第五章 悔い改めよ天国は近づいた

イエス公生涯の出発

 「悔い改めよ、天国は近づいた」
 イエスがキリストとして立った第一声は、天国は近づいたという喜ばしい知らせ,福音の訪れを告げる言葉でした。これよりいわゆるイエスの公生涯が出発します。イエスおよそ30歳にして立ち、約三年半の間、ガリラヤ湖畔の村や町を回られ,最後にはエルサレムに上って十字架にかかる短い生涯でした。
 イエスの生涯を知る手掛かりは,四つの福音書の他にはないようです。イエスの生涯が三年半というのは、ヨハネの福音書によれば、イエスがエルサレムの祭りに三度上ったように書かれているからです。しかしマタイ、マルコ、ルカの各福音書では、イエスは最後にエルサレムの祭りに上り,神殿で鳩を売る商人の腰掛けや,両替商の台を蹴散らし、それから十字架にかかるのですから、イエスの公生涯は一年以内であったかも知れません。ヨハネでは宮清めは、最初に行われたことになっています。
 四つの福音書の細かい事実や,順序に違いが見られます。例えばイエスの墓を見に行った女性たちが,マタイではマグダラのマリヤと他のマリヤの二人、そしてそこに一人の天使がいました。マルコではマグダラのマリヤと、ヤコブの母のマリヤにサロメの三人,天使は一人です。ルカでは女たちと,天使が二人です。ヨハネではマグダラのマリヤがただ一人で、天使が二人、そして墓の外にイエスが立っていたのでした。
 またペテロがイエスの弟子になるいきさつも、それぞれに違います。マタイ、マルコではペテロと呼ばれたシモンと兄弟アンデレが、ガリヤラ湖で網を打っている時、イエスが声をかけます。「人間をとる漁師にしてあげよう」この一言で、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従ったのです。
 ルカではイエスはガリラヤに帰り、まず諸会堂でみ言を語り、それからナザレに帰るのです。故郷では、イエスは崖から突き落とされそうな目にあうのです。故郷を出たイエスはゲネサレの湖畔に立ち、漁師のペテロに「沖にこぎ出して網を下ろしてみなさい」と言うのです。ペテロがそのようにしてみると、夜通し漁をしても何もとれなかったのに、今度は網が破れるほどの大漁なのです。驚いたペテロは、イエスの弟子になるのです。
 ヨハネでは、アンデレとペテロは洗礼ヨハネの弟子のように書かれています。まずアンデレがイエスの弟子になり、それからペテロもイエスについて行くことになっています。
 このようにそれぞれに異なる福音書を資料として、イエスの正確な伝記を書くことは不可能です。またそれだけに書き手の想像力を刺激して、多くのイエス物語が生まれたのでしょう。あるいはイエスの奇跡の生涯を映像化して見せる映画が作られてきました。
 ギリシャ語を学び,ヘブライ語を学び、福音書をどんなに研究しても,知ることができないものがあります。イエスは本当に奇跡を行ったのか、墓に行ったのは誰と誰だったのか、そのような事実は瑣末なことです。現代人には関係のないことです。本当に知るべきことは、イエスの思想、イエスの心情です。
 イエスの思想はマタイの第五章,第六章,第七章に集約して書かれているようです。しかしそれはあまりにわずかであって,膨大なキリスト教神学を構築するには足りません。むしろイエスの言葉よりも、後のパウロの書簡から、キリスト教神学は構築されているようです。しかしイエスのみ言と、パウロの思想とには、明らかな相違があるのです。
 では本当にイエスが語りたかったこと、イエスの思想とイエスの心情を、どのようにして知ることができるでしょうか。神とイエスに,直接聞いてみるしかないのです。ではどうしたら、そのようなことができるでしょうか。それができるという人の言葉に,耳を傾けてみるしかありません。
 文鮮明師の説教、特にその初期においては、話は常にイエス様に及ぶのです。イエス様を軽んじているという非難は当たりません。文師はイエス様を神の皇太子と呼び、床に涙の水たまりができるほどに泣いて祈られ、イエスの悲しい心情と、神の痛みを訴えてこられたのです。そして今日まで,イエスの恨と、神の恨を解怨すべく、あらゆる非難、中傷、攻撃、迫害に耐えて、み旨の道を歩んでこられました。
 文師を迫害する中心となったのは、既成キリスト教会であったのです。自称メシヤ、偽キリスト、世を惑わす者、神とイエスを冒涜する者、悪魔の化身、気が狂っている、淫行のメシヤ、聖書を勝手に解釈している、豪邸に住んで食を貪る者、若者を洗脳している、家庭を破壊する者、脱税している、韓国の田舎に生まれた者がどうしてメシヤか、等々、あらゆる事が言われてきました。
 二千年前のイエス様はどうでしょうか。福音書をよく読んでみれば、文師と同様の非難を受け、中傷、迫害、攻撃されたのです。その中心となったのは、祭司、律法学者、パリサイ人等、ユダヤ教のエリートたちだったのです。

