第三章 ヨセフとマリヤ


 系図に隠された天倫の秘密

 作家は小説の書き出しに苦心するものです。書き出しの一行に読者は胸をおどらせ、魅惑的な物語の世界に誘われるからです。
 マタイはイエスの物語を、アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図から始めました。初めて聖書を手にする読者は,延々と続くこの人名のら列に辟易して,投げ出してしまうかも知れません。しかもこれはヨセフの系図であって、マリヤは聖霊によってみごもったというのですから、イエスとは血の繋がりがないことになります。ではマタイはなぜこんな書き出しをしたのでしょうか。天からの啓示のままに人名を書き連ねたのか、あるいは、マタイは天倫の秘密を知っていたのかもしれません。
 ユダヤ人の系図は男性が中心ですが、この系図に4人の女性の名があります。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻です。4人の女性に共通していることは,普通の夫婦関係によって子孫を残した女性たちではなかったことです。そして異邦人の女性が含まれています。
 タマルは「創世記」に登場する女性です。ヤコブの息子ユダの長男エルの嫁です。夫のエルが死に、次子のオナンも死に、三男シラはまだ幼い頃でした。タマルは遊女のふりをして街頭に立って義父をだまし,関係を結んだのです。常識的には考えられないような行為ですが、タマルは命懸けでユダの血統を残したのです。そしてタマルの胎中において、双子のペレズとゼラが逆転して、ここに血統の転換が起こったのです。このユダとタマルの血統がユダヤ人であり、選民イスラエルから罪なき第二のアダム、イエス・キリストが誕生したのです。
 ラハブはイスラエルの二人の斥候をかくまった女性です。彼女はエリコの遊女ですが、命懸けでヨシュアとカレブを助け、ヨシュアの軍勢をカナンに導きいれたのでした。
 ルツはモアブの女ですが、夫が亡くなって姑のナオミと共に故郷に帰ります。二人は親戚の地主ボアズの畑で、落ち穂拾いをして暮らしていました。姑のナオミはルツを、ボアズの足のところに寝かせるのです。こうしてルツとボアズは結ばれて、その子孫がダビデ王です。美しい話ですが,女性が男性の寝所に忍び込むというのは逆転現象です。また異邦のモアブは堕落世界の象徴です。モーセもクシの女をめとり、それをミリアムとアロンが非難すると、神は怒って二人をらい病にしてしまいます。(民数記第12章)堕落世界からエバを連れ戻すことが、復帰の公式になっているのです。
 ウリヤの妻はバテシバです。「サムエル記下」第11章にある話ですが、ウリヤはダビデ王の忠臣でした。ある日の夕暮れ、ダビデ王が城の上から見ると、ひとりの女がからだを洗っていました。非常な美人です。それがバテシバでした。ダビデ王は人をやって女を召しいれ、彼女と寝たのです。バテシバは妊娠したので,王にそのことを告げました。王はどうしたかというと、夫のウリヤを急いで戦場から呼び戻して家に帰らせたのです。ところが忠臣ウリヤは戦中だからといって、妻のもとに帰りません。困ったダビデ王は忠臣ウリヤを戦場の最前線に送って,指揮官に無謀な作戦を命じて彼を戦死させたのです。
 ダビデ王は忠臣ウリヤを殺し,その妻を奪うという罪を犯しました。神はダビデの行いに怒り、その最初の子は死にました。しかし次に生まれたソロモンは,知恵の王として神に愛され,栄光の王となったのです。
 神の創造が蘇生・長生・完成の三段階で成ったように、神の摂理は三段階で成就するのです。サウル・ダビデ・ソロモンの、イスラエル三代の王によって何が成就したかといえば、神の宮である荘厳な神殿が完成したのです。そしてイスラエルはその歴史上に最大の国家を築き、ソロモン王は栄耀栄華をきわめました。ソロモンが地上の王となり、ここにメシヤを迎えて一体となれば,地上に神の国が実現したのでした。
 しかしソロモン王はあまりにも多くの女性を抱えて神のみ旨から外れ、王の死後に王朝は南北に分裂します。結局ソロモンは信仰を全うできずに失敗したのですが、神の摂理は彼が責任を果たすかどうかに懸かっていたのです。
 神がダビデとバテシバの罪の子ソロモンを、摂理の中心人物とした理由が何であったのでしょうか。その理由を解明することが、イエスの出生の謎を解く鍵にもなるのです。
 堕落は天使長ルーシェルが、アダムの位置に立ちたいという欲望を抱いたことから起こりました。そしてアダムとエバと天使長が、一緒に堕落したのです。ですから、アダムとエバと天使長の三者が、共に復帰しなければならないのです。
 復帰は堕落の経路と反対の経路をたどる、という原則がありました。神はこの原則を暗示的に示されるのです。なぜ明確に示されないかといえば、神の干渉できない人間の責任分担があるからです。そして堕落とは本然の姿を失ったことですから、元の姿に戻るためには、その失ったものを埋めるに足る条件が必要です。つまり犯罪者が服役するように、罪の償いが必要です。この償いを原理では蕩減といいます。復帰のためには、ある蕩減条件が必要なのです。この条件が40日の断食であったり、40年の荒野流浪であったりするのです。
 さて、ウリヤの妻バテシバと、ダビデ王の話に戻りましょう。イエスがダビデの子と呼ばれたように、ダビデ王は神の立場に立つのです。城の上から見下ろす美しい女バテシバは、堕落世界に落ちたエバです。これを神の立場のダビデ王は、拾い上げなければなりません。では、ウリヤは何者か。本来は忠実な僕であるべき天使長です。彼らはどうすべきだったのでしょうか。天使長がエバを奪った、その逆の経路をたどることです。
 ダビデで王はバテシバを妻として迎え,忠臣ウリヤは本来の忠実な僕として、ダビデとバテシバに仕えなければならなかったのです。こうして生まれた子は,復帰されたアダムの立場に立つのです。ところがダビデ王は、ウリヤを殺してしまいました。それがソロモン王が信仰を全うできなかった,遠因になったのです。
 実はマタイの系図に、もうひとりの女性の名が記されています。つまりイエスの母マリヤです。ではマリヤとヨセフの立場は、どのようなものであったのでしょうか。マタイの系図はそれを暗示しているのです。ルカはさらにそれを、具体的に記述しているのです。

