第一章 十字架と復活


 イエスの死

 生きて歴史を動かした英雄は、指を折って数えることができます。しかし死ぬことによって歴史を変えた人物は、イエス・キリストの他にはいません。
 釈迦や、孔子や、マホメットはそれぞれ弟子に囲まれ、いわば大往生をとげましたが、イエスはただ独り十字架にかかって亡くなりました。預言者たちは生きるために来たのですが、イエスは死ぬために来たのでしょうか。彼がもしも十字架の死から逃れてどこかへ逃亡していたなら、キリスト教は存在していなかったでしょう。その意味で、キリスト教は十字架教であるともいえます。
 イエスの公生涯は三年半といわれています。あるいはもっと短く、一年余りではなかろうかと考える学者もいます。マタイ、マルコ、ルカの各福音書には、イエスが過越の祭にエルサレムに上ったことは、一度しか記されていないからです。いずれにしても、イエスの生涯は三十年余りの短い生涯でした。そしてそれは、みじめな生涯としか言いようがないのです。
 「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるであろう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」と御使はマリヤに告げたのですが(ルカ1:3)現実のイエスは罪人として十字架にかけられました。ユダヤでは「木に吊るされた者は呪われた者」とされていたのです。
 新約聖書には、イエスが行った数々の奇跡が記されています。そして人間の生きる道を示す永遠のみ言を残しましたが、彼自身が書き残したものではありません。またイエスが語ったみ言は、四つの福音書を合わせても決して多くはありません。彼自身が「あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ16:12)と語っています。そしてイエスはあからさまには語らず、多くを比喩で話しました。譬え話は分かりやすいのですが、逆にいえばその解釈が難しいのです。
 一時は五千人もの群集がイエスの下に押し寄せたのですが、奇跡が行われないと知るや、群衆は去りました。また多くの弟子たちも去ったと記されています。
 イエスが死を覚悟してエルサレムに入城した時、群集は彼を熱狂的に迎えたのですが、彼が逮捕されるや、一変してイエスの敵にまわったのです。
 イエス逮捕の先頭に立っていたのは、十二弟子のひとりのユダでした。イエスを裏切ったのはユダだけではありません。弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げたのです。ある弟子は着ていた亜麻布をつかまれて、裸で逃げたと記されています。主と共にどこまでも行くと誓ったペテロでしたが、「イエスなど知らない」と三度、激しく主を否定したのでした。
 鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられて血だらけになり、重い十字架を背負わされて、よろめきながら刑場に向かうイエスは、疲れきって何度も倒れました。イエスを起こして代わりに十字架を背負ったには彼の弟子ではなく、見知らぬクレネ人シモンでした。
 イエスを中心に左右の十字架には、二人の強盗が吊るされていました。総督ピラトはイエスを許そうとしたのですが、しかしイスラエルの群集は「イエスを十字架につけよ」と叫んでやまなかったのです。
 「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」とまで、彼らは言いました。それでピラトは評判の強盗バラバを釈放して、イエスを十字架にかけたのでした。人々はイエスを嘲笑しました。左側の囚人も、イエスに毒づいていました。ただひとり、イエスを弁護したのは右側の囚人でした。イエスは彼に言われました。
 「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
 十字架を見上げていたのは、マグダラのマリヤや、ヤコブとヨセフの母マリヤ、そしてイエスの母マリヤたちでした。女たちばかりだったのです。イエスの弟子たちはどこへ行ってしまったのでしょう。イエスに癒しでもらった者たちはどうしたのでしょう。イエスが馬小屋で生まれた時、メシヤの誕生を祝いに来た羊飼いや、東方からやって来た博士たちはどこへ行ったのでしょう。すべての者がイエスを見捨てたのです。
 昼の十二時から暗くなって、三時になりました。突然、イエスは叫んだのです。
 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
 「あれはきっと、エリヤを呼んでいるのだ」
 人々は天からエリヤが火の馬車に乗って降りてきて、イエスを救い出す奇跡を期待したのかも知れません。しかし、何事も起こらなかったのです。イエスはもう一度、何か大声で叫んで、息をひきとったのでした。
 「そのとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とマルコは書き、マタイはさらに「地震があり、岩が裂け、また幕が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」と書いています。しかしその生き返った聖徒が都に入って、その後どうなったかは記されていません。彼らが霊的に復活したとしても、目に見える現実としては、何事も起きなかったのです。イエスは弟子たちに見捨てられ、そして神にも見捨てられたのです。
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですが」とイエスは叫んだのです。彼は大声で、悲痛な叫び声をあげたのです。そして息をひきとったのでした。
 その時イエスは、詩篇22篇から31篇までを朗読されていたのだ、と説明する人もいます。しかしその説には、納得できないものがあります。息絶えだえに聖書を朗読する者が、突然に大声で、しかもアラム語で叫ぶでしょうか。また詩篇は「わたしを捨てられるのですか」と現在形ですが、イエスの叫びは過去形です。
 イエスはすべての人に見捨てられ、最後には神にも見捨てられたのです。イエスの死は神をも恨むほどに、みじめな死であったのです。ではイエスの「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」から「すべてが終わった」という最後の言葉までが、どのように結びつくのでしょうか。この謎を解明することが、本書の一つのテーマでもあります。

