第六章 心情の世界


 世界の統一の前に自己統一

 自由と平和と統一は人類共通の願いです。歴史上にある主義や思想、宗教理念を中心としてさまざまなユートピア運動がありました。それらは現れては時代の波に押し流されて、いつしか消えてゆきました。
 1917年、ロシア革命が起きました。それは一時、世界を赤く染めるほどの勢いでしたが、ソ連邦は崩壊しました。マルクスの思想による壮大な世界ユートピア運動は、やはり失敗したのです。

 ◎1967年8月13日
 どんなに世界が統一され、天宙が統一されたとしても、自分自身が統一される喜びを感じず、統一された自分を発見できなかったら、その統一は自分とは何らの関係もないのです。すなわち、外的世界が統一されて幸福な夢の国にひたるユートピア的な世界が展開されたとしても、その世界が自身とは何らの関係もないというのです。
 こんな観点から世界歴史を探って見れば、今まで人々自分自身は統一されないで、世界を統一させようとしたことを知るのです。これは絶対に成ることではないのです。どんなに世界を統一したとしても、自分自身が統一されない限り、その統一は不幸な結果として現れるのであり、結局は壊れてしまうのです。
 ですから天宙統一を望む前に、自己統一を完成しなければならず、天宙主管を望む前に自己主管を完成しなければならないのです。問題はここにあるのです。結局「私」に問題があるというのです。(「万民が願う統一世界」から)

 「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という共産主義の理念は正しいように見えるのですが、なぜ失敗したのでしょうか。それは人間が堕落しているからです。常に自分を中心に考え、為に生きる生き方の、反対の行き方をしてしまうからです。ですからたとえ素晴らしい理想社会が完成したとしても、たちまち妬み嫉妬、争いの世界になってしまうのです。できるだけ働かないで、できるだけ多く取る、というのが人間です。そんな人間を働かせるためには、鞭と罰が必要です。かくして共産主義国家は、国家全体が牢獄のようになったのです。地上天国ならぬ地上の地獄になってしまったのです。
 資本主義社会は人間の欲望を自由に満たそうという社会です。能力に応じて働き、能力に応じて取る社会です。当然ながら競争社会、弱肉強食の世界です。敗者を救う福祉の制度はあるとはいえ、決して平和と幸福の世界、理想世界とは言えません。
 宗教の道を求める修道者は、俗世を捨て、修道院や深山にこもって修行をしたのです。地上に天国を建設することよりも、自己の精神の平安と、あの世の天国を夢みる人々が多かったのです。しかし人間の死は肉体の死であって、心は変わらずに霊界で永生するとしたら、この世が地獄ならあの世も地獄であるしかないのです。結局、この世に心情の王国を建設しなければならない、という結論になるのです。

 1959年9月20日
 体というものには、終わりがあります。しかし心には終わりがありません。ですから、心の世界にはある観がありません。宇宙観やら何やらというものがありません。さらには心よりも、さらに大きなものが心情です。心情の世界においてもやはり同じことです。心情の世界は制裁も受けません。心の世界は制裁を受けます。心は相対的な条件如何によって、制裁を受けるのです。心情の世界は制裁する者がないのです。父母が子女を愛する心を、誰が制裁するでしょうか。どんなに泰山のような障壁が前をふさいだとしても、挫けないのです。心の世界は制裁を受けるのです。心の世界は相対的な立場であり、心情の世界は主体的な立場なのです。心は四方性を持っているゆえに、制裁を受けるのです。しかし心情の世界は、そうではないというのです。
 天の願いが何でしょうか。終わりの日にイエス様が来られたなら、こんなみ言をされるのです。「天国は自分の心にあり、天国は自分の心情から成されるのだ」と。「心にあるのだ」これだけで成るのでしょうか。「心情から成されるのだ」と結論を結ばなければなりません。
 皆さんが不幸を感じるのは、何ゆえでしょうか。心の中心と和することができる立場に立ていないからです。外的な苦衷がどんなに多くても、心から和して愉しむことができる立場にあったなら、彼は幸福な者になるのです。それではなぜ、不幸を感じるのか。自分の心を動かすことができる、変わらぬ心情の中心を持っていないためです。原因はここにあるのです。(「二つの世界に対している私」から)

 人間が立てた主義や思想は時代とともに古び、革命によって倒され、新しい主義や思想の時代になるのです。時代が変われば、善が悪になり、悪が善になるのです。勝てば官軍です。勝者が善です。しかし今、思想も哲学も、芸術も科学も、終わりの時代に来ているのです。21世紀の人類を導く最後の主義、最後の革命があるとすれば、それはどんな主義、思想、革命でしょうか。

 ◎1960年6月5日
 これから歴史は氏族主義を越え、民族主義を越え、国家主義を越え、いかなる主義や思想を越えて、心情の帰一点に向かって流れてゆくのです。皆さんの心もそうなのです。宗族が違い、血族が違っても、心情は同じなのです。父母が子女を愛し、子女が父母に従う心、夫婦が互いに愛する心、兄弟の間の互いの為という心は、みな同じなのです。それでこのような心は原則的なこの基準だけは、永遠に本体に向かって駆けているのです。
 それでは最後に残り得る歴史的な一つの主義があるとしたなら、どのような主義でしょうか。それは父母以上の心情をもって、万民に対することができる主義です。このような心情を持つ主義が出てくるなら、世界は一つになるのです。青春の男女が互いに思慕する力よりも強い心情が、この地上にある一つのところから出るなら、世界は統一されるのです。死の場に倒れてゆく愛する兄弟を見て、死線を越えて救いたいという心情以上の心情が、この世界的な思潮の前に登場するなら、世界の統一は問題ないのです。その他のどんな学説や、どんな主義、どんな人格であってもだめなのです。(「イエス様はすべてのものを残して逝かれた」から)

 神を中心とする人間の良心革命、心情革命、これを提示することができる天地運勢が必ず来なければならない、と文師は語るのです。神主義、神本主義(人本主義に対して)父母主義、心情主義、ゴッテイズム、天宙主義、呼び方はいろいろですが、神の愛を中心とする主義に他なりません。

