謎とき『創世記』

第一章 天地創造


アルパでありオメガである

 はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。(1:1)

 『創世記』の神は、天と地を創造された創造主です。
 「わたしはアルパであり、オメガである。最初のものであり、最後のものである。初めであり、終わりである」と黙示録(22:13)に記されています。聖書の神はあらゆるものを創造された創造主であり、唯一にして絶対的な、時空を超越して自存する、全知全能なるお方です。このような神を信じるかどうかが、まず問題になります。
 私たち日本人にはこの唯一神という存在が、ピンとこないのです。昔の家には神棚というものがありました。棚というくらいですから、天井に近いところにありました。また仏壇というものがあって、これは座って拝みます。つまり神道と仏教という二つの宗教が、一つの家に同居していたのです。神様は生きている人間を守り、仏様は死んだ人間を守ってくださる、というのが親の教えでした。なるほど結婚式は神道で、葬式は仏教でというのが普通のようです。こんな国は珍しいのです。
 自然世界に神が宿る、と考えるのが人間の本性のようです。東の空が赤く染まり、やがて太陽が昇り始めれば思わず手を合わせたくなるのです。人間はひとりでは生きられません。太陽と、空気と、水と食物が必要です。さらには目に見えない何かによって、生かされているという敬虔な祈りの心が、宗教の始まりでしょう。
 日本に仏教が伝来し、また儒教の教えがもたらされました。仏教は修行によって自ら悟りをひらくのです。あるいは阿弥陀様に帰依して安心の境地に至るというのであって、神からの直接の啓示による宗教ではありません。その意味では宗教というより、哲学というべきかもしれません。
 儒教は人間社会でどう生きるべきかの規範を教えるものであって、学問でもあります。天という概念はあっても、天の父と呼ぶような人格神ではありません。また日本人は善なる先祖をみな神様にしてきました。御利益となるものは何でも神様です。学問の神様から小説の神様、近頃では野球の選手まで神様になりました。八百万の神であって、聖書の唯一なる創造主とは違うようです。それでカソリックの宣教師は、日本の神様とは区別して、創造主を天主と呼んだのです。
 明治時代になると、天皇が生きた神になりました。日本人は天皇の名において戦争に行ったのです。戦後はその反動でしょうか、神はいないという前提に立った教育です。神を否定すれば物質万能主義、お金がすべてになります。あるいは思想としては唯物論です。しかしソ連邦は崩壊し、バブルははじけました。人間はお金や物だけでは幸福にはなれないことを実感したのです。権力や知識は、幸福とは別のものです。共産主義も地上に理想社会はもたらしませんでした。
 神や宗教を持ちだすと、眉をひそめる人が多いのが日本の現状です。神の名において自分の欲心を満たそうとすれば最大の悪です。そんな宗教があることも確かです。しかし神や霊界を否定しようにも否定しきれないのが、人間の本性です。また神を否定すれば、道徳心が薄れて心がすさむのも事実です。神はいるのかいないのか、霊界はあるのかないのか、分からないというのが本当のところでしょう。
 キリスト教では、イエス・キリストを神の子、あるいは神そのものと考えています。しかしユダヤ教ではイエスは優れたラビ、教師ではあっても救い主メシヤ、つまりキリストとは考えていないのです。イスラム教では神はアラーです。三大宗教は互いに対立して、争ってきたのですが、その原因は神観の微妙な違いにあります。神は絶対的ですから、妥協というものがありません。ジハード、聖戦であれば徹底的に戦うのです。ですから人間を創造する以前の、『創世記』の神に帰ってみなければならないのです。
 呼び名はいろいろでも、太陽が唯一の存在であることは誰にも分かります。天と地を創造された唯一なる創造主が明らかになれば、宗教戦争も終わるでしょう。宗教、思想、民族の壁を越えて、人類が一つなる世界平和への道が開かれるのです。
 神を否定する思想も、一つの信仰です。神を信じる人も信じない人も、宗教、思想を越えて、白紙の状態で出発しなければなりません。生命の誕生には、必ず親がいます。その最初の生命がどうして誕生したのか、答えはまだないのです。あらゆる先入観を捨て、信じる信じないは別にして、創造主という存在を想定してみて、『創世記』を読み進めてみましょう。
 さて、太初にはまだ地上に生き物の姿はなく、混沌としたやみを、神の霊がおおっていました。神の霊とは何でしょうか。神の波動、エネルギーと考えることができます。そのエネルギーを注ぐ対象がまだない状態です。地上に生命体が誕生する以前、神は文字どおり唯一で、孤独な存在だったのです。神様も愛する対象がなければなりません。