 奇跡による出発

 「悔い改めよ、天国は近づいた」とは、洗礼ヨハネの言葉でもありました。ヨハネは奇跡を行う人ではありません。峻厳なみ言を語り、そして洗礼を授けていました。それでもユダヤ人たちは、この人こそエリヤか、あるいはメシヤその人ではないのか、と思ってヨルダン川のヨハネのところに集まってきたのです。
 公生涯を出発したいエスは、まず誰にみ言を伝えたかったでしょうか。神が備えた選民の中の選民、すなわち祭司、律法学者、パリサイ人たちであったはずです。それから母や兄弟たち、親族の者たちであったはずです。それでイエスはガリラヤから、生まれ故郷のナザレに帰ったのです。しかし「預言者は、自分の郷里では歓迎されない」ものでした。
 ヨハネは名門祭司の息子でしたが、イエスは大工の息子で、おまけに私生児と思われていました。そんな男が突然に会堂に現れて、これまで聞いたこともないような話を始めたとしたら、誰が信じるでしょうか。イエスは祭司たちに会堂を追い出され、怒った群衆はイエスを町の外に連れ出して丘の崖まで引きずり、突き落とそうとさえしたのです。
 この様子を見聞きしていたのが、ガリラヤ湖畔の漁師ペテロとアンデレの兄弟でした。彼らも、パリサイ人には反感を抱いていたのです。それでイエスと話してみれば、悪い人には見えません。その上、イエスの言うとおりに網を下ろしてみると、驚くほどの大漁です。この人には神がついている、と素朴な漁師が信じたのも無理はありません。
 イエスの弟子になったのは無学な漁師,人に嫌われる取税人,病人や、いかがわしい女性たちでした。聖書を学んだパリサイ人は、一人として弟子にはならなかったのです。
 パリサイ人や役人の中にも,イエスの教えに興味を示す人がいました。そして食事に招待することもあったのです。そんな席でされたイエスの譬え話に、天国の王子の婚姻の話があります。ルカでは第十四章、マタイでは二二章にあります。
 王は僕をつかわして,王子の婚姻に招かれた人たちを呼びにやります。ところが招かれた人たちは何かと理由をつけて、誰も来ようとはしません。王は立腹して、その町を焼き払ってしまいます。そして僕たちに言いました。
 「婚姻の用意はできているが、招かれていたのはふさわしくない人々であった。だから町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」そこで僕たちは出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚姻の席はいっぱいになった。
 この譬え話は、み言を聞こうともしないパリサイ人たちに対する,イエスの憤りと嘆きと、皮肉の言葉でした。神が備えておかれた人々は来ず、集まったのは路傍に捨てられたような、無知で貧しく,哀れな人々だったのです。イエスの直弟子たちでさえ、師のみ言を理解できませんでした。
 いつの世でも、大衆が求めるものは奇跡と御利益です。先導者である洗礼ヨハネを失ったイエスは、仕方なく奇跡をもって大衆を集め、そこでみ言を語るしかなかったのです。しかしイエスのみ言は,大衆が求めるものとは次元が違う,天国の理念であったのです。
 奇跡では、人の心を変えることはできません。そして奇跡と御利益がなくなれば、移り気な大衆は去ってしまうのです。イエスの悲劇はそこにありました。