 空の墓

 安息日が終わって、週の初めの日の早朝のことです。マグダラのマリヤと、ヤコブの母のマリヤ、それにサロメという女性が、イエスの遺体に香料を塗るために墓に行った、とマタイは記しています。ところが墓の入り口にあったはずの大きな石が、すでに転がしてあったのです。そして墓の中には、真っ白な長い衣を着た若者が座っていました。
 「驚くことはない。イエスはよみがえってここにはおられない。今から弟子たちとペテロの」ところに行って伝えなさい。イエスはガリラヤに行かれる。そこでお会いできるだろう、と」長い衣を着た若者が告げました。
 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)
 マルコはここまでで筆をおいたようです。その後のイエスの復活については、後の人の加筆とされています。イエスの遺体が消えたという事実を、不気味げに伝えています。
 マタイは逆に「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と記しています。
 ルカによると、天使は二人になっています。女たちはイエスの遺体が消えた事実を弟子たちに知らせたのですが、使徒たちは信じなかった、とルカは書いています。ペテロだけは走って墓に行き、かがんで見ると亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った、と記しています。弟子たちは師の十字架の場にはいなかったとしても、その近くでじっと息をひそめていたのです。
 ヨハネが伝える事はこれとまた違います。日曜日の早朝に墓に行ったのは、マグダラのマリヤひとりなのです。彼女は墓から石が取り除けてあるのを見ると走ってペテロともうひとりの弟子にこの事実を伝えます。ペテロともうひとりの弟子は、亜麻布だけがそこに置いてあるのを見たのですが、イエスの復活ということを悟ることなく、帰ってしまいます。しかしマリヤは帰らないで、墓の外に立って泣いていたのです。
 身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着た二人の天使が座っていました。
 「女よ、なぜ泣いているのか」と天使がマリヤに声をかけました。
 「だれかが、わたしの主を取り去りました。どこに置いたのか、分からないのです」そう言ってマリヤはうしろをふり向くと、そこにイエスが立っていたのです。マリヤはその人が園の番人だと思ったのですが、すぐに気がついて「ラボニ」と声をかけました。
 「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」
 復活したイエスに最初に会ったのは、マグダラのマリヤだったのです。彼女が聖書に登場するのは、悪霊を追い出してもらう女としてです。それから姦淫の罪で引き出された女も、彼女だったとされています。彼女は罪の女、つまり娼婦だったのです。汚れた水につかっていた彼女は、イエスに出会って悔い改め、そして復活したイエスに最初に出会う栄誉をになったのでした。しかしイエスは、彼女がふれることを拒否されました。
 四つの福音書はそれぞれ微妙に違うのですが、いずれもイエスの遺体が消えたという事実を告げています。それについてはさまざまな説がありますが、それらを検証するのが本書の目的ではありません。もし何事もなければ、その後のキリスト教の出発もなかったはずです。旧約時代の、モーセの遺体もありません。ついでながら、反キリスト的人物であるヒットラーの遺体もないのです。

