謎とき『創世記』

第二章 エデンの園


 土のちりで人を造り

 主なる神が地と天を造られた時,地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず,また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって地の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り,命の息をその鼻に吹きいれられた。(2:5)

 第一章の天地創造の過程と,第二章の記述とは順序が逆になっているように見えます。第一章では最後に人間が,神のかたちとして男と女とに創造されたのですが,第二章では神はいきなり,土のちりで人を造ったのです。それから神はやはり土のちりで鳥や獣を造って最後に人,つまりアダムのあばら骨を取って,ひとりの女を造ったのです。
 このような観点から第一章の記述者と,第二章の記述者は別人ではないかと、聖書学者たちは考えるのです。つまり聖書は異なる資料が合わさって,のちに編纂されたものとされているのです。ここでは聖書学はおいておくとして、視点の位置が違うことに注目してみましょう。
 第一章の視点は高く天にあり,創造の六段階が実現してゆく過程を客観的に記述しているのです。ところが第二章になると,カメラのレンズが対象に近づくように、視点が地上に降りてきます。また創造の過程が逆になっているのは,実現してゆく過程ではなく,構想の過程だからです。神の創造の目的が,神の相対となるべき人の創造にありました。まずアダムという構想があって,そこから逆に自然万物世界が創造されていったのです。そして「人はひとりでいるのは良くない」とアダムの相対となる、エバが創造されました。人間も陽と陰,主体と対象のペアで初めて人になるのです。
 さて,神が創造された被造物の、材料が何でしょうか。それは土です。植物は土の養分と、水と太陽のエネルギーで成長します。草食動物は草を食べて成長し、肉食動物はその肉を食べ、人間はすべてを食料として肉身を養うわけです。結局人間の肉体は、土のちりでできているわけです。土ですからやがて古びて寿命が尽きれば、土に帰るのは当然の帰結です。動物や人間の肉体ばかりではなく、すべての物質はやがて土に帰るのです。ここに机があります。机はがっしりとした形と重量があります。しかし木材ですから燃やせば灰になり、やがて朽ちれば土に帰ります。このように考えますと、目に見える物質というものは,実はあやふやな存在なのです。
 「色即是空,空即是色」これは「般若心経」にある言葉です。色とは形あるもののことです。形あるものはこれ空であり、空と見えたものが実は空ではなく、莫大なエネルギーを秘めた質量があるという意味です。この仏教の経典の言葉と、最先端の量子物理学が発見したものが、実は同じであったということです。
 目に見える物質世界は実は空なるものから造られた,映画のスクリーンに展開する世界と同じものではないか,そんな気さえするのです。もしかすると私たちは、神様にだまされているのかもしれません。
 人間は心と体、即ち性相と形状の二性があります。すべての存在は,性相と形状の二性性相によって存在しているのです。また人間が形状なら、神は性相的主体でした。この二性性相の原則からいうと,物質世界が形状なら、性相の世界,即ち霊界があるということになります。霊界が主体で、物質世界はその対象ということになります。スクリーンに展開する世界は実は影であり,主体はフイルムにあるのと同じです。
 神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられました。命の息とは,神の霊のことです。肉体は土くれですから土に帰るとして、では吹きいれられた霊はどうか。神は永存されるお方ですから、神の霊も不滅であるはずです。吹きいれられた霊は不滅ということです。つまり人間は古くなった肉体を脱いで、霊人体として霊界で永生するという結論になるのです。
 では神はなぜ苦心して物質世界を創造し、肉身を持つ人間を創造されたのでしょうか。神が親なら愛する子供がなくてはなりません。それも花や蝶に多彩な色彩とデザインがあるように、神の性稟を具現化した無数の個性を持つ人間が多ければ多いほど,神の喜びも大きいのです。神は先に天使を創造されましたが、天使は神の僕であって神の実子ではありません。また天使は霊的な存在ですから,繁殖しないのです。肉身がなければ,繁殖はできないのです。
 神の息子・娘としての肉身を持つ人間の創造が、神には絶対に必要だったのです。そして人間が肉身を脱いだあとは、霊人体として霊界での神の友として,永遠に生きるのです。神は永遠に自存される霊的な主体です。その神に似たものとして人間が創造されて、神の霊を吹きいれられたのですから,人間の霊も不滅ということになります。そして霊界で神と人が共に生きるのが天国です。
 人間は肉身を脱いだら霊人体が霊界に行くのであって、その心は地上にあるときと変わらないのです。この世が地獄だから死んであの世に行く、というのはとんでもない思い違いであって、人間は霊肉共にこの地上で天国生活をしない限り、霊界の天国に行くことはできないのです。では地獄とは何でしょうか。それは人間が憎みあい、争い,殺しあってこの世を地獄にしたのです。霊界の地獄はその延長に過ぎません。神が地獄を創造なさる理由はないのです。