 マリヤの受胎告知

 マタイによれば、イエス誕生の次第はこうです。母マリヤはヨセフと婚約していたのですが、まだ一緒にならない前に,聖霊によって身重になったというのです。
 婚約者の若い娘が、身に覚えがないのに妊娠したとしたら、夫になる男性はどんな思いがするでしょうか。婚約を破棄するでしょう。まして当時のユダヤでは、淫行した女性は石で打ち殺されるのです。ヨセフが怒りにまかせて訴えれば、マリヤは殺されていたのです。しかしヨセフは、我慢づよい男でした。そしてマリヤよりはるかに年上だったのです。
 ヨセフはこの事を公けにしないで、ひそかに離縁しようと思いました。すると夢に天使が現れて,ヨセフに告げたのです。
 「ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻に迎えなさい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのです。彼女は男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。その子はイスラエルの罪を救う者となるのです」
 ヨセフは夢に現れた天使の言葉を信じて、マリヤを妻に迎え、生まれた子をイエスと名づけました。しかし本当にヨセフは、マリヤが聖霊によってみごもったと信じられたでしょうか。妻になる娘が,処女のままで妊娠するなどということがあり得るでしょうか。それを信じるのは後のクリスチャンであって、ヨセフには信じられなかったのです。
 ヨセフの心は複雑でした。マリヤは清純な美しい娘です。信仰の深い貞淑な妻であり、無骨で年のいった大工の自分には過ぎた女性でした。天使は夢で、マリヤの子の父は聖霊だと告げたのですが、きっと何かの事情があるに違いありません。マリヤはその事については、決して話そうとはしないのです。ヨセフは幼いイエスの顔を見るたびに、心に暗い影がよぎるのでした。
 マリヤの事情とは何でしょうか。ルカがより具体的に書いています。
 天使ガブリエルが神の使いとして、マリヤに現れてこう告げたのです。
 「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」ナザレの娘は、ひどく胸騒ぎがしました。この天使の挨拶は何のことか。マリヤは思いめぐらしました。そしてはるか年上の従姉妹のエリサベツと、その夫ザカリヤのことを思い浮かべたのです。
 「恐れるなマリヤよ。あなたは神から恵みをいただいているのです。あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者となるでしょう。彼はヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」
 「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」
 「聖霊があなたに臨み、生まれ出る子は聖なるものであり,神の子と、となえられるでしょう。エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神にできないことはないのです」
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」とマリヤは答えました。しかしこれは大変なことです。マリヤはヨセフと婚約していましたが、まだ夫婦ではありません。その処女がみごもったらどうなるでしょうか。淫行の罪で石打ちにされるかも知れません。命懸けの決意のいることです。天使はマリヤを説得して,彼女を立ち上がらせたのです。第1章39節の前に、ルカが省略した天使の言葉があったはずです。
 「そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里にむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした」
 マリヤはなぜ大急ぎで、ザカリヤの家に行ったのでしょうか。それは姉の身に起こった奇跡を聞いていたからです。そして天使が、ザカリヤに神が宿っていると告げたのです。女が命を懸けるほどに価値あることとは、自分の胎内から偉大な男の子,神の子キリストが生まれることの他にあるでしょうか。
 エリサベツがマリヤの挨拶を聞いたとき、その子が胎内でおどったのでした。そしてエリサベツは聖霊に満たされ,声高く叫んで言ったのです。
 「主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」
 するとマリヤも,神をたたえる讃歌をうたうのでした。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます・・・・」
 エリサベツとマリヤは従姉妹でしたが、摂理的には姉妹であったのです。二人はこの時ばかりは心が通じ合い,共に喜びあったのです。マリヤは、ザカリヤのところに三か月ほど滞在してから、家に帰りました。そして身重になったのでした。
 イエスの父親が誰か,諸説のあるところです。敬虔なクリスチャンは文字どおり、処女マリヤは聖霊によってみごもったと信じるのです。またある人は、大工ヨセフが実の父親だといい、またローマの兵士パンテラという説もあります。イエスがユダヤ人では困るというのでしょうか。
 マリヤは聖霊にうながされ、ザカリヤのもとに行ったのです。ですから象徴的に、聖霊によってみごもったということもできます。しかし精子と卵子の結合によって生命が誕生するのが,神の創造の原則です。アダムにも親がいたように、イエスにもいなければなりません。誰がイエスの父親か、聖書を読めば分かることです。それは単に憶測ではなくして、神の摂理による必然の結果なのです。