 エマオの旅人
 
 弟子たちはエルサレムのどこかに、じっとひそんでいたのです。師を見捨てた彼らは失望と落胆、後悔、そして悔恨の情にうちひしがれていたのです。師の死から三日目の朝のことです。女たちはが走りこんできました。イエスの復活を告げたのです。しかし彼らは師の復活が信じられませんでした。そしてそれぞれの故郷に帰り、以前の仕事に戻ったのです。
 ルカが伝えるクレオパともうひとりの弟子も、その朝エルサレムを出て、実家のあるエマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから7マイルほどの距離にある、松林の街道ぞいの小さな村だったようです。二人の弟子は師の処刑という、衝撃的な出来事について語りあい、悲嘆にくれ、あるいは憤激して論じあっていたことでしょう。するとひとりの人が彼らの間に割って入ったのです。彼らの目はさえぎられていて、それがイエスだとは気づきません。
 「歩きながら語りあっているその話は、なんのことですか」
 彼らは不意の人物の出現に驚き、立ちどまったのです。それからクレオパは悲しそうに答えました。
 「ナザレのイエスのことです。あの方は、神とすべての民衆の前で、わざにも言葉にも力のある預言者でした。祭司長や役人たちが、死刑に処するために引渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました」
 クレオパともうひとりの弟子がどのような人物で、その後のイエス教団でどんな役割を果たしたかは分かりません。しかし彼らはイエスの弟子たち、あるいはイエスと係わりあった人々の思いを代表していたとみることができます。彼らが師イエスにかけた希望は、ローマに支配されていたイスラエルを救う、モーセのような民族的英雄だったのです。
 イエスはあっけなく逮捕され、みじめな姿で十字架にかかって亡くなりました。奇跡はついに起きず、弟子たちの望みも絶たれてしまったのです。しかし信じられないような事が起きたというのです。
 「きょうがあれから三日目なのです。仲間の数人の女たちが、朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当たらないというのです。その時に御使が現れて、イエスは生きておられると、告げたというのです。それでわたしたちの仲間が数人、墓に行ってみますと果たしてイエスは見当たりませんでした」
 「ああ、愚かで心のにぶい者たちよ。キリストは必ずこれらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」イエスはこう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを説き明かされました。
 イエスがそのとき何を語ったかは、ルカは記していません。あるいはこの挿話自体が、ルカの創作ではないのか、と考える人もいます。ルカが福音書を書いたのはイエスの死から、半世紀以上が過ぎていました。その頃すでに、イエスの十字架と復活はキリスト教の出発の原動力になっていたのです。
 彼らはエマオの村に近づき、イエスはなおも先に進み行かれる様子でした。そこでクレオパはイエスを引き止め、一緒に泊まるように願ったのです。すでに夕暮れになっていました。やがてイエスは食卓につき、パンをとり、祝福してこれをさき、彼らに渡したのです。
 それは最後の晩餐の時の、イエスの姿だったのです。彼らが心に叫んだ瞬間、その姿は消えていました。イエスの復活は肉体の復活ではなく、霊的な復活だったのです。たとえ霊的な復活であっても、イエスの復活は弟子たちを強烈に力づけました。イエスが聖書を説き明かしたとき、彼らの心はうちに互いに燃えたのでした。
 彼らは立ち上がり、再びエルサレムのとって返したのでした。
 エルサレムの隠れ家には、十一人の弟子たちとその仲間が集まっていました。
 「主は本当によみがえって、シモンに現れなさった」と言っているところへ、クレオパたちも加わって、自分たちに起きた事を熱っぽく語ったことでしょう。すると突然に、彼らの間にイエスが立ったのです。
 「やすかれ」とイエスは言われました。彼らは霊を見ているのだと思い、恐れ驚いたのです。
 「どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。霊には肉や骨はないがわたしにはあるのだ」そう言って、イエスは焼いた魚の一切れを皆の前で食べてみせるのでした。しかし密室に不意に現れたり、すっと消えてしまうイエスの復活は、肉体の復活ではなく、霊人体の復活であったのです。
 「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは必ず成就する。キリストは苦しみを受け、三日目によみがえる。そして、その名によって、罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である」
 イエスが語ったというこれらの言葉は、キリスト教の出発の宣言とも受け取れます。