 物質主義に真の幸福はない

 ◎1968年3月10日
  今まで我々が生きているこの世界は、どんな世界でしょうか。心の満足のための世界ではなく、体の満足のための世界です。しかし体が好むことをもって、心の幸福をもたらすことはできません。すなわち、体を主とした外的世界を中心にして、自身に幸福をもたらす法はないということです。これは絶対にだめなのです。言い換えれば、金や権力、その何をもってもだめなのです。
 今我々が生きているこの世は、どのような世の中か。心を中心にすべきなのに、心があるのかないのか、考えもしない物質主義の世の中になってしまったのです。これは教育の現実を見ても知ることができます。全部が物質文明を主とする教育に重点をおいているのです。尊く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のために等閑視しているのです。また今は心がないと否定する場、そして神もいないと否定する場にまで流れているのです。
 それでは人生において、億千万金を与えて取り替えることができず、何ものとも替えることができない絶対的な価値と、絶対的な権威を持つ心の場がどこか。本来の場がどこか。このような場を中心に出発することができる基準が成っているか。このような個人による家庭、氏族、民族、国家、世界が新しくこの天地の間にもう一度芽生えなければ、この世界を生かすことができないのです。(「本郷の国」から)

 文師の言われるようにこの世界、ことに日本の現状は物質中心です。お金がすべてになっています。すべての価値がお金に換算される社会です。そしてすべてが肉体の欲望を満たすことを良しとしています。すべてが物質中心、体の満足を中心にすれば、奪い合いの世界になります。さらにうまいもの、もっと強烈な快楽を求めるのが人間です。フリーセックスや麻薬の果てにあるものは、破滅しかありません。
 富や権力は、人間の幸福それ自体とは別のものです。精神の喜びは決してお金で買うことはできません。真の愛、真の友情をお金で買うことができるでしょうか。また人間の能力や才能も、お金では買えません。お金は一つの条件にはなるでしょうが、すべてではありません。物質中心の価値観から、為に生きる生き方は絶対にできません。自分の為に生きることもやさしくはありませんが、他の為に生きることは、さらに難しいことです。堕落世界の人生観をもってしては、不可能なことです。ですから私たちは、自分自身との闘いに克たなければなりません。

 ◎1959年12月6日
 今までの人類は、物質を懸けて戦ってきました。肉体を懸けて、天地を代身する良心を追求する人々が戦ってきました。ところが次には、変わらぬ心を中心に、変わらぬ神の心情に通じる心情をもつなら、最後の決判が下るのです。
 物質を求め、体を求め、心を求め、その次には心情を求めるなら、この地のすべてのことが解決されるのです。皆さんにはこの条件が懸かっているのです。間違いなく。
 ですから世界を支配する主義が出てきたとしても、人間がこの主義を中心に死の場を体じゅつすることができる心、世界まで左右する理念ですら支配できない心情が凝結する一つの場所を持たない限り、闘いは終わらないのです。善悪の闘いは終わらないのです。また、我々がサタンから物質を奪って神の前に返し、心を奪って返さなければならないのですが、この心を返すためには、どんなに変わらぬ理念があったとしても、それで良しとしてはだめなのです。
 皆さんは怨讐を持っています。皆さんの前に見える物質が怨讐であり、皆さんの体が怨讐です。これがサタンの祭物になる条件なのです。
 皆さんが持っているすべてのものは、怨讐世界の利用道具です。ですから求道人は物質を打ち、肉体を打ち、自分の欲望を打ち、自分の心情を打つのです。これが何であるかは知らなくても、いつかより大きいもの、より大きな善の肉体、より大きな善の良心、より大きな善の心情を求めるという目的があるので、道人たちはそれに向かって駆けているのです。これを我々は蕩減復帰歴史というのです。(「すべては善悪の戦場を越えなければ」から)

 ですから人類歴史の終末には、絶対的な善を立てるある主人が来なければならないという結論がでるのです。それゆえ、すべての宗教には再臨思想があるのです。地上天上の天国を憧憬して、すべての宗教は同じ目的を追求していると言えるのです。

 心と体の統一

 ところで、地上の天国とはどのような所でしょうか。酒を飲んで踊りを踊って、騒いでいる所が天国でしょうか。うまそうに飲んでいる酒が、実は毒の入った麻薬を飲んでいるのであり、喜んで踊っている所を見れば白刃の上で踊っているのです、と文師は言うのです。
 酒もたばこも、一種の麻薬には違いありません。肉体は酔わせても、精神を酔わせることは絶対にありません。そして過ぎれば苦痛をもたらします。酒池肉林は天国ならぬサタンの巣窟です。神の愛とは絶対に関係のない所です。人間が最高に幸福な場として求めている所ではありません。
 人間には心と体があります。心がどこにあるのか分かりませんが、あるということは知っているのです。そして心と体は共になければなりません。心と体がバラバラになった人は夢遊病か精神病です。体がないときは、心はどこへ行くのでしょうか。仕方なく霊界に行くのです。
 ですから私たちは、心と体が一つになることを願っています。自分自身を統一するとき、悪い方向に統一するなら、研究も思案工夫も必要ありません。この統一は急速にできます。しかし良い方向に統一するときには、大変な努力がいるのです。
 心と体はいつも闘争しているのです。そしていつも体が争いをしかけるのです。私たち凡人は、常に体の誘惑に負けてしまうのです。常に悪なる方向に行こうとするこの体をそのままにして、理想世界、統一世界を成すことはできません。ではどうしたら心が体を主管することができるのでしょうか? 

