薄れゆく博愛の精神

 アメリカはキリスト教精神によって建国された国です。その紙幣には「われ神を愛す」と記されています。アメリカ国会議事堂には祈祷室があり、大統領は聖書に手をあてて宣誓します。
 アメリカは何よりも自由を愛する国民です。そこにキリスト教の博愛の精神が働いていたとき、アメリカは大きく発展したのです。しかしながら時代と共に、アメリカから博愛の精神が薄れてゆきました。学校ではダ−ウインの「進化論」を教え、食前の祈祷もやめてしまったそうです。熱心に教会に行くのは年配者ばかりであり、若者の心から神は遠のいてゆくようです。
 唯心論の国として出発したアメリカでしたが、神やキリストが遠のいてゆくなら、物質中心の唯物論の国になってしまうのです。信仰の自由を求めた出発したアメリカでしたが、いつしか物質の自由を求める国になってしまったのです。
 能力に応じて自由に働き、働きに見合った収入を得ることは妥当なことに思えます。そこに博愛の精神がある限り、アメリカが健全な社会であったのです。しかし博愛の精神が薄れてゆくにつれて、弱者は見捨てられる非情な社会になってゆきました。
 アメリカ経済は一人勝ちのように、繁栄を誇っています。しかしアメリカの民衆がみな豊かかというと、そうでもないようです。企業の目的は利益の追求にあります。そのためには徹底した合理化が必要です。労働者の賃金は抑えられ、不必要となれば容赦なく解雇されるのです。ごく一部の成功者と、大多数の低所得者とに分かれるのです。そして金のない者は救急車も見放すという、非情な社会になってしまいました。
 アメリカはまた、契約社会であり訴訟社会です。日本人には考えられないような事で訴訟を起こし、判決が有利に下れば多額のお金を得るのです。お金がすべてという、義理も人情も通用しない社会です。こんな社会で暮らす貧しい人たちの心はすさんでしまうでしょう。
 アメリカの経営者の所得は、日本のそれとは比較にならないほどです。貧富の格差がひどい社会になってしまいました。貧しい者たちの心はすさみ、刹那的な快楽を求め、犯罪が横行する社会です。金持ちはセキュリティに汲々として、心が休まりません。つまり誰も幸せになれない社会です。
 人間の人権が蹂躪され、貧富の格差が極端になると、民衆の不満が蓄積されて暴動が起こり、それが革命となるのが歴史の示すところです。資本主義は決して最善の社会制度ではありません。自己中心の人間が、物質を中心に互いに奪い合うなら、社会は破綻してしまうのです。
 アメリカ企業は世界に進出して、世界中の富をかき集めています。アメリカに恨みを抱く人も多いということです。それがテロの温床にもなっているのではないでしょうか。

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