 ペンテコステ

 復活したイエスはマグダラのマリヤに現れ、エマオの村に行く二人の弟子に現れ、ガリラヤに戻って漁師をしていたペテロたちに現れ、40日間にわたってたびたび現れて、逃げ散った弟子たちを再び呼び集められたのです。弟子たちはイエスに問いました。
 「主よ、イスラエルを復興なさるのは、この時なのですか」彼らはまだ、イエスの復活の意義を悟ってはいなかったのです。イエスは答えます。
 「時期や場合は、父がご自分の権威によって定められるのであって、あなたがたの知る限りではない。聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地のはてまでも、わたしの証人となるであろう」
 言い終わると、イエスは天に上げられ、霊に迎えられてその姿は見えなくなりました。
 「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。イエスは天に上がって行かれたと同じ姿で、またおいでになるであろう」白い衣を着た二人の御使は、彼らに告げたのでした。ですから「イエスは雲に乗って再臨する」と信じるクリスチャンが、今日も少なからず存在するのです。
 エルサレム市内のある場所では、120名にものぼる人々が集まっていました。ペテロをはじめとする弟子たち、それに婦人たち、またイエスの母マリヤも、イエスの兄弟たちもそこにいたのです。イエスの兄弟たちは、生前のイエスの信奉者ではありませんでした。それどころか、イエスを捕らえようとしたことさえあったのです。彼らにはイエスが狂った人のように見えたのです。しかし今や、彼らも心を合わせてひたすら祈っていたのでした。
 イエスを裏切ったユダは自殺しました。それでユダの代わりに、マッテヤがくじに当たったので、十二使徒に加えられました。こうして再び霊的イエスを中心とする、イエス教団が形成されていったのです。
 五旬節の日がきて、一同が集まっていたときのことです。突然、激しい風が吹いてきたような音がして、家いっぱいに響きわたったのです。また舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、各自の上にとどまったのでした。すると一同は聖霊に満たされ、他国の言葉を語りだしました。聖霊がくだったのです。
 人々は驚き、惑いました。しかしただ見ていた人たちは、あざ笑って「酒によっているのだ」と思いました。するとペテロが立ち上がって、演説を始めたのです。
 「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのです。
 『神はこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そしてあなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう』
 イスラエルの人たちよ、ナザレ人イエスは、数々の力あるわざと、奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを示されたのです。このイエスが渡されたのは、神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手によって十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」
 イエスの叱れら役であったペテロとは思えないほど、堂々とした演説です。弟子たちは復活したイエスを目撃して、師が語った言葉をもう一度深く考えたのです。イエスとは一体だれであったのか。そして十字架上の師の姿はどうだったのか、最後の時に師は何を語られたのか、その場に居合わせた婦人たちに聞いたことでしょう。
 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
 イエスは最後の瞬間に、殺す者たちを呪うのではなく、神にとりなしの祈りをされたのです。彼らとはだれのことでしょうか。十字架の下にいたすべての人たちであり、自分たちのことだと、弟子たちは思ったのです。師の逮捕の瞬間に逃げ散った自分たちを、彼らは胸を打って悔いたことでしょう。そして一つの結論に達したのです。神はその独り子を罪の償いとして十字架にかけ、その血によって自分たちの罪を贖ってくださったのだ。
 「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」ペテロの演説を聞いた人々は、強く心を刺されて言いました。
 「悔い改めなさい。そして罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、パプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるでしょう」
 こうしてその日に仲間に加わった者が、三千人あったと「使徒行伝」は記しています。
 ペテロやヨハネは神殿にもうで、イエスの復活を宣べ伝え、また癒しのわざをしたのです。彼らの話を聞いて信じる人の数が次第にふえ、もはや無視できなくなりました。それで、長老、祭司、律法学者らが招集され、使徒たちを立たせて尋問しました。
 「あなたがたは何の権威、まただれの名によって、このことをしたのか」
 ペテロとヨハネの大胆な話ぶりを見て、人々は不思議に思ったのです。彼らがガリラヤの無学な漁師であったことを知っていたからです。またイエスと共にいたころとは別人のように堂々と語ったからです。しかし彼らによって癒された者がそばに立っているのを見ては、返す言葉もありません。そこで長老たちは彼らに言い渡しました。
 「イエスの名によって語ることも、説くことも、今後いっさい相成らぬ」
 「神に従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちは自分の見たこと、聞いたことを語らないわけにはいかない」
 使徒たちの返答は堂々として、確信にみちたものでした。イエス逮捕の場から蜘蛛の子のように逃げ散った弱き弟子たちは、いまや恐れを知らない不屈のキリストの使徒に、生まれ変わったのです。
 父としてのイエスは天に上り、霊的な母としての聖霊が地に下ったのです。こうしてペンテコステが起こったのでした。