 もうひとつの世界

 霊界について、いましばらく考えてみましょう。霊界があることを認識するのは,人生においてとても大切なことです。オカルト的な興味本位ではなく、死後の問題として真剣に考えるなら、現世の生き方そのものが変わるのです。そのことを示すのが、臨死体験をした人たちのその後です。非常に多くの人たちが臨死体験をしていて,夢や幻ではないことが認められています。
 臨死体験をした人の体験記を読むと,その後の人生が転換するのです。自分中心に生きていた人が,他人の為に生きるようになったり、ボランテイヤ生活をしたりするのです。死は恐ろしくも苦しくもなく、霊界で永生することを実感して、むしろ故郷に帰ったような懐かしさと安堵感を覚えるというのです。しかし誰もがそんな体験をすることはできません。またそれは霊界の入り口であって、霊界から帰ってきた人はいない、という反論もあるでしょう。霊界と地上界を自由に出入りした人がいたのです。
 スエーデンボルグはカントと同時代の人で,偉大な学者でした。五十歳になったある日のこと、霊界からの使者に導かれて霊界を見てくるようになったのです。それからは学問研究に代えて,膨大な霊界見聞録を書き残しました。
 彼の「霊界からの手記」(今村光一訳・編、経済社)によると、霊界にも太陽のような明るい光があるのです。二性性相の原則からすると、霊界にも霊的な太陽があることになります。これが神のエネルギーであり,霊界の霊人たちはこれによって永生することができるのです。霊界は何層にもなっていて、下にゆくに従ってこの光が薄れて暗くなるのです。地獄は光の射さない、暗い洞窟のようなところのようです。
 仏教などではこの世で悪い事をすれば、閻魔様が地獄に放りこむと教えるのですが、それは分かりやすい教えであって、自分の心と同じ明るさの、自分の心霊基準に合った霊界に自分から入ってゆくのです。暗い心の人が明るい霊界に入ると,非常な苦しみを覚えて耐えられなくなるというのです。それはこの世でも同じことです。犯罪者はじっと隠れて住むのです。ですから現世でどれだけ明るい心霊基準になるかが問題です。心を明るくするもの、それは愛しかありません。
 霊界の太陽エネルギーは,実は地上界にも注がれているのです。それが神の波動であって、地上人の心の活力になるのです。霊界は遠いところにあるのではなく、実はこの世とあの世は表裏一体の世界であるらしいのです。夢の世界がそれです。私たちが見る夢は霊界と繋がっているらしいということを研究したのが、心理学者のユングです。神や霊界のことは宗教の分野でしたが、これからは科学が霊界を証明する時代になるでしょう。
 人の生きる道も、蘇生・長成・完成の三段階になっているのです。蘇生期が母の胎中の十月十日とすれば、この世の百年たらずの人生は長成期です。完成期が霊界での永遠の生活です。この世の人生はあっという間に過ぎ去るのであって、この世限りとするなら、富や地位,名誉,財産も空しいのです。すべてはこの世に置いて行かなければならないからです。しかし霊界での永遠の生活があるとすれば、この世は完成期に向けての準備期間ということになります。永遠の世界にまで持って行けるもの、それは心の豊かさです。霊界では、物もお金も必要ないのです。想念の世界ですから,愛が空気のようなものです。
 死ねは灰になるだけと考えるなら、人生の目的はこの世の快楽の追求です。物質中心,お金中心になります。しかし物欲や肉欲には限りがありませんから、この世は奪いあい、争いあう弱肉強食の世です。地上は地獄になり、人類歴史は戦争の歴史になったのです。
 物質を平等に分配して人類すべてが豊かな地上生活を送る、これが共産主義の理想でした。この理想社会の実現を邪魔するものは悪であり、悪を抹殺することは善という理屈から、何千万という人が犠牲になりました。神を否定すれば神の戒めも意味がなく、善悪の基準も異なってくるのです。しかし平等に豊かになるはずが、等しく貧しくなってしまったようです。
 喜びという力は,主体と対象が授け受ける授受作用によってのみ生じるのが原則です。つまり互いに為に生きることによってのみ、愛という幸福の泉が湧いてくるのです。互いに為に生きる基台となる場が、家庭です。幸福は富や権力によって生じるのではなく,家庭の愛の基台の上にこそ生まれるのです。『創世記』の物語も、実は家庭を完成する話なのです。それはアダムの家庭から始まりました。

