第八章 十字架を越えて


 ゲッセマネの祈り
 
 さていよいよ、最後の晩餐の場を迎えることになります。過ぎ越しの祭りの初日のことです。ユダヤ人はその日,遠くモーセがイスラエルの民を率いて出エジプトをした事をしのび、子羊をほふり、種なしのパンを食べる習慣でした。弟子たちはイエスに命じられたとおりに、エルサレム市内のある家で、過ぎ越しの食事の用意をしました。
 ヨハネの福音書によれば,イエスは弟子たちの足を一人ひとり洗い、手ぬぐいで拭いてあげるのです。上に立つ者は下に仕えなさいという教訓を、身をもって示されたのです。そしてイエスは弟子たちに、祈りにも似た愛のみ言を語ります。後のキリスト教徒の信仰告白ともとれますが、イエスはそれが弟子たちと共に過ごす最後の夜であることを知っておられて,実際に多くのみ言を語られたことでしょう。
 「あなたがたに言っておくが、あなたがたのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」
 突然のイエスの言葉に,一同がざわめきます。その瞬間を描いたのが、ダビンチの名画「最後の晩餐」です。「主よ、まさか、わたしではないでしょう」弟子たちは身をのりだして、イエスに問いかけます。
 「わたしと一緒に,同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。その人は生まれてこないほうが,彼のためにはよかった」イエスの声は小さかったので、ペテロが誰のことかと,師の隣の席の男に合図を送ります。
 「先生、まさか、わたしではないでしょう」ユダが答えます。
 「いやあなただ」師の言葉に、ユダは顔色を変えました。彼はそっと立ち上がり、誰にも気づかれないように席を外すと,夜の闇に消えたのでした。
 イエスはパンを取り、これを祝福してさき、弟子たちに与えて言われました。
 「これはわたしの肉である」また杯を取って,彼らに与えて言われました。
 「これはわたしの血である。わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことはしない」
 それから彼らは賛美の歌をうたい、オリブの山に向かいました。弟子たちは師と共に過す最後の夜という、緊迫したものを感じていなかったのです。口々に語り合い,議論をしていたのでした。
 「今夜、あなたがたは、わたしにつまずくであろう」イエスは言われました。
 「たとえみなの者がつまずいても、わたしは決してつまずきません。主よ、獄にでも,死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です」ペテロが、意気ごんで言いました。
 「ペテロよ、今夜,鶏が鳴くまえにあなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」
 「あなたと一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」
 すると弟子たちも、ペテロに口を合わせて誓うのでした。
 イエスと弟子たちは、ゲッセマネの園に着きました。オリブの木が生い茂った,寂しい所でした。
 「わたしが向こうで祈っている間、ここにすわっていなさい」弟子たちに言うと、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子を伴い、さらに園の奥に行かれました。
 「わたしは悲しみのあまり,死ぬほどである。ここで待っていて、わたしと一緒に目を覚まして祈っていなさい」イエスはペテロたちに言い、さらに進んで行かれ、そして大地に身を伏せると、神に祈りを捧げられたのです。それはイエスの生涯で最も深刻な、血の汗がしたたるような祈りだったのです。
 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)
 それからイエスは、ペテロたち三弟子のいる所に来て見ると,彼らは眠りこけていたのでした。弟子たちが耐えられないほどに、イエスの祈りは長く、彼らは睡魔に襲われてしまったのです。
 「わたしと一緒に,目を覚ましていることが、できなかったのか。目を覚まして、祈っていなさい。心は熱しても、肉体は弱いのである」
 イエスはさらに祈られました。「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」
 イエスは三度、同じ言葉で祈られました。そして三度、弟子たちの所に来られました。しかし彼らは、三度とも眠りこけていたのでした。
 「まだ眠っているのか。見よ、時が迫ってきた。立て、さあ、行こう。わたしを裏切る者が近づいてきた」
 ゲッセマネの園のイエスの祈りは、マタイ、マルコ、ルカともほぼ同様の内容です。しかし三弟子は眠っていたのですから、イエスがどのように祈祷されたのか、知らなかったはずです。彼らは天からの啓示によって、その内容を知らされたのでしょうか。
 イエスはなぜ、「この杯を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流して祈ったのでしょうか。
 この杯とは、十字架のことです。イエスは十字架の苦痛を恐れて、このように祈ったのでしょうか。ここに至ってイエスは、人間的な死の恐怖を抱いたというのでしょうか。
 キリスト教ではイエスは神の子、あるいは神そのものです。神なるイエスが、人間の罪の償いのために,十字架で死ぬために来たというのです。とするとゲッセマネのイエスの祈りは、不可解というでべきです。
 「イエス様でさえ死の恐怖を抱かれたことに近親感を覚え,私たちはそこに慰めを見出すのです」教会ではこのような説教がされてきました。この時だけ,イエスを人間に引き戻すというのでしょうか。このような解釈は神の摂理に対する無知からくるものであり、イエスに対する大いなる誤解です。さらに言えば、メシヤとして降臨されたイエスを、侮辱するものに他なりません。
 正義のために堂々と死んだ義人が,歴史に名をとどめています。そしてイエスのために殉教した人は,数えきれません。ローマ帝国の迫害時代には、クリスチャンはライオンにかみ殺されても笑って死んだのです。ペテロも師と同じ十字架ではもったいないと,逆さ十字架にかかりました。遠い異国の日本でも,多くの人が殉教しました。彼らが死を恐れたでしょうか。イエス様と同じ天国に行くことに,無上の喜びを抱いて死んだのです。
 死の恐怖とは、虚無へ落ち込むことへの恐怖です。地獄へ行く恐怖です。もしも極楽や天国に行けるという信仰があるなら、死は恐ろしいものではありません.イエスは霊魂の不死を知っておられました。そして霊界の預言者たちと話し、天の父と会話することができた神の皇太子です。そのイエスが死を恐れて,血の汗を流して祈るでしょうか。
 イエスは恐れからではなく、「悲しみで死ぬほど」だったのです。何を悲しんだのか。それはイエス降臨の本来の目的が,失敗に終わろうとする悲しみです。地上に天国を建設するために神がイエスを地上に送られた、そのみ旨が失敗するという,死ぬほどの悲しみです。
 「この杯を去らせて下さい」とは、十字架の道ではなく、できることならもう一度,生きて地上に天国を建設する道を行かせて下さい、とイエスは神に最後の談判祈祷をされたのです。イエスは十字架の死後の,イスラエル民族の運命を知っておられました。またさらには,人類の悲惨な歴史を見通しておられたのです。自身の死が問題ではありません。十字架の苦痛が問題ではありません。人類の救い主としての、み旨の成就が懸かっている祈祷です。これほどに深刻な祈りがあるでしょうか。
 ものを支えるには、最低三脚が必要です。イエスがメシヤとして立つにも、最低三弟子の基台が必要です。三弟子がイエスと同じ基準で,イエスと同じ思いで祈ることができるなら、もう一度地上におけるみ旨の出発が,可能であったかも知れません。それでイエスは三度,弟子たちの所に来られたのです。許されるのは三度までです。しかし弟子たちは三度とも,眠りこけていたのでした.ここにおいてイエスを支える基台は,完全に崩壊したのです。
 「心は熱しているが,肉体が弱い」とは、弟子をいたわる師の言葉であって、彼らは身も心も弱かったのでした。
 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブを中心人物として召命し、モーセを立ててイスラエル民族をカナンに導き、ユダヤ教を興して選民とし、その基台の上に独り子イエスを送られた神の復帰の摂理は、ここに失敗したのです。またいつの日か,再臨主を迎えるその時まで,神のみ旨は延長されることになったのです。
 「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と祈らざるを得ないイエスの心は,張り裂けるように切なく,死ぬほどの悲しみに満ちていたのでした。

