第七章 十字架への道




 高い山の上で

 イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子を連れて、高い山に登られました。
 するとイエスの姿が変貌したのです。マタイは「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」と書き、マルコは「どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいに白くなった」と書き、ルカは「まばゆいほどに白く輝いた」と書いています。三弟子たちが体験した事実と思われます。
 マタイ、マルコでは彼らの目の前で、イエスの姿は変貌したのですが、ルカでは三弟子は「熟睡していた」のです。イエスの祈りはながく、弟子たちはただ退屈して眠ってしまったのでしょう。ところが突然に目を開けると、イエスの姿が変貌して光り輝き、そこにモーセとエリヤの姿が見えたのです。人は夢の中で霊界を見るといいます。眠りから覚めたその瞬間に,弟子たちは霊界と現実界のはざ間で、霊眼が開けたのです。彼らの姿が白く輝いていたのは、その霊人体が完成された発光体であったからです。
 イエスは寂しい所でしばしば、ひとりで祈っておられました。祈りの中で霊通して預言者たちと語り合い、そして天の父と会話されたのです。「わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」(ヨハネ12:50)と述べているように、イエスの言動は常に神の啓示によるものでした。
 イエスは自らを「人の子」と呼びます。それは本然の人間という意味であり、神の子という意味です。イエスは神に話しかけ、神は常に答えてくださるのです。それが父子の関係です。その父子の因縁が切れて、天の父が顔を背けて答えてくださらない時、イエスは絶望の叫び声をあげるのです。
 さて、モーセとエリヤとイエスの三者会談において、何が話し合われたのでしょうか。「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて」話し合われたのです。イエスの十字架への道は、ここに決定しました。それは最初からの神の予定ではなかったのです。しかし現実界を見れば、もはやイエスの権能を持ってしても、サタンを屈伏させることは不可能な情勢でした。地上における、イエスを支える基盤がなかったのです。イエスの肉体は十字架上でサタンに渡されるが、その代償として、イエスの霊人体の復活が約束されたのです。霊的に復活することによって、逃げ散った弟子たちを再度集め、イエスと聖霊の役事によって、弱き彼らを不屈の使徒に変えることが話し合われたのです。
 目を覚ましたペテロが突然、妙なことを口ばしりました。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。ここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために,一つはモーセのために,一つはエリヤのために」
 彼がそう言っているあいだに、雲におおわれてその姿は見えなくなりました。そして雲の中から声が聞こえたのです。「これはわたしの子、わたしが選んだ者である。これに聞け」声がやむと、そこにはイエスの姿だけがありました。弟子たちは恐れて沈黙していました。「今見たことは、誰にも言うな」と戒め、イエスはさらに弟子たちに言われました。
 「人の子は人々の手に渡され、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」しかし弟子たちは、師の言われる意味が分かりませんでした。それで彼らは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いか、という場違いな議論を始めたのです。
 イエスは幼な子を取りあげて言われました。「誰でもこの幼な子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。いちばん小さい者こそ、大きいのである」このように弟子たちを諭すイエスの心中は、悲痛であったに違いありません。