 祭司ザカリヤの奇跡

 ルカはイエスの物語を,祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦から始めました。エリサベツは不妊の女で、ザカリヤ夫婦はすでに年老いていました。ザカリヤは当番になり,主の聖所にはいって香をたいていました。すると天使ガブリエルが現れたのです。
 「恐れるな、ザカリヤよ,あなたの妻エリサベツは男の子を産むでしょう。その子をヨハネと名づけなさい。彼はエリヤの霊と力をもってみまえに先立ち、整えられた民を主に備えるでしょう」
 「どうしてそんな事がわかるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年とっています」ザカリヤは気が動転して,恐怖の念に襲われたのです。
 「わたしはこの喜ばしい知らせを伝えるために、神からつかわされた者です。この言葉を信じなかったから、あんたは口がきけなくなり、この事が起こるまで、ものが言えなくなるのです」
 民衆はあまりに祭司が聖所から出てくるのが遅いので、不審に思いました。ザカリヤはついに出てきたのですが,足はふらつき、眼はうつろで口がきけないのです。人々は祭司が聖所で,幻を見たのだと思ったのです。
 さてエリサベツは月が満ちて,男の子を産みました。八日目になって、幼な子に割礼をするために親族の者が集まり,父にちなんで名をザカリヤにしようと言ったのですが、母親は「ヨハネでなくてはいけません」と言い張るのです。そんな名は親族にない名前だったのです。そこで口のきけない父親に、合図で問うたのです。
 ザカリヤは書き板に「その名はヨハネ」と書いたので、みんなは不思議に思いました。するとたちどころにザカリヤの口が開き,神を讃美して語りだしたのです。
 人々は恐れ驚き、ザカリヤの奇跡が評判となって、ユダヤの山里にまで語り伝えられました。洗礼ヨハネはその誕生の時から,人々の注目を集めていたのです。
 「祭司ザカリヤの子は、いったい、どんな者になるだろう」と人々は噂しあい、彼を記憶していたのでした。
 イスラエルの人々は,子供のときから聖書を学んでいました。その最後の「マラキ書」には、こう書かれていました。「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ4:5)
 イスラエル民族はメシヤが到来する前に、まずエリヤが来なければならと思っていたのです。エリヤとはバアルの預言者たちと戦い,火の馬車で昇天したと伝えられる預言者です。ですから洗礼ヨハネはその誕生の時から、もしやエリヤではないかと人々の期待を一身に集めていたのでした。
 さて、年老いた不妊の女が子を産む話は,初めてではありません。アブラハムがそうでした。妻サライが95歳の時、天使ガブリエルは子が生まれることを告げたのでした。サライは内心で笑ったのですが,アブラハムが百歳の時に、イサクが生まれたのです。
 イサクの妻リベカも,不妊の女でした。しかし神はリベカの願いを聞かれてて、エサウとヤコブの双子が生まれたのでした。兄エサウはカインの立場であり、弟ヤコブはアベルの立場です。ヤコブは兄エサウを愛と万物によって自然屈服させて、ここに初めて勝利した神側の人物になったのです。神はヤコブの路程を,勝利のための典型路程として示されたのでした。
 ヤコブには二人の妻がいました。レアとラケルです。姉のレアは子を産むのですが、ヤコブが愛したラケルは、やはり不妊の女でした。しかしついに神はラケルの願いを聞かれて,生まれた子が後にエジプトの宰相となり、ヤコブの一族を助けて氏族のメシヤとなったヨセフでした。ヨセフはキリストの型であったのです。
 アブラハム、イサク、ヤコブの三代は一体の立場で,神の復帰摂理の中心人物でした。三代に共通することは,妻が不妊であったことです。祭司ザカリヤは、ヤコブのような立場に立っていたのです。ザカリヤこそ,イエスをとりまく聖家族の中心的な立場だったのです。ザカリヤとその妻エリサベツ、妹マリヤとその夫ヨセフ、そして洗礼ヨハネがそれぞれに与えられた使命を果たすことができれば、イエスは十字架の道を行くことはなかったのです。
 神は天使をつかわして、それぞれに天の摂理を伝えたのです。彼らが信じて守るかどうかに、復帰摂理の成就が懸かっていたのです。それが彼らの責任分担でした。
 神の復帰の摂理は兄のカイン側と、弟のアベル側に分立されるのです。カインがアベルに自然屈服して従順に従えば,共に神に帰ることができるのです。ですから復帰は、アベルだけでは不可能なのです。必ずカインを伴って神に帰ることが,復帰の原則なのです。これは女性の場合も同じことです。
 ザカリヤがヤコブの立場だとすれば,姉エリサベツはレアであり、妹マリヤはラケルの立場です。ヤコブの二人の妻であるレアとラケルは、結局は一つになったのですが、互いに争いあったのです。レアとラケルの争いを蕩減するために、エリサベツとマリヤの姉妹は一つにならなければなりません。
 またザカリヤがユダの立場だとすれば、マリヤはタマルの立場です。タマルが命懸けで義父ユダの血統を残したように、マリヤも天の摂理に従って、ザカリヤの家にはいったのでした。
 マリヤを迎えた時、姉エリサベツの胎内の子は喜びおどったのです。そしてエリサベツは「主の母上が来てくださるとは、なんという光栄でしょう」とマリヤを歓迎して,姉妹は喜びあったのです。ここに聖家族は天使が伝えたとおりに、霊的に一体になったのでした。エリサベツと洗礼ヨハネが、マリヤを主の母として向かえたのです。しかし生まれてきたイエスを,彼らは主と信じて守り、大切に育てたのでしょうか。
 
