神様は人類の真の父母

共生主義の社会

ある日、大銀行が破綻して、日本発の大恐慌が世界に波及して資本主義が劇的に崩壊するのか、それともゆるやかに「共生主義」に移行してゆくのか、それは分かりませんが、「共生主義」の萌芽はすでに欧米社会に見ることができます。それはキリスト教の博愛精神に基づくNPO(非営利組織)の活動です。
 ピッツバ−グ市はかっては鉄鋼産業で栄えた町でしたが、鉄鋼の不況とともに工場は撤退してゴ−ストタウンになりかかっていました。そこで立ち上がったのがNPOです。市の中心部にあるビルには六十ものNPOが入居して、互いに連絡を取りながら市の再生に取り組んでいます。今やそれは第二の市役所と呼ばれているそうです。
 NPOは役所でもなく、利益追求が目的の企業でもなく、またボランティアとも違います。NPOで活動する人たちは、そこで生活できるだけの収入を得ながら、会社のためではなく社会のためになるような仕事をしているのです。
 たとえば失業者に職業訓練教育をして、企業に人材を派遣する活動をしているグル−プの責任者は、大手食品会社の次期社長と目されていた人物でした。彼はなぜその地位と収入を捨てて、職業訓練学校を始めたのでしょうか。
 「資本家のために働くのはもう嫌だ。これからは社会のためになるような仕事がしたい」と彼は語るのです。それがNPOで働く人々の共通の理念です。そして彼らは一様に「この仕事はとてもやりがいがある」と目を輝かせて言うのです。非営利組織である以上、そこで働いて高収入を得ようとか、出世しようとかは考えないのです。しかし社会のために働くということ自体に、大きな喜びがあるのです。
 お金のためだけに働くとしたら、たとえば老人介護という仕事は辛くて報われない仕事でしょう。介護を受ける人もお金を払っているという意識があれば、感謝の気持ちが湧いてきません。きっと冷やかで、義務的な関係になってしまうでしょう。しかしそこに「ために生きる」という愛があれば、愛と感謝の授受作用が生まれて、喜びという活力が生まれるのです。
 NPOの活動が福祉関係からサ−ビス業や流通関係、さらには第一産業にまで社会に拡大されるなら、資本主義に代わる「共生主義社会」が形成される道が開けます。利益追求が目的でなければ、社会に害になるような仕事は自然に淘汰され、社会悪も貧富の格差もなくなるでしょう。しかしそこには共通の理念がなければなりません。
 「統一産業グル−プ」は神主義という理念に基づいて活動しています。文鮮明先生の掲げる理念は、人類一家族の理想です。人類が一つの家族のようになるためには、人種や宗教の壁をなくすとともに、富の平準化、技術の平準化がなされなければなりません。
 国境を撤廃して地域ブロックとするためには平準化が必要ですが、国家間の格差が最も大きいのがアジアです。日本の企業は中国やベトナムに進出していますが、それは安い労働力を得るためであって、後進国に技術を提供するということは決してしません。
 「統一産業グル−プ」は平準化のために、先端技術まで提供するというのです。しかし文先生の理念は後進国にとっては大歓迎でも、技術先進国にとっては国益に反することです。そこに国家的な迫害の要因があると思われます。
 不況の現代ではリストラされて路頭に迷う人がいる一方、過労死するほどに働かされている人がいます。企業の目的は利益の追求にあるからです。そんな社会が人間を幸せにするはずがありません。
 霊界の実相が明らかになれば、地位、名誉、財産に価値をおくより、どれだけ「ために生きたか」がその人の価値を決めるのです。価値観の転換が生き方を変えるのです。
 霊界の楽園では仕事を探すことも、仕事を変えることも容易でした。そして彼らは明るく喜々として働いていました。「共生主義社会」もそうなるのです。自分に適した社会に貢献できる仕事を選び、また仕事を分け合い、過度な競争はせず、ストレス社会とはおさらばするのです。
 「共生主義社会」では家族同士、グル−プ同士で助け合い、ときには家までも共同で住むのです。大量生産、大量消費の時代から、物を大切にする時代に帰るでしょう。電気製品などが故障すれば技術のある人が修理して使い、不用になった物は互いに交換して使うのです。インタ−ネットが情報交換の場になります。
 家庭で育まれた愛は近隣にも及び、地域社会の結びつきが家族のように強くなります。互いに助け合って生きるのです。住居は狭くても公共の施設は充実していて、人々は共に楽しむことができます。学費や医療費は無料、保険の必要もありません。生活に不安がなくなれば、財産を蓄える必要はありません。お金というものが、ほとんど必要のない時代になるのです。疲れるほどに働く必要は全くなく、人々は自由に自己の才能を発揮して、生活をエンジョイすることができるのです。
 人間は自分のために生きると同時に、他のために生きるという二重目的をもっています。性相的な目的は全体のためであり、形状的な目的はそれ自体のためです。個人は家庭のため、家庭は社会のため、社会は国家のため、国家は世界のため、世界は神のためにという、すべての存在は二重目的をもった連体であるのです。
 「したがって、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるばすがなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない」と「原理講論」(六五頁)に書かれているように、すべての人が社会のために生きようとすれば、社会は個人の生活を保障しないはずがないのです。
 それでは個人の所有はないのでしょうか。そんなことはありません。家族はそれぞれの必要に応じて小遣いを持つように、その立場や各位に応じて、個人所有は許されるべきです。ではどの程度でしょうか。必要なだけです。一家の主人にはそれなりの交際費や趣味のお金が必要であり、子供にも欲しい物、プレゼントしたい物もあるでしょう。その額は良心が決めてくれるというのです。

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