 人の子には枕する所がない

 イエスはガリラヤから、エルサレムを目指して最後の旅に出ます。町や村で教えられながら、イエスの旅はつづきます。ある時には、パリサイ人が近寄って告げました。
 「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」
 「あのきつねに言いなさい。わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、病気を癒し、そして三日目にわざを終えるであろう。しかし今日も、明日も、またその次の日も、わたしは進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、有り得ないからである」
 もはや大群衆が集うこともなく、従う弟子たちの数も少なくなっていたようです。それでもユダヤ教の指導者たちは、監視の目を緩めず、事あるごとに難問をつきつけて、イエスと弟子たちを陥れようとするのです。
 「いったい、律法学者たちは、なぜエリヤが先に来るはずだと言っているのですか」弟子たちは師に問いました。彼らには聖書の知識がなかったのです。
 「エリヤはすでに来たのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってにあしらった。人の子もまた、彼らから苦しみを受けることになる」
 弟子たちは師が、洗礼ヨハネのことを言われたのだと悟ったのですが、その本当の意味は理解していなかったようです。
 イエスの一行がカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める者がペテロに言いました。
 「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのか」
 「納めておられます」とペテロは答えたのですが、イエスは彼に言われました。
 「シモン、世の王たちは税を誰から取るのか。自分の子からか、それとも他の人たちからか」
 「他の人たちからです」とペテロが答えると、「では、子は納めなくてよいわけである。しかし彼らをつまずかせないために、海に行って釣り針をたれなさい。最初に釣れた魚の口を開けると、銀貨が一枚見つかるであろう。それで納めなさい」
 イエスの言われるとおりに、魚の口に銀貨が一枚ありました。それをペテロは税として納めたのでした。これを見ると、ペテロは宮の納入金を納めていないのに「納めておられます」と答えています。つまり脱税ということになります。面白いことに、文師がダンベリー刑務所に入る直接のきっかけも、脱税問題でした。
 また、魚とイエスは縁が深いのです。後に魚はキリスト教のシンボルマークになるのです。イエスは漁師のペテロよりも、魚の居場所に詳しいのです。余談ながら、文師は魚釣りを趣味とされます。それは趣味というより、人類救済のための条件のようにも見えます。誰よりも早く舟を出して熱心に釣られ、土地の漁師が驚くほどの釣果をあげられるのです。イエスが自然を従わせたように、メシヤにはそのような権能が備わっているようです。
 さて、パリサイ人らはイエスを試みようと、問いかけるのでした。
 「何かの理由で、夫がその妻を出すのは認められるでしょうか」
 「創造者は初めから人を男と女とに造られ、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。だから、神が合わせられたものを離してはならない」
 「ではなぜ、モーセは離縁状を渡せと定めたのですか」
 またある時には、サドカイ人が質問をします。
 「先生、モーセはこう言っています。ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけなければならない。では七人の兄弟が次々にその妻をめとって死に、最後にその女も死んだなら、復活のときには誰の妻になるのですか」
 「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神である」
 彼らが言いこめられたと聞いて、律法学者がイエスに問いました。
 「先生、律法の中でどの戒めがいちばん大切ですか」
 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが最も大切な戒めである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」神を愛し、人を愛する縦横の法則です。律法学者も敬服するほかはありませんでした。
 聖書に残されたイエスのみ言は多くはありませんが、それは不滅の真理です。人間は堕落して神との父子の因縁が切れたのであり、復帰の第一は、神を愛することです。また堕落の動機は自己中心の愛であり、その結果が人間のエゴイズムです。その反対に隣人を愛し、他の為に生きることが、心に天国をもたらす永遠の真理です。文師のモットーもまた、「為に生きる」ということです。
 律法学者、パリサイ人たちは論争にたけていました。議論を吹きかけてイエスの言葉じりを捉えようとするのですが、イエスは巧みにかわします。しかしどんなに真理を語っても、受け入れる心がなければ、言葉は虚しいのです。
 「あなたがたがモーセを信じたなら、わたしも信じたろうに」とはイエスの嘆きです。
 イエスの教えに感動した青年もいました。しかし彼は、その財産を捨て切れずに、悲しげに去って行きました。「富んでいる者が天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」とはその時のイエスの言葉です。弟子たちは非常に驚きました。イエスは地位と富を否定するのです。では何によって救われるのか、と弟子たちは考えたのです。
 「わたしたちはいっさいを捨ててあなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」ペテロがイエスに問いました。
 「おおよそ、わたしの名のために,家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者が先になるであろう」(マタイ19:29)
 いっさいを捨ててイエスに従った弟子たちでしたが、彼らは「永遠の生命」の意味を知らなかったのです。イエスのみ言を理解できずに多くの弟子たちが去って行きました。先にきた者が最後までメシヤに従うことは困難な道です。むしろあとの者が先になるのは、再臨の時代においても同様のことです。
 イエスとその弟子たちの一行は、追われる者のように旅をつづけます。一行は再び、サマリヤ地方を通りました。かってはイエスをキリストではないかと、歓迎したサマリヤの人々でしたが、今ではイエスの一行を、歓迎しようとはしませんでした。その扱いがよほど腹に据えかねたのか、弟子のヤコブとヨハネが師に言いました。
 「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」(ルカ9:54)
 イエスは彼らを振りかえり、叱られたのでした。彼らは足を引きずり、黙々と歩いていました。しかし監視の者たちは、執拗について来るのです。彼らは言いました。
 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」
 イエスは天を仰いで、慨嘆されました。
 「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所がない」

