真の人生の勝利者

瞬間の人生か永遠の人生か

李相軒先生の霊界からの第一声は、「何でもなかったな」という一言でした。
 「おまえたちが執着している世界は、何でもない瞬間の世界であることを肝に銘じなさ
い。── 父より」と子供たちに伝えています。
 一〇〇年にも満たない地上の肉身生活は、永遠の霊界から見れば瞬きする間のことに過ぎないというのです。この事実をいま一度、真剣に考えてみなければなりません。永生の概念によって、価値観、人生観のパラダイムが劇的に転換するのです。
 私たちはこれまで、地上の肉身生活が人生のすべてだと思ってきました。そのように教育され、学び、また努力もし、それぞれに人生の目的や目標を定めて生きてきました。人生レ−スは勝つか負けるかの競争です。負けるな、頑張れ、根性だ! 周囲に励まされ、自分にむち打って闘ってきたのでした。
 人生は苦海を渡るような、苦労の連続です。過度な競争社会は疲労とストレスをもたらします。挫折して絶望したまま人生を終わる人もいれば、数々の苦難をのり越えて人生の勝利者、成功者と呼ばれる人もいます。しかしそのような地上の生活は、実は何でもない夢のような、一瞬の間の出来事に過ぎなかったというのです。
 人間は地位、名誉、財産を求めて苦闘してきました。夢と野望は限りなくふくらむのです。権力者となって一族を支配し、民族、国家を支配し、さらには世界をも制覇しようとして、英雄たちが歴史上に現れては消えてゆきました。
 資本主義が発達するにつれ、アメリカなどには途方もない大富豪が生まれるようになりました。彼らは本当に人生の勝利者であったのでしょうか。
 地位、名誉、財産のためには手段を選ばずという生き方をしてきた人は、多くの人の恨みを買い、羨望と嫉妬の的になるのです。ですから資産家は財産を守るために常に不安であり、心が休まらないのです。大富豪といわれる人は猜疑心が強く、人が信じられず、異常に孤独な生活を送った人がいます。
 富も名声も権力も、霊界では何の恩恵ももたらさないのでした。むしろ霊界では身動きのとれないような重石となり、永遠に続く地獄の刑罰にもなりかねないのです。地上の権力者や英雄たちは、霊界ではむしろ惨めな姿でいました。ある民族ある国家の英雄は、他国では侵略者です。彼らは霊界では、多くの霊人の怨恨にさらされるのです。
 イエス様は「天に宝をたくわえなさい」と教えました。さびもつかず、盗人もはいらない宝とは、お金や地位、名誉ではありません。自分のためにたくわえたものは、誰かが奪っていくのです。決して奪われることのない宝とは、他の人のために与えたものです。隣人を自分のことのように愛しなさいという、イエスの教えは愛の教えです。
 四大宗教はすべて、人を愛することを教えています。自己中心ではなく、利他主義を唱えるのです。仏教では慈悲、儒教では仁、イスラム教では慈愛といいます。
 イエス様はまた「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思いわずらうな」と教えました。自然万物は足ることを知っています。しかし人間の欲望には限りがありません。もっと多く、もっとおいしい物を、もっとすばらしい物をと、欲望は際限もなくふくらみ、そして奪い合い、争い合うのです。衣食住は地上の肉身生活の基台ですが、物質生活にそれ以上の価値をおくべきではありません。霊界では超肥満の姿になって腹が破けても、まだ食べつづけているのでした。
 戦後の日本はすべてを失いました。精神的な拠り所を失い、価値観が一変しました。食べる物も着る物もなく、ただ生きることに必死でした。少しでもよい生活を、もっと楽な生活を、さらに豊かにと欲望はふくらみ、お金中心の物本主義になりました。経済大国への道をひたすら歩みました。しかしやがて、バブル経済ははじけてしまいました。
 お金だけでは人間は幸福になれない、ということに人々は気がついてきました。心の時代ともいわれます。しかしその拠り所が何でしょうか。宗教でしょうか。しかし既成の宗教はその力を失っています。マルクスの唯物論思想でしょうか。一時は多くの若者が傾倒しましたが、マルクスの思想も今は色あせてしまいました。
 現代の若者の多くが人生の目的が分からず、人生の目標も見失っています。残るのは肉体の五感を満足させるのみです。刹那的な快楽に踊り狂う姿です。しかしそれは、地獄への乱舞であるというのです。

 

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