 山上の垂訓

  こころの貧しい人たちは、さいわいである、
   天国は彼らのものである。

 マタイ五章の,山上の垂訓と呼ばれる八つのみ言は,最も短く,最も美しい演説とされています。そのいずれにも「さいわいである」とあります。これが福の訪れ,福音書のいわれです。「天国は彼らのものである」と結ばれているように、イエスは天国の理念をもたらす,神の皇太子であったのです。
 「こころの貧しい人」がどうして「天国は彼らのもの」なのでしょうか。こころが貧しいとは,こころが悲しんでいる人、こころが飢え渇いて,義を求める人,そして義のために迫害される人のことです。その心は柔和で、あわれみ深く,清く、そして平和を求める人でなければなりません。
 この世の人々は富と権力を求め,地位と名誉を求め、あるいは快楽を求めて争いあっています。天から見下ろせば、それは愚かにもおぞましい人間の地獄絵図であることでしょう。ガリヤラ湖畔は花が咲き乱れ,自然はのどかで美しいのですが、そこで暮らす人々は貧しく虐げられ、熱病やさまざまな病気に苦しんでいたのです。また障害者,らい病人は,自身か先祖の罪の現れとみなされて、病苦と共に精神的な差別を受け、二重の苦しみを受けていたのでした。
 そしてユダヤの国そのものが、ローマ帝国の支配下にあって,うめき苦しんでいた時代です。イスラエル民族を率いて立ち上がる英雄、ローマ帝国の支配から祖国を解放してくれるモーセのような奇跡の人、それが大衆が求めるメシヤ像でした。しかしイエスが語る天国の理念は、ユダヤ一国を越えた、全人類を救う根源的な理念であったのです。神の国はいつ来るのか、というパリサイ人の問いに,イエスはこう答えています。
 「神の国は,見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は,実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:20)
 神の国は心の中にあるというのです。人間の心が変わらなければ,天国は実現しないと、イエスは言うのです。地上的な価値観から,天上的な価値観への転換がなされなければなりません。この世では捨てられたような人であっても、心が何かを求めて飢え渇く人々こそ、天国は彼らのものになるというのです。その反対に,この世の指導者の立場に立つ祭司や律法学者は,頭が既成観念でいっぱいに詰まっているのです。
 「偽善な律法学者、パリサイ人よ、あなたがたは、わざわいである」(マタイ23:23以下)とイエスは決めつけるのです。彼ら盲目であるのに見えると言い張り,盲人が盲人を導いているようなものです。彼らは外側だけを飾り,内側は貪欲と放縦に満ちているというのです。彼らは人の目につくところで祈り、いかにも断食しているといわんばかりに人に見せるのです。彼らは律法を守り、安息日を守ってはいますが、神が与えられたその意味を失っているのです。つまり神とは何の関係もないところで祈り,聖書の言葉の奴隷になっているのです。本来は神が備えた選民の指導者であるにもかかわらず、預言者たちの血を流し、いままた神の子イエスの行く道を,妨害する者となったのです。
 「へびよ、まむしの子よ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」(マタイ23:33)
 イエスが叫んだ相手は,犯罪者や娼婦ではありません。その逆に,アブラハムの子であると自負する律法学者や、パリサイ人たちユダヤ教の指導者です。洗礼ヨハネも同じように叫んでいました。またイエスは、このようにも言うのです。
 「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりに行おうと思っている」(ヨハネ8:44)
 悪魔とは、すなわちサタンです。イエスはユダヤ教の指導者たちをして、サタンの血統を受け継ぐ者たちだと言っているのです。イエスはエデンの園における、アダムとエバの堕落行為を知っていたということです。そしてその父が、へび、すなわち天使長であることも、神の啓示によって知っていたはずです。アダムとエバの後孫はサタンの血統を受け継いで,地上に生み広がったのです。この地上はサタンが握り、サタンが主管する世界になったのです。この天上の秘密を,イエスは知っていたはずです。これをより明確に解明し,体系化したものが「統一原理」の中の「堕落論」です。

