとしても、堕落したローマの貴族のようになっては地上に天国は成りません。人類が精神的に一段階アップしたとき、地上に千年王国が訪れるのです。

 本郷の国

 「21世紀は宗教と芸術の時代になる」と言った人がいました。しかしそれがどのような宗教かは分からない、というのです。それは一宗派の一教派ではない普遍的な、天宙的な理念を中心としたものでなければなりません。

 ◎1959年6月28日
 我々はこの万物世界、被造世界の原理と法則、公理と公式を解明するために努力している分野が,科学であることを知っています。そして自然に深く潜んでいる情緒的な分野を表現するものが文学なのです。自然に現われているか潜んでいる美を、ある形態をもって具象化して表現することが,芸術なのです。そして自然の根本の理を解明しようとする分野が、哲学なのです。このような段階の上にあるものが、宗教です。
 それでは真の宗教と、宗教家が解明するものが何でしょうか。それは自然の中に深く流れている天的な内容を、解明することです。このような責任を負わなければならないと見るのです。
 人類の文化は自然を抜きにしては,考えることができません。自然を離れた人類文化は語ることができません。人間がどんなに堂々とその威勢を誇り、権勢を広げたとしても、自然を無視したらすべてのものが成立しないのです。
 このように我々の生活を価値あるものとするものが自然であり、我々の生活において必ず必要なものが自然なのです。ですから自然万象に流れている心情が感じられる人間でなければ、真に幸福を享受することができず、天と因縁を結ぶ栄光の場に出ることはできないのです。
 皆さんは一本の草を見ても、神の立場で眺め、花を見ても神の心情を代身する立場、神の心情に通じる立場で眺めなければなりません。昆虫や鳥、あるいは動物を見るときにも神の心情と因縁を結ぶ、そんな内的な感情を体得しなければなりません。そんな人間がいたら、彼がある公式と定義で、すなわち科学的な論理でこれを解明することができなくても、あるいは文学的にその情緒を表現できなくても、あるいは芸術的にその美を表現できなくても、情緒的に愛を体じゅつする力がなくても、彼は偉大な科学者であり,偉大な芸術家、偉大な哲学者、偉大な宗教家に間違いないのです。(「慕わしきエデン」から)

 宇宙と自然界にはある整然とした,秩序と法則があります。誰も整理整頓しない部屋の中は次第に雑然としてくるものです。しかし自然界はたとえ人間が汚しても、自浄作用によって、元の状態に戻るのです。なぜでしょうか。神がおられるからです。
 神の存在を知ることが、本郷の国に入る第一歩です。父である唯一の神を認めるなら、人間はアダムとエバから生まれた兄弟姉妹です。本来は民族の違いも、国境も、言語の違いもなかったのです。気候と環境の相違によって皮膚の色が違い、時代と民族性の違いによって異なる宗教が生まれたのです。しかし親が子を愛する心情はいつの時代、どの民族であれ変わりがないように、神の愛の心情は人類すべてに注がれているのです。

 ◎1960年9月25日
 愛の法度、これは天倫を離れようにも離れられない法度なのです。もしも離れたら恐怖が染みわたり、破壊されてしまうのです。今日の罪悪の世の中で罪を犯しても、その報応は歴史上にずっとあるのですが、これからの心情世界においては、ある間違いをすれば時間性を超越して、その報応が直角的にくるのです。ですからその世界においては,罪を犯すことができません。こんな世界にならなければなりません。その世界が理想世界です。
 そんな世界で、自分の血肉と細胞にまで通じる心情の基盤の上で、父と息子・娘が出会うことができる日が来なければなりません。そんな日が来れば堕落した人間に、それ以上の福なる日はないのです。
 真の父母を求め,真の主人を求め,真の民を求め、真の国土を求めて、天のすべての霊人と今まで死んだすべての先祖たちと、これから数万代の後孫まで、全部が天の民として父を尊び,愛の世界、愛の倫理、愛の法度、愛のすべての条件をうたうことができる世界が、まさに理想世界なのです。これはここで語る人間の言葉ではありません。事実なのです。(「真なる基盤を捜して」から)