 最初の殉教者

 十字架にかけられたイエスを信じる者の群れは、次第にふえていったのです。信徒は自分の土地や家屋を売り、いっさいのものを共有していました。初代教会は心を一つに、思いを一つにする共同体でした。自分のものだと主張する者はありませんでした。自分のものという観念があっては、恐ろしいことになるのです。
 アナニヤという人とその妻は、自分の資産を売って教団に加わったのですが、その代金をごまかして一部だけを持ってきたので、神を欺く者として命を奪われてしまいました。
 モーセの律法をかたく守り行うというユダヤ教から、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、神はイエスを十字架にかけ、そして導き手として、救い主としてイエスを復活させられたという、新しい宗教が出発したのです。
 新しい宗教が誕生すれば、必ず迫害が起こります。律法を信じて疑わない人々は、大胆に語る使徒たちに激しい怒りを覚え、これを殺そうとしたのです。しかし律法学者の中にも、新しい教えに理解を示す人がいました。ガマリエルという律法学者がそうでした。彼は後の使徒パウロの師でもあった人です。ガマリエルは怒る人々を制して言いました。
 「あの人たちから手を引きなさい。その企てやしわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり間違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」
 イエスを信じる者は次第にふえ、イスラエルの外にまで広がっていったのです。ギリシャ語を使う離散したユダヤ人の間にも、弟子がふえてゆきました。そしてヘブル語を使うユダヤ人との間に、分裂のきざしが生じたことを、使徒行伝は遠慮がちに記しています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが「自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ」と苦情を申し立てたというものです。
 主イエスの使徒たちは、そのほとんどが殉教したのですが、最初の殉教者となったのがステパノです。彼は長老、律法学者たちに捕らえられ、議会に引き出されました。
 使徒行伝の第七章は、ステパノの演説と、その最後で終わっています。
 ユダヤ人が最も尊重視していたものが律法と神殿です。イエスが処刑されたのも律法と神殿を汚したという理由からでした。ステパノが捕らえられたのも同じです。
 彼はアブラハムから説き起こし、エジプトで奴隷にされたイスラエル民族を救い出したモーセに及びました。モーセは神の命令どおりに、幕屋を造りました。ダビデの時代になって、ダビデ王は神殿を建設することを願ったのですが、実際に神の宮を建てたのは、ソロモン王でした。
 しかし、とステパノは声を張りあげたのです。
 「いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、その正しいかたを裏切る者、殺す者となった。神がモーセを立てたように、ひとりの預言者をお立になるとモーセが言ったのは、この人のことである。
 人々はこれを聞いて心底から怒り、ステパノに殺到して、石を投げつけたのです。
 「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」
 まるでイエスの最後のように叫んで、ステパノは死んだのです。イエスのように、ステパノのように、信徒は殉教することをむしろ誇りとしたのです。キリスト教の歴史は殉教の歴史でもあります。十字架はキリスト教会のシンボルとなり、信徒は十字を切って祈るのです。