 心の中の罪

 マタイの第五章,山上の垂訓につづくイエスのみ言は,人間には実行不可能と思えるほどに厳しい,究極の道徳律です。
 イエスは律法を廃するためではなく、成就するためにきたのです。律法の一点、一画もすたることなく、ことごとく全うされると言うのです。それを破り、またそう教えたりする者は、天国では最も小さい者と呼ばれる、とイエスは語ります。この点においてイエスは明らかにユダヤ教徒であり,ユダヤ教の改革者であったのです。人が義とされるのは、行いではなく信仰による、というパウロの教義とは違うのです。そしてイエスが人間に要求していることは、心の中の罪までも清算しなさいということです。
 罪といえば、私たちはすぐに犯罪を連想します。警察に捕まって裁判で有罪になった者が犯罪者であって、人に見つからなければ罪ではない、と考える人が日本人には多いのです。しかしキリスト教では,人間は原罪を負うとします。人類始祖のアダムとエバの堕落により、その血統を受け継いだ人間は,罪の下に生まれたというのです。また先祖からの遺伝的な罪があり,連帯的に負うべき罪があります。一般にいう罪とは、自分で犯した自犯罪のことです。
 「罪とは,サタンと相対者基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう」と「統一原理」は定義づけています。つまり罪を犯す以前の,罪の根になるべきものが心の中にあれば、すでにそれは罪であるということです。イエスが言わんとすることも、まさに心の中のサタンを分立せよということです。
 殺人を犯した者は犯罪者ですが、その動機が怒りであるなら、心中の怒りをまず清算しなければなりません。「兄弟に向かって愚か者、ばか者という者は、地獄の火に投げ込まれる」とイエスは表現するのです。
 「姦淫するな」とはモーセの律法です。イエスはさらに、「情欲をいだいて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたのである」と言うのです。もし右の眼が罪を犯すなら、それを抜き出して捨てよ。右の手が罪を犯すなら、それを切って捨てなさい、とまでイエスは言うのです。本当に右手を切ってしまった牧師さんがいたという話がありますが、そんなことをしたらみな手を切らなければなりません。心の中の罪を分立せよという意味です。
 「誰かが右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやり」「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とは究極の愛の言葉です。イエス以前の宗教家に,敵を愛するという思想があったでしょうか。憎むから敵であって、愛するなら敵ではありません。人間的は発想からは、敵を愛するという思想は生まれてきません。
 「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というイエスの言葉は、神の創造目的を知らなければ言うことのできない言葉です。神は愛するための相対として、人間を創造されたのです。人間は本来、神に似た者として創造されたのであり、成長して完成すれば神のように完全な者になるはずであったのです。
 しかし堕落することによって、堕落性本性がその心に染みついてしまったのです。天使長が神に反逆したその瞬間の心情が、堕落人間の本性になっているのです。
 「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるものであって、これらのものが人を汚すのである」(マタイ15:19)というイエスの言葉は、「堕落論」における堕落性本性そのものです。
 手を洗わないで食事をすることは律法違反だとしても、それは外的な事であって、心の本質とは係わりのないことです。形式的なことのみにとらわれている律法学者を、イエスは偽善者と決めつけるのです。
 「原理」では心中のサタンを分立することによって、万物以下に落ちた人間は次第に、段階的に本然の姿に復帰すると教えています。しかし心中のサタン分立のみでは、つまり自分の努力と信仰だけでは、サタンの血統転換は不可能なのです。

 天上天国と地上天国

 天国といえば、この世のものではない、あの世のことと考える人がいます。汚濁に満ちたこの世を捨てて「あの世の天国に行こう」などと死を選ぶ人、心中する人が絶えません。確かにこの世は天国というより、地獄のようです。人類歴史は連綿とつづく、地獄絵図のようです。ある一時、ある人々が天国のような生活をしたとしても、やがてそれも汚濁に飲み込まれてしまったのです。桃源郷は、夢の中でした。
 「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)とイエスは、ピラトに答えます。しかしその時すでにイエスは十字架にかかる決意をされていたのです。地上天国の実現は、もはや不可能になっていたのでした。しかし神がイエスを地上に送られた本来の目的は、地上に神の国を造ることであったはずです。
 イエスは弟子たちに、「あなたがたはこう祈りなさい」と教えています。