 エルサレム入城

 イエスはエルサレムに上る途中、弟子たちを呼びよせてひそかに言われました。
 「わたしたちはエルサレムに上って行くが、人の子は祭司、律法学者らの手に渡されるだろう。彼らは死刑を宣告し、むち打ってあざけり、十字架につけるであろう。そして彼は三日目によみがえるのだ」
 しかし弟子たちはイエスが死を決意されていることを、信じていなかったようです。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、その母親と一緒にイエスのもとに来ました。母親はイエスに願い出て言いました。
 「わたしの二人の息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左に座れるように、お言葉を下さい」
 いつの時代でも、母が子を思う気持ちに変わりはありませんが、ときには愚かしい自分中心の愛であるようです。イエスは彼らに言われました。
 「あなた方は、自分が何を求めているのか、分かっていない。わたしが飲もうとしている杯を、飲むことができるか」
 「できます」と彼らは答えました。
 「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかしわたしの右、左に座らせることは、父によって備えられた人々だけに許されることである」
 他の弟子たちはこれを聞いて、大いに憤慨したのでした。ゼベダイの母親のように、彼ら弟子たちも、イエスが奇跡を起こして王国を建設する夢を、まだ捨ててはいなかったのです。そしてその時の地位をめぐって、彼らは子供じみた争いをしていたのでした。
 その中には、イエスを裏切ることになるユダもいました。ユダは一行の財布を預かる会計係であり、弟子たちの中では頭も切れ、仲間の信頼も厚かったはずです。彼は仲間の争いを、冷静に見ていたに違いありません。彼もまたイエスに希望を託して、最後まで従ってきたのでした。いつかイエスが立ち上がり、群集を蜂起させてローマに進撃する夢を抱いていたのです。しかしながらイエスの言う御国と、彼の描く御国に相違があることに、ユダは気づいていました。イエスは愛を語り、永遠の生命について語りましたが、権力者を倒すことについては語らなかったのです。そして仲間の愚かさに、ユダは舌打ちしたのでした。
 「ローマの支配者はその民を治め、また偉い人たちは民の上に権力をふるっている。だかあながたの間ではそうであってはならない。偉くなりたいと思う者は、仕える人になり、かしらになりたいと思う者は、僕にならなければならない。人の子がきたのも仕えるためであり、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」
 イエスの言葉に、ユダはかすかに首を振ったのでした。
 さて、いよいよ一行はエルサレムに近づき、オリブ山ぞいの村に着きました。イエスは弟子たちをつかわして、ろばをつれて来るように命じました。弟子がろばの綱を解いていると、村人がとがめました。
 「主がお入り用です」イエスに言われたように弟子が答えると、村人はろばをわたしてくれました。主という言葉が何を意味するか、村人は知っていたのでしょう。多くの病を癒したイエスの噂は、まだエルサレムに残っていたのです。過越しの祭りを前に、あのイエスが帰ってきたという噂は、たちまちエルサレムの近郊にひろがったのです。
 イエスがろばに乗ってエルサレムに入城されると、群集の多くが自分の上着を脱いで道に敷き、また、しゅろの枝を切って道に敷いたのでした。
 「ダビデの子に、ホサナ!」
 イエスのエルサレム入城に,群集は歓声を挙げました。祭りを前に,人々の胸は高鳴っていたのです。彼らは何事かが起ることを期待していました。群集はエルサレムを目指して、ぞくぞくと集まってきました。群集の熱狂のうずに、イエスとその一行は巻き込まれてゆくのでした。群集の中にいた、あるパリサイ人がイエスに言いました。
 「先生、あなたの弟子たちを叱って、黙らせてください」
 「もし、この人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」