 婚約者ヨセフ
 
 マリヤの婚約者ヨセフの立場は,天使長の立場です。ダビデ王の忠臣、ウリヤと同じ立場です。戦陣から呼び戻されたウリヤが妻の体にふれなかったように、ヨセフはマリヤと夫婦の関係を結んではいけなかったのです。マリヤを聖母として、生まれたイエスを神の子として、ヨセフは大切に守って仕えなければならなかったのです。
 「マリヤの胎内に宿っているものは聖霊によるものである。その子をイエスと名づけなさい。彼は、イスラエルの民を救うメシヤとなる」と天使は、天の摂理をヨセフに伝えたのです。ヨセフは天の摂理に無知であっても、信仰として絶対的に信じきるべきでした。天使の言葉を一時は信じたヨセフでしたが、夢から覚めて現実に戻った彼は、人間的は思いが先にたったのです。マリヤのおなかがふくらんでくるにつれて、ヨセフの腹の中はぐらぐらと煮えくりかえったのです。ヨセフは事あるごとに、マリヤを問い詰めたのです。
 「聖霊によってみごもったのです」マリヤの答えはいつも決まっていました。マリヤが冷静であればあるほど、ヨセフはいらだつのです。三度問われればマリヤはうつむいて、沈黙するしかありません。
 「ええい! この強情な女め。命を助けてやったのに。相手は・・・・」
 ヨセフとマリヤの結婚は,親族一同から祝福された結婚ではなかったのです。ヨセフはマリヤをよそから連れてきて、村の小さな家でひっそりと住んだのです。好奇心の強いのが子供たちです。大工のヨセフが若い娘を連れてきたというので,村の子供たちはふし穴から、そっと覗いたことでしょう。そしてヨセフの怒鳴る声を聞いたのです。これが村の噂にならないはずがありません。やがてはヨセフの親族の耳にもはいったのです。
 「ヨセフよ、マリヤの腹の子は本当におまえの子供か」問われてヨセフは、何と答えたでしょうか。「わたしの子に間違いありません」と堂々と答えたでしょうか。口の重いヨセフはあたふたして、顔をあからめて黙ったのです。
 「誰の子か分からん子をはらんだ女を連れ込んで、おまえはそれでも男か。親族の顔に泥を塗って,村を汚してくれたものだ」こんな言葉を耳にするマリヤの気持ちは、どんなに重苦しく辛いものだったでしょう。
 ヨセフは村に居たたまれなくなって、身重のマリヤを連れて村を出たのです。マリヤはヨセフに遠慮して、産まれてくる子の準備をすることもできません。やがて月が満ちて、マリヤは旅の途中のベツレヘムで、しかも馬小屋で初子を産み落としたのです。赤子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせるしかありませんでした。ただ不思議なことは,東から来たという博士たちが、生まれた子を拝みにきたことでした。
 マタイは天使が夢に現れ、「幼な子と母を連れてエジプトに逃げなさい」とヨセフに伝えたと書いています。ヘロデ王がメシヤを殺すために、二歳以下の子供を皆殺しにしたというのですが、これはモーセの故事にならったもので、事実ではないでしょう。
 ヨセフは大工です。その当時の大工は町や村を巡回しながら、家の修理をしたり、家具を作っていたのでした。ヨセフは妻と子を連れて、エジプトにまでも旅をしたのでしょう。
 アブラハムの路程も、カナンからエジプトに入り,再びカナンに帰ってくるという路程でした。ヨセフは再びナザレの村に戻ったのですが、僕の立場でマリヤとイエスに仕えることはできなかったのです。
 マリヤはわが子が、神に愛された特別な子であると知っていました。母としてイエスだけを守り,育てることが自分の使命だと知ってはいたのですが、夫ヨセフに遠慮して次々に子供を産んだのです。