 裁判の夜

 「見よ,わたしを裏切る者が近づいて来た」
 ユダが近づいて来て,イエスに接吻しました。それが合図でした。イエスの逮捕はあっけないものでした。弟子たちは驚きあわて、くもの子を散らすように逃げたのです。ある者はまとっていた亜麻布を握られて、それを脱ぎ捨てたまま裸で逃げて行きました。
 弟子の一人が剣を抜いて下役に切りかかり、その耳を切り落としたというのですが,他に誰も逮捕者がいないところを見れば,事実ではないでしょう。弟子はすべて逃げだして,イエスひとりが捕縛されたのです。人々はイエスを大祭司カヤパの所に連れて行きました。
 さすがにペテロだけは、イエスの後についてきました。あまりに簡単な師の逮捕劇に、ペテロは悪夢を見ているような思いだったのです。彼は大祭司の下役たちと一緒に中庭にすわり、そっとイエスの様子をうかがい、事の成りゆきを見守っていました。
 全議会が召集され,イエスの裁判が始まっていました。彼らはイエスを死刑にする証拠が必要でした。多くの者がイエスに不利な証言をしました。律法を無視した、若者を惑わしている、ローマに税を納めることを拒否した,等々。しかし多くは偽証であって、決定的な証拠がありません。最後に二人の者が証言しました。
 「この人は神の宮を打ち壊し,三日の後に建てることができると言いました」
 「何も答えないのか。あなたは神の子、キリストなのか」
 「そのとおりである」人の子はいまからのち、神の右の座にすわるであろう」
 イエスの答えに,彼らは激高して,言いました。
 「あなたは神を汚している。これ以上、どうして証人の必要があろうか」
 「死にあたるものだ」人々はののしり、イエスの顔につばをかけ、殴ったり叩いたりしたのです。ペテロは中庭から、その様子を見ていました。すると女中が来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒だった」と言いました。
 「何を言っているんだ」ペテロが言い逃れると、また別の女中が人々に向かって「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言いました。
 「そんな人は知らない」ペテロはまたも否定しました。人々が近寄って来て、ペテロに言いました。「確かに彼らの仲間だ。ガリラヤなまりで分かる」
 「その人のことは何も知らない」ペテロは激しく否定して,誓いはじめたのです。すると、すぐに鶏が鳴きました。ペテロはイエスの言葉を思い出して,外へ出ると激しく泣いたのでした。
 夜が明けました。祭司長たちはイエスを十字架にかけるべく、彼を総督ピラトに引き渡したのです。一睡もしていないイエスは、ピラトの前に立たされました。
 総督の尋問にも、祭司長たちの不利な証言にも,イエスは沈黙したままでした。
 祭りのたびに、ローマの総督は囚人のひとりを許してやる慣例になっていました。ときにバラバという囚人がいました。ローマ人を殺害した評判の暗殺者でした。
 「おまえたちはどちらを許してほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわゆるイエスか」ピラトの問いに、群集は答えました。
 「バラバを」群集が態度を変えたのは、祭司長たちが手をまわしたからでした。
 「では、キリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」ピラトはユダヤの預言者を殺すことには,気が進みませんでした。それに妻の忠告もあったのです。
 「十字架につけよ」人々は口々に叫びます。群集の心理はうつろいやすいものです。
 「あの人にどんな罪があるのか。ユダヤの預言者はユダヤ人の手で始末するがいい」
 「十字架につけよ」群集は激しく叫んで,暴動が起りそうになりました。
 「この人の血について、わたしには責任がない」ピラトは手がつけられなくなって、群集の前でわざと手を洗って見せ,そう言ったのでした。
 「その血の責任は,我々と、我々の子孫の上にかかってもよい」
 ピラトはやむなくバラバを許し,イエスを十字架につけるために引き渡しました。
 ローマ兵たちはイエスの上着を脱がせ、赤い外套を着せ、いばらで編んだ冠を頭にかぶせて、棒で叩いてさわいだのです。
 「ユダヤ人の王、ばんざい」人々はイエスを嘲笑して、それから十字架につけるために外に引き出しました。