 ああ、エルサレム、エルサレム

 壮大な神殿の門をくぐると、祭りを前にした宮の庭は、参拝客でにぎわっていました。神に捧げることになる子羊の鳴き声がします。貧しい者は子羊の代わりに、鳩を捧げてもよいことになっていました。神殿商人たちは庭に鳩を売る荷台を並べ、また外国から来た人のための両替人の台もありました。彼らは神殿当局の許可をとり、それなりの税を払って商売をしている者たちでした。
 イエスは縄でむちを作り、神殿商人たちを追い出したのです。そして両替人の金を蹴散らし、鳩の荷台や、商人たちの腰掛けを蹴り倒して、彼らに言ったのです。
 「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家は祈りの家である。父の家を商売の家にするな」
 人の集まる所には、その客の需要をみたす商売が成り立つものです。それは神社も仏閣も、神殿も同じことです。イエスはそれを「強盗の巣にしている」と言って、蹴散らしたのです。商人たちはイエスの剣幕に驚き、ある者は逃げ、ある者は神殿の役人に訴えたのです。イエスは無抵抗主義者ではなく、むちを振るって大暴れしたのです。それは死を覚悟した、挑発行為だったのでしょうか。当然ながら、神殿の役人が出てきました。
 「こんな事をするからには、どんなしるしを我々に見せてくれるのですか」
 「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう」
 「この神殿を建てるには、46年もかかっています。どうして三日で建つのですか」
 この時のイエスの言葉を、後に弟子たちは思い出すのです。神は建築された神殿に宿るのではなく、イエスの肉体が神の宿る神殿であったのです。そしてそれは三日の後に復活したのでした。
 ローマの権威を借りる祭司長や長老たちに,民衆は反感を抱いていました。彼らと対決するイエスに、群集は味方したのです。それで長老たちは群集を恐れていました。
 イエスは祭りに集う人々にみ言を語り、また病人を癒されました。祭司長や長老たちが最も恐れることは、祭りに何事かが起ることです。民衆に暴動が起れば、その責任は彼らにかかってきます。群集の中にはローマに反抗する熱心党や、過激派の者が混じっていました。彼らもイエスに注目して、イエスを担ぎ上げようとしたようです。
 「しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」(ヨハネ2:24)とヨハネは記しています。
 翌日もイエスが宮でみ言を語っておられると、祭司長や長老たちが来て言いました。
 「何の権威によって、これらのことをするのですか。誰が、そうする権威を授けたのですか」そこでイエスは、彼らに言われました。
 「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたが答えてくれたら、わたしも答えよう。ヨハネのバプテスマは、どこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」
 彼らは互いに論じ合いました。「もし天からだと言えば、なぜ彼を信じなかったかと言うだろう。しかし、人からだと言えば、群集が恐ろしい。彼らはヨハネが預言者だと思っているのだから」そこで彼らは、言葉に詰まったのでした。
 イエスはまた、一つの譬えを語りました。ぶどう園の主人と農夫の譬えです。
 ぶどう園の主人が収穫の時がきたので、僕を農夫のところに送りました。農夫はその僕たちを殺してしまいました。そこで主人はその息子を送りました。すると農夫たちは「息子を殺して主人の財産も手に入れよう」と言って、息子も殺してしまいました。さて、ぶどう園の主人はどうしただろうか。