 ロゴスの神、原理原則の神

 「神は光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(1:3)

 「初めに言があった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」と「ヨハネ伝」の冒頭に記されています。言と書いて、ことばと読ませます。私たちの日常会話とは違う、神のみ言です。言とはギリシャ語でロゴスです。ロゴスとは論理とか、原理原則のことです。
 「光あれ」と神が言われると、そのとおりになりました。つまり神はある原理原則によって、光を創造されたのです。天地創造は、絶対的な神の創造原理によって成されたということです。
 宇宙の出発はいつ、どのようにして始まったのでしょうか。科学者はビッグバンと呼ばれる爆発が起こって宇宙に拡大してゆき、今も宇宙は拡大しているというのです。宇宙には無数の星があります。その中の一つが太陽系で、その惑星の一つが地球星です。宇宙はある法則のもとに、正確に運行しています。
 ニュートンはある日、太陽系の運行の模型を作って友人に見せました。友人は感心して、「これは誰が作ったのか」と尋ねました。ニュートンは「自然にできたのだ」と答えました。「そんな馬鹿なことはない」とその友人は叫んだそうです。
 宇宙の運行は時計よりも正確で、狂ったりすることはありません。星と星が衝突するようなことも滅多にないようです。時計は人間が、設計図のとおりに作ったものです。であれば宇宙を創造した創造主がおられるはずだ、というのが有神論の主張です。
 ガリレオは地球が太陽のまわりを回ると主張しました。ところが中世の教会は地動説を撤回せよと、ガリレオに迫ったのです。聖書の記述は天動説だからです。ガリレオも火あぶりにされてはたまりませんから、裁判所では地動説を撤回しました。しかしそこを出るとき、「それでも地球は回る」とうそぶいたそうです。
 宗教と科学は互いに、反対となる道を歩んできました。科学が発達するにつれ、神や霊界を否定する方向にありました。しかしさらに発達すると、科学は神の創造の神秘の分野に入ってきたのです。現代の最先端の科学は、神や霊界を否定できないところまできているのです。これからは科学が、神と霊界の存在を証明するかもしれません。さて、宇宙に目を向けてみましょう。
 太陽系の中心はもちろん太陽です。太陽は朝に東から昇り、夕に西に沈んで一日が終わるように見えますが、実は地球が一回転しているわけです。さらに自転しながら、地球は一年をかけて太陽のまわりを公転しています。太陽が主体とすれば、地球はその対象の関係です。遠心力と求心力の微妙な関係において、主体と対象が相対関係を保っているのです。太陽は地球の生命体に、光と熱のエネルギーを送り、地球はそれを受けて太陽のまわりを決して離れません。主体と対象が授け受けるという、授受作用をしているのです。
 地球は生命体が生存できるあらゆる条件が、奇跡的にすべてそろっているのです。その確率はまさに天文学的数字だそうです。たとえば太陽と地球の距離です。もう少し近ければ熱くて人間が住めません。遠ければ寒くて住めません。また地球の地軸が、太陽に向かって23度ほど傾いているのです。これが直角だったらどうでしょうか。暑い所は常に暑くて、寒い所は一年中寒いわけです。しかし地軸が少し傾くことによって、地球は自転しながら公転していますから、四季が生じるのです。かくして森羅万象が四季色とりどりに変化して、植物を成長させ、生き物や人間に喜びを与えているのです。
 地球は主体である太陽のまわりを回転して、さらに太陽系自体が宇宙のある中心を主体として、回転しているというのです。このように、宇宙全体が回転運動をすることによって、円形から球形運動をして立体的に、見事な調和を成して存在しているのです。主体と対象が授け受けして存在することを、授受作用の法則と呼びます。
 神はあらゆるものを創造原理によって創造されたとするなら、この授受作用の法則は天体の運動ばかりではありません。自然界のあらゆる存在が主体と対象の相対関係を結び、授受作用をすることによって存在のための力、生きるための力が生じるのです。このようにして自然界は授受作用によって、見事な調和を成して存在しているのです。
 神が人間を創造されたなら、人間個体の心と体、親子、夫婦、兄弟、さらには社会の人間関係においても、主体と対象の関係で授受作用して調和、発展していると言うことができるのです。