 ゴルゴダの丘

 ゴルゴダの丘へつづく道は細く,曲がりくねっていました。イエスは十字架を背負い、よろめきながら一歩,一歩、ゴルゴダの丘を登ります。いばらの冠をかぶせられて流れた血の跡が、幾すじも顔につたわり、十字架の重みで折れ曲がった背中には、鞭で打たれた跡が赤く浮きでています。
 十字架による死刑は、ローマの刑罰の中でも最も残酷なものです。囚人は重い十字架を背負って刑場まで歩かされるのです。そして手首と両足に釘を打ち込まれ、十字架に吊るされます。囚人は死に至るまで、想像を絶する苦痛に耐えなければなりません。数時間が経過しても死に至らないときは、ローマ兵が囚人の足を折るか、槍で突き刺して絶命させました。この残酷な人間の死にざまを見物するために,群集が集まるのでした。それはまたローマに反逆する者への、見せしめでもありました。ユダヤでは「木に吊るされた者は呪われた者」と言われていました。
 一睡もせずに引き回され、鞭で打たれたイエスは弱りきっていました。十字架の重みでよろめき、石段につまずいて倒れました。手の自由を奪われたイエスは顔面を石段に打ちつけ、倒れたまま動けません。ローマ兵はじれて、そこにいたクレネ人シモンに無理やり十字架を背負わせると、イエスを引き立てるのでした。もしも神様がそれをご覧になっておられるなら、わが子の惨めな姿に、きっと顔を背けられたことでしょう。
 三人の囚人を取り囲んだ群衆は、ゴルゴダの丘へぞろぞろと移動して行きます。群集の中には、仲間だった二人の囚人と自分の身代わりに十字架を背負ったイエスの姿を、じっと見つめている男がいました。バラバです。その後の彼の人生は、心に重い十字架を背負って生きることになるのです。
 ペテロたちはどこに、どうしていたのでしょうか。三日後の朝、ペテロは走ってイエスの墓を見に行ったのですから、エルサレム市内のどこかに潜んでいたのです。獄までも,死までも一緒について行きます、と師に誓ったペテロたちでしたが、それが現実になるとは思っていなかったのです。師を見捨てて逃げた自分たちの弱さと卑劣さに,彼らは胸を打って嘆き,後悔したことでしょう。彼らはゴルゴダの丘にはいませんでした。しかし、誰かが十字架上のイエスの姿を見に行き、仲間に報告したに違いありません。
 彼らが師を見捨てたのは一瞬の恐怖心からであって、師のやさしさと、師の愛は忘れはしません。十字架の死の前に,イエスは何を語るだろうか。天地を揺るがすような奇跡が起るのか、それとも何も起らずにイエスは逝ってしまうのか、彼らが無関心でいられたはずがありません。
 イエスが弟子たちを愛したように、弟子たちもイエスを愛していました。愛する師が、卑劣な自分たちを許されるだろうか。それとも呪われるのだろうか。彼らはエルサレムのどこかで、じっと息をひそめて師を思っていたのたのでした。
 群集の中には,イエスを売ったユダもいました。十字架を背負って引き出されたイエスの姿を認めると、ユダは驚愕したのです。そして自分の罪の重さに、ユダはたじろいだのです。彼は激しく後悔しました。ユダは銀30枚を握ると、祭司長たちの所へ走りました。
 「わたしは罪のない人の血を売ってしまった。取り返しのつかない罪を犯しました。この金は返します。だから、イエスを返してくれ」
 「我々の知ったことか。その金はおまえのものだ。使うなりどうするなり,自分で始末するがいい」祭司長たちは、ユダの訴えを冷たく退けたのでした。
 ユダは30枚の銀貨を聖所に投げつけると、絶望の叫び声をあげてそこを走り去ったのです。それから彼は、首を吊って自殺しました。イエスと共に死んだ弟子は,皮肉にもイエスを売ったユダひとりでした。イエスを最もよく理解していた弟子は、あるいはユダであったかも知れません。さすがに祭司長たちもその銀30枚を,宮の金庫に入れることはしませんでした。彼らはその金で、外国人のための墓地にする畑を買ったのでした。
 ゴルゴダの丘が見えてきました。群集の中には囚人をののしり、つばをとばす者もいます。しかしイエスを励まし,力づける者の声もなく、弟子たちの顔も見えません。
 民族の英雄として死ぬことはやさしいのです。しかし誰からも見捨てられ、ののしられて惨めに死んでゆくのは辛いものです。イエスはその孤独をかみしめながら、一歩一歩、刑場に向かって重い足をひきずります。
 悲しみ嘆いて泣く女たちの群れがありました。イエスを信じてついてきた女たちです。
 「エルサレムの娘たちよ。わたしのために泣くな。むしろ、あなたたち自身のために、また子供たちのために泣くがよい」イエスは振り向いて、彼女たちに言われました。
 それは、エルサレムの崩壊を予言して言われた言葉でした。イエスの死から30年ほどして、エルサレムはローマ軍に包囲され、壮絶な最後を遂げることになるのでした。