 そこで人は生きた者となった

 そこで人は生きた者となった。(2:7)

 神は土のちりで人を造って,命の息を吹きいれると、そこで人は生きた者となったのです。これを文字どおりに解釈すると、粘土で造った人間にプーと息を吹き込むと、ピノキオのように動きだしたことになります。神に不可能なことはありませんと言われても,信じられない話です。神は原理原則の神であり,数理的,科学的な神だからです。また神は絶対的な創造原理を、自らの手で壊すようなことはなさらないのです。それでは絶対的な神でなくなってしまいます。
 神の創造のみ業は、生き物の遺伝子に加えられるのです。猿のような生き物の遺伝子に人間に近い遺伝子が加えられ,原人が誕生しました。さらにその遺伝子に神のみ業がはたらいて人間が誕生したのです。姿形は人間でも,それは生きた者ではなかったのです。
 アダムとは人の意味ですが,人という言葉には特別な意味があるようです。イエスは自らを「人の子」と言います。これは神の子の意味でしょう。神と完全に通じあうことができる神の独り子です。ですからイエスは,第二のアダムなのです。人とは人間と同じ意味ですが,ここでは人と人間を区別して使ってみましょう。
 アダムの肉体は,土と同じ要素で造られた人間から生まれたのですが,神はそこに神の霊を吹きいれられたのです。つまり神の相対となるべき魂とか霊、あるいは精神が吹きこまれたのです。それが生きた者になった人,アダムです。
 ではアダム以前の人間は,死んだ者だったのでしょうか。それは動物に近い魂だったのです。動物にも心はあるのですが,それは肉身を養い,守り,繁殖するための本能であって,肉の心というべきものです。神の相対としての精神ではないのです。スエーデンボルグはアダム以前の人間を、プリアダマイドと呼んでいます。人としての精神が発達していない,ごく素朴な霊たちなのです。
 ところで私たちは神と通じる精神を持つ「人」でしょうか。どうもそうではないらしいというのです。人は堕落して神に背を向け,神から遠ざかり,人間になったのです。
 ルカ伝にはこんな話があります。ある弟子がイエス様に,父の葬式をすませてから行かせてくださいと言うと、イエスはこう答えるのです。「その死人を葬ることは,死人に任せておくがよい」(ルカ9:60)また黙示録には「あなたは,生きているのは名だけで,実は死んでいる」(黙示録3:1)と書かれています。
 死というものには,両面の意味があることが分かります。葬式の支度をしている親類縁者は肉体的には生きている者です。しかしイエスは彼らを死人と呼んだのです。肉体的には生きていても,霊としての魂は死んでいる,とイエスは言っているのです。
 神は人を神の子、神の友として創造されたのですから,人は神の相対者です。神の相対となるためには、神と人は相対基準を結ばなければなりません。つまり神に似た者になるということです。主体と対象が無関係なほどに異なれば,相対基準が結べません。神との因縁が切れた人間は,神が創造理想とされた真の人ではなく,神と無関係な人間になったのです。メシヤとは,神に通じる真の人であって,神と人間の仲だちをするお方です。
 アダムは神の霊を受けた,最初の「人」です。しかしまだ未完成だったのです。「人はひとりでいるのは良くない。彼のためにふさわしい助け手を造ろう」(2:8)と言われて、神はさまざまな生き物を連れてきました。しかし動物は人の相対者ではなく、人に主管される存在です。そこで神はアダムのあばら骨から,ひとりの女を造られたのです。これこそアダムの相対者、エバであったのです。