 創造の六段階の過程

 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」そのようになった・・・・第二日である。(1:6)

 第二日は水の出現です。地球の引力によって宇宙の隕石が吸い寄せられたのですが、この隕石には水分が含まれていたのです。その水分が衝突の熱で蒸発しますが、地球には大気圏がありますから、宇宙に放散されないで雲になり、冷えて水になります。これがおおぞらの上の水です。やがてそれが雨になり、地上に降り注いだのです。
 第三日は、降り注いだ水が地の低い所に集まッて海となり、かわいた所が陸です。やがて地の上に青草がはえ、それから種類に従って実を結ぶ果実がはえさせられました。神は見て、良しとされました。満足されたということです。
 第四日は、「神は二つの大きい光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた」とあります。第一日に「光りあれ」と言われたのですから、太陽も星もあったなずです。地球は盛んな噴火活動をしていて、噴煙で太陽も月も見えなかったのでしょう。やがてそれが収まって、太陽と月が目に見えるようになったということです。
 第五日は、水の生き物、海の魚、空の鳥の誕生です。
 ところで生命体はどのようにして誕生したのでしょうか。まずごく下等な植物が誕生し、それが進化して多くの植物となり、やがて動物としての生命が生まれ、環境に応じて進化して、また突然変異によって新しい種が生まれ、強者が生き残って弱者が死滅し、哺乳類が生まれ、猿のように進化した動物から北京原人のような原人となり、やがてさらに進化して労働をおぼえ、人間が誕生した。これが学校で学んだ「進化論」です。
 神の創造ではなくして、自然に人間ができあがったというわけです。しかし「進化論」は、科学的に完全に実証されてはいないのです。ここでは詳しく論じませんが、進化の途中の化石が発見されていないというのです。また突然変異は、いわば不具の状態で生まれたものであって、やがて元に戻るとされています。さらに猿の遺伝子と人間の遺伝子は違うのですから、猿から人間が自然に生まれるということはあり得ないわけです。
 生命はその母体となる存在なしには生じない、と科学は証明しています。では最初の生命はどこから生まれたのか、これが分かりません。宇宙の他の星から飛来したという説をとなえても、ではその星でどうして生まれたのか、問題は変わりません。最初の生命は創造主によって創造された、と考えるほうがむしろ自然と言うべきでしょう。
 第六日に、哺乳類や家畜が生まれ、そして人間が誕生したのです。
 聖書の記述によれば、天地創造から人間の誕生まで、六日で完成したことになります。一日は千年として、六千年です。しかし実際は地球上に人類が誕生するまで、45億年という歳月が経過しているのです。六日という期間は、創造の六段階期間と考えるべきでしょう。「夕となり、また朝となった」という記述は、夜という創造の期間があったことを示しているのです。
 聖書に記述された創造の六段階期間と、現代の地球物理学者が解明した創造過程が、ほぼ一致しているというのです。それゆえ、聖書は神の啓示によって書かれた書物であると言えるのです。ただし、聖書は比喩と象徴によって書かれているのです。聖書を文字どおりに解釈しても意味を成さないのです。