 ◎1967年8月13日
 外科医が病気で腐ってゆく患者の足を手術しなでそのままにしておけば、その患者は命までも失ってしまうのです。患者がどんなに痛くても、無慈悲に病んだ足を切ってしまうのが、良い医者なのです。
 人間の心と体も同じなのです。人間の体と心、この二つのうちの一つは喧嘩やです。争いをしない平和主義を誰もが好きです。しかし体の中には喧嘩や的な要素があるのです。これがあるようになった原因は、堕落したからです。自分の一個体をおいて見ても、善と悪の二つの目的を指向している要素が、わが体中にあるのです。善を指向する心があるかと思えば、それに反して悪を指向する体があるのです。これを解決づけなければ、数万年の歴史のなかで怨讐の怪物たる体は、常にその状態に行ってしまうのです。
 この体の腐った部分を一度に切って捨ててしまいたいのが、神の心情なのです。体は堕落世界と連結しているアンテナです。またこの体は、人間世界の罪の根源なのです。
 神が二つの目的を持つ人間を創ったなら、その神は論理的な神ではありません。この地上に存在するものの中で、目的なしに存在するものがないように、二つの目的を持って生きることはできないのです。二つの目的を同時に持っては、存在することができずに滅びるのです。
 二つの目的の中で人間に必要なものは、一つの目的を完結することができる所に行くことです。それだけが本来、人間が存在する目的と一致するものであり、人間を創られた神の創造目的に一致するものなのです。しかし人間は堕落したので、二つの目的に引きずられて生きてみれば、いつの間にか白髪になっているのです。平和であることも、幸福が宿ることもない人生になっているのです。人生は苦界であるのみならず、苦痛と悲哀、そして悲惨と恨嘆だと感じるのです。(中略)
 人間の心と体を統一する方法は、二つ以外にはありません。第一は体を獄殺、撲殺して占領する方法であり、第二は体を打つことなく統一する方法です。
 子供が下痢をしたとき、蛙の後足を焼いて食べると良くなります。しかしながら蛙を捕らえて殺すのを見れば、気分が良くないのです。同じように、強制して体を主管する方法は良くないのです。
 それではどうすべきか? 今までは心はほら吹きのように、一度も体と対等に戦ってみないで、毎度やられてきたのです。それは心の力が弱いからです。ところでこの心に注射して、力を二,三倍ほど増やしたらどうなるでしょうか。それなら体を率いてゆくほどのことは問題にもならないのです。一生懸命に引っぱってゆくのです。自動車のチューブに空気をいっぱいにして膨らませるように、心にも力を強く吹き込んだらどうなるでしょうか。力が強くなるでしょう? その次にこの心と体が闘ったなら、どちらが勝つでしょうか。このように事情なく体を打って占領する方法と、心の力を強くする二つの方法があるのです。
 ところで、心の力の源泉は愛であります。それゆえ心が授け受けて生じる爆発的な力を神に連結させるなら、これは何倍、何百倍、何千倍も統一することができるのです。世界万民が持ち焦がれた願いを成就して、永遠に共に生きることができると同時に、天国もわがものとすることができるのです。この秘訣がまさに愛なのです。愛は統一に向かって上がってゆくエレベーターであり、統一を成す絶対的な秘訣なのです。(「万民が願う統一世界」から)

 体を打つ修道者の修行は、誰もができることではありません。しかしそれは最善の方法ではないというのです。最善の方法とは、心の力を強くすること、心の主体である神の愛に触れることであったのです。しかし私たちには神は見えず、神のみ言も聞こえません。
 ですから、神のみ言を聞くことができる人、神と常に一問一答する人、その人の言葉に耳を傾けなければなりません。イエス様はそういうお方でした。しかし二千年前に十字架につかれ、そのみ言はわずかに聖書に残ってはいますが、イエス自身がすべてを語っていないというのです。そしてもう一度来る、というのです。その再臨の時が終末です。

 神の愛に酔う世界

 イエス様が神を父と呼んで一問一答したように、文師も常に神に祈る人です。そして手も足もない神に代わって、神の代弁者として、み旨の道を歩んでおられるのです。口を開けばいつも神の愛を語る、愛の説教者です。文師のみ言のすべてが、神の愛を語っているといって過言ではありません。私たちがすべて神の愛を体じゅつすることができるなら、個人が救われ、家庭が救われ、人類の統一、世界の統一は、理想世界は自動的に成ることでしょう。ですから文師は驚くべき情熱をもって、神の愛を語りつづけるのです。神の愛、真の愛を語る文師のみ言は限りなくありますが、ここに一つだけ引用しておきます。

 ◎1959年9月20日
 今日、いわゆる民主と共産というものが対決して、世界を支配しようとする政策を強行しているのですが、そうなってはだめです。それでは今、解決はどこからすべきか。堕落以前のアダムとエバの姿、神を中心に喜び、神の声を聞いて楽しんだ姿に帰らなければなりません。神が私の永遠の主人であり、私の家庭の家長であり、私の民族の主人であり、私の国家の主人であり、私の世界の主人であるとする、この世界のいかなるものとも替えることができない「私の神様」であるとする基準が成ったならば、この地上に幸福の園が訪れるのです。
 我々の心は楽しむことができ、和することができ、動ずることはできるが、酔うことはできません。互いに動じ、応じることはできても、酔うことはできないのです。
 元来の愛とは人間の愛ではなく、永遠不変の神の愛なのです。神の愛に接し、神を私の主人として侍るその瞬間,そのお方と一つになるのです。神と自分が授け受けることのできる喜びの場に入ったなら、世界を征服できるのです。自分が神と共に楽しむことができる場面は、天上天下のすべてのものを所有して喜ぶこと以上の、喜びに酔う場面であるのです。もしも人間がそんなことを体験したら、この肉体のすべての五感を通して感じる刺激は、問題ではないのです。
 それでは天は、私の心を中心にいかなる役事をしてこられたのでしょうか。宇宙開発の役事をされてきたのです。宇宙開発の役事を示して、私を率いておられることを、皆さんは忘れてはなりません。天はどんな目標の下に、皆さんの心に命令されているのか? 宇宙的な存在になれというのです。宇宙を抱く存在になり、宇宙のすべてのものを土台として育ちなさい、とされているのです。こんな存在になれと、我々を率いておられるのです。
 ですから愛しなさい,悪なる人間を愛し、善なる人間を愛し、万物を愛し、天と地のすべてを愛しなさいとされているのです。そうではないでしょうか。どんなに痛快なことでしょうか。心が楽しむと同時に、この細胞までも楽しみ、心が酔うと同時に細胞までも酔うのでなければなりません。こんな内容と、こんな作用を引き起こす人間、こんな人間が神が六千年間捜し求める人間であることを、皆さんはよくよく知らなければなりません。
 心があるとして、心が慕う人間、世界,国家,宇宙全体が望む人間とは、いかなる人間か。まさに前に言った、そのような人間なのです。そんな人間には征服される立場になっても、無限に感謝するのです。皆さん、そうなるのではないでしょうか? 自分が無限に犠牲になってもいいというのです。そんな人間のみ多ければ,地上に天国が成るのです。神の息子・娘とは、そんな人間です。与えても与え、無限に与えてもまた与えたく,無限に犠牲になっても、また犠牲になりたいというのです。
 父母の愛がそうではないでしょうか? この愛の何十倍、何百倍になるのが、神の愛なのです。皆さんの心が捜し求め、慕っているこの世界は、未だに来ていないのです。心情的なこの世界と,地上にいる人間の心が因縁を結ぶその一日が来なければなりません。これを通して、審判の基準が地上に立つ日になれば終わりです。この心情を基盤にして、審判が起こるのです。(「二つの世界に対している私」から)