 「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい異邦人に与えられるであろう」このイエスの譬え話を聞いて、祭司長らは自分たちのことを指して言われたことを悟ったのです。彼らは怒りましたが、群集を恐れて手を出しません。
 イエスはさらに語ります。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。すべて罪を犯す者は、罪の奴隷である」
 「我々はアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは一度もない」
 「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っている」
 「我々は不品行の結果から生まれた者ではないし、罪を犯したこともない。我々にはひとりの父がある。それは神である」
 「わたしが真理を語っているのに、なぜあなたがたはわたしを信じないのか。あなたがたが聞き従わないのは、神からきたものではないからである。あなたがたは自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりに行おうと思っている」
 「あなたは悪霊に取りつかれていると我々が言うのは、当然ではないか。あなたの証しは真実ではない。あなたは自分を証している」
 「わたし自身のことを証しするのは自分であるし、わたしをつかわされた父が、証してくださるのである」
 「あなたの父とは、誰か」 
 「わたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう。わたしは去って行くが、わたしの行く所に、あなたがたは来ることができない」
 「来ることができないとは、あるいは自殺でもするつもりか」
 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。わたしはこの世の者ではない。わたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはないであろう」
 「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。あなたは我々の父、アブラハムよりも偉いのか。五十にもならないのに、アブラハムを見たのか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分を誰と思っているのか」
 「アブラハムの生まれる前から、わたしはいるのである」
 「あなたは人間であるのに、自分を神としている。あなたは神を汚す者だ。それとも、あなたは狂っているのか」
 彼らは激しく怒って、イエスに石を投げつけようとしました。イエスは身を隠して、宮から出て行かれました。
 イエスは祭りを前にして、宮で連日人々にみ言を語り、祭司長たちと激しく論争をされました。聖書に記されたイエスの言動を見れば、イエスは命をかけて、真理のみ言を語ったのです。彼はただ十字架で死ぬために来られたのではありません。神の真理のみ言を、彼らが受け入れることを必死に願われたのです。しかし彼らは、イエスを信じませんでした。イエスはエルサレムを前にして、悲痛なる嘆きの言葉を、聖書に残されたのでした。
 「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを、幾たび集めようとしたことであろうか。それだのに、おまえたちは応じようともしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」(マタイ23:37)

