謎とき『創世記』

第七章 イサクとイシマエル

 ソドムとゴモラ

 アブラハムはソドムとゴムラへ去って行く,神の人のあとを追いました。ソドムの町には、おいのロトが住んでいるのです。何としてもロトを助けたい、アブラハムはそう思ったのです。彼は神の人に追いつくや言いました。
 「あなたは正しい者も悪い者、一緒に滅ぼされるのですか。たといあの町に50人の正しい者があっても、あなたはあの町を滅ぼして、50人の正しい者のためにこれを許されないのですか。全地をさばく者は、公義を行うべきではありませんか」
 アブラハムは御使に向かって熱弁をふるったのです。彼の熱意に心を動かされ、御使はアブラハムに言いました。
 「ソドムの町に50人の正しい者がいるなら、そのところをすべて許そう」
 「あえて申します。50人の正しい者のうち、5人が欠けたなら、その5人のために町を全く滅ぼしてしまうのですか」
 「45人がいたら、滅ぼさないであろう」
 「わが主よ、どうかお怒りにんらないように。もしそこに30人いたら」
 「もし30人いたら、これをしない」
 「わたしはあえて申します。もしそこに20人いたら」
 「20人のために滅ぼさない」
 「もし10人だったら! 」
 「10人のために滅ぼさないであろう」
 こうしてアブラハムは御使に訴え、自分の所に帰りました。
 ふたりの御使は夕暮れにソドムの町に着きました。その時ロトは門に座っていました。ロトは地に伏して、彼らを迎え、そして自分の家に泊まってくださるよう、御使に懇願しました。御使たちはロトのたっての勧めでその家に入り、ロトのもてなしを受けました。ところが彼らが寝つかないうちに、町の人々が騒ぎだしたのです。
 「今夜おまえの所に来た人たちはどこにいるのか。われわれに渡しなさい。彼らを知るのだ」ロトの町の人々は老いも若きも淫乱の果てに、ホモだったのです。
 「町の人たちよ、どうか悪いことはしないでくれ。わたしには男を知らない生娘がふたりいる。これをあなたがたに差し出すから、この人たちには何もしないでくれ」
 「引っ込め。渡ってきたよそ者のくせに、なまいきな奴だ。いつもわれわれをさばこうとする。おまえから先にやっつけてやるから、出て来い! 」
 町の人々はロトの家に押しかけ、戸を破らんばかりの騒ぎでした。その時,御使はロトを家の中に引き入れ、さっと手を上げたのです。すると閃光が走って、人々は目がくらんで右往左往し始めました。
 「人々の叫びが大きくなり,主はこの所を滅ぼそうとわれわれをつかわされたのです。あなたの身内の者は、みな連れ出しなさい」
 ロトは娘の婚約者たちにこの事を告げました。彼らは冗談としか思わず,取り合わなかったのです。御使はロトの家族をソドムの町から,引きずり出すようにして助けました。その時,御使のひとりが告げました。
 「後ろを振り返ってはならない。低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃れなさい。でなければ、あなたがたは滅びます」
 硫黄と火が降り注いで、ソドムとゴモラの町は滅びました。ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱になってしまったのです。
 ソドムとゴモラは,サタン世界です。ロトは人類の象徴です。アブラハムはそのロトを救うために、奮闘したのでした。しかしロトの妻は、ソドムの暮らしに未練があったのでしょう。彼女は振り返って滅んでしまいました。のちに出エジプトをしたイスラエル民族も、荒野の暮らしがちょっと辛いと,サタンの世界のエジプトに帰ろうと叫んで、みんな滅んでしまったのです。
 ロトとその娘たちはソドムから救い出されたのですが,婚約者を失った姉妹は絶望のあまり,父に酒を飲ませて交わったのです。その子孫が、モアブ人です。旧約聖書の中でも美しい話のひとつに「ルツ記」があります。モアブの女ルツは夫が死んで、姑のナオミと一緒にベツレヘムに帰ってきます。ふたりは親戚の地主ボアズの畑で落穂をひろって暮らしていました。ボアズはルツに親切でした。ナオミは嫁のルツをボアズの寝所に入らせるのです。こうしてボアズとルツは結ばれ、その血統からダビデ王が生まれたというのです。ルツはマタイに記されたイエスの系図の、4人の女性の中の一人です。