 自然界の法則

 創造主、神とはどのようなお方でしょうか。神は目に見えず、またそのみ言も聞くことができません。 しかし神が創造主であるなら、造られたその作品を見れば、創造主の本性を知ることができるわけです。シェクスピアーやベートーベンは過去に生きた人ですが、彼らの作品を鑑賞することによって、すでにこの世にいない芸術家の本性を知ることができるのです。
 「自然は開かれた聖書である」という言葉があります。自然は神の作品です。私たちが創造主に想いをはせて自然を見るなら、それは何と美しいことでしょうか。空は青く、深い水の色も青く見えます。秋には紅葉して山を赤く染めます。古来から詩人は、自然の美しさを讃えてきました。
 花の美しさはどうでしょうか。その色彩とデザインの多彩さは、どんな芸術家も及びません。画家はその美を発見して、ただ写し取るだけです。蝶々や熱帯魚の模様や色の美しさは驚くばかりです。その自然の美を味わうことができるのは、どうやら人間にだけ許された特権であるらしいのです。犬や猫が桜の花を見て喜ぶでしょうか。蜂が花に集まるのは美しいからではなく、蜜があるからです。
 人間は長い歴史を通じて、多くの発見や発明をしてきました。しかしそのすべての元はすでに自然界にあったのです。自然や人体を研究すればするほど、人間はその神秘に驚嘆してきました。そして最先端の医学は、神の創造の神秘の分野に入ってきたのです。動物の何十兆という細胞の一つ一つにその遺伝子がインプットされていて、牛なら同じ牛ができるというのです。
 動物は美を鑑賞したり、自ら努力して工夫したり、何かを創造したりすることはありません。生きるための食欲と、子孫を残すための性欲と、命を守る防衛本能の他にはないように見えます。しかし子供が生まれれば、誰に教わることなく子育てをします。それは本能としてインプットされているのです。逆にいえば、動物には創意工夫とか、創造という自由が与えられていないのです。自由は人間にだけ与えられた特権です。
 自然界を見てみれば、すべては陽と陰の二性で存在しています。動物はオスとメス、植物はオシベとメシベが相対関係を結んで、授受作用することによって生存、繁殖するのです。さらに動物や植物を形成する分子、原子、素粒子においても、陽と陰の相対関係において存在しているのです。
 すべての被造物は陽性と陰性の、すなわち主体と対象の二性の、ペアシステムになっているのです。人間も同じことです。なぜペアシステムになっているのでしょうか。生きる力というものは、単独では生じないという原則があるからです。必ず主体と対象とが相対基準を結んで、授受作用することによって生存、繁殖の力が生じるのです。
 このように考えれば、被造物を創造された神自体内にも陽・陰の二性があって、相対基準を結んで授受作用することによって、創造というエネルギーが発生して、生命を誕生させたと考えられるのです。
 神はすべての青草と、実を結ぶすべての木を動物と人間の食物として与えられました。青草は土の養分と、水と太陽の熱によって成長します。その草をしま馬が食べて成長します。そのしま馬をライオンのような肉食動物が食べて生きるのです。しま馬がかわいそうだと、ライオンを除去したらどうなるでしょう。しま馬は大繁殖して草を食べつくし、やがて食べる物がなくなってしま馬も死に、すべて無になってしまうのです。神が創造されたもので、無駄なもの、邪魔なものはないようです。自然界は調和を成しているのです。人間がこれに手を加えることは、自然界の調和を壊すことになるのです。
 植物はより上位の動物のために存在し、動物は人間のために存在し、人間は神のために存在しているのです。そして神は波動というエネルギーで素粒子を形成し、素粒子は原子、原子は分子、分子は植物を形成しているのです。このようにあらゆるものが連帯して、一つの広大な有機体を形成しているのが被造世界です。この大自然という有機体の中で生かされているということを実感することが、仏教でいう悟りであり、キリスト教の神体験であるように思います。

 神のかたちとして造られた人間

 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(1:26)