 神の沈黙

 朝の9時ごろ、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立ちました。真ん中の十字架には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という罪状書が掛けられ、十字架の下では番兵たちが,イエスの着物を分けるために、くじを引いていました。
 「あれがユダヤ人の王か。他人を救っても,自分を救うことができないのか。神のおぼしめしがあるなら救ってもらうがよい。十字架から下りてこい」群集の中から,イエスをののしる声が聞こえます。
 「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる者よ、もし神の子なら,十字架から下りてくるがいい。ユダヤ人の王と自称する者よ、自分を救ってみよ」祭司長,律法学者,長老たちも一緒になってさかんにイエスを嘲弄して言うのでした。
 イエスは何も答えられず,沈黙したまま,十字架の苦痛に耐えているようでした。
 イエスは祈っていたのです。苦しいとき、悲しいとき、寂しいとき、いつもイエスは天の父に祈り、慰めを得てきたのでした。そして天の父は、いつも正しい道を示して下さったのです。すべての人間が彼を裏切り、彼をののしり、彼の敵にまわったとしても、天の父だけはイエスを守ってくださるのです。それは天の父が世を愛しておられたがゆえに、独り子イエスをこの世に送られたからです。天の父は彼の中におられ、彼はまた父の中にあるのでした。イエスの生涯はその日まで、常に天の父と共にあったのです。
 右側の強盗は首うなだれていましたが、左側の強盗はまだ元気がありました。
 「おまえはダビデの子か、イスラエルの王か。キリストではないのか。神の子なら自分も救い、我々も救ってみよ」
 左側の強盗は声をあらげて、イエスの悪口を言いつづけていました。その男の憎悪に満ちた声が,イエスの胸につき刺さるのでした。彼は神の愛を説き、弟子たちにも愛し合うことを教え,互いに一つになりなさいと語ってきました。しかし弟子たちは逃げ散り、耳にとどくのは人間の憎悪の声ばかりです。イエスは愛の無力を感じていました。人間を勇気づけ、団結させ、奮起させるのは,愛よりはむしろ憎悪の力なのでしょうか。
 イエスは天の父のみ言を伝えましたが、人々はそれを受け入れませんでした。最後の時になって彼を信じる者が,十字架の下に一人もいないことに,イエスの心は虚しく沈むのです。すると、右側の強盗が言いました。
 「よさないか。おまえは同じ刑を受けながら、神を恐れないのか。おれたちは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。だがこの方は,何も悪い事をしたのではない。ただ、バラバの身代わりにされたのだ」
 彼は左側の男をいさめ、そしてイエスに言いました。
 「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」イエスは彼に顔を向けて言われました。
 「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
 イエスは、ほっと安堵のため息をつきました。楽園の門はひとりで行ったのでは開かないことを,イエスは知っていたのです。共に行く者がひとりでもいれば、楽園の四方の門の一方が開くのでした。最後の時に至って、人の子を信じる者が地上にひとりでもいたことに、イエスは天に感謝したのでした。
 バラバの仲間だった右側の強盗の人生は、神とは縁遠いものでした。彼はイエスの弟子でもなければ、イエスの話を聞いたこともなかったのです。しかし生涯の終わりの一瞬の信仰によって、彼はパラダイスに導かれたのでした。
 時はもう、昼の12時ごろになりました。照りつけていた太陽が隠れると,空は見るみる黒い雲におおわれ、あたりは暗くなりました。雷鳴が鳴っています。
 左右の強盗も静かになり、ぐったりと首をたれて、最後の時を待っていました。群集はまだ、去ろうとはしません。ひそかに、イエスに期待を抱いている者もいました。彼がモーセのような奇跡を起こして血の雨を降らせるか、エリヤのように天に昇天することを待っていたのです。しかし時は何事もなく過ぎて、すでに3時間が経過していました。
 イエスは祈りつづけていました。十字架に釘打たれた手足の激痛はしびれるような苦しみとなり、意識が薄れかけてゆくのでした。
 30余年の短い生涯の一駒一駒が,走馬灯のように駆けめぐります。惨めであった幼い日々、父に愛され、父に教えられ、父の召命を受けて、人類の救い主として立つ決意をした少年時代、そして修行時代、40日の断食とサタンとの闘い、そして弟子たちとの出会い、すべてが天の父の導くままに行動し,天の父の言われるままに語ってきたイエスでした。
 天の父よ、あなたは世を愛され,世の人々を救うために、わたしを世に送られました。わたしはどれほど彼らを集めようとしたことでしょうか。しかしながらこの世の者たちはあなたを知らず、あなたを忘れているのです。彼らはモーセは信じても、わたしを信じようとはしませんでした。あなたが選民とされたアブラハムの子らは、わたしを迫害して鞭打ち、追い立てました。わたしの弟子たちは無学で幼くとも、愛すべき者たちです。どうか彼らを責めないでください。わたしを十字架にかけた者たちは,天の父を知らず、またわたしを知らないでいるのです。知っているなら、このようなことはしなかったのです。それはわたしが、使命を果たすことができなかったからですか。それとも、これが父のみこころだったのですか。これで良かったのですか.父よ、お答え下さらないのですか。
 「天の父よ,彼らをお許しください。彼らは何をしているのか,分からずにいるのです」
 イエスは心のうちで焦りのようなものを感じて,思わず声に出して祈ったのでした。しかし神は,沈黙しておられました。イエスは初めて,不安と焦燥を覚えたのです。十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るときも,手足に釘打たれて激痛にうめくときも、そして今も、神はいっさい沈黙しているのです。イエスの生涯でこのようなことは、かってなかったのです。天の父はなぜ,沈黙しておられるのか、イエスの心に暗い疑念がよぎるのでした。
 身をよじると、四肢に激痛が走りました。空は真っ暗になり、眼下の人々の姿も見えなくなりました。イエスは暗闇に吸い込まれるような、無限の底に沈んでゆくような、恐ろしい感覚に襲われたのです。そして残っていた力が、のどをついて、暗雲を切り裂くような言葉となって、イエスは大声で叫んだのです。
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 イエスの叫ぶ声を聞いた群集の中には、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と思った者もいました。ある者が海綿に酸いぶどう酒を含ませたものを棒の先につけて、イエスに飲ませようとしました。
 「待て、エリヤが救いに来るかどうか、見ていよう」
 人々はその男を押しとどめ,息をひそめて十字架上のイエスを見守るのでした。