 アブラハムとサラの二度目の旅

 アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がネゲブにとどまっていた時、アブラハムは妻のサラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。(20:1)

 ところが夢に神がアビメレクに現れ、「彼女は夫のある身である。もしサラに手を出したら、あなたは死ななければならない」と告げたのです。アビメレクは驚いて、神に訴えました。彼はわたしの妹だと言ったのです。また彼女もわたしの兄ですと言ったのです。あなたは正しい民も殺されるのですか。わたしは心も清く、手も清いのです。
 「いま彼の妻を返しなさい。もし返さないなら、あなたも身内の者も、みな必ず死ぬでしょう。返すなら彼は預言者ですから、あなたを守って命を保たせるでしょう」
 アビメレクは目が覚めると、僕たちを集めてこの事を語ったので、人々は大いに恐れました。彼はアブラハムを呼び出して、詰問しました。
 「あなたは何という事をするのです。わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたはしてはならない事をしたのです。あなたはわたしに、大きな罪を負わせるところだったのです」アブラハムは答えました。
 「ここの人々は神を恐れるということが全くないので、妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。それに、サラはわたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。わたしは彼女に行く先々で、わたしの兄ですと言ってくれと頼んだのです。それがわたしに施す、あなたの恵みですと言ったのです」
 そこでアビメレクはたくさんの家畜と、男女の奴隷をアブラハムに与え、妻のサラを返しました。彼はまた銀千シケルを与え、サラへの償いとしました。アブラハムはアビメレクのために祈ったので、彼の家の妻たちは子を産むようになりました。サラのゆえに、神がアビメレクの家の妻たちの胎を閉ざしておかれたのです。
 さてここまで読んできて、前にも同じような話があったことに気が付きます。
 アブラムとサライが神に呼び出されて、ハランからエジプトに旅立ったのと同じような路程なのです。エジプトのパロと、ネゲブのアビメレクの違いだけで、内容は全く同じです。前回は旅のあとで、おいのロトを敵から救いだしたのですが、今度はロトを救いだしたあとで、例の路程をたどるのです。あれから数えてみれば、25年が過ぎています。今ではサラは90歳です。アブラハムは百歳になっていました。
 さてこの変な話が、またも繰り返された意味は何でしょうか。アブラハム夫婦の旅そのものが、中心人物として立つ条件でした。そして人類を象徴するおいのロトを助けるという、いわば試練に勝って実績をあげたとき、神の祝福があったのです。そして神はアブラハムに、牛と羊とはとを裂いて捧げる象徴献祭を命じられたのでした。
 すでに見てきましたように、アブラハムは鳩を裂かないで献祭に失敗しました。アダム家庭ではカインが失敗し、ノア家庭ではアベルの立場の次子ハムが失敗しました。アブラハム家庭では、中心人物である彼自身が失敗したのです。
 これまで神は、一度失敗した者は惜しげもなく捨てられました。次の中心人物が立つまでに、ある摂理的な期間がありました。アダムからノアまで1600年、ノアからアブラハムまでが400年でした。
 アブラハムとサラの夫婦が再び同じ路程をたどるということは、アブラハムが中心人物としてもう一度、神の召命を受けたということです。神はまるで無理やりアブラハムを立たせるかのようです。百歳という年齢は実際の年齢というより、帰一数の10に意味があるのかも知れません。再びやり直すという意味です。一度失敗したアブラハムが、なぜもう一度、神の召命を受けるのか。ノックアウトされたピッチャーが翌日また登板するようなものです。彼でなければならない、神の事情があるということです。