 神の創造の最高傑作が人間です。イエス様は神を見せてくれという問いに、「わたしを見た者は神を見たのである」と答えています。イエス自身が、神そのものだという意味でしょうか。そうではなく、神に似た者として創造された完全な人間という意味でしょう。神のかたちに創造されたものが人間です。ですから完全な人間は、神とも言えるのです。
 しかし神様は目に見えない、無形の存在でした。モーセの十戒の一つが、偶像を造って拝んではならないでした。神は無形の主体であるからです。では神のかたちとは、どういうことでしょうか。
 神自体内の陽と陰が、形となって創造されたものが、男性と女性です。男と女の肉体はすべてが対象的に造られています。男は力づよく、女は優美です。男女の肉体の特徴は、その生殖器にあります。凹と凸になっています。陽と陰、プラスとマイナスです。神様が創造なさるのに最も苦心したのが生殖器だということです。それを恥ずかしいもの、隠すべきものと思ってしまいがちですが、子孫を残す神聖な場であり、夫婦和合の場であり、そこに神の愛が宿る至聖所です。ですからみだりに人目にさらすべきではないのです。
 人間には男女それぞれの体があり、また心があります。心は目に見えませんが、ないという人はいないはずです。心は無形ですが、広い心とか、暖かい心とか、小心者とか、形があるかのように表現します。そして心の変化が、即座に体に現れるのです。心臓がドキンとすれば、顔がこわばって青くなります。特に目は心の変化を、隠しようがありません。人間はその人の顔を見れば、その心の状態のおよその判断がつくのです。四十歳を過ぎたら顔に責任を持て、とはリンカーンの言葉です。
 人間は心と体で存在していますが、心と体は切り離すことができません。健全な肉体に健全な精神が宿るというように、肉体からの活力が心を元気にします。体が病んでいれば心も重くなります。また体が罪を犯せば心も暗くすさむのです。また逆に心が清く正しく愛と希望にあふれていれば、たとえ体が病んでいても癒す力が生じるのです。心と体は相対基準を結び、常に授受作用していることは、医学的にも証明されているのです。
 では心と体は、どちらが主体で、どちらが対象でしょうか。それは目に見えない心が主体で、体が対象です。心の命じるままに体は動いているわけです。この心と体の関係は、人間だけにあるのではありません。動物にも本能という心があり、植物にも植物心とでもいうべきものがあるのです。さらには分子、原子、素粒子にも、指向性という心的なものがあるのです。とすれば、その第一原因である創造主の自体内にも、心と体の二性があるということになります。これを性相と形状の、二性性相と名づけましょう。
 神は男性的なもの、女性的なものの二性を内包しておられました。さらには神は性相と形状の、二性性相において存在されておられるのです。
 無形の主体である神が心なら、有形の被造世界は体です。人間が体なら、神は心です。神が主体であり、人間はその対象ということになります。ですから神は被造世界に対しては男性格です。父のイメージです。天の父よ、と呼びかける意味がここにあります。では聖霊とは何でしょうか。神に内包された母なるものが聖霊です。
 結論として神を定義づけるとすれば、神は男性と女性、性相と形状の二性性相が、中和された無形の主体として存在され、被造世界に対しては男性格主体としておられる、と言うことができます。
 人間の肉体は神の形であり、神が宿る神の宮です。自分のものであって自分のものではありません。ですから勝手に扱ってはならないのです。キリスト教では自殺は神の体を壊す罪です。麻薬や深酒や、体を痛めるものは罪ということになります。
 神はすべての生き物を創造され、最後に神の体としての人間を造り、万物を治めさせようと言われたのです。つまり人間は万物の霊長です。人間の肉体は万物の体を総合しているのです。人間より早く走る動物、力の強い動物、空を飛ぶ鳥、海を泳ぐ魚、あらゆる生き物がいますが、人間の肉体はそれらの能力を総合しているのです。オリンピックを見れば分かるように、これほど多彩な運動能力を持つものは人間だけです。
 神は人間を創造され、万物の主管権を人間に委ねたのです。神と万物は相対基準を結べませんから、授受作用できないのです。犬や猫が神に祈るということはありません。神に祈るのは人間だけです。「万物を治めよ」という神のみ言には、人間を通じて神は万物を間接的に主管して、人間を通じて被造世界と天宙が和動するという、神の願いが込められていたのです。
 このように考えれば、人間は天宙の主管の中心、善の中心、和動の中心体です。これが万物の霊長としての、完成した人間の本来の位置と姿であったのです。