 パウロの場合
 
 ステパノの殉教の場に、サウロがいました。彼はローマの国籍を持つユダヤ人であり、律法をガマリエルに学び、またギリシャ哲学を学んだ知識人でした。彼はまた厳格なユダヤ教徒であり、十字架にかけられたイエスが復活したという新しい宗教に反感を抱いていました。サウロはステパノを殺すことに賛成していたのです。
 サウロはイエスを信じる者の家に押し入り、次々に男や女を引きずり出して、獄に渡してキリスト教会を荒らしまわったのです。
 サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、信徒を縛りあげるための大祭司の添書を求めて、ダマスコに向かう街道を急いでいました。
 ところが突然、天から強烈な光がさして、サウロは目がくらんで地に倒れました。すると天から、呼びかける声が聞こえたのです。
 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」
 「主よ、あなたは、どなたですか」サウロは答えました。
 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」
 サウロは起き上がって目を開いたのですが、何も見えませんでした。彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかったと、使徒行伝は記しています。
 主イエスの呼びかけが、サウロの信仰を変えさせ、彼の人生を大転換させたのです。サウロは目からうろこのようなものが落ち、数日の後には諸会堂でイエスのことを宣べ伝えていました。このイエスこそは神の子であると、説き始めたのでした。名もサウロからパウロに改めました。これが有名なパウロの回心です。
 イエスは生前、イスラエルの外に出ることはなく、ユダヤ人のみにみ言を語ったのでした。サマリヤの女や、ギリシャの女を救ったのはむしろ例外でした。決して異邦人を無視するのではありませんが、ユダヤ教徒として律法を守り、行うことを説いたのです。
 異邦人たちが神のみ言を受け入れ、信徒になるにつれ、生まれたばかりのイエス教団に分裂のきざしが見えてきました。割礼を重んじ、安息日を守り、神殿を絶対的に尊重して異邦人を入らせないユダヤ教徒としての一派と、ギリシャ語を使うユダヤ人や、異邦人の信徒たちとの対立です。
 ペテロは大きな布のような入れ物が、天から下りてくる幻を見ました。その中には四つ足の生き物、這うもの、ユダヤでは食べてはならない不浄のものとされる生き物が入っていました。
 「主よ、それはできません。清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」とペテロは言いました。すると声がかかりました。
 「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」
 天はペテロに啓示を与え、主の教えをユダヤから、世界に宣べ伝えるようにされたのです。しかしペテロには、ユダヤ教徒に遠慮するところがありました。
 パウロが会堂で語るとき、反対するのはむしろユダヤ人でした。パウロは彼らに向かって、大胆に宣言したのでした。
 「神のみ言はまず、あなたがたに語り伝えられなければならない。しかしあなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にした。わたしたちはこれから方向を変えて、異邦人の方に行くのだ」
 パウロの生涯は苦難と迫害に満ちた、伝道者としての旅の生涯でした。彼は「コリント人への第二の手紙」にこう書いています。
 ユダヤ人からは四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難,同国民の難,異邦人の難,都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」
 彼を不屈の使徒にしたものは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声でした。そのただ一度の霊体験が、パウロを駆り立てたのです。「アジアでみ言を語ることを聖霊に禁じられた」ので、「ビテニヤに進んで行こうとしたところイエスの御霊がこれを許さなかった」(行伝6:6)と書かれています。
 パウロの伝道はアジアから逆に、ローマに向かいました。そしてスペインまで行こうとしたようですが、果たすことなくローまで殉教したと伝えられています。