  天にいますわれらの父よ、
  御名があがめられますように。
  御国がきますように。
  みこころが天に行われるとおり、
  地にも行われますように。
  ・・・・・・・・

 イエスが教えて祈りは、今日も世界人類が共に祈らなければなりません。「御国がきますように、みこころが天で行われるとおり、地にも行われなすように」と祈り、人間がみなイエス様のように完成して、互いに愛し合うならば、地上は自動的に天国になるはずです。神が与えた「三大祝福」を、人間が地上で成就するならば、地上は本然のエデンの園になるのです。イエスはペテロに天国の鍵を授けて、こう言われました。
 「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)
 地上と天上は表裏一体であって、別々のものではあり得ないのです。「創造原理」によれば、神は愛する相対として、霊肉あわせ持つ人間を創造されました。この肉体は神の体であり、また肉体がなければ繁殖ができません。それで神は肉体を持つ人間を創造されたのです。しかし肉体は物質で造られたものですから、やがて古びて朽ちるのです。肉体は死を迎えますが、霊人体はそのまま霊界に行き、そこで神と共に永生するのです。
 つまり人間の心は、地上でも天上でも、変わりがないということです。とすれば、地上で地獄のような苦しみを味わった人間が、心がそのままで天国に行くことはできません。人間はこの地上で培った、心霊の明るさに適応した霊界に行くのです。地上で罪を犯せば、心が暗くなります。心霊が暗く歪んだままで霊界に行くなら、明るい霊界ではまぶしくて、苦しくなるのです。それで暗い霊界に,自らが求めて行くのです。霊界は想念の世界ですから、心のうちを隠すことができません。人の恨みをかえば、それがもろに心に突き刺さるのです。それで暗い洞穴のようなところで、じっと潜んでいるのが地獄です。それはこの世でも、同じことです。犯罪者は世に隠れて棲むのです。
 「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」(ヨハネ14:2)というイエスの言葉は、霊界のことです。霊界は広大無辺であるようです。
 では、イエスの言う天国とは、どのようなところでしょうか。酒池肉林の快楽を求めるところでも、この世の栄耀栄華をきわめることでもないのです。一国一民族が世界を支配する、王国を造ることでもありません。イエスはこの世で成功する方法、いわゆる出世の道を教えたりはしないのです。むしろ貧しくあれ、と教えるのです。

 ふたりの主人に仕えることはできない

 「神と富とに兼ね仕えることはできない」あるいは「富んでいる者が神の国にはいるより、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:24)とイエスは語ります。
 豊かに生活することが、人間の願いです。人間は誰でも金持ちになりたいし、お金がなくては生きてゆけません。しかしイエスは、富んでいる者が天国にはいるのは難しいというのです。イエスは貧しい労働者の味方だ、などという次元の話ではありません。
 目に見える地上世界は、物質世界です。人間は本来、万物の主管主であるはずなのですが、堕落することによって万物以下に落ちたというのです。万物を象徴するものが、お金です。お金があれば、どんな物でも買うことができます。それで富を求めて人間は争いあうのです。ついには富そのものが人生の目的、お金儲けが生きがいになり、お金のために一生を振りまわされるような人生を送ってしまうのです。人を蹴落とし、人を傷つけて富を得たとしても、物やお金はすべて置いて霊界に行くのです。何も持って行くことはできません。
 サタンはこの世の神です。万物世界、物質世界の主人はサタンです。富の主人はサタンですから、人間は神とサタンの、ふたりの主人に仕えることはできないのです。
 「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」
 これらのイエスのみ言は、決して滅びることのない人生の金言です。お金のための苦労し、お金のために心配して夜も眠れず、お金のために滅びる人生の、何と虚しいことでしょうか。そしていかなる英雄、どれほどの富豪も、人生の終幕は死であり、悲劇で終わるのです。残された財産はそれこそ虫が食い、さびつき、盗人が盗み出してゆくのです。
 天につむ宝とは、霊界にまで持って行けるもの、すなわち豊かで明るい心情ではないでしょうか。人の為に生きることこそ、互いの心を明るくするものです。神は愛するために人間を創造されたのです。とすれば、人は愛するために生きているのです。イエスがもたらす天国の理念とは、愛の理念に他なりません。
 「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。・・・・一日の苦労は、その日一日だけで十分である」というイエスのみ言は、今日まで多くの貧しい人々を慰め、勇気づけてきました。
 これを単なる人生の教訓、道徳律とのみ考えてはいけないでしょう。イエスは人間が生きる価値観の根本的な転換を要求しているのです。富を求め、物を求め、土地を求め、権力を求め、人間を支配し、国家を支配し、ついには世界を支配しようという人間の生き方を、転換しなさいというのです。人生がこの世限りであるならそれも良いでしょうが、永遠の霊界があるとしたら、どうなるでしょうか。
 「まず神の国と義とを求めなさい」というのです。それがどのようなものか、聖書には明確に、体系的には記されていません。イエスはそのすべてを語ることができなかったのです。たとえ語ったとしても、当時の人々には理解でいなかったのです。いや、今日でさえも、それを理解する人はまだわずかなのです。
 イエスのみ言どおりに生きるなら、まるでヒッピーのような暮らしにならないでしょうか。しかしヒッピーには家庭がありません。人が愛を実践する場は、まず家庭です。家庭において夫婦の愛を満喫し、親の愛を実感し、また孫を持てば神の愛を知るのです。子女の愛、兄弟の愛を体恤して、人間は愛の人格をこの世で完成するのです。この世では肉体が健康で生きていればよいのであって、富や名声は幸福とは別のもののようです。
 人生は長くても百年です。霊界では永遠に生きるというのです。とすれば、この世の肉身生活は、霊界に行くための準備期間ということになります。肉身生活において愛を満喫して、愛の人格を完成した人が、霊界の天国にはいるようです。