 最後の闘い

 闇の底へ、どこまでも沈んでゆくようでした。よほど長い時間が経過したのか、それとも一瞬のことかは判然としません。地獄の底から聞こえるような笑い声がして、それはイエスを嘲笑う高笑いとなりました。荒野40日断食の後に現れたサタンが,再びイエスの前に現れたのです。
 「神の子イエスよ、ようこそ黄泉の国へおいでくだされた。イエスよ、神を恨んで叫ぶがいい。あなたがいくら叫んでも,神は沈黙して答えられない。神は独り子のあなたを、このわたしに渡されたのだ。神はあなたを,見捨てられたのだ」
 「サタンよ退け。あなたはそのおるべきところを捨て去った御使ではないか。神に仕えるべき僕ではないか。神に反逆する者よ、このわたしをも支配しようというのか」
 「あなたは奇跡の人だ。盲人の目を開き,足なえを癒すのが奇跡ではない。そのようなことは悪霊でもできる。しかしあなたは、神の血統をもって生まれた軌跡の人だ。この世の人間たちは、みなわたしの血統のもとに生まれたが、あなただけは違う。あなたの子孫が地上に残り、生みふえることが、わたしにはいちばん恐ろしい」
 「神の愛する息子・娘、アダムとエバを誘惑して堕落させ,悪の血統を植えつけたあなたの罪は,連綿とつづいて消えることがない。堕ちた天使よ、あなたは神に痛みと悲しみを与えた張本人なのだ」
 「わたしは地に落とされて,この世の神となった。地上の人間はみなわたしの子たちであって、わたしを慕い、わたしから離れようとはしない」
 「神は世を愛されたがゆえに、このわたしをメシヤとしてつかわされた。わたしは地上の人間の,霊と肉とを救うために来たのだ」
 「だがあなたは失敗した。地上の人間を救うどころか,彼らによって十字架につけられているではないか。神はあなたを見捨てられた。を神を恨んでわたしに従うがいい。あなたがわたしを拝むなら,地上の王にもしよう。この世の栄華のすべてをあなたにあげよう」
 「サタンよ,退け。神に反逆する天使長よ、悔い改めて元の位置に戻るがよい」
 「イエスよ、あなたは確かに第二のアダムだ。アブラハムよりも先に生まれた、堕落していないアダムだ。だが、わたしはアダムよりも先に生まれているのだ。わたしは神と共に万物を創造し、神と共に喜びあった。アダムとエバが誕生した時にも、わたしは神と共に喜びあった。神がアダムとエバを愛されるなら、わたしをも愛されるべきではないのか」
 「天使長よ、あなたは自分の立場を忘れ、過ぎた欲望を抱いてエバを誘惑し、アダムの地位を奪った。あなたの犯した罪は大きい。神は嘆き、悲しんでおられる。サタンよ、神の子こたちを解放して、あなたも神に帰るがいい。わたしの肉身は、その代償として渡されたのだ」
 「よろしい。彼らを一時は手放そう。わたしには彼ら人間すべてよりも,神の独り子のあなたのほうが重要なのです。人間たちはいつでもわたしを慕い、わたしに戻ってくる。モーセに導かれて出エジプトをした、イスラエルの民を見るがいい。彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に向かったが、荒野に出れば水がない、食べ物がないと叫んで,エジプトを恋しがったではないか。彼らの心は神にではなく、このわたしに向いていたのだ」
 「彼らはみな荒野で倒れてしまったが、その二世たちはカナンに入り,神の選民となった」
 「だが、その選民たちを見るがいい。祭司長や長老たちは神の子イエスを捕らえ、十字架にかけて殺すことが神に仕えることだと思っている。彼らの神は,実はこのわたしなのだ」
 「彼らは偽善者だが、それを操っているあなたは、さらなる偽善者ではないのか。彼らもその偽善に気づき、あなたの偽善をあばく時が来るであろう」
 「彼らは愛よりも憎悪を,平和よりも争いを好んでいる。わたしの性稟と血筋をひいた、わたしの子どもたちだ。地上で好き勝手に生きて,命つきればみな地獄の門に行列する。イエスよ、神の国など地上にも、天上にも、どこにもないではないか。みな地獄に行き、わたしの奴隷になっている。イエスよ、あなたもわたしに従うがいい」
 「黙れ、サタンよ。たとえわたしの肉身は奪っても,霊魂まで奪うことはできない。わたしの霊は復活するだろう。そしてわたしは,人の心を父なる神に向けさせるであろう」
