真の人生の勝利者

真の愛による人格の完成

有名なハ−バ−ド大学の名の由来にもなったジョン・ハ−バ−ドは、霊界の「統一原理」セミナ−に参加した所感を次のように述べています。
 民族間の対立、宗教間の葛藤、後進国に対する先進国の偏見、黒人と白人の人種差別など、来世を知れば全く無意味になります。ここには名誉も必要なく、外貌も、財物も、断片的な知識も必要ありません。ジョン・ハ−バ−ドは地上に生きていたとき、最高の知識と知性をもってこそ、最高の位置に立つことができる、学ばない学生の生は無価値であると教えてきました。しかしここ霊界に来てみると、それらは全く無意味であることを悟りました。人間の生の究極的な目的は、知性の啓発ではなく、人性の啓発にあるのです。
 「人間において重要なものは、知性ではなく、人性です。一般的に人類の葛藤は、知性より人性に関連しているものです。文化、宗教、思想、哲学、芸術などは、人性が根幹を成しているものです。それなのに、人性の根本が分からなかったのです」
 人性とは「人間本来のもっている性質」のことです。人間の本来の親は神様ですから、人性とは神性でもあります。人間の本質は知・情・意です。とすれば神様は知・情・意の主体です。人間は神の知・情・意に感応して、真・美・善の価値を追求します。
 真・善・美の価値は本来、与えようとする愛の衝動です。真理も善なる行為も、そして芸術の喜びも、与えれば与えるほど大きく豊かに広がるのです。ところがここに人間のエゴが侵入することによって、真・善・美の価値がゆがめられてしまいました。
 真理の探究は科学の発達をもたらしましたが、それが戦争のための核の開発にもなり、恐ろしい惨劇をもたらしました。知識を得ることが立身出世の手段になっています。神の創造の神秘を発見することが、科学的真理の探究です。その恩恵は人類すべてが享受すべきですが、特許を取得して利益を独占しようとします。
 人間は美を追求して芸術活動をなします。神の創造の美を発見して再創造することが本来の芸術活動です。しかし人間はサタン的な美、頽廃的な美、背徳の美、醜悪なものにも美を求めようとします。
 意は善を実践しようとします。良心は何が善であり、何が悪であるかを知っています。良心の主体が、神であるからです。人間は本心では善を行おうとするのですが、自己中心の思いが邪魔をするのです。善と悪が葛藤していて、変わりやすいのが人間の心です。仏教では「三千世界」ともいいます。本心では善を求めていても、悪の行為に走りやすいのが人間です。
 サタンは肉心に侵入しました。生心が主体であるべきなのに、主体と対象の関係が逆転したのです。肉心が主体になり、肉心の欲望のままに行動しているのが堕落人間です。ですから、宗教は体を打つことを教えてきました。断食などの荒行をして肉心を打てば、生心の比重が大きくなります。肉心の欲望を押さえて霊眼を開こうとするのが、修道者の厳しい道でした。しかし肉欲を断ち切って人格を完成したとしても、子孫を残さなければ一代で終わりです。
 欲望は悪ではありません。欲望がなければ理想家庭、理想社会、地上天国の実現も不可能です。欲望や嫉妬心も、正しい方向に向かえば活力になり、理想実現の強力なバネになります。生心と肉心の統一、心と体の統一が人格完成の道です。
 アダムとエバは完成期の七年間を「取って食べてはならない」という戒めを守るだけで完成したのです。しかし堕落性本性がしみついた人間が、七年間という限定された期間で人格完成が完了するわけではありませんん。人格の完成は一生の目的です。その意味では「祝福」はあくまで条件祝福です。
 仏教には次のような、「八正道」の教えがあります。

 「正見」とは、偏見を捨てて正しく判断せよということです。
 「正思」とは、正しく考えなさいということです。
 「正語」とは、正しく話しなさいということです。
 「正業」とは、殺生や盗みをしてはならないということです。
 「正命」とは、正法に従って正しい生活をしなさいということです。
 「正精進」とは、一心に努力して善を行うように精進しなさいということです。
 「正念」とは、雑念を離れて真理を求める心を忘れてはならないということです。
 「正定」とは、煩悩を捨てて精神を安定させなさいということです。

 これらの教えは人間の堕落性本性を脱ぐために必要なことであり、また当然の教えでもあります。しかし仏教の教えは個人の救済にとどまっています。そして神の愛と、神の創造目的を明確にすることができなかったことが、釈迦の痛嘆するところでありました。
 神と霊界の存在が明らかになれば、人間は罪を犯そうとしても犯すことができなくなります。そして特別な修道の道を歩まなくても、聖人の道を歩むことができるのです。それが霊界の天国への道であることが見えるからです。文鮮明先生は「原理」を解明されることによって、天国への道をハイウエ−のように整備されたのです。
 神は愛するために万物と人間を創造されました。与えて与えて、与えることそのものが喜びであるのが神の愛です。神性がそうであるなら、人性も与えることに喜びを見出すのです。それが親の愛です。真の愛を育てる場は、家庭をおいて他にありません。人間は家庭において「四大心情圏」を通過して、愛をの心情を体恤してゆくのです。

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