 少年イエスの孤独

 イエスの少年時代について、聖書はほとんど何も触れていません。母マリヤは後には使徒たちと行動を共にしたのですから、イエスの少年時代について聞いたはずです。しかし聖書には書かれていません。聖母子像に傷がつく、と聖書記者は考えたのです。それはあまりに悲惨で、もし書けばイエスを神格化することができなくなるからです。にもかかわらず、聖書にはイエスの真実の姿が、こぼれ落ちるように透けて見えるのです。たとえばイエスが故郷の村に戻ったとき、ナザレの人々はこう言った、とマルコ6章3節にあります。
 「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」
 イエスは大工ヨセフの息子として、黙々と大工の見習い生活をしていたのです。ヨセフは親方ではあっても、父親としてイエスを愛したでしょうか。愛さなかったのです。次々と子供が生まれてからは、さらにイエスに冷たくあたったのです。ろくに口もきかず、いらだたしげな視線を投げるばかりでした。イエスを見るたびに、ヨセフの顔は屈辱にゆがむのです。イエスは子供ごころにも、それを敏感に感じていたのでした。
 イエスはヨセフの子とは呼ばれず、「マリヤの子」と呼ばれていたのです。それは姦淫の女が産んだ子、という意味です。姦淫の女は石で打ち殺されるユダヤの社会にあって、姦淫の子は存在すら許されない,人間扱いにされない者であったのです。
 村の子供たちはイエスを見れば、「やーい、マリヤの子」とはやしたてたのです。石もぶつけられたかも知れません。イエスは泣いて戻れば、きっと母に尋ねたのです。
 「父はどこにいるのですか。わたしの父は誰なのですか」マリヤはヨセフに遠慮して、小声でこう言うしかなかったのです。
 「あなたの父は天におられるのです。天の神様が、あなたの父なのですよ」
 少年イエスは孤独でした。ひとりの友もなく,家族の者も村の噂を気にしてか、よそよそしいのです。母だけはイエスの味方でしたが、マリヤはひどく夫に遠慮していました。イエスは大工仕事のすきを見ては外に出て、ガリラヤの野や山を友として育ったのです。そしていつしか天の父に呼びかけ、語りかけるようになったのです。
 「アバ・・・」とは、幼児が父に呼びかける言葉です。「父よ」では堅苦しく、「お父ちゃん」では幼い感じです。韓国語の「アボジ」がぴったりします。こうして孤独な少年イエスは,天の父に話しかけ、胸の思いを訴えていたのです。
 ヨセフとマリヤは敬虔はユダヤ教徒でした。安息日には会堂に行き、ラビたちの聖書朗読を聞き、その話に耳を傾けたのです。その時だけはイエスも一緒でした。イエスは目を輝かせて、天の父のみ言を聞いたのです。
 祈りは対話だといいます。祈り求めれば,答えが返ってくるというのです。その答えが神からのものか,高い霊界から来るのか、それとも地獄の悪霊から来るのか、それは分かりません。祈る人の基準に応じて返ってくるもののようです。
 「アバ・・・」と呼びかけるイエスに、神からの答えが返ってくるようになったのです。神は愛する独り子イエスに語りかけ,神ご自身が教育され、そして天倫の秘密を教えられたに違いありません。それがいつの頃かは分かりませんが、ルカは奇妙なエピソードを書き記しています。
 ヨセフとマリヤは過越の祭りには、毎年エルサレムに上っていました。イエスが12歳の時のことです。祭りが終わって帰途についたのに,イエスがいないことに気がつかずに一日路を行ってしまったというのです。12歳の子供を連れて旅に出て,一日歩いてから子供がいないことに、やっと気がつく親がいるでしょうか。ヨセフはイエスがすきを見てはいなくなる癖を,日頃からいまいましく思っていたのです。それで腹を立て、ずんずん行ってしまったのです。マリヤは後を追って夫をなだめ、一日が過ぎてからようやく戻ったのです。マリヤは必死にイエスを探したことでしょう。三日も過ぎて、やっと宮にいるイエスを発見しました。
 少年イエスは宮の中に立って、ラビたちと問答をしていました。人々はイエスの賢さに驚嘆したのです。マリヤはわが子を見つけた安堵の思いと,三日間の心配がどっと押しよせて、わが子をきつく叱りました。イエスはこう答えたのです。
 「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、どうして知らなかったのですか」
 ヨセフもマリヤも、イエスの言葉の意味を理解できませんでした。
 「イエスはますます知恵が加わり,背たけも伸び、そして神と人から愛された」とルカは書きましたが、イエスは人の子として、どん底の心情を味わって成長したのです。
 「彼はまず多くの苦しみを受け,またこの時代の人々に捨てられなければならない」(ルカ17:25)とはイエスご自身の実体験でした。メシヤがなぜ馬小屋に生まれ、飼葉桶に寝かされ、姦淫の子と嘲笑われ,大工の見習いをして育ったのでしょうか。それはメシヤを迎える家族に備えがなかったからですが、また神の摂理でもあったのです。神の悲痛なる心情を実感し、体恤するには、どん底の心情を味わって成長するしかないのです。
 洗礼ヨハネの場合はどうでしょうか。イエスとは反対に、名門祭司の生まれです。そしてその誕生の奇跡がユダヤの山里にまで伝えられ,伝説になっていたのです。どん底と絶頂,最高と最低です。なぜ神はその逆にされなかったのでしょうか。最低のイエスをアベルとして、最高の洗礼ヨハネがカインの立場で,イエスをメシヤとして信奉して従順に従えば,イスラエル民族は上と下がぐるりと一回転して,すべてがイエスの手のうちに入ったのです。これが神の摂理であったのです。