 エデンの園の命の木と善悪を知る木

 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 また主なる神は,見て美しく,食べるによいすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と善悪を知る木とをはえさせられた。(2:8)

 エデンの園とはどこでしょうか。園からは川が流れて地を潤し、それが四つの川となったとあります。チグリス・ユーフラテス川が流れる中東のあたりでしょうか。あるいはのちの「乳と蜜の流れるカナンの地」をさしているのでしょうか。カナンはイスラエル民族の故郷であり、また理想の地でもあるのです。
 エデンの園は一地方の地名ではなく,地上の楽園を意味していると考えられるのです。神は「生めよ、ふえよ」と祝福されたのですから、万物と人が園にあふれ、やがて全地に広がることを願ったのです。エデンの園は本郷の地、地上天国を象徴しているのです。
 では命の木と、善悪を知る木は何を象徴しているのでしょうか。そんな木は植物図鑑にもありませんから、何かを象徴しているはずです。これを文字どおりに解釈しても意味をなしません。それでは『創世記』は単なる寓話、おとぎ話になってしまいます。
 命の木は人間の願望の対象,完成した人間の象徴なのです。「願いがかなうときは,命の木を得たようだ」(箴言22:14)とか、「いのちの木にあずかる特権を与えられ」(黙示録22:14)といったように,聖書にはしばしばでてきます。
 イエスはご自分をぶどうの木にたとえています。信徒はその枝であるというのです。木は大地に根をおろして食物となる実をつけ、鳥を休ませ、日陰をつくって憩いの場となります。木は万物の霊長である人の体の象徴です。そして命の木とは、命の息を吹きいれられたアダムの象徴です。堕落したアダムではなく,完成したアダム、神の創造理想を成就した男性の象徴なのです。
 それでは命の木と並んでエデンの園に立つ善悪を知る木は、何を象徴しているのでしょうか。アダムの相対者がエバです。人は男女のペアで完成するのです。命の木が完成した男性の象徴であるなら、善悪を知る木は完成した女性、すなわちエバを象徴していると見ることができます。ではどうして神は女性を善悪を知る木で表したのでしょうか。

 善悪を知る木の実

 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させてこれを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(2:16)
 
 神はエデンの園に,目に美しく食べるに良い木の実をたくさん与えられたのです。食べ物はふんだんにあったのです。しかし神は,善悪の木の実だけは取って食べるな,それを食べたらきっと死ぬ,とまで警告されたのです。食べたら死ぬというのですから,これは毒物です。それも死に至るようなものを,神はなぜ置いておいたのでしょうか。
 あなたが母親なら,子供の手の届くところにお菓子か果物をぶら下げて,「とって食べたらきっと死ぬ」と言って置くでしょうか。もしそう言っておどかしたとしても,本当に毒の入った食べ物を置くはすがありません。そんな母親がいたら殺人者です。食べたら死ぬと警告したはずと言っても、とても子供を愛する母親のすることではありません。
 神は人の信仰を試したのでしょうか。人を試すということは,決して良いことではありません。まして死を伴うような方法で試すことは罪悪です。神がそんなお方でしょうか。
 神が人を創造した目的を,もう一度考えてみましょう。神は全知全能であり,神に不足するものはありません。ただひとつ、神にできないことがありました。それは愛するということです。神には愛する相対が絶対に必要だったのです。ですから天使たちと共にあらゆる精誠を込めて,気の遠くなるほどの歳月をかけて万物を創造され,最後に神の友となるべき息子・娘を創造されたのです。そして「はなはだ良かった」と喜ばれたのです。神は息子・娘を創造するために、一滴の余力も残されなかったのです。息子・娘を愛するために,そのすべてを与えられたのです。ですから、愛に満ちたもう天の父なのです。
 キリスト教でいう原罪の元になった禁断の実が,果物の実でないことは明らかです。食べ物ではなく,食べ物で象徴された何かです。でなければ神は残酷な神,非情の親になってしまいます。また原罪というものが連綿として今日まで、人間に受け継がれたというのですから血統に係わることです。食べ物の毒が遺伝することはありません。原罪は血統的な罪である,と断言することができるのです。
 善悪を知る木は,完成したエバを象徴していました。ではその実は何を象徴しているのでしょうか。それはエバの性の象徴です。若い女性をよく青い果実にたとえます。その実を食べるとか、いただくというのは性行為を意味しています。また聖書では,性行為を「知る」と表現するのです。「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み・・・」という表現です。つまり善悪を知る木の実を食べるとは、エバの性を「知る」という意味だったのです。
 ではなぜ神は、それを取って食べたら死ぬという警告を与えられたのか。第一章の神の祝福と矛盾するではないか,と考えられるでしょう。神は「生めよ、ふえよ」と人を祝福されたのです。ふえることは神の願いであって、それを「食べる」ことは罪ではないはずです。なぜ神は「食べるな」と命じられたのか。
 また「食べる」ことが罪であったとしても、そこからどうして原罪という血統的な罪が発生したのか。「食べる」ことが早すぎただけなら,血統的な罪にはならないはずです。罪の根がどこから侵入したのか、これが問題です。善悪を知る木で表された、善悪とは何かが問題になるのです。