 イサクの誕生とイシマエルの追放
 
 神が告げられたように、サラはみごもり、年老いてアブラハムに男の子を産みました。アブラハムは生まれた子に、イサクと名づけました。そして生後八日目に、イサクに割礼を施しました。サラは「神はわたしを笑わせてくださった」と言いました。イサクとは、笑うという意味だそうです。
 イサクが乳離れした日に、アブラハムは盛大な宴を設けました。百歳になって生まれた男の子です。アブラハムの喜びは、いかばかりだったでしょうか。イサクは目に入れても痛くないほど、かわいい子です。自分自身よりも、もっと大切な子です。アブラハムとサラの血統が、イサクからの後の世に継がれて多くの民となるからです。サラもきっと、満面に笑みを浮かべていたことでしょう。
 ある日サラは、ハガルが産んだ子のイシマエルとイサクが、一緒に遊んでいるのを見ました。夫の世継ぎを残すためだけに、エジプト女に産ませた子です。しかし今ではイサクが世継ぎとして、立派に育ったのです。エジプト女とその子供の姿など、サラには見たくもありません。彼女は夫に言いました。
 「このはしためと、その子を追い出してください。世継ぎはわたしの子、イサクひとりがなるのです」
 アブラハムは悩みました。イサクはかわいいわが子ですが、イシマエルもわが子です。ハガルとその子を追い出せば、二人は砂漠で死ぬしかありません。父親として、とても忍びがたいことです。アブラハムは神に祈りました。
 「その子のため、またはしためのために心配することはない。サラの言うことはすべて聞き入れなさい。イサクに生まれる者が、あなたの子孫ですが、イシマエルもあなたの子ですから、これも一つの国民とします」
 ハガルはイシマエルを連れて、アブラハムのもとを去りました。追い出されたのです。背中にパンと水の入った皮袋を背負い、ハガルは荒野をさまよいました。
 やがて水も尽き、疲れはてて木の下に座りこみました。自分はこうして死んでも,わが子の死ぬ姿まで見るのは忍びない、とハガルは子供を置いて,矢の届くあたりまで離れて座りました。彼女が子供のほうを向いたとき,子供は大声で泣きました。
 「ハガルよ、神はわらべの声を聞かれた。ハガルよ,恐れるな。立ってわらべを抱いてあげなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」神の声にハガルが目を上げると,水のある井戸が見えました。ハガルは水を飲み,子供にも飲ませ,皮袋も水で満たしました。こうして親子は命を救われたのです。イシマエルは荒野に住む者となり、成長して弓を射る名手となったのです。
 こうしてハガルとイシマエルは荒野に去り、「創世記」の舞台から消えました。
 中心人物が立つと,その子供の兄弟の間で、サタン分立の摂理が展開されたのでした。即ち善の表示体であるアベル側と,悪の表示体であるカイン側とに分立される摂理です。そこでカイン側が、アベル側に従順に屈服すれば,悪も善に帰ることができたのです。ではアブラハムの家庭ではどうでしょうか。
 イシマエルが兄カインの立場で、イサクが弟アベルの立場です。本来は二人の異母兄弟の間で,イシマエルがイサクに従うような話があってしかるべきです。ところがイシマエルとイサクが遊んでいるのを見て、サラは兄弟を引き離して、ハガルとイシマエルを追放してしまいました。カインがアベルに屈服して従うという摂理は、ここではなかったのです。兄弟はここで別れたまま今日まで,和解の日がないのです。
 イサクの子孫がユダヤ人であり、イシマエルの子孫がアラブ人です。アブラハムから四千年の歴史が経過した今日、ユダヤとアラブの対立は継続しているのです。
 中東紛争は世界の大きな問題です。キリスト教,ユダヤ教,イスラム教の聖地が,共にエルサレムなのです。そして多くの民族が互いに争っているのも中東から東の国々です。それらの民族,宗教の祖を訪ねてみるなら、みなアブラハムに帰着するのです。