 金持ちとラザロの話

 ルカの第十六章に、金持ちとラザロの話があります。
 ある金持つがいました。彼は紫の衣を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。この金持ちの玄関の前に,ラザロという乞食がいました。全身ができ物でおおわれ、金持ちの家の残飯で飢えをしのいでいました。このラザロが死に、そして金持ちも死にました。その金持ちが黄泉にいて苦しみながら、ふと目をあげると、乞食のラザロがはるか上の、アブラハムのふところにいたというのです。「その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」と金持ちが訴えると、アブラハムが答えます。
 「あなたは生前によいものを受け、ラザロは悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、大きな淵があって、越えてくることもできない」
 「父よ、わたしには五人の兄弟がいます。こんな苦しい所に来ないように、ラザロをつかわして、彼らに警告していただきたいのです」
 この譬え話の、意味を考えてみましょう。この金持ちがどうやって財産を築いたのか分かりませんが、遊び暮らしていたのですから、親の遺産を相続したか、世の人の恨みをかうような不正な手段で財産を築いたのでしょう。そしてこの金持ちは、霊界があるということを信じなかったのです。この世限りの人生と思えばこそ、ぜいたくに遊び暮らしていました。ところが乞食のラザロは、貧しく飢えていて、その上らい病かアトピーか、見るも哀れなでき物で全身がおおわれていました。しかしこの人はそんな境遇でも、神を恨むことがなく、ヨブのように神を信じて、心の清い人であったのでしょう。霊界は心情の世界ですから、物もお金も必要ないのです。お金だけを信じていた金持ちは、霊界ではその心情が暗いのです。また人の恨みをかっているなら、霊界では火炎の苦しみを受けるのです。
 ラザロは霊界では、飢えの苦しみからも解放され、また病苦からも解放されたのです。この譬え話からも、イエスは霊界の存在を示しているのです。ラザロは地上界では苦しんだのですが、霊界ではアブラハムのふところに抱かれていました。しかしアブラハムのふところが天国でしょうか。それはまだ旧約の、やや暗い霊界であったはずです。なぜなら、心霊の復活というものは時代と共に、時代的な恵沢を受けて、次第に明るくなってゆくのです。
 金持ちが天国に入るのは難しい、という実例を紹介してみます。譬え話ではありません。霊界での実例です。李相軒先生([統一思想」「勝共理論」を構築された方)が、霊界に行かれ、ある婦人を通じて霊界からの通信を送られるようになりました。