 われわれとはだれのことか

 「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」とあるわれわれとは、誰のことでしょうか。神は唯一であるはずなのに、ここでは複数になっています。父と子と聖霊の三位一体を指すのでしょうか。しかし三位一体はイエス・キリストを神とする、のちのキリスト教神学からきているのです。
 神と人と動物の他に、聖書に登場するもう一つの存在があります。それは主の使、あるいは御使です。つまり天使の存在を忘れてはなりません。天使というと背中に羽がはえたエンゼルマークを連想しますが、あれはギリシャ神話のキューピットです。天使は人間と同じ姿形をした、それも男性として登場するのです。
 天使は聖書の随所に現れるのです。荒野に追われたハガルとイシマエルを助けたり、アブラハムとサラに子供が生まれることを告げます。その時、天使は人間と同じように目に見える姿で、人間と同じように食事をしています。また御使はロトの所にも現れますが、ソドムとゴモラの人々は「われわれは彼らを知るであろう」と騒ぎたてました。「知る」とは犯すという性行為の意味です。天使は男性の姿ですから、ソドムとゴモラの人々は性的に堕落してホモだったのです。彼らは天使があまりに美しいので殺到したのです。
 神は「万軍の主である」とも言われます。万軍とは天使軍団のことです。つまり神は万物と人間を創造なさる前に、天使を創造されたのです。天使は神の使いとして、神と共に万物を創造した働き手であったのです。神の息子・娘は人間だけですから、天使はいわば使用人であって万物のうちに入ります。「天使は仕える霊であって、人々に奉仕するためにつかわされたものではないか」と「ヘブル人への手紙」(1:14)に記されています。天使は霊的な存在ですが、人間と同じ肉体があるように見え、また感じられるのです。ヤコブと相撲を取って、彼のもものつがいを外すことまでしています。
 われわれとは、神と天使たちの意味だったのです。つまり人間の体はまず、霊界で天使をモデルとして造られたのです。人間創造の構想がまず神にあって、それから神は天使と共に、万物を創造されたのです。人間だけ先に地上に創造しても生きることができません。そこでまず食べ物となる植物や木の実を造り、人間を楽しませる美しい花や自然、鳥や魚や家畜を造って最後に人間を、神は天使と共に創造の六段階を通じて造られたのです。ですから地上に物質化する以前に、すでに霊界にはすべてあったと考えられるのです。
 現代人は霊的に鈍くなっていますから、霊界や天使が見えません。しかし霊感の鋭い人には、霊界と天使が見えるようです。18世紀のスエーデンに不思議な人物がいました。生きながら霊界を見てきたという、スエーデンボルグという人です。彼は八十歳を過ぎて旅行に出かけようとして、ある人が「一人で大丈夫ですか」と心配すると、「天使が支えるから大丈夫だ」と答えたそうです。彼はジョークではなく事実を言ったのです。
 新約聖書には天使と、サタンが登場します。このサタンとは何者かが問題です。祭司ザカリヤに現れた御使は、名をガブリエルと名のっています。「ヨハネの黙示録」(12:7)には「ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった」とあります。龍とその使いたちとありますから天使長のはずですが、名前がありません。龍、あるいは年を経たへびと呼ばれ、これがサタンとなった、と書かれています。
 アダムとエバが神の息子・娘として誕生したなら、天使はその教育係になるはずです。人間の精神は、知,情,意によって成長します。知は真理を追究し、情は愛と美を求め、意は善を行うのです。真、善、美を司る、三大天使がいなければならないはずです。
 愛の天使がミカエル、善の天使がガブリエルだとすると、知の天使長の名前がありません。しかし聖書にその名はありませんが、隠れた天使の名が知られています。ルーシェル(あるいはルシファー)と呼ばれる天使です。それが龍、あるいは年を経たへびだとすれば、「地に投げ落とされ,その使いたちも、もろともに投げ落とされた」と「ヨハネの黙示録」に記されているのです。知の天使とアダムとエバの間に,何があったのでしょうか。