 マリヤの使命

 イエスの最初の奇跡は,水をぶどう酒に変える奇跡でした。ガリラヤに帰って三日目のことです。イエスは弟子たちとカナの婚礼に招かれました。母マリヤは台所で働いていました。宴の途中で「ぶどう酒がなくなりました」とマリヤがイエスに言いました。するとイエスは僕たちに言いつけ、僕がかめに水を満たして料理長のところに持ってゆくと,水がぶどう酒に変わっていたというのです。これを文字どおりの奇跡と受け取るか、あるいはイエスによって水に命が吹きこまれたことの象徴とするか、それをここで問題にするのではありません。気になるのは,母マリヤに対するイエスの言葉です。
 「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの関わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」(ヨハネ2:4)
 母親を「婦人よ」あるいは「女よ」と呼ぶ息子がいるでしょうか。イエスは神の子ですから,母マリヤを他人のような呼び方をしたのでしょうか。しかし次の「なんの関わりがありますか」とは,明らかに反発の言葉です。息子が母親に反発して「関係ないでしょう。放っておいてくれ」と言っているのと同じです。
 「わたしの時はまだ、きていません」とは何の意味でしょうか。十字架のことでしょうか。しかしこれは婚礼の席です。わたしの時とは、わたしの婚礼の時、という意味です。その時イエスは30歳です。当時のユダヤ人は現在よりも早婚でした。男が30歳になって独身でいるのは、ユダヤ社会では恥ずかしいことだったのです。そして息子の嫁を探すのは,母親の役目だったのです。
 イエス・キリストは独身のまま十字架に逝き、釈迦は修行のために妻子を捨てました。ですから僧侶は独身であり、神父は生涯結婚しません。求道の道は独りで歩むものとされていました。親鸞やルターは,勇気ある宗教の改革者でした。
 イエスが結婚する、などといえばクリスチャンは目をむいて驚くでしょう。しかし神が親であるなら、独り子イエスが独身のままでいるのが嬉しいでしょうか。結婚して孫をもうけるのが嬉しいでしょうか。神の血統を残して,サタンの血統から神の血統に転換すること、これが神の復帰摂理の目的です。ですからイエスは、どうしても結婚しなければならないのです。誰と結婚するのでしょうか。堕落していない本然のエバと、神に祝福されて夫婦になり、神の血統を地上に残さなければならないのです。
 婚礼の手伝いをするのは親族です。カナの婚礼の花嫁はマリヤの親族でした。その花嫁こそ、イエスの相対となるべき女性であったとしたら、イエスの心は穏やかではなかったはずです。親族の婚礼の手伝いをさせる母マリヤに、イエスは怒りを覚え,「母親としての使命を果たしていないではないか」という無念の思いが、「婦人よ」という呼びかけになったのです。しかしマリヤには、イエスの願いが理解できなかったのです。
 イエスが故郷に帰って,多くの癒しのわざをされたときのことです。
 「身内の者たちはこの事を聞いて,イエスを取り押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである」(マルコ3:21)と聖書に記されています。
 なぜ身内の者たちは,イエスが気が狂ったと思ったのでしょうか。狂人とそれを癒す者との区別ぐらいは、誰にもつくはずです。イエスが狂人に見えたのではありません。イエスが結婚したいと言いだした相手が、あまりにとっぴで、狂った者のように思ったのです。
 イエスがその女性と結婚したいと言いだしたのは、それが初めてではありません。イエスが17歳の時でした。突然に結婚すると言いだしたのです。その相手が、こともあろうにザカリヤの娘,洗礼ヨハネの妹だったのです。エリサベツとマリヤは姉妹ですから、それは従兄妹の関係です。従兄妹同士の結婚はないことではありません。イエスは必死に母に懇願したのです。しかしマリヤはひどくうろたえ、ただ首をふるばかりでした。それは許されない結婚であったのです。
 祭司の娘と大工の息子では身分が違います。それにその時は、彼女はまだほんの少女でした。この事が知れると、エリサベツは激しく反対しました。父のヨセフは激怒しました。ザカリヤは傍観していました。誰ひとり、イエスの事情を知る者はいなかったのです。この出来事の後,イエスは家を出たのでした。これらの事実を,洗礼ヨハネは知っていたのです。
 あれから十年余りの歳月が経過しました。ふらりと戻ったイエスが、またしてもその女性と結婚すると言いだしたのですから、狂った者のように思われたのです。そのうえ、怪しげな癒しのわざをするという評判が立ったのですから,身内の者たちはイエスを捕らえようとしたのです。
 イエスは若者らしい情熱から,洗礼ヨハネの妹との結婚を願ったのでしょうか。しかし再び故郷に戻ったイエスはすでに30歳です。メシヤとしての公生涯を出発していたのです。とすればイエスとザカリヤの娘に、神の復帰摂理の成就が懸かっていたはずです。しかし身内の者に,神の摂理を悟る者は、ひとりもいなかったのです。