 ここで地獄の現場の話をもう一つしようと思います。山のように腫れ上がった体の女性がいます。その女性の唯一の願いは腫れ上がった肉がとれて、身軽に歩き回ることであり、悩みと心配から解放されることです。しかしその女性はあまりに重たくて歩くこともできず、いつも誰かの世話にならなければ起き上がることができません。地上で生きているとき、その女性はたくさんの財産のある金持ちでしたが、財産管理で心の休まる日はありませんでした。また、財産を増やすために人を傷つけたり、周囲の人や兄弟と怨讐関係になりました。結局その女性は財産問題のゆえに心臓まひで死んだのです。
 ところで、ここ霊界ではその女性が起き上がろうとして、そばにいる人に手を貸してくれと頼むと、「あなたは金持ちなのだから召使にさせればいのに、どうして私たちに頼むのか」と反発してひどくののしるのです。その女性を助けようとする人は一人もいません。この女性の刑罰はいつまで続くのでしょうか。なんとも哀れな光景です。神様は長い歳月の間、そのような多くの惨状をご覧になってこられたのです。(「ルーシェル」64頁より)

 天国の奥義

 山上の垂訓から以後、イエスは直接的にみ言を語るよりも、多くを譬えで語るようになりました。マタイ第十三章の、種まきの譬えについて考えてみましょう。
 道ばたに落ちた種は、鳥がきて食べてしまいました。
 また土のうすい石地に落ちた種は、すぐに芽を出したのですが、土が深くないので、日が上がると焼けて,枯れてしまいました。
 他の種はいばらの地に落ちました。するといばらが伸びて、ふさいでしまいました。
 良い地に落ちた種は実を結び、30倍、60倍,百倍にもなりました。
 譬え話というものは分かりやすいのですが,思想を明確に体系的に伝えることはできません。また譬え話は多様な解釈が可能です。ある教義を立てて、それに当てはまるように解釈することもできるのです。同じ聖書を教典としながら、キリスト教にさまざまな教派がある原因がそこにあるのです。
 「なぜ、彼らに譬え話でお話になるのですか」と弟子たちは、イエスの問うのです。
 「あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。だから彼らには譬え話で語るのである。それは彼らが,見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」とイエスは答えます。直接的にみ言を語っても,当時の大衆には理解できなかったのです。それで仕方なく,イエスは譬えで語るしかありませんでした。
 では、天国の奥義とは、どのようなものでしょうか。それは「多くの預言者や義人は、あなたがたが見ていることを見ようと熱心に願ったが,見ることができず、またあなたがたが聞いていることを聞こうとしたが,聞けなかった」ものであったのです。
 つまりイエスのみ言は,神から初めて伝えられた「天国理念」であったのです。しかしイエスは、すべてを語ることができませんでした。ユダヤ教の指導者たちはイエスに背を向け,大衆は奇跡と御利益しか求めず、弟子たちでさえイエスのみ言を理解できませんでした。天国理念は「原理」として、再臨主によって初めて体系化されたのです。それは一教派の教義ではなく、天地を貫く天宙的な理念なのです。原理的な観点からイエスのみ言を知るとき、初めて明確に理解できるのです。
 では、イエスの語る「天国の奥義」に耳を傾けてみましょう。
 み言を聞いても悟らないなら、悪い者がきてその人の心にまかれたものを奪いとって行くのです。道ばたにまかれた種とは、そういう人のことです。
 石地にまかれた種とは、み言を聞くとすぐに喜んで受ける人のことです。簡単に信じるのですが、すぐにつまずいてしまうのです。
 いばらの中にまかれたものとは、み言は聞くのですが,この世の人の目を気にして、また富に惑わされて、み言の芽をふさいでしまうので、実を結ぶことができないのです。
 良い地にまかれた種とは、み言を聞いて悟る人のことです。心が飢え渇くように、真理を探し求める人がみ言を聞けば、それが天宙的な理念であり、真理であることを悟るのです。そのような良い地にまかれたみ言の種は、一つぶの小さなからし種のように、あるいはパン種のように、大きく成長して、ふくらみ、30倍、60倍、百倍にもなるというのです。
 また、天国は良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものです。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去るのです。やがて芽が出て実を結ぶと同時に,毒麦もあらわれたのです。「それを抜き集めましょう」と僕が言うと、「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫の時になったら、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れなさい」と主人は、僕に言いました。