 「地上の人間は、目に見えるものしか信じない。彼らに食物を与え、美しい物、珍しい物を与え、快楽と権力を与えるなら、人間はみなわたしの言いなりだ。彼らは神を忘れ、神は死んだと言い、神はいないと言う。神の愛など何になるか」
 「神に反逆する者よ、あなたは常に不安と恐怖におびえている。あなたが支配する地上の人間は、憎みあい,奪いあっている。あなたが人間に与えたものは,不安と恐怖と,怒りと裏切りではないか。そして悪霊となったあなたの手下たちは,地上の人間に疾病と不幸をもたらしている。しかしながら神が与える愛は、自由と平安と,美と健康と、幸福もたらして下さる。どちらが優るだろうか」
 「彼らがわたしを慕うのは,彼らの勝手ではないか。彼らはみなわたしの子たちだ。カインの末裔だ。彼らは時に、わたしも恐れるほどに残虐非道なことをする。彼らは万物以下になった。神がいないなら,何をやってもいいと思っている」
 「天使長ルーシェルよ、あなたも神に創造された,天界の霊的な存在ではないのか」
 「わたしは一瞬の血気から,神に反逆して地に落とされた」
 「人間が神を否定するなら,霊的な存在であるあなたも否定するでしょう。あなたは人間を滅ぼそうとしてきた。しかし人間を滅ぼすなら,あなたも滅びるのです」
 「人間ほど変わりやすいものはない。このわたしでさえ、ときには信じられなくなる」
 「ルーシェルよ、一日一時も早く神に謝罪して、神に帰るのです」
 「だが神は,許しては下さらないだろう」
 「あなたは道を踏み外した天使長です。神は相対立するもうひとりの悪神,サタンの存在を認定はされません。ルーシェルよ、早くそのおるべき位置に戻ることです。神はあなたを許し,あなたも救われるでしょう」
 「イエスよ,あなたは真に,神の独り子であることよ」
 サタンはイエスから遠ざかり、退いてゆきました。
 イエスは闇の底から,再び上昇するのを感じました。一条の光が射して、それは次第に明るく,大きくなりました。そしてイエスは,懐かしい神の声を聞いたのです。
 「愛するわが子よ、あなたはよくぞ、闇の力に勝利した。あなたはわたしを信じて,疑うことがなかった。それゆえわたしは、あなたを復活させるでしょう」
 「ああ、父よ、思わず恨みの声を発してしまったわたしを、どうかお許し下さい。父が沈黙されておられた理由が,今こそ分かりました。アブラハムにイサクの献祭を命じられたときも、あなたは沈黙されていました。アブラハムは神に見捨てられようと、絶対信仰を立てました。たとえこの身がサタンに渡されても、あなたを信じて疑わないことが、わたしの復活の条件になるのでした」
 「わが子イエスよ、カインの子らも、みなわたしの子だ。わたしが創造した人間だ。彼らを救わなければ,親としての威信と面目が立たないではないか。たとえあなたの身を、闇の力に任せてでも、わたしは人間を取り戻さなければならなかった」
 「父よ、ゴルゴダの丘を登り,十字架に釘打たれるわが子を見下ろすあなたは、わたしの何倍もの痛みを覚えられたのですね。わたしに顔を背け,沈黙を守るしかなかったあなたは、二重の痛みと悲しみに打たれたのです」
 「わが子よ、ありがとう。あなたは復活して,弟子たちを再び集めるのです。わたしは彼らに聖霊を送ります。彼らは新生して、強きキリストの使徒となるでしょう。そして世界の隅々にまで神のみ言を宣べ伝え、人の心をわたしに向けさせるでしょう。そして時が至ればいつの日か、わたしは再び地上にあなたのような、再臨の主を送ります」
 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」
 イエスが呟いたその言葉は、ルカによる福音書に記録されています。
 イエスは燦然たる陽光に包まれ、天使がラッパを吹き鳴らして宙に舞うにを見ました。そして天と地が揺らぎ、墓場のように暗い霊界から、旧約時代の預言者たちがイエスを出迎えに、踊りながら現れるのを見るのでした。
 「すべてが終わった」
 イエスは首をたれて、息をひきとられました。暗雲を切り裂くように稲妻が走り、雷鳴がとどろき、そして雨になりました。激しく降る雨は、すべてを洗い流したのでした。
 「まことに,この人は神の子であった」
 イエスの最後を見とどけた百卒長は、そう言ったのでした。