 愛といえば、私たちはすぐに男女の愛を連想します。しかしそれは真の愛ではないというのです。統一教会には、恋愛という言葉はありません。兄弟姉妹の愛、夫婦の愛はあっても、恋愛はないのです。それは自分を中心とした愛であって、神が祝福した愛ではありません。アダムとエバが神の祝福を待たずに,自分勝手に結婚したようにです。

 ◎1968年3月10日
 世界を何をもって統一するのか? 愛なのです。この愛は清算しなければならない堕落した世界の愛ではありません。これは堕落した人々が一生の間楽しんで共に暮らしたとしても、永遠の世界とは関係のない愛なのです。皆さんが夫婦になって、どんなに父母に仕え、千年万年ともに生きて夢をみて歌ったとしても、死んだらみな千里万里と離別するのです。
 どうして人間がこのようになってしまったのか? 男と女が出会って一つの家庭を成せば、天道によって神が許される愛の圏内において、愛の目的を中心に、原則的な場に立つ夫婦となり、神の懐に安息すべき原則であるにもかかわらず、なぜ分かれなければならないのか。本郷を捜し求めるべき人間が神と分かれてしまったので、幸福があるべくもないのです。
 どんなに人間が幸福をつかみ、千年万年生きようとしても、しばらくすれば「ああ、わたしはなぜに」とこうなるのです。こんな不幸な状態が横的に展開されて,世界化したものが今日の世界なのです。このような世界は滅びなければなりません。
 先生は本郷の国を見たのです。それは考えただけでも胸がわくわくすることです。逆さまに立っても真っすぐ立っているようなこの世にぶつかっても、早くそのような環境がこの世にできなければなりません。先生はそれを知っているので、大韓民国においてどんなに反対され迫害されても,この道を行くのです。(「本郷の国」から)

 地上でどんなに愛し合った夫婦でも、霊界に行けば他人同士になるということです。別れてしまうのです。しかし本来から堕落しないで、神の愛によって結ばれて出発した夫婦であれば永遠に別れることがない、と文師は言われます。
 神の存在と、神の愛を語る文師のみ言は、ときに難解でもあります。本来、神の愛は人間の言葉では表現することができないものです。また頭で理解しても、神の心情を体じゅつすることはできません。ですから求道の道を歩む人はさまざまな修行をするのです。その中のある人々が、神の実在を実感する神体験をするのです。神によって生かされているということを、実感するのです。宗教でいう悟りの境地です。そのような人々は絶対的な安心の境地に立つことができるようです。神の愛を体じゅつするには、愛の実践をしなければなりません。
 神の実在を知り、神の愛を体じゅつしたとしても、キリスト教では神の僕といいます。聖人パウロでさえ、神の養子たることを願っています。僕や養子は血統が違います。神の血統ではないということです。神の実子、神の息子はイエス様お一人だというのです。
 しかし人間は本来、神の息子・娘であるはずでした。それがサタンの血統になってしまったのが堕落です。

 神人平等の時代

 ◎1960年12月11日
 今日の世界は肉体と物質のために闘う世界です。どんなに経済学、科学、思想が発達したとしても、それが人類に平和をもたらすことはありません。ここにおいて我々が提唱すべきことは、心なのです。この心の主体が誰か、これを持ちださなければなりません。心の主体は神です。しかし漠然とした神様ではありません。
 神を主とする時が来たのです。数千年の歴史過程を経てきたのですが、神を主とする主義、思想がいつ現れたでしょうか。現れなかったのです。どの民族、どの国家の理念、主義、思想も、神を主とする主張はしなかったのです。影のように漠然としているのが、今の民主主義です。これからは人権擁護の時代を越え、男女平等を主張する時代を越えて、神権を擁護し、神と人間が平等であるという場まで行かなければなりません。今まで神が、神の役目をしてみなかったのです。
 神が神の役目をしてみないとは、何でしょうか? 神と人間が平等の場に入っていないということです。誤ったことです。神権が擁護されなければなりません。神権を擁護するのです。私たちは創られた主体とは何らの関係を結んでいない、接するにも接することができない立場にありながら、何が平等、何が自由でしょうか。神と平等の立場になるのです。その場に行くには涙なしには行けず、痛悔して胸を打たなければなりません。神を正しく見る立場で自由と平等をうたい、「私のお父様」と言えば「おお」と答えられる場にまで行かなければなりません。
 終わりの日には神が愛の手をのべて、「わが息子・娘よ」と万民を抱かれる時です。ですから神権擁護を叫び、神人平等を叫ばなければなりません。こうして神と人間が一体になって、自由の天地で歌うときに、神の復帰歴史も終わるのです。我々人類の願いもすべて成るのです。(「神の一線に立つ私たち」から)