 「畑の毒麦の譬えを説明してください」と弟子たちは,イエスに求めました。
 イエスの説明を、原理的に解明してみましょう。良い種をまく者とは人の子、つまりメシヤです。畑は世界です。つまりエデンの園です。良い種というのは御国の子、つまり神の血統を受け継ぐ者たちです。毒麦は悪い者の子、つまりサタンの血統を受け継ぐ者たちです。それをまいた敵は悪魔です。つまり神に反逆した天使長が、アダムとエバを誘惑して奪い,悪魔すなわちサタンとなって、悪の血統の種を植えつけたのです。
 収穫の時とは、世の終わりの時です。その時には、毒麦はことごとく刈り取られ、火に焼かれてしまうというのです。終末には、七年の大艱難が訪れるとされています。あるいは天と地が燃え崩れるような、天変地異が起って地球が破滅し、人類は滅亡すると考える人がいます。しかし焼かれるのは毒麦であって、麦は倉に入れられるのです。
 終末には、エデンの園にまかれた悪の種が芽を出し、悪の実を結ぶ時です。サタンがまいた種は不倫の愛であり、淫乱の思いです。終末には若者たちが不純な異性行為にはしり、フリーセックスがはびこり、不倫の華が乱れ咲くのです。家庭、社会の崩壊は、まず性の乱れから起るのです。それは結局、国を滅ぼし、世界人類を滅亡に導くのです。
 お金と色欲に一生を振りまわされ、地上で乱れきった生活を送った者が霊界に行くと、行列をなして地獄に直行するのです。「霊界で見た地獄編をフイルムに収めて、すべての人々に一度見せてやりたい」と李相軒先生は、霊界から伝えています。
 そのような終末の混乱の時に、メシヤが再臨されるのです。終末とは人類滅亡の時ではなく、再臨主が来られて地上に天国が建設される、希望の時であるのです。
 天国は、畑に隠してある宝のようなもの、また高価な真珠のようなものです。持ち物をみな売り払ってもそれを買うというのです。原理的な観点から見れば、それは「祝福」のことです。
 良い種とは御国の子であり、悪い種はサタンの子です。つまり種とは血統のことです。サタンの血統から、神の血統に転換する、血統転換の儀式がなければなりません。イエスをそれを、「人の子の肉を食べ、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」(ヨハネ6:53)と表現したのです。ところが人々は「これはひどい言葉だ」と言って、去ってしまったのでした。
イエスはまた「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と表現するのです。つまりイエスと言う、神の血統を受け継ぐメシヤに、接ぎ木されるなら、たとえサタンの血統を受け継ぐ者であっても、ここに神の血統に転換されるのです。しぶ柿の木は、しぶい実を結びます。しかししぶ柿の木の根元から切って、甘柿の幹に接ぎ木するなら、甘柿の実を結ぶことができるのです。これが血統の転換です。
 イエスは堕落していない、第二のアダムです。しかし本然のエバを、復帰することができませんでした。ですから「天国の奥義」を、完全に語ることができなかったのです。
 夜ひそかに訪ねてきたニコデモに,イエスは答えて言われました。
 「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)
 「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」とニコデモが言うと、
 「だれでも,水と霊とから生まれなければ,神の国にはいることはできない」とイエスは,謎のような答えをされたのです。
 キリスト教徒はイエスと聖霊によって,霊的な「祝福」を受けるのです。しかし実体の「祝福」は、地上に真の父母が立つまでは,与えられなかったのでした。
 原理的な観点からみるなら,「信じる者は救われ,十字架につけられたイエスを信じる者は天国に行く」という信仰は、あまりに安易です。また罪を犯しても神父様に告白すれば許されるということは、あってはならない事です。自らが犯した罪は、自らが償わなければなりません。これが蕩減法であって、神の恩寵のみでは蕩減に穴があくというのです。
 「『主よ,主よ』という者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父のみ旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)とイエスは語り、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」とまで言うのです。

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