 聖家族の真実

 神に反逆した天使長は、地に投げ落とされてこの世の神,サタンになったのです。人類は堕落したアダムとエバの後孫として、サタンの血統を受け継いで地上に繁殖したのです。
 神は親としての責任を負われ,人類を復帰すべく中心人物を召命して、メシヤを迎える準備をさせてこられ、時満ちて神は,独り子イエスを送られたのです。しかし神にも屈服しないサタンが、イエスに屈服するはずがありません。そこで神は、サタン屈服の典型路程として、ヤコブの路程を「創世記」に残されたのです。
 ヤコブにはレアとラケルの,二人の妻がいました。姉レアの十人の息子がカインの立場に立ち、ヤコブが愛した妹ラケルの息子ヨセフが、アベルの立場です。レアの息子のユダが摂理の中心人物であり、エジプトの宰相になったヨセフは氏族のメシヤ、キリストの型だったのです。
 祭司ザカリヤは、いわばヤコブの立場に立っていたのです。神は天使ガブリエルをつかわして、それぞれの人物に現れ、あるいは夢で啓示を与えておかれたのです。
 天使は聖所で香をたくザカリヤに現れ、エリサベツが懐妊することを告げました。その子は「エリヤの霊と力をもって、整えられた民を主に備えるであろう」と神の摂理を明かしたのですが、祭司ザカリヤは信じることができなかったので、口がきけなくなったのでした。ザカリヤは自分の立場と使命を自覚していたでしょうか。わが子ヨハネが、エリヤの使命と責任を負う者であることを,確信していたでしょうか。
 さて、ナザレの処女マリヤにも天使が現れ「神は父ダビデの王座をお与えになり,彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続く」とマリヤの腹から、メシヤが誕生することを告げたのです。マリヤはタマルの信仰にならって決意して、ザカリヤのもとに行ったのでした。ザカリヤの妻エリサベツが姉レアであるなら、マリヤは妹ラケルの立場です。姉妹は一つにならなければなりませんでした。
 姉のエリサベツはマリヤが挨拶したとき、おなかの子が胎中でおどったのでした。そしてエリサベツは、マリヤに言ったのです。「主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」
 エリサベツはわが子ヨハネがエリヤであり、マリヤの子イエスがメシヤであることを知らされていたのです。そして姉妹は一つになって、神を讃美したのでした。神の啓示は一瞬のことです。それを信じきるには、ノアのような絶対的信仰がなければならないのです。
 神はマリヤの婚約者ヨセフにも、夢で教えたのです。「その胎内に宿っている者は聖霊によるのである。その名をイエスと名づけなさい。彼は民のもろもろの罪を救う者となるからである」マリヤとイエスが聖母子であることを、ヨセフは啓示で知らされたのです。
 大工ヨセフの立場は復帰された天使長です。本来の僕の立場で、マリヤとイエスの仕えるのが、彼の使命であったのです。しかし彼はそれを忘れ、聖母子を自分勝手な、ひどい扱いをしたのです。
 聖家族の真実の姿は、どうあるべきだったのでしょうか。エリサベツとヨハネ、マリヤとイエスの母子の立場が、逆転しなければならなかったのです。エリサベツは妻の座を退いて、マリヤに譲るべきでした。そしてマリヤは復帰されたエバとして、神の血統から本然のエバを、イエスの相対者として結婚させる使命があったのです。それが洗礼ヨハネの妹でした。
 この事実を、イエスは神から教えられていたのです。そして唯一の味方であったマリヤに、イエスは必死で訴えたのです。しかしマリヤには神の摂理が理解できず、またその勇気もなかったのです。
 堕落は母のエバから始まりました。復帰のためには堕落の経路と反対に、母の協助が絶対に必要なのです。イサクの妻リベカは、夫をだまし、兄エサウをだまし、命懸けでヤコブに協助したのです。しかしマリヤは、母子協助の使命を果たすことができなかったのです。