 イサクの献祭

 神はアブラハムを試みて彼に言われた,「アブラハムよ」彼は言った,「ここにおります」神は言われた,「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼をはん祭としてささげなさい」(22:1)

 牛と羊とはとの献祭の前にも、族長たちとのいざこざがありました。今度もアブラハムとアビメレクの家来たちとの間にいざこざがあった、彼らと和解の契約を結んだあとで,神はアブラハムに命じられたのです。今度は動物の献祭ではありません。最愛のひとり子、イサクをはん祭に捧げよ、という神の命令です。はん祭とは、殺して丸焼きにすることです。
 アブラハムは早朝に起きて,旅の支度をしました。はん祭のたきぎを割り、ろばにくらを置き、二人の若者とイサクを連れて、モリヤの山に向かったのです。三日が過ぎて、はるかにその場所が見えました。アブラハムは若者たちをその場に残して、イサクと共にはん祭の場に向かいました。イサクにはん祭のたきぎを背負わせ,彼は火だねと刃物を手にしていました。イサクは父に言いました。
 「お父さん。火とたきぎはありますが、はん祭の子羊はどこにありますか」
 「子よ、神様がはん祭の子羊を備えてくださるだろう」アブラハムは答えました。
 百歳になって男の子が生まれると神の使いに告げられた時、アブラハムは心のうちで笑ったのです。神に絶対的に従順ではなかったのです。アブラハムには理性という,自分の思いがありました。しかし神は奇跡を見せてくださったのです。イサクは自分の命よりも大切な子です。ところが最愛のひとり子イサクを、こともあろうに殺して丸焼きにせよという神の命令です。アブラハムにとって、死ぬよりも辛いことです。神は残酷非情なサデイステックなお方なのでしょうか。
 アブラハムは何を考えていたのでしょう。旅の支度をしたことだけが記されています。しかし三日かかったというその日数に,彼の心情が託されているのです。モリヤの山とは丘のような所で,彼の所からさほど遠くないそうです。三日とは,新しい出発を決意するまでの期間なのです。ヤコブがハランを出る時も、モーセがエジプトを出る時にも、またイエスが復活するまでにも,三日という期間があったのです。三日という日数に,アブラハムの苦悩が象徴されているのです。彼は悩み苦しんだ末に、神のみ言に従う決心をしたのです。
 では、イサクはどうでしょうか。背中にたきぎを背負って登るのですから、かなり大きくなっていたはずです。それに「はん祭の羊はどこにありますか」と父に聞いているのですから,分別のある年頃です。アブラハムはまさか、おまえがはん祭だとは言えません。しかしイサクは,自分がはん祭になることを悟ったのです。そしてイサクは自分の運命に,何の疑念もなく従ったのです。神と父を信じきっていたのです。でなければ抵抗するか,逃げ出したはずです。
 アブラハムはその場に祭壇を築き、たきぎを並べて、イサクを縛って祭壇の上にのせました。アブラハムが短刀をかざして、今まさにイサクを殺そうとした瞬間です。主の使いの声が,天からアブラハムを呼びとめました。
 「アブラハム,アブラハム」
 「はい、ここにおります」
 「その子に手をかけてはならない。何もしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、わたしは今知った」
 アブラハムが目をあげて見ると,角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいました。アブラハムはその羊を捕らえ,わが子の代わりに羊をはん祭として捧げたのでした。
 さて、イサクをはん祭に捧げるという話は、どう解釈したらよいのでしょうか。書かれたとおりに読むなら,神がアブラハムの信仰を試されたのです。神のみ言を信じて、絶対的に神を信じるなら,神は必ず救ってくださる。最愛のひとり子、イサクをも捧げる決意をするなら,神はモリヤの山に羊を備えてくださるのです。「主の山に備えあり」と言うではありませんか。