 人間と万物

 善と悪を考えるとき,善悪は人間だけが問題にすることです。動物には善悪の基準がないのです。癖の悪い犬や猫というものはあっても,それは人間から見た好き嫌いの問題であって、邪悪な犬や猫というものはありません。自らの意思で善や悪を行うことは,動物にはないのです。つまり動物には与えられた個性体として、すべてが遺伝子にインプットされて生まれてくるのです。彼らは自分の意志や努力で完成するのではなく、すでに個性体として完成されて生まれてくるのです。言い換えれば,動物には自由というものがないのです。神は人間に万物の主管権を与えられました。神ご自身は人間を通して,万物を間接的に主管されるのです。
 ライオンは羊や鹿を捕らえて食べますが、満腹になればそばを通っても知らん顔だそうです。ところが人間は狩猟という楽しみのためだけに、ライオンを殺戮したのです。こうしてインドライオンは絶滅の危機に瀕したそうです。同じ動物が殺しあうことはないそうですが、人間だけが殺しあい,人間ほど残酷で悪辣な行為をする生き物はいません。
 善と悪とは何でしょうか。神の創造目的に反する行為が悪であり,神の創造目的を成就する行為が善です。ですから神を否定すれば,善悪の基準がなくなるのです。
 神の創造目的とは人が神に似た者となり,神の息子・娘として神の友となり,万物を神に代わって主管することでした。つまり三大祝福を成就することが神の創造目的であり,人間の生きる目的であったことは,すでに述べたとおりです。
 人間が万物の主管主,万物の霊長となるためには,動物とは違う何らかの条件がなければならないはずです。人間はその条件を守って,ある期間を通過して初めて完成して,神に似た者となることができるのです。
 完成した人間は万物世界の主管主です。人は万物世界に対しては,神の位置に立つわけです。つまり創造主の立場です。人間には創造するという、創造主に似た権能が与えられているのです。
 神はエデンの園に人を連れて行き「これを耕させ,これを守らせられた」とあります。神はアダムに農耕をさせたのでしょうか。食べる木の実には不足しなかったのです。耕し守るとは,農耕の意味ではなさそうです。
 エデンの園には良質の金と、しまめのうと、ブドラクというものを産したとあります。これは貴金属や宝石,地球資源のことでしょう。人間は農耕をすることを覚え、あらゆるものを発見、発明してきました。その材料はすべて大地にあり、自然界にあったのです。神がほとんどすべてを創造されたのです。しかし神は人間が創造主に似た者となるために,人が創造する余地を少し残しておかれたのです。人は創造する者であることが,万物と人間の違いです。大部分が神の創造ですが,数字で表せば5%ほどを、神は人間に創造性として与えられたのです。創造とは誰かに教えられたり,命じられてするものではありません。真似も創造の過程では必要ですが,あくまで自分の創意と工夫によるものが創造です。指示されたとおりに造るものは創造ではありません。つまり創造とは誰からも干渉されず、完全に自由でなければなりません。
 このように考えれば、神はご自分に似た者としての人をほぼ完成品として創造されたのですが,残りの5%を人の創造性として,人が自分の自由意志によって完成するようにされたのです。これが人間が完成するための、責任分担であるのです。人は神の95%の創造に加えて,人の責任分担としての5%をまっとうして、初めて完成するのです。この人間の責任分担は,人間の自由に任されているのです。つまりこの5%の人の責任分担に対しては,神は干渉なさらないという原則があるのです。もし神が人間の責任分担としての、人間に付与された自由に干渉なさるなら,それは人の創造性を奪うことになります。すなわち万物の主管主としての,人の資格を奪うことになるのです。
 自由は人間にとって最も大切なものであり、ときには自由を求めて命を懸けるのが人間です。しかし自由はまた,人間に与えられて責任です。自由には目的があるのです。それは神の創造性に似る、神のように完成するという理想です。理想なき自由は堕落であり,退廃であり,破滅への道です。それは真の自由ではなく、自由の喪失を意味しているのです。未成年が酒、たばこ、麻薬にふけったり,不純な性行為にはしったりすることが自由ではないのです。それは理想を失った状態、すなわち自由を拘束されたことを意味しているのです。人の責任分担としての自由を放棄した状態です。
 さて、アダムが完成すための条件と期間,アダムの責任分担とはどのようなものだったのでしょうか。