 アダムとエバは兄妹です。二人がまだ未完成のときにサタンに奪われ、偽りの夫婦となって、サタンの血統を地上に繁殖したのです。神はそのサタンの血統を、タマルの胎中において転換して聖別される摂理をされたのです。この神の血統であるザカリヤ家庭に、神はイエスをメシヤとして送られたのです。
 イエスは第二のアダムです。であれば、第二のエバを相対として迎えなければなりません。復帰は再創造の摂理であるからです。そのエバは堕落世界から復帰するエバではないのです。神の血統から生まれた本然のエバでなければなりません。つまりザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹こそ、本然のエバになるべき女性であったのです。
 マリヤの処女受胎が奇跡ではありません。神の血統を受け継ぐ兄妹が、完成して神に祝福されて夫婦になり、神の血統の子女を生むことこそ、本当の奇跡ではないでしょうか。アダムとエバの堕落以来、神が祝福して夫婦としたものは、ただの一組もなかったのです。
 もしもイエスの血統が地上に残されたなら、法王は当然イエスの子孫がなったはずです。となれば人類は彼によって祝福され、神の血統に接ぎ木されたのです。これが神の祝福の本当の意味です。
 聖家族は神の摂理に無知であったために、ザカリヤ家庭とヨセフ家庭が一体になることができず、ばらばらに散ってしまったのでした。
 マリヤはヨセフと、夫婦関係をもってはいけなかったのです。いけないと思いながら、次々に子供を産んだマリヤは、堕落したエバの再現でした。それでもマリヤは、イエスが公生涯を出発したなら夫と子供を捨て、イエスと行動を共にすべきでした。しかしマリヤが見たものは、十字架上のイエスでした。イエスの兄弟たちは誰も、イエスの弟子にはなりませんでした。弟ヤコブがキリスト教徒になったのは、イエス復活の後だったのです。
 大工ヨセフはどうしたか、聖書には何も記されていません。伝承では早死にしたとされています。祭司ザカリヤはどうしたでしょうか。聖書には気になる一節があるのです。
 「アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで」(ルカ11:50)という一節です。眠れる予言者として有名なエドガー・ケイシーによれば、祭司ザカリヤのことだというのです。
 イエスは氏族のメシヤになることができず、結局は母と兄たちを捨て、家を出なければなりませんでした。イエスはどこで何をしていたのでしょうか。ケイシーによれば、インドまで修行に行ったということです。
 イエスは霊眼が開け、神を父と呼び、モーセやエリヤたち預言者と語りあったのです。メシヤとは、神と対話し、神と通じ合える人です。堕落人間は神との回路が切れて通じないのです。ですから神のみ言は、キリスト・イエスを通じてでなければ、聞くことができないのです。それでイエスは「わたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ったのです。イエスはいわば神の直接主管圏に入った、完成した人間であったのです。
 文鮮明師は次のように述べています。
 「神が永遠の理想的善の主体であるならば、その主体的存在の前に、相対的本質として常に変わらない相対基準をなすことができるものが、心の中心であるのです。この相対基準のみしっかり合わせれば、超然たる力が現れるのです。修行して、精神統一して、祈祷して神霊なる霊的世界に入って体験するなかで、完全に神の主体の前に、相対の立場に入ってゆくのです。こんな境地に入ってみれば、奇跡は自動的ですよ。癒しなども自然に信仰生活の付属物として、ついてくるのです」(1975年2月2日)

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