 十字架を越えて

 イエスが息をひきとる瞬間、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とマタイは記しています。それはイエスの霊魂が、肉身から離脱したことを意味していたのです。
 神殿の起源は、モーセの時代の「幕屋」です。40年の荒野流浪の時代に,神はそのサイズから素材まで詳細に教えられ、モーセに「幕屋」を造ることを命じらました。神の意図はどこにあったのでしょうか。それはイスラエル民族があまりに神を不信して、サタン側に引かれたからです。モーセまでもが神を不信したなら、神の復帰の摂理は挫折してしまうのです。「幕屋」は神の住まいであり、メシヤの象徴体でもありました。
 モーセは民の不信に怒り、思わず岩を二度打ってしまったのです。それは神を打つ行為であったので、「あなたはカナンにはいることはできない」と神はモーセに言われたのです。神を不信した一世たちはみな荒野に倒れ、カナンに入ったのはヨシュアとカレブの二人だけでした。
 「あなたの命じられる言葉に聞き従わない者があれば、生かしてはおきません。ただ、強く、また雄々しくあって下さい」(ヨシュア記1:18)二世たちはヨシュアとカレブに、絶対的な忠誠を誓ったのでした。
 ヨシュアとカレブの「40日カナン偵察」が、新しい出発の条件期間でした。二人を助けたのが、遊女のラハブです。こうして彼らはカナンに入り、カナン七族を滅ぼして定着しました。やがてソロモン王により、壮大な神殿が建設されたのでした。
 神殿には聖所と至聖所があり、幕によって隔てられていました。それはメシヤの霊と肉を象徴するものですから、イエスの霊と肉が分離した瞬間に,真っ二つに裂けたのです。しかしイエスは復活しました。「神殿を三日のうちに建てる」とは、メシヤの実体であるイエスの復活を意味していたのでした。
 「幕屋」はメシヤの象徴体ですから、リレーのバトンのように、モーセからヨシュアらに受け渡すことができました。しかしイエスはメシヤの実体です。サタンはメシヤの肉身を奪うことが最大の目的です。神はその蕩減原則により、イエスの霊人体を復活させることができたのです。それがイエスの十字架の死と、その復活であったのです。
 イエスの40日の復活が、新しい出発の条件期間となりました。聖霊が下ってペンテコステが起り、弱かった弟子たちは、強く雄々しいキリストの使徒に生まれ変わりました。彼らは復活したイエスに,絶対的な忠誠を誓ったのでした。
 生まれるには父母が必要です。イエスと聖霊は、霊的な真の父母であったのです。こうして弟子たちは「新生」して、キリスト教が出発しました。
 イエスの生涯の第三幕は、霊的な復活によって幕を開けました。それはあくまで霊的な路程であり、イエスの勝利は霊的なカナン復帰であったのです。イエスを信じる者は、霊的には救われたとしても、肉的な救いは果たされてはいないのです。
 イエスは愛と平和を説きましたが、現実の歴史は分裂と闘争でした。宣教師は世界の隅々にまでキリスト教を伝えましたが、為政者はその後に上陸して、次々に植民地にしたのです。イエス以後の人類歴史も、それ以前と同様に、悲惨な戦争の歴史でした。地上のどこにも、神の国は建設されていません。しかしながら歴史は、規模と範囲を拡大しながら、らせん状を描いて、確実にある終末に向かっているのです。その人類歴史の背後で、神は今も生きて働いておられ、復帰の摂理をされているのです。
 さて、イエスとキリストの使徒たちは、天国で楽しく暮らしているのでしょうか。夢のような話ですが、李相軒先生の霊界通信により、イエス様の様子が伝えられたのです。(「霊界の実相と地上生活」より)
 それによれば、イエス様は霊界で「天上天下唯我独尊」的な生活をされているということです。つまりイエス様は、お寂しい生活をされているということです。そこは天国ならぬ楽園であるのです。キリスト教の使徒たちは天国の門を眺め、「主よ、あなたと共に行きましょう」と言えば、「わたくしイエスは、主の資格でここにいるのではなく、神様の息子の資格でここにいるのであり、私はここでも幸福です」とお答えになるというのです。
 イエス様は神様の恵沢を受けておられないかと言うと、そんなことはなく「イエス様と神様がともにお出かけになる姿を何度か見ました」と李相軒先生は伝えています。
 「イエス様は楽園で祈っておられる」と文師は語っています。楽園とは天国に入るための、待合室のような所なのです。ではイエス様はいつ、天国に入ることができるのか。
 「真のご父母様が霊界に来られて、霊界を整理なさる時まで待たなければなりません」と李相軒先生は霊界より伝えています。