 神権擁護とは耳なれない言葉ですが、現代は神が神の尊厳を失っている時代だと言えるでしょう。戦後の日本の教育は、神はいないという前提の上に立っているようです。神や宗教を持ちだすだけで顔を背けられるのが、日本の現状です。神はあっても八百万の神であって、創造主、父なる神とは縁の薄いのが日本人です。しかし近頃では宗教とは別の科学的な立場から、宇宙意志とか、サムシング・グレートという言葉で神を波動をとして捉える動きがでてきています。
 人類の親なる神の、最大の悲しみが何でしょうか。それは各民族、各宗教が、自分たちの神を主張して争うことです。それらが同じ唯一なる創造主であることが明確になれば、宗教統一、人類の統一は成るのです。メシヤとは神のことを最もよく知る人です。文師は宗教人を集めた「神観会議」を開催され、超教派運動を展開されています。
 神と人間は天と地に分けられたのです。神とは仰ぎ見るもの、そして人間の苦しみを救ってくれるものとばかり思っていたのですが、文師の主張は神の解放であり、神人平等、神権擁護です。神と人間が親子であるなら、親は子供が成長して親のようになり、さらにはそれ以上になることを願うのです。神も同じことです。ですからイエス様は「天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」と言われたのでした。

 ◎1966年12月18日
 人間を鉄にたとえれば、鉄は鉄でもいろんなものが混ざった、純粋でないごたごたになった鉄です。それで終わりの日には審判がなければなりません。純粋でないので、純粋なる息子の血と肉に繋がれなければならないのです。
 イエス様の血と肉を食べなければ、人はイエス様と関係ないとされたでしょう。イエス様の血と肉を食べることによって、イエス様に接ぎ木されたという条件が立つのです。このようにしてイエス様から、偽物が本物になったという受領証を受けなければ、神の前に行くことができません。この受領証を受けるために、イエス様を信じるのです。
 このようにして受領証を受けたなら、イエス様が主様になるのではありません。イエス様は我々の兄になるのであり、我々は彼の弟になるのです。なぜならば、イエス様も神を父とし、我々も神を父とするからです。ところが我々は養子の立場で、血統を違えて復帰された息子であり、イエス様は本然の息子です。これが我々とイエス様の異なるところです。
 人間を神の血統に復帰するために来られたイエス様ですから、イエス様は復帰するための土台を築いてゆかなければなりません。我々がこの世に生まれてみれば、すでにサタン世界の人間になっているのです。それゆえ、我々が神の息子として復帰するためには生まれ変わらなければなりません。母の胎内に入って、再び出てくるのです。重生しなければなりません。重生とは、生まれ変わるということです。これはニコデモとイエス様の対話の中にでてきます。これは他ならぬ「重生」を言われたのです。(「完全復帰」から)

 人間は堕落したアダムとエバの後孫として、サタンの血統を受け継いで生まれました。ここにおいて人間は、サタンの血統から神の血統に転換されなければならないのです。偽オリブの木を根元から切って、真のオリブの木に接ぎ木されて、真のオリブの木に転換するのです。紙一枚にサインするだけでビルの所有権が変わるように、神の血統に転換したという受領証を受けなければなりません。この血統転換の儀式が、真の父母による「聖酒式」なのです。ビルの所有権が変わるということです。その中をきれいにするのは勿論、私たち自身の責任です。
 イエス様は実体の真の父母になることができず、弟子たちを「祝福」することができませんでした。ですからニコデモにも、謎のような言葉で答えるしかなかったのです。

 祝福ということ

 統一教会といえば、文師が青年男女を引き連れて祈祷して「合同結婚式」をするところ、と考えている人が多いのです。祝福の意義と価値を知る人はまだ少なく、むしろ非難と嘲笑の対象にされています。文師はおじいさんも、おばあさんも、80歳の老人も返り咲いて結婚しなければならない、祝福の門を通らなければならないと語るのです。

 ◎1970年3月22日
 み旨を中心に「祝福」という言葉を考えてみるとき、この言葉は統一教会から始まったことではありません。この言葉は今まで、神が復帰摂理をされつつ心のうちに抱いて、実践されることを願っておられたのです。
 神がエデンの園でアダムとエバを創造され、彼らに祝福を与えてそれが成ることを願われたのも、やはり同じです。この祝福を誰も実践できませんでした。
 四千年の歴史過程を経たのち、神が本来から与えたかった祝福を、最後に決行するためにイエス様を送られました。しかしイエス様もやはり祝福の場までゆくことができずに逝かれたことを、我々は知っています。その後のキリスト教の歴史過程にも、多くのキリスト教徒が殉教の血を流して闘ってきたのですが、今もって神の願いを成就できないのです。
 ですから祝福という言葉は統一教から始まったものではなく、創世から堕落した以後のこれまでの歴史過程を通して、神の心のうちに所願として常にこれを追求して、願ってこられたことを知らねばなりません。
 このような所願の一日を求めて、神は今まで受難の道を歩んで来られたのです。それゆえこの一日を求めるなら、その日は歴史的な解怨成就の日であり、神の歴史的な所願を成就する日なのです。このようなことを考えるとき、この祝福の場がいかに途方もないかという事実を、我々は知らなければなりません。(中略)
 
 四十歳になられるまでの文師の路程は、一面においては真の母を復帰する路程でした。こうして1960年、御聖婚式が挙行されることによって地上に初めて真の父母が立ち、真の父母によって祝福された「祝福家庭」が生まれたました。

 この祝福という基点の上に現れる責任者、すなわち中心的存在は、その時代という制限された環境にのみある存在ではありません。世界史的な内容をもつ中心人物であるのです。ですから祝福とは,夫婦の因縁を結ぶことだけで終わるのではありません。その祝福によって新しい家庭が形成されなければならず、新しい氏族、新しい民族、新しい国家が形成されなければなりません。それらのすべてが、ここから出発するのです。
 こんな観点から見るとき、1960年から新しい歴史時代に入ったという事実を知るのです。このような基点を中心に、統一教会においては数次に渡って「祝福」の行事を敢行したのです。(「祝福」から)
 