 神の三大祝福

 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ,ふえよ,地に満ちよ。地を従わせよ。また海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治めよ」(1:28)

 神は人間を創造されて、「生めよ、ふえよ、すべての生き物を治めよ」と祝福されたのです。「生めよ、ふえよ」の祝福は、『創世記』を通じてリフレーンのように何度もあるのです。ノア一家が箱舟から新天地に出たときも、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」の祝福がありました。アブラハムやイサクが何かの条件を立てると、やはり子孫繁栄の祝福があるのです。ヤコブとエサウの双子の兄弟も、祝福をめぐって争うのです。
 神の祝福とは、何を意味するのでしょうか。祝福はまず、人類始祖のアダムに与えられました。そしてアブラハムは、アダムの代身という立場でした。神の祝福は、神の血統を受け継ぐ人物に与えられるのです。いわば宗家の宗孫のお墨付きです。
 新約聖書のマタイ伝の冒頭には、イエス・キリストの系図なるものが延々と記されています。しかしイエスの母マリヤは聖霊によってみごもったというのですから、系図に意味があるのでしょうか。またルカ伝のイエスの系図とも違います。一説によると、マタイ伝の系図は捏造であるとか、実はイエスは二人いた、と言う人さえいます。
 マタイはなぜイエスの系図を延々と記したのか。よく検討してみると、これは『創世記』に登場する「祝福」された人物であり、また旧約聖書の中心人物たちです。つまり神の選民であるユダヤ人の、中心的な系図なのです。さらに付け加えると、この系図には四人の女性の名があります。聖書の系図は男性中心なのに、なぜマタイは女性の名を加えたのか。そしてその四人の女性、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻には、ある共通点があるのです。それは性的にタブーとされる事実に係わりがあることです。しかしその系図の末に神の独り子、イエス・キリストが誕生したというのです。
 「生めよ、ふえよ」は単に子孫繁栄の祝福でしょうか。生めよ、と訳された原語は「実を結べ」という意味だそうです。英語ではビイフルーテイフル、果実が熟すように成熟せよです。韓国語では成育せよ、と訳されています。つまり、「大人になりなさい。それから夫婦になって子孫を繁栄しなさい」という神の祝福だったのです。アダムとエバはいきなり大人として創造されたのではなく、成長期間があったのです。
 このように考えますと,神の祝福には三つの意味があります。
 「生めよ」には、男として女として個性を完成せよ、という神の願いがあったのです。これが第一の祝福です。人間は七歳までの幼年期、十四歳までの少年期、そして二一歳までの青年期の、七年づつの三段階で完成して大人になります。これを蘇生・長成・完成、三段階期間の完成と見ることができます。
 「ふえよ」は文字どおり、夫婦になって子女を繁殖せよ、という子孫繁栄の祝福です。家庭を完成しなさい、というのが第二の祝福です。
 「すべてのものを治めよ」とは万物の霊長として、万物を主管せよという祝福です。これが第三の祝福です。
 アダムとエバが個性を完成した大人になり、結婚して家庭を成して子孫を繁栄して、神が創造された自然世界と万物を人間が神に代わって愛して万物の主管主になるなら、つまり人間が神の三大祝福を成就するなら、神の創造理想は完成したはずです。エデンの園は地上の楽園になったはずです。ですから神は中心人物に、繰り返し「生めよ、ふえよ」の祝福を与えられるのです。
 蘇生・長成・完成の三段階での完成は、神の創造の法則になっているのです。被造世界の多くは三段階になっています。陸、海、空。鉱物、植物、動物。また三天使、三弟子、三大祝福など、数えあげたらきりがありません。三は神の数なのです。
 天体の法則は高等数学によっています。神は数理的であり、科学的であり、原理原則の神であり、絶対的であるのです。三段階完成は神の法則ですから、神のみ旨は三度目には必ず成就する、という一つの原則があるのです。この原則を知らないと、『創世記』の謎は解けないのです。

 神の創造目的

 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり,また朝となった。第六日である。(1:31)