 終わりの時

 イエスと弟子たちが宮を出て行くとき、弟子のひとりが言いました。
 「先生、ごらんなさい.何という見事な石、何という立派な建物でしょう」
 「この石一つでも崩されないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう。それはおまえが、時の訪れを知らないでいたからである」
 オリブ山にイエスが座っておられると、弟子たちが近くにきて、師に問うのでした。
 「いつそんな事が起るのでしょうか。またどのような前兆があるのでしょうか」
 「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい。あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終わりではない。民は民に,国は国に敵対して立ち上がるだろう」(マタイ24:6)
 イエスの予言どおり,彼の死後、ユダヤ戦争が起こりました。イスラエル民族はローマに対して蜂起して、マサダの砦に立てこもり、徹底的に抗戦しました。しかし強大なローマ帝国の前に、ついに屈伏したのでした。神殿は破壊しつくされ、ユダヤ人は世界に離散しました。以来イスラエル民族は国のない民として、二千年間も世界を彷徨するようになったのでした。イエスが言う終わりの時とは、ユダヤ民族の離散の時でもあるでしょうが、またさらに大きく見れば、メシヤの再臨の時でもあると考えられるのです。
 人類歴史を大きく見てみるなら、終末の時とは、悪主権が滅び、善主権が興る時であり、善と悪が交差する混乱の時です。ノアの時がそうであり、イエスの時もまさに終末の時であったのです。歴史の同時性から見るならば、二千年後の現代がまさに終末の時であり、再臨の時代であると言えるのです。とすればイエスの予言は、再臨の時代についての予言と見ることもできるのです。
 イエスのみ言は、人類の歴史に多大な影響を与えました。それからの二千年間は、イエスの世紀であったのです。しかし人類は地上に生みゆえ、民族と民族が争い、宗教と思想がぶつかり、地上に戦争の止む時がありませんでした。神を否定するマルクスの思想も、キリスト教の土壌の中から生まれたものです。イエスのみ言と神性をもってしても、それらを凌駕して、克服することはできませんでした。新しい天宙的な理念を持つ、再臨主が来なければならないのです。
 「その時に起る艱難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイ24:29)とは、天変地異のことではありません。ヤコブの言葉にあったように、日は父であり、月は母であり、星は子女を象徴しているのです。再臨主が来られる時には、多くのユダヤ教徒がイエスにつまずいたように、多くのキリスト教徒が再臨主につまづき、落ちるに違いありません。
 大いなるラッパの音と共に「人の子が天の雲に乗って来る」なら、誰の目にも見えるはずでしょう。しかし「いつの日にあなたがたの主が来られるのか、あなたがたにはわからない」のであり、「思いがけない時に、人の子は来る」(マタイ24章)というのです。
 宗教絵画に描かれたイエス・キリストの姿そのままに、天から雲に乗ってイエスが再臨すると考えている人は、失望するのです。飛行機に乗って来る、というなら話は違いますが。
 「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル書」7:13)と旧約聖書にありましたが、イエスはマリヤの子として地上に生まれました。エリヤは火の馬車に乗って昇天したのですが、洗礼ヨハネはザカリヤの息子として生まれた、エリヤとは別人であったのです。しかし彼はエリヤの使命をもって、地上に生まれたのです。再臨主も人類の救い主として、メシヤの使命をもって地上に生まれることは、むしろ当然のことです。
 雲とは、水が蒸発して発生するものです。どんなに汚れた水であっても、蒸発すれば清い水になります。堕落世界の中から選ばれた者たちの群れが「雲」となり、その基台の上に,再臨主が「乗って」来られるのです。
 「いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口に近づいていることを知りなさい」(マタイ24:32)というイエスのみ言のとおりに、時の訪れを知らなければなりません。
 しかし終末の時代には、偽キリストや、偽預言者が現れるのです。彼らはしるしと奇跡によっても、多くの人々を惑わすのです。終末には伝統的な価値観が崩れ、何が真実かが分からなくなるのです。邪悪な宗教がはびこる時でもあり、また外見は美しく立派に見える偽キリストも現れるのです。本ものらしきものが、偽もので、偽ものらしきものが本ものかも知れないのです。
 「人々はあなた方に,『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらに行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て,天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし,彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17:23)
 ノアの時代のように、人々が食い,飲み、めとり、とつぎなどしている時に、不意に洪水が襲ってきたように、再臨の時代もそのようであるのです。彼はまず「多くの苦しみを受け、その時代の人々に捨てられる」というのです。イエスと同様,再臨主は十字架の路程を歩まれるのです。しかし死の一歩手前までいっても、その命だけは天が保護されるのです。また科学が最高に発達した時代であり、時が至れば,再臨主のみ言は,一瞬にしていなずまよりも早く、電波にのって世界に伝えられるでしょう。
 終末とは、人類滅亡の時ではありません。再臨主が来られる希望の夜明けです。しかし安易に新しい思想や,宗教にとびついてはなりません。また,世の人々の言う先入観に惑わされず、自らが真理を捜し求める努力をしなければなりません。ふたりの人がいれば「ひとりは取り去れ、ひとりは残される」のが終末の時代なのです。