 再臨主による成約時代は「侍義時代」と呼ばれます。神様に侍る生活をするということです。親と子が共に暮らすように、神様と共に生活するのです。絶対に天倫から離れられず、二度と堕落することがないのです。ローマの貴族のようにはならないのです。なぜなら人間は霊界で永生することが明確に分かり、霊界の様子が次第に明らかになってくるからです。科学が霊界の存在を証明する時代が来ているのです。
 あの世に行って戻ってきた人はいない、というのが霊界を否定する人の言い分でした。これからはこの世と霊界の壁がなくなって、霊界からの通信が多くなるのです。
 霊界についての書物は数多く出版されていますが、信用できないという人も多いことでしょう。あるいは興味本位で読む人もいるでしょう。臨死体験は霊界の門まで行ったのであって、中に入ったわけではない、という方もいるでしょう。また霊界通信のようなものもありますが、おおむね低い霊界のようです。天上の天国はどのようなところか,知るよしもなかったのです。
 文師の高弟であり、統一思想、勝共理論を構築された李相軒先生が霊界に行かれ、ある霊能力のある婦人を通して送られた霊界の報告書が、すでに4冊の書物となって出版されています。先生は非常に高い霊界に行かれましたから、霊界の隅々にまで行くことができるのです。基本的には文師がこれまで語られたことと同じですが、実体験のリアリテイと凄みがあります。釈迦やイエス様の霊界での様子は、興味つきないものがあります。また地獄の恐ろしさも、生々しい迫力で迫ってきます。そういうところで永生することを考えたなら、誰もが自分の人生を見つめ直すことでしょう。
 霊界は想念の世界であると言われてきましたが、李先生が「裸で歩いたらどうなるだろう」と思った瞬間、自分が裸になっていたそうです。想念がそのままに表れるのですから、隠し事ができません。邪悪な想念をお互いに抱いていたら、その苦しさは想像もできません。ですから「愛は霊界の空気のようなもの」というのは事実であって、それがなければ呼吸困難になるのです。
 「地上生活は天国生活の訓練期間である」という文師の話が実感できるのです。人間は地上で天国的な心情で生きていない限り、天上の天国に行くことはできないのです。つまり地上に天国を建設しなければ、天上天国もあり得ないという結論になるのです。見えない心が主体であり、。体はその対象であるように、見えない霊界を主体として考えるべきであったのです。そのように考えるなら、人間の価値観、人間の生き方が大転換するのです。人類に心情的な革命が起きることでしょう。
 文鮮明師は今日まで、神の国建設のために「涙は人類のために、汗は地の為に、血は天の為に」をスローガンとして、億千万のサタンと闘ってこられました。ソ連邦は崩壊しましたが、闘いはまだ終わっていません。共産主義の夢を捨てきれない人々にとって、文師は最も恐るべき人であって、その存亡を懸けて攻撃するのです。最後は神を信じる者と、神を信じない者との闘いがあるのです。霊界と地上界の地獄を解放して、地上天上に天国を建設するメシヤの使命は、まだ成就していないのです。それは我々がその責任分担を完遂していないからなのです。最後に文師のみ言を掲げて,終わりにしたいと思います。

 ◎1967年5月21日
 今までの仏教や儒教はもちろん、すべての宗教は神の摂理によって立てられたものです。しかし未だに求道の基準において、全盛時代を迎えることができないのです。ある一時に宗教が一国の主権を中心に、天下に号令をかける時代を迎えてはみなかったのです。求道の全盛時代を迎えるためには、時代的な全盛時代の前に、ある方法によって闘争して、これを克服することができる思想的な基準を立てておくかということが問題なのです。
 それゆえ、これから新しい時代を創建することができる内的な全盛の基盤を造り、この基盤の上に新しい歴史を出発させる基準を立てなければなりません。こうして内的な全盛時代を成す世界を創建しなければなりません。このような時代を成しておかない限り、平和の王国は絶対に到来しないのです。
 我々はこのような世界を望み見て、このような世界を成すことができる理念を中心にしてゆくので、内的な全盛の基盤の上に、外的な全盛基準を一体化させなければなりません。こうして万国の勝利、最後の勝利の終着点において、神の前に勝利をお返しして、神を永遠に父として侍ることができる場まで行ってこそ、初めて解怨成就が成されるのです。そのようになれば、今までの歴史上の数多くの全盛時代は興亡の路程をたどったのですが、その時からは永遠なる全盛時代、すなわち、永遠なる太平王国,地上天国、千年王国が建設されるということを、皆さんは確実に知らなければなりません。

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