 神は六日ですべての創造を終えて、「はなはだ良かった」と言われました。「はなはだ」という形容詞がついたのです。神は全力を投入して万物を創造し、そして最後に人間を創造されて、大いに喜ばれたのです。
 神の創造の目的が何でしょうか。神は永遠に自存する絶対者であり、それ自体で完結していて完全無欠なお方と考えれば、万物と人間を創造される意味が希薄になります。神が人間を愛する理由も薄れます。こんな観点から、神は創造はされたが後は無関係、という理神論が生まれました。人間の理性を中心とする合理主義,科学万能主義です。やがてそこから、神を否定する唯物論が生まれたのです。それは神が人間を創造した目的が分からなかったからです。
 人間は何のために生きるのか。これが人生最大の問題です。哲学も宗教もこの問題のために苦悶してきました。人生の目的は快楽の追求にあるのか,それともあの世の天国か極楽に行くためか。生きているからただ生きるのか。善とは何か。悪とは何か,善悪の基準がどこにあるのか。これらの問題に明確な解答を与えてくれた哲学はなかったのです。
 被造物である人間が、どんなに創造された目的を考えても分からないわけです。創造主の,創造の目的を知らなければなりません。
 神は万物と人間を創造されて、「はなはだ良かった」と喜ばれたのです。神の創造の目的は、喜びを得るためにあったのです。実に単純なようですが真理とは単純なものです。
 神は全知全能の絶対者ですが、できないことがただ一つだけあります。それは独りでは喜べないということです。人間も何らかの対象があってこそ、喜びも生きがいも生じます。たとえ虫一匹でも、そこに対象があれば喜びが生まれるのです。まして愛する妻を得て、自分にそっくりの子供が生まれ、その子が次第に成長する姿を見て喜びを感じない親がいるでしょうか。親は子供が自分よりも立派になってくれることを願うのです。全くの孤独ではどんな豪邸に住んでも、嬉しいことも楽しいこともありません。
 モーターがプラス・マイナスの電流によって回転するように、力というものは主体と対象が授受作用することによってのみ発生するのです。これが授受作用の法則です。喜びという人を幸福にする力も、ある対象があって授受作用することによって発生するのです。
 神も喜びという力を得るためには、ご自分の性相と形状のとおりの喜怒哀楽をもつ、人間の創造が絶対に必要であったのです。そのためにはまず、人間が生きることができる自然界と万物の創造が先でした。そして最後にわが子としての人を造られ、「はなはだ良かった」と神は喜びの声を挙げられたのです。神と人間は、まさに親子の関係なのです。
 では人間が生きる目的が何でしょうか。それは当然,創造主の目的にかなうことです。神に似た者として人間は創造されたのですから、人間の生きる目的は神のように完全な者になることです。イエス様が「天の父が完全であられるように,あなた方も完全な者になりなさい」(マタイ5:48)と言われたとおりです。すなわち、神の三大祝福を地上に成就することが、人間の生きる目的であるのです。
 神の創造目的を中心にして、万物は繁殖してゆきます。動物ならオスとメス、植物ならオシベとメシベに分立して、授受作用によって繁殖してゆきます。人間は男女が相対基準を結んで結婚して、授受作用によって子女を繁殖してゆきます。すべてのものは神を中心にして、神ー主体・対象ー合成体の三段階で繁殖するのです。神ー主体・対象ー合成体の、ひし形が歪んでいないものが、神を中心にした四位基台です。この神中心の四位基台を造成することが、神の創造の目的であったのです。
 ソドムとゴモラの町が、なぜ神に滅ぼされのでしょうか。それはホモの町でした。姦淫、不倫、近親相姦、ホモ、レズ、フリーセックスは、神を中心としたひし形の四位基台を歪めるのです。それはがん細胞のように広がって、神の創造目的を損なうのです。すべての高等宗教が、性の退廃を悪とする理由がここにあります。国家滅亡の遠因も、ここにあるのです。
 神はすべての作業を終えられ,第七日には休まれました。これがユダヤ教の安息日になったのです。神は創造の業に全エネルギーを投入されて、一滴の余力も残されなかったというのです。
                 (第二章へ

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