 祝福の式典に先だって行われるのが「聖酒式」です。この聖酒を飲むことが血統転換の儀式になるわけですが、では聖酒にはどんな意味があるのでしょうか。

 ◎1971年8月15日
 天使長が原罪の元になったので、メシヤを迎えなければなりません。メシヤを迎えて血統転換をしなければなりません。
 このようなみ業を、皆さんの夫人たちがしなければなりません。天使長を通してエバが堕落しましたので、復帰歴史においてはエバがアダムを通して天の前に立ち、天使長復帰をしなければなりません。そのためにすることが聖酒式です。聖酒式をするる時には、先生がまず女性にあげるでしょう。なぜそうするのでしょうか? 
 これは失ったエバを復帰する式なのです。聖酒式をすることによって、霊的に一つになって、心情的に一つになり、肉的に一つになるのです。絶対的な内容なのです。 
 聖酒はそのままで出来るものではないのです。そのままで成るものではありません。サタンと神様が立会い、霊界にいる数多くの天使たちが立ち会って出来るものなのです。そしてここには、皆さんが知らない21の物質が入っているのです。万物世界と人間復帰歴史過程において形成された、すべての物質が入っているのです。
 聖酒を造るときは霊界の霊人たちが来て「どうか一杯ください」と飲みたがるのです。聖酒を飲めば復帰できることを知っているからです。ですからわいわいやって来て、しきりと自分たちにも恵みをください、とねだるのです。先生がやれること知っているのです。
 しかし先生は、霊界のための先生ではありません。地上のための先生です。ですから、「あなたたちは待って」と苦労した皆さんにあげるのです。(「祝福家庭の価値」から)

 祝福を受けるには統一教会員としての厳しい条件があったのですが、三万双の祝福からは統一教会の祝福を越えて、宗教の壁を越えて、世界万民に与えられる「祝福」になったのです。
 この世の結婚は似た者同士が愛し合ってするのですが、文師が決める相対はむしろ、顔も性格も正反対の場合が多いのです。しかしその二世たちは、うまく調和のとれた子女が誕生するのです。
 ところでいかに敬愛する師とはいえ、一生の伴侶を無条件に任せるには、よほどの信頼関係がなければなりません。文師のアンテナは、七代前の先祖の因縁までも見通されるというのです。それに逆らえば、不幸な結果に終わることが分かるのです。文師には男女の相性を見る不思議な能力が、少年の頃から備わっていたということです。
 「20世紀の末期において、霊界に通じる人の中で指折る一人の人物がいるなら、統一教会の文先生です。嘘ではないかと考えるなら、事実かそうでないか、懇切に祈祷してみてください。そうすれば分かるのです。数多くの道人と、数多くの霊通人たちも、統一教会の文先生の弟子であるという立て札を首にかけ、この事実を証しすることが起っているのです」(「本郷の国」から)

 真の家庭運動

 人間の幸福とは何でしょうか。外的なある能力、権勢、権力を持つことでしょうか。お金があるから幸福でしょうか。また世界的な知識や、世界を左右する位置にあるから幸福でしょうか。決してそれでけでは、人間は幸福ではありません。では、文師は何と言われているでしょうか。

 ◎1969年5月11日
 それでは、人間が求める最高の幸福の基台が何でしょうか。それは心情です。情緒的な基盤を中心として、人間の幸福と不幸が決定されるという人間の実情をみるとき、神と宗教と霊魂の問題を立証して、これが動機となって環境に影響を及ぼす真の家庭の心情的な基台が、何であるかということが問題です。
 皆さんは「神は愛である」ということは聞いて知っています。それではその愛が、どこから現れるのでしょう。すべての人間は、それが自分に現れることを願います。ところでこの愛が一人の人間に現れるなら、それは個人で終わってしまいます。男なら男、女なら女にのみ現れるなら、それは一世紀も過ぎればすべて終わりです。一人の男が、その愛をより深めないで、転じないで死ぬなら、それは一代で終わってしまう愛に他なりません。
 それではどのように、永遠の血統的な愛の基準を立てるのか。一人の男と一人の女に現れる神の愛によって、家庭を成して、血縁関係を結ぶ子女にその愛を植えつけたなら、ここから永遠の愛が人間に現れるのです。すなわち、無形の神の愛が、実体として顕現することができる基点が現れるのです。このように見るとき、神の愛を成すことができる全体的な基盤が何であるかといえば結局、家庭というものに帰結されるという事実を否定できないのです。(「家庭」から)

 現代社会において世界的に問題になっているのが、青少年の問題であり、家庭の崩壊です。そのようになった動機の80%以上が、情緒的な問題によるものです。男女関係のもつれから、このような結果になっているのです。これらのすべての病弊を正す基準となるものがやはり家庭にあるのです。

 これまでの世界の歴史の中で、たくさんの革命がありました。そんな革命の結果として世界を動かした事実があったとしても、それはすべて過ぎ去ったのです。最後の問題は、真の家庭を成すための革命を起こす一つの中心が、地球上に顕現しなければならないのです。ここから新しい世界の創建、新しい歴史の理想が出発するということを否定できないのです。
 神もそんな理想家庭を求め、数多くの宗教もそんな家庭を求めて願っているのです。とするとカソリックの神父や、仏教の尼僧はどうなるのでしょう。これが問題です。それではその宗教が指向する目的が間違っているのか。間違っているとしたら、そんな宗教が今まで苦労してきた基台、その宗教の背後において役事してきた神様自体も、すべて否定されてしまいます。歴史的にこのような現象が現れるのは、ある一時に、真の家庭が現われなければならないので、その家庭を迎えるための準備なのです。
 それではどうして仏教やカソリックでは独身を強調するのか。それが全体的に人間の幸福の基台であると言えるでしょうか。違います。この地上のどんない宗教も、幸福の基台が何であるかと提示することもできず、家庭の基盤を中心とする計画もないまま、その家庭自体も現われなかったのです。いつかそんな家庭が間違いなく現われるという事実を知っているので、独身を強調してきたのです。それでこそ、人間は純潔で、正しい家庭を建設することができるのです。(同じく「家庭」から)

