自由・平等・博愛
十八世紀のフランスでは王侯貴族が、その富の八〇%を独占していたというのです。やがて啓蒙思想が起こり、人間性に目覚めたフランスの民衆は蜂起してフランス革命が起こりました。ルイ王朝を打倒して共和制となったのですが、ギロチンとテロが渦巻く狂乱怒濤の時代になりました。やがてナポレオンが登場して、ヨ−ロッパは戦乱の渦に巻き込まれていったのです。
フランス革命のスロ−ガンが、自由・平等・博愛です。一握りの王侯貴族が富を独占している社会は理想社会ではありません。これが平等思想です。しかし人間はまた、自由に富を求め、権力欲を満たしたいという欲望があります。自由と平等は本来が矛盾する概念です。貧しい五人の家族がいて、ここに一個のケ−キがあるとします。もし自由に食べていいということになったら、きっと争いになることでしょう。自己の欲望を制御して、平等に分けなければなりません。家族が仲良く暮らすには、そこに家族愛、すなわち博愛の精神がなればならないのです。
人間は本来が、自己中心にできているのです。キリスト教ではこれを堕落といいます。その原因が何かはおくとして、宗教では人間の堕落性を認識し、その克服が修道の道とされているのです。仏教では煩悩といいます。その克服のために断食をしたり、滝に打たれたり、独身を守ったりするわけです。
イスラム教では、一日五回の神への礼拝を欠かさず、ラマダンの月には断食をします。利息を取ってお金を貸してはならず、貧しい人々に布施をするのは富める者の義務とされています。神への帰依と、服従の心がなければできることではありません。
博愛の精神は神や仏への信仰心がなければ、生まれてこないものです。人間の理知や理性を主張して、合理的精神を強調するならば、神や霊魂というあいまいなものは排除してゆくのです。
フランス革命は人間の理性を強調しました。自由・平等・博愛をスロ−ガンとしましたが、やがてはジャコバン党の独裁となり、血の粛清と暗殺の繰り返しとなったのです。
自由をとるか平等をとるか、平等を選んだのがロシア革命です。マルクスの思想は怨恨から出発していますから、博愛の思想はほとんどありません。共産主義者の口から、愛という言葉は聞くことができません。常に分裂、闘争によって発展するという思想です。
神を否定する共産主義は、善悪の価値判断も変わってしまいます。共産主義思想が絶対善であり、共産主義社会の建設に反対したり、邪魔になるものは悪ということになります。そのために親を密告することは、善ということになるのです。そして人間の霊魂を否定するなら、人間を抹殺することに良心の呵責を覚えることがないのです。思想が第二の良心となり、神となるからです。
こうして理想的共産主義社会の建設という大義の下に、何千万という人々が抹殺されるという、壮大な歴史の実験が行われたのでした。