 ユダと香油の女

 過越しの祭りが二日の後の迫ってきました。祭司長や長老たちは,大祭司カヤパの中庭に集まり,イエスを逮捕する相談を始めたのです。
 「律法によれば,まずその人の言い分を聞き,その人のしたことを知った上でなければさばくことをしないのではないか」とパリサイ人のひとりが言いました。
 「あなたもガリラヤの出か。ガリラヤから預言者が出るはずがないではないか」
 「このままにしておけば,民衆は彼を信じて騒ぎが大きくなる。そうすればローマ人が黙ってはいないだろう。我々はすべてを失うのだ」そこで大祭司カヤパが言いました。
 「あなた方は何も分かっていない。ひとりの人が人民の代わりに死んで,全国民が滅びないようにすることが,我々にとって得だということが。だが、祭りの間はいけない。民衆に暴動が起きるかも知れない」
 さて、イエスはエルサレム郊外のベタニヤで,らい病人シモンの家におられました。イエスとその弟子たちが,食事の席についていた時のことです。
 マグダラのマリヤが、石膏のつぼを持ってイエスに近づいてきました。そして彼女は,イエスの頭に香油を注ぎかけたのです。部屋じゅうに、高価な香油の香りがただよいました。マリヤは泣きながら,イエスの足に接吻して,それを自分の髪で拭い、また香油を塗ったのです。イエスは彼女のなすがままにされていました。
 「何のために、こんなむだ使いをするのか。それを三百デナリで売って,貧しい人たちに施すことができたろうに」イスカリオテのユダが,顔を背けて吐き捨てるように言いました。彼がそう言ったのは、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからだけではなかったのです。マリヤの様子を見れば,彼女がイエスを愛していることは、誰の目にも明らかです。ユダの顔は、嫉妬でゆがんでいたのです。
 「なぜ,女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ」イエスはユダに目をとめ、それから弟子たちに言われました。「貧しい者はいつもあなたがたと一緒にいる。しかしわたしは、いつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだに香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためなのだ。この女のした事も、わたしの福音が宣べ伝えられるところでは、どこでも記念として語られるだろう」
 ユダにサタンが入ったのは、この時でした。天使長ルーシェルがアダムに嫉妬してエバを奪ったように、ユダは情欲に燃えるような目で、マリヤを見つめていたのです。マグダラのマリヤは堕落世界から復帰された、エバであったのです。しかし彼女が罪の女であったとしても、イエスを知ってからは悔い改めて、ここまで主に従ってきたのです。復活されたイエスに、最初に出会ったのも彼女でした。
 ユダは主のもとを離れ、ひそかに祭司長たちの所に行き、そして彼らに言ったのです。
 「イエスをあなたがたに引き渡せば,銀いくらをくれるのですか」
 イエス逮捕の機会をうかがっていた彼らにとって、ユダの手引きは大いに好都合でした。そこで祭司長たちは、ユダに銀30枚を与えました。ユダがイエスを売ったのは、金のためばかりではありません。イスカリオテとは、短刀の意味があるそうです。彼はローマに反逆を企てる,過激派の出身であったかも知れません.イエスを祭司長たちに引き渡せば,今度こそ彼は立ち上がって奇跡を起こすに違いない、ユダはそう考えたのです。そして彼に一線を越えさせたのは、マリヤへのよこしまな愛であり、イエスへの嫉妬心でした。ルーシェルがエバを奪ってサタンになった動機と同じです。ユダはその時から、イエスを祭司長たちに引き渡す機会をねらっていたのでした。
 メシヤとは、油注がれた者のことです。預言者サムエルは,サウルに油を注いでイスラエル初代の王としたのでした。しかしイエスに油を注いだのは、ヘロデ王でも大祭司でもなく、マグダラのマリヤでした。
 マリヤは女の本能から、イエスが王の王であることを感知していたのです。しかしイエスは,この世の王ではありません。マリヤが油を注いだのは,イエスを送るための儀式でもあったのです。男たちはそんなマリヤを理解せずに、かえって反感を抱いたのです。そしてひそかにマリヤを愛していたユダの心に、嫉妬の火がついたのでした。
 イエスはユダを,咎めることはなさいませんでした。祭司長たちは何らかの手段で,イエスを捕らえたことでしょう。イエスの十字架への道はすでに決まっていたのです。銀30枚で主を売った男、という汚名を永遠に背負うことになるユダを,イエスは深く哀れまれたのでした。

                 (第八章へ)

↑ PAGE TOP