 堕落とは,神の一つしかない愛の因縁を破壊したことでした。それで終わりの日になれば、これまでの間違った愛を打つのです。家庭がバラバラに壊される時が来るというのです。これが終末です。終末時代を迎えて終わるのではなく、このようなことを清算して、本来の基準によって出発するのです。標本となる真の家庭が立つことによって、ここから真の家庭運動が起らなければならないのです。
 
 ◎1959年9月20日
 私は統一教会の看板を下ろす日を待ち焦がれているのです。統一教会の看板を掲げるのは、相対的な条件があるからです。闘争の相手があるから看板が必要なのであって、下ろさなければならないのです。皆さん、心の世界に何の看板が必要でしょうか。心情の世界に何の看板が必要でしょうか?(「二つの世界に対している私」から)

 1997年5月、「世界基督教統一神霊協会」は「世界平和統一家庭連合」となりました。単なる名称の変更ではありません。文鮮明師の理想が実現の時を迎えたということです。宗教団体の看板を下ろして、宗教、民族の壁を越えて、神の愛を中心として人類が一つの家族になるという、真の家庭運動の出発です。

 天国は家庭で入るところ

 ◎1968年3月10日
 天国は神の愛を中心に完全に一致した夫婦が入るところであり、この一致した夫婦によって生まれた子女たち、すなわち、神を中心にして一体となった家庭、氏族、民族を全部率いて入るところです。ですから地上において家庭を持たなかったイエス様は、今まで天国に入ることなく、楽園に留まっておられるのです。神を愛を中心に結ばれた夫婦でなければ天国に入ることができないのです。天国は絶対的な理念の世界です。それで家庭が全部入らなければならず、自分の氏族と国が入らなければならないのです。それでこそ、天国が建設されるのです。
 今までは誰も天国に入ることができなかったのです。全部が天国に行く待合室で待っているのです。神の愛の門が未だ開いていないのです。天国の門が開かないので、それでこの天国の門を開くためにイエス様は来られたのですが、地上でその相対的な実体に出会わなかったのです。ですからイエス様は今まで二千年の間、苦労の路程を歩んで来られ、天国の門が開くその日を待ち焦がれておられるのです。(「本郷の国」から)

 私たちが心の平安を感じ、幸せを感じるのは家庭です。夫婦が互いの為に生きて愛しあい、夫婦の愛を満喫するのです。その次には子女がなければなりません。子供を持って初めて、親の愛というものを満喫するのです。子供は親を慕い愛する、子女の愛を満喫します。また子供も一人では寂しいので、兄弟姉妹がいて、兄弟の愛を知らなければなりません。
 さらに家庭には祖父母がおります。祖父母は神の位置に立つのです。孫を愛する祖父母の愛は、また親の愛とは格別なものがあるのです。また祖父母の愛を受けた子供は、愛情の深い人間に育つのです。
 自分を中心に、父、母、兄、姉、弟、妹、それに自分を合わせると7人です。この7数が愛の完成数です。祖父母ー夫と妻ー子女、この四位基台の4者のそれぞれの関係を合わせると、12通りの関係ができます。この12の関係に欠けるところのない家庭が、理想家庭と言えるのです。12数がまた愛の完成数です。その家庭の愛の中心となるものが、神の愛であるのです。
 父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛、これを四大心情圏といいます。祖父母、夫婦、子女の三代においてそれぞれの愛を満喫して、肉体が古びて霊界に行くなら、そのまま天国に行くというのです。これが人間の幸福であり、また人生の目的でもあるのです。
 神を中心としてアダムとエバ、子女の四位基台を完成することが、神の創造目的であったのです。ですから、この神の創造目的に反することが悪です。祝福されない不純な異性行為、不倫は当然ながら悪です。フリーセックスは神が最も嫌うものです。ホモやレズも神の創造目的にはありません。血統を汚すということは、子孫に永遠に受け継がれるのですから、ある意味では殺人よりも罪が深いということになるのです。

 地上生活と霊界

 人間は誰でも死を避けることができません。この肉体が土と同じ要素で出来ている以上、土に帰るのは当然のことです。永遠の世界に比べば、70年、80年の人生はあまりに短いのです。この人生をどのように送るか。現実の肉身生活がすべてであり、死ねばすべてが終わりと考えるなら、太く短くやりたい放題にやって、楽しく暮らせばいいということのなるでしょう。他人を蹴落としてでも金と権力を握って、栄華をきわめるのが人生の目的ということになります。
 しかし霊界という第二の人生があって、そこで永遠に暮らすとしたなら、話は別です。唯物論者は神も霊界も否定しました。宗教は必要ないのというのです。この現実生活がすべてであり、物質生活が人間の幸福を左右するというのですが、しかしそのような人々も心の奥では、神と霊界を否定し切れないのです。科学ではわりきれない世界があるのです。そして今では科学そのものが、霊界に近づいてきているのです。
 終末には地上界と霊界が接近すると言われます。霊界を信じる人が多くなっているのです。
 霊界が身近になった理由の一つに「臨死体験」があります。救急医学の発達によって臨死体験をする人が増えているのです。アメリカなどでは臨死体験の研究が盛んであり、体験者の著書が広く読まれています。一度霊界の門をくぐって生き返った人は、それまでの生き方を180度転換して、他人の為に生きる人生を送るようになる人が多いのです。死は恐ろしいものではなく、霊界は素晴らしいところであり、今度は胸を張って堂々と霊界の門をくぐろうと考えるのです。百の知識よりも一度の体験が重要だということです。
 私たちは知識としては知っていても、まだ興味本位の半信半疑の段階であり、真剣に霊界と地上生活の関係を考える人は少ないのです。死期の迫った人にも、それを告げないでそっと死なせようと思う人が多いのです。しかし霊界があるとすれば、地図もなしにあてもなく旅に出るようなものです。また自殺する人が後を絶たず、ことに十代の若者の自殺ほど痛ましいものはありません。
 キリスト教では自殺を禁じています。この肉体は神から預かった神の体であるから、自分で自分の命を絶つことも殺人と同じ罪であるというのです。また肉体が滅んでも、心は永生するとするなら、自殺する瞬間の恐ろしい心情が永遠につづくことになります。ですから自殺した人は地獄の底にいるというのです。あるいは霊界にも行けずに浮遊霊となるのです。自殺した場所から霊は離れられないそうです。ですから鉄道自殺をした人は、電車が来るたびに何度でも飛び込むというのです。それを思えば自殺などできるものではありません。
 肉体を離脱して霊界を見てきたという、スエーデンボルグという人がいます。霊界に関する書物のほとんどが彼の霊界見聞録を元にしているようです。
 文鮮明師も霊界を巡って来られた人です。文師はスエーデンボルグの霊界見聞録は、ほぼ正しいと言われています。ただし霊界は広大無辺であって、彼が見た霊界がすべてではないということです。文師も霊界について多くのことを語っておられます。