 十字架による贖罪

 パウロなくしては,イエスの教えはユダヤ教の一教派に終わっていたでしょう。パウロによって、キリスト教という新しい宗教が出発したといっても過言ではありません。
 新約聖書の中で,最も早く書かれたものがパウロの書簡です。神学的な、また哲学的というべき内容を持った書簡というより論文のように長い文書です。パウロは自ら開拓した信徒のために書簡を送り、それが会堂の信徒たちの間で朗読されたのです。そしてこのパウロの書簡が聖書として,その後のキリスト教徒を導く福音のみ言となり、キリスト教神学の基となったのです。このパウロ神学が,十字架贖罪の神学と呼ばれるものです。パウロはどのようにして、その神学を形成していったのでしょうか。ごく簡単にみてみましょう。
 パウロはイエスの生前の弟子ではありません。イエスに会ったことも、その話を聞いたこともないのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書も、パウロは読んでいません。それらの福音書はパウロ以後に書かれたものであり、むしろ多分にパウロ神学に影響をされて、イエスの十字架の死を頂点とする物語として構成されているのです。
 では、パウロはイエスの直弟子たちに会って、くわしく生前のイエスの様子や、そのみ言を聞いたのでしょうか。どうもそうではないらしいのです。彼はこう書いています。
 「わたしが宣べ伝える福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである」(ガラテヤ1:11)そして彼は「血肉にも相談せず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った」(同1:17)というのです。
 「その後三年たってから、わたしはケパ(ペテロ)をたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった」(同1:18)と書いています。
 パウロは十二使徒たちとはあまり接触しようとはせず、独りで三年を過ごしたのです。彼の耳からは「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの言葉が離れなかったのです。彼は考えつづけ、その思想をふくらませ、そして独特の神学を形成していったのでした。
 パウロは厳格なユダヤ教徒として、律法を守ってきました。しかしどんなに律法を守っていても、それで自分の肉的な欲望を抑えきれず、その矛盾に彼は苦しんだのです。律法を守り行うだけでは決して救われない。それは自分の罪をより明確にするだけであって、むしろ重荷となるばかりだ。人間は人類始祖アダムの堕落により、罪の下に生まれてきたのだ。では、木に吊るされたイエスとは誰だったのか。神はその独り子イエスを送られ、人間の罪の償いとしてイエスを十字架に渡し、神の独り子を犠牲にされることによって、彼を信じる者の罪を許されたのだ。ただ信じることによってのみ人は救われるのだ。このようにパウロは結論づけたのです。自力信仰であるユダヤ教から、他力信仰としてのキリスト教へ、十字架贖罪の神学が生まれたのです。
 「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間で何も知るまいと、決心したからである」(コリント第一の2:2)と書いているように、パウロはイエスを十字架につけられた神の子としたのです。イエスが神であるなら、生前のイエスの様子を聞く必要はありません。弟子たちと同じように物を食べ、排泄をし、恐れ惑い、女性に心を動かされるイエスであってはむしろ困るのです。
 パウロの書簡から、イエスが何を語ったかを知ることはできません。イエスの譬え話の一つも、パウロは引用していないのです。彼は知らなかったのです。知る必要もない、と彼は考えたのでしょう。そして彼は書簡で、独特の愛なる神の思想を展開しました。
 イエスの直弟子たちは、イエスが十字架につけられたのはユダヤ人の罪であり、また自分たちの裏切りの代償だったと考えたのです。パウロはそれをさらに展開させて、十字架は人類の罪の贖いであるとしたのでした。
 パウロは不屈不撓の伝道者でした。強靭な精神力と思考力の持ち主です。このような人はともすると、自信過剰になりやすいものです。「わたしはあの大使徒たちにいささかも劣っていないと思う。たとえ弁舌はつたなくても、知識はそうではない」と書いたり、「たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちがが宣べ伝える福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである」とも書いています。パウロ神学に反するものは、のろわるべきであるというのです。
 人類の罪のために十字架につけられた神の子、というパウロ神学のイメージは、強烈に伝播する力をもっていました。十字架につけられたイエスを信じる者は救われる。イエスのように十字架につけられて殉教するなら天国に行く、このパウロ神学はキリスト教を世界に広める力となったのです。
 新約聖書は当時の国際共通語であった、ギリシャ語で書かれました。こうしてイエスの教えは、ユダヤ人よりも異邦人の間で権威を持つようになり、ローマからヨーロッパ、イギリス、そしてアメリカへと、西回りで世界に広まったのです。
 遠藤周作氏はその著「キリストの誕生」で「イエスの死と復活で終わる四つの福音書は彼らにとって二幕目の物語にすぎぬ。終幕である第三幕はそこから始まるのである」と書いています。イエスは霊的に復活して、霊的に勝利したのです。
 それでは「イエスの生涯」の第二幕、そして第一幕とは、どのようなものであったのでしょうか。

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