 食べたら死ぬということ

 「それを取って食べると,きっと死ぬであろう」と神は言われたのですから、アダムの条件とは取って食べないことです。しかし神は「ふえよ」と祝福されたのですから「食べるな」とは、ある期間内だけの条件であったことが分かります。
 動物には「食べるな」という条件は与えられていません。犬や猫は一年もすれば親になって子育てをします。しかし人間はどうでしょうか。
 人間は蘇生・長成・完成の三段階、幼年期,少年期,青年期の,各7年づつの21年で成人となります。肉体的には14,5歳の少年期を過ぎれば,一応完成して妊娠が可能になります。しかし法律でも,14,5歳で結婚することは許されていません。精神的にも肉体的にも、親としての資格に欠けているからです。あと7年の青年期を待って,男性として女性として,完成しなければならないのです。こうして初めて両親や,周りの人々の祝福を受けて結婚することができるのです。
 思春期は異性を強く意識する時です。それは憧れの対象であり,神秘であり,また謎であり,そのために人は何かに向かって情熱を注ぐのです。芸術家は異性への情熱を詩や小説に、あるいは音楽や絵画に託して、それを昇華して芸術作品を創造してきました。この青年期をどう生きるかによってその人の人格と、人生の行く道が決まるのです。
 昔の大名にはお家騒動というものがありました。正当な嫡子をどうにかして、妾腹の子を世継ぎにしょうという話です。そのためには正当な嫡子を暗殺するか、もう一つの手段として正当な嫡子に,少年の時から自由に女をあてがう方法があったそうです。そうすると立派な馬鹿殿様ができあがるのです。
 思春期の時代から不純な異性行為が許される環境は、間違いなく人格の完成を損なうのです。ですから儒教では「男女七歳にして席を同じくせず」と教えたのです。イスラムの世界では,女性は顔をベールで覆っています。ユダヤ教では姦淫は石打の死罪でした。仏教やキリスト教でも、修道者は独身を通したのです。すべての高等宗教は姦淫を罪としています。神様はフリーセックスを最も嫌われるのです。
 神は男女の愛をより愛らしく、より強くするために、互いに強烈に引き合うように創造されたのです。その最も苦心された最高の作品が,男女の生殖器であったのです。しかしアダムとエバはその思春期の7年間を、互いに兄妹として過ごさなければならなかったのです。そのために神は、「取って食べたら死ぬ」という戒めを与えられたのです。
 アダムとエバが完成するまでの期間は、神は戒めだけを与えて,直接主管されないのです。彼らが完成するまでの期間は,知,情,意を司る三大天使長に教育を任されたのです。
 神はなぜ未完成のアダムとエバを、天使長に委ねられたのか。神は完全なお方です。完全なものと未完成なものが,相対基準を結んで授受作用することはできないのです。それで神は戒めだけを与えて、間接的に主管されるのです。息子・娘が完成して,神から「祝福」された夫婦になってこそ、神と人は本当の親子になるのです。このとき初めて人は、神の直接主管圏に入って、神と人が一体となるのです。
 これが神が予定された原理的な軌道であったのです。しかし愛の吸引力は強烈です。もしも横から,予定外の非原理的な愛の力がぶつかってきたとき、その軌道から脱線する恐れがあったのです。それで神は「死ぬ」という最大の戒めを与えられたのです。
 死をものり越えるもの、それは愛の力です。神が願われた本然の愛とは異なる不純な愛であったとしても、それは死さえ越える力があるのです。愛はオペラやドラマのテーマとして,尽きることがありません。神は完成したアダムとエバを、「祝福」する日を待ち焦がれておられたのです。