 ◎1960年9月4日
 信仰生活をする人であれ、しない人であれ、同じように見ればこの人もあの人も同じであって、この世の人間は変わったところがないのです。しかし霊界に行ってみれば、違うのです。霊界も地上世界と同じ世界です。
 この霊界を大きく見れば、人間一人の姿と同じなのです。霊人の中には目のような霊人たちもいるし、耳のような霊人たちもいるし、手のような霊人たちもいるのです。
 これと同じように天宙が完成するときも、一つづつの細胞が集まって形成されるのと同じです。もしも目に通じる血が「わたしは目にだけ行くのであって、絶対にあの爪先には行かない」とこうでしょうか。そうはならないのです。全身をめぐる時がくれば。そのどん底まで流れてゆくのです。ですからどんなものでも、必要でないものはないのです。みな必要です。(「神と共なる愛着心を持て」から)

 霊界も地上世界と同じだということです。心情においては変わりがないのです。そして霊界は想念の世界ですから、どこへでもさっと行けるのです。景色の美しい所にも一瞬で行けるし、おいしい料理も思いのままです。立派な家にも住むことができるようです。思ったことや願ったことがさっと目の前に現われるのです。食べるために働く必要もなく、身体障害者も病人も、健康な若々しい姿になるそうです。肉体と同じような霊人体というものがあるのです。
 会いたい人がいれば一瞬にして目の前に現われ、心情と心情がストレートに通じる世界です。霊界は素晴らしい世界のように見えます。
 「人間は死んだら特急列車に乗って地獄に直行する」と文師は恐ろしいことを語っています。極楽や天国ではなく、中間霊界から以下の、地獄に行くというのです。ですから「どんなに反対されてもこれを救わなければならない」と文師は語るのです。
 神様が最初から、地獄を創造なさるはずがありません。人間が堕落して汚れてゴミになったので、ゴミ箱が必要になったのです。つまり私たち人間は地上生活において多かれ少なかれ、地獄のような心情で生きているということです。常に平安で幸福であり、悩み、不安、憎悪、嫉妬、そのような感情はもったこともない、という人はいないのです。そんな心情のままで霊界に行けばどうなるでしょうか? 
 霊界に行けば、心情と心情がストレートに通じるのです。嘘も方便も通じません。みな分かるのです。もしも人の恨みをかえば、その怨念がぐさりと心情に突き刺さるのです。多くの人を苦しめ、傷つけて殺した人間は、その恨みが四方から襲いかかるのです。何万という人間を殺した英雄や独裁者はむろん、全く恨んだり恨まれたりしたことのない人がいるでしょうか。
 霊界は何層にもなっていて、下に行くほど暗くなるのです。ですからその心霊の明るさに応じたところに、自分で選んで行くのです。でないと眩しくて苦しくて、居ることができないのです。この世でも犯罪者はじっと隠れ潜んでいるように、あの世でも暗くて光の射さない所でうごめいているのが地獄です。この世の人間の心象風景の、そのままの姿が地獄です。
 では、地獄に落ちた霊人たちに救いはないのでしょうか。彼らが救われるためには、地上の人間に協助して、その人間が使命を果たすときに、授受作用の法則によって霊人も救われるのです。そのためには、地上人と霊人が相対基準を結ばなければなりません。つまり霊人は同じような立場、同じような基準の地上人でなければ協助できないのです。善霊は地上の善人に協助し、悪霊は地上の悪人に協助するのです。悪霊が協助するなら悪事を働くことになりますが、そこでその地上の悪人が罪を償って改心すれば、その恩恵によって悪霊人も救われることになるのです。
 生まれ変わり、輪廻転生はあると考える人もありますが、それは背後についた霊がそのような現象を起こすのであって、地上の肉身生活は一度きりなのです。そのように考えるなら、地上の肉身生活は二度とはない貴重な、霊界へ行くための準備期間です。日々の生活が大切であり、この地上生活の7,80年の期間に霊人体を成長完成させなければならないのです。
 「愛は霊界の空気のようなものである」と文師は言われます。心情の世界ですから、愛がすべてです。美食や性愛は堕落世界の名残であって、肉体のない霊界では必要のないものです。他人を支配したり、物を奪い合う必要もないのです。しかし地獄ではこの世と同じように奪い合い、争っているのです。この世では英雄といわれた人物、有名であった人物は、高い霊界にはほとんどいないということです。むしろ無名のまま、三代の愛を満喫した人が天国に行くということです。
 愛を満喫する場が家庭でした。ですから天国は家庭で入るところです。自分だけが天国に入って、父母が地獄にいてはだめなのです。さらには、氏族、民族、国家、世界が天国にならなければ、地上天上の天国は完成しないということです。
 愛が不足して酸素不足で喘いでいるのが崩壊した現代の家庭、現代の社会です。家庭が天国になるなら、地上天国は自動的に成るのです。ですから、家庭再建運動が起らなければならないのです。

                 (第七章へ)

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