 再臨主の時代

 西暦2000年2月、文鮮明師は80歳の誕生日を迎えられました。
 イエスの生涯の第二幕は、十字架への道でした。キリスト教が文師をメシヤとして受け入れなかったとき、文師はイエスの恨を解怨する蕩減の路程を歩まれるのです。それは十字架の死に等しい興南の牢獄からの出発でした。国連軍の興南の爆撃は、神のメシヤ救出作戦でもありました。パイロットたちは大空に、イエス・キリストの姿が雲となって現れたのを目撃したのです。
 荒野路程40年の最後の年である1985年、文師は十字架を越えて、ダンベリー刑務所を出監されます。これより実体的カナン復帰の、21年路程が開始されました。文師の前半生は、本然のエバを復帰する路程でもありました。アダムとエバがサタンの誘惑によって堕落して、サタンの血統を地上に生みふやしたのですから、真の神の息子・娘が誕生して、神の「祝福」を受け、真の夫婦となり、真の父母にならなければなりません。真の父母は神の代身として、「祝福」を授ける権能をもつのです。
 1960年、40歳の文師は韓鶴子女史と聖婚式を挙げられました。この時、霊能者は天地が合体するヴイジョンを見たのです。地上に初めて神が「祝福」する、真の父母が立ったのです。それは人類歴史が転換する記念すべき日でした。1960年以降、動乱と戦争の人類歴史は、収束へと向かうのです。
 真の父母によって三弟子が「祝福」され、36家庭が「祝福」され、祝福家庭は次第にその数をましてゆきました。「祝福」はサタンの血統から、神の血統へ転換する式典でもあります。野生のオリブの木も、真のオリブの木に接ぎ木されれば、真のオリブの木になる道理です。サタンは血統のゆえに、人間の所有権を主張するのです。その血統が神側に転換されるなら、サタンは退かざるを得ません。サタンにとっての死活問題です。ですからサタンの妨害と反対は、凄まじいものがあったのです。
 1992年8月、ソウルにおいて3万双の「祝福式典」が挙行されました。「祝福」の恩恵が宗派を越え、民族を超えて世界的に与えられたのです。そして文師は、公的に「メシヤ宣言」をされました。また「人類の真の父母」であると宣言されたのです。サタン側の反対も世界的になりました。日本のマスコミもさかんに反対報道をしました。しかし「祝福家庭」はその数をまして、世界に波及していったのです。
 21年路程の、二次目にあたる1999年、地上人のみならず、数億の霊人たちも「霊界祝福」を受けました。サタンは地上にも霊界にも、その居場所を失って孤立するのです。しかしサタンの残党は、最期の大暴れをしています。
 21世紀は再臨主の時代になることでしょう。終末とは、既成の価値観が崩壊する現象でもあります。若者は生きる目的を見失い、刹那的な快楽に溺れて、麻薬やフリーセックスがはびこるのです。それは価値観を再構築するための、必然的に起こる過程でもあると言えるのです。
 「イエスのなさったことは、このほかにもまだ数多くある。もしいちち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」とヨハネによる福音書は結んでいます。文鮮明師の業績もまた、書ききれないほど多岐にわたっています。今はまだ人々の目に見えなくても、植えられた種はやがて芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶことでしょう。そして半世紀にわたって語られたみ言は、300巻余の書物となっています。
 「統一思想」は地上界と霊界を貫く天宙的な理念です。それまでの思想は現実世界のみを問題にして、神や霊界は宗教の分野とされてきました。地上界と霊界を分断したものとして考えるなら、人生の目的も、幸福の意味も分からないのです。「統一思想」は神の創造原理から解明された、体系的、立体的な思想なのです。
 イエスは、ひそかに訪ねてきたニコデモに対して、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ3:12)と多くを語りませんでした。しかし文師は霊界について、多くのことを語られています。21世紀は霊界の存在が、誰の目にも明らかになるでしょう。霊界で永生するとなれば、地上生活での価値観が転換するのです。もはや罪を犯すことも、自殺することもできなくなるのです。その時に初めて、地上に真の平和と平等が訪れるでしょう。
 人間を罪悪の歴史に追い込んだのは、サタンです。サタンは神の怨讐です。イエスの生涯も、サタンとの闘いでした。そして文師の生涯もまた、サタンとの闘いであったのです。しかしサタンの悪行も、終焉する時が来ました。最後に、李相軒先生の「人類の犯罪者ルーシェル」より、「人類への謝罪文」を紹介させていただいて、終わりたいと思います。

 「すべての人類の前に捧げます。人類の犯罪者ルーシェルです。神様でない存在が神様のような行いをし、人類に原罪の血統を繁殖させた悪魔ルーシェルは、すべての人類の前に犯罪者として一言もありません。今からは貧困と苦難の病魔が退き、神様の新天地が開かれれば、貧困と病魔よりも、愛と踊りの世界で、すべての人類に平和が来ることでしょう。私ゆえに病苦に苦しむようになった苦難と戦争の歴史の前に,一言の弁解すらすることのできる機会も、今はもうないと思います。無条件に申し訳ありませんでした。数限りない人類たち、宗教人に対して誤ったことも弁解いたしません。すべての人類が神様の子女として幸福であることを願いながら、(本然の)ルーシェルに帰ってまいります」

 (1999年3月21日)            人類の犯罪者ルーシェル

                           (第二部完)

  参考文献

 聖書(日本聖書協会)
 原理講論(光言社)
 文鮮明先生み言選集(成和社)
 聖地定州(武田吉郎著・光言社)
 イエスの福音とパウロの福音(野村健二著・光言社)
 霊界の実相と地上生活(光言社)
 人類の犯罪者ルーシェル(光言社)
 統一教会の正統性(大田朝久著・光言社)

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