 人は妻と結び合って一体となる

 それで人はその父と母を離れて,妻と結び合い,一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(2:24)

 人は思春期になると異性を意識するようになり,またあらゆるものに目が開け,知識欲は旺盛になり、情感は豊かになり,自然の美しさや万物の愛によって詩人になるのです。
 「神は野のすべての獣と,空のすべての鳥とを土で造り、人のところに連れてきて,彼らがそれにどんな名をつけるかを見られた」(2:18)とありますように,アダムは自然と動物たちを友として、野原を駆けまわっていたことでしょう。名をつけるには動物の特徴を知らなければなりません。アダムは自然から多くのことを学んだのです。しかし動物たちは、アダムの相対ではありません。アダムにも相対者が必要でした。

 「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
 わたしの肉の肉。
 男から取ったものだから、
 これを女と名づけよう」(2:23)

 男は天を象徴し,女は地を象徴するのです。人はその父と母を離れて、とありますからアダムにも肉の親がいたことが分かります。夫と妻が一体になれば,天地が合体するのです。天地和動の中心である夫と妻が結び合うとき,そこに神の愛が爆発するのです。それは人の喜びであると同時に,神の喜びの瞬間でもあるのです。アダムは神の体であり,神の形でもあります。とすれば、エバは神の妻にもなるのです。
 男女が相対基準を結んで夫婦になれば,夫は主体で、妻はその対象の立場です。夫の愛は動的であり、妻の返す美は静的です。プラスとマイナスが授受作用することによって、ここに回転運動が起こるのです。ですから男は男らしく,女は女らしく,対照的に造られているのです。これが陽と陽、プラスとプラスだったら回転運動が止まってしまいます。
 さらに男女はそれぞれ心と体が,授受作用して回転していますから、地球の機軸が太陽に対して微妙に傾いて四季があるように、互いに回転すれば夫婦の仲は千変万化して,愛と美は渾然一体となるのです。夫が主体で妻は対象といっても、上下の関係ではありません。両者が回転運動をすれば、主体は対象になり,対象はまた主体になるのです。
 夫婦が授受作用すれば、ここに繁殖という力が生じて合成体が生まれます。子女の誕生です。神ー夫・妻ー子女の四位基台ができるのです。この四者が互いに授受作用すれば、12通りの関係が生まれます。家庭でいえば、祖父母ー父・母ー子供の関係です。それぞれの関係が,愛によって完全に結ばれた家庭が,理想家庭です。
 人生において,子供の時に親に愛され愛した子女の愛を知り、結婚して夫婦の愛を知り、孫を得て祖父母の愛を知り、それに兄弟姉妹の愛を知り、地上生活においてそれらの愛をすべて体験して満喫した人が、幸福な人であり,人生の勝利者です。そういう人が霊界で天国に行くというのです。人生の目的は、富や権力にあったのではないのです。
 アダムの家庭においては、アダムとエバが完成期の7年を兄妹の関係で過ごすという,小さな条件で完成することができたのです。こうして神の祝福を受けて、愛の絆で結ばれた夫婦になったなら、横からどんなに非原理的な愛の力がぶつかってきても、決してぐらつくことはなかったのです。
 「人とその妻とは,ふたりとも裸であったが,恥ずかしいとは思わなかった」とは、アダムとエバが兄妹として、神と共に天真爛漫な日々を送っていたことを意味しています。では恥ずかしいと人間が意識するのは、どういう時でしょうか。それは他人の目を意識して、良心の呵責を覚えるときです。盗み食いが見つかれば口を覆います。裸のある部分が神の創造目的に反する罪を犯せば,恥ずかしいと感じてその部分を隠そうとするのです。罪の隠蔽です。
 裸を恥ずかしいとは思わなかったとは,アダムとエバが堕落行為を犯す以前の状態をいうのです。

                (第三章へ)

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