 牧師さんの説教ふうに言えばこうなるのでしょう。「アブラハムを試みて・・・」と確かに書かれています。しかし、善悪を知る木の実もそうでしたが、死を伴うような方法で信仰を試すというのは、愛の神と呼ぶにふさわしくありません。釈然としません。
 ひとり子イサクはイエスの象徴である、そんな解釈もあります。神はひとり子イエスを、はん祭として十字架にかけ、その償いによって人類は救われた。イサク献祭はそれを予知しておかれたのです、という解釈です。しかしイサクは、殺されはしなかったのです。
 死を伴うような方法でさえ、アブラハムとイサクの親子の信仰を試みなければならない事情が、神にあったということでしょうか。まさにそうなのです。アブラハム・イサクの親子が,完全一体になる基準が立たなければならなかったのです。その意味を調べてみましょう。
 神は三段階で被造世界を完成されました。復帰の摂理も,三段階成就の原則があるのでした。即ち三度目には,必ず成就するのが原則です。アダム家庭、ノア家庭が失敗して、アブラハムも失敗したのです。しかしアブラハムは三度目の摂理です。彼は絶対に失敗してはならないのです。ではどうしたらよいのでしょう。失敗していないという立場に、アブラハムを立たせるしかありません。
 神は再度、アブラハムを召命されたのです。しかし一度失敗したものを、そのまま用いることはできません。そこで神はアブラハム・イサクの親子を二代ではなく、一代とみなす新しい摂理をされたのです。本来はイサクとイシマエルの間で、サタン分立の摂理がなされるはずだったのですが、イシマエルは追放され、サタン分立の摂理はアブラハム・イサクの次の代で展開されるのです。それがイサクの息子の、ヤコブとエサウです。
 さて、そのためにはアブラハムとイサクは一身同体という、基準が立たなければなりません。そして一度失敗すると、償いの条件は加重されるのです。鳩を裂くという軽いものから、最愛のひとり子を殺すという、最大の心情の苦しみをのり越えなければならないのです。しかし結果を教えることはできません。それでは条件になりません。それが彼らの責任分担であり、神は干渉されないのです。
 またアブラハムとイサクが一体として中心人物となるためには、サタンが讒訴する条件があってはなりません。アブラハムはカイン側のイシマエルを、死の一歩手前まで追い込んだのです。ですからその反対に、イサクを死の一歩手前まで追い込まなければ、サタンが讒訴するのです。アブラハムがイサクを殺す心情をのり越えた時、サタンも退くのです。アブラハムを象徴献祭に失敗しないという立場に立たせるためには、神はどうしてもアブラハムにイサク献祭を命じざるを得なかったのです。
 アブラハムが最愛の子を死なす苦悩をのり越え、幼いイサクも父に従い、親子が完全に一体になった瞬間、神はアブラハムの手を止められたのです。
 「あなたが神を恐れる者であることを、今知った!」今知った、という神の一言に、鳩を裂かなかったアブラハムに対する叱責と、イサク献祭をやりとげた彼の信仰に対する賞賛がないまぜになった、神の万感の思いが込められていたのです。そして神はアブラハムを祝福されました。
 「あなたがひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜辺の砂のようにする」

 イサクの結婚

 歳月は過ぎて、サラは127歳で亡くなりました。アブラハムはサラのために悲しみ泣きました。そして彼女を葬るための土地を買い取り、サラの墓地としたのでした。
 アブラハムは老人となり、息子イサクも成人しました。アブラハムは管理を任せていた年長の僕を呼んで誓わせました。
 「あなたはカナン人から息子の嫁をめとってはならない。わたしの国のハランに行って、イサクの妻をめとってくるのです」
 「もしその女がこの地に来たがらないときには、あなたの息子を出身地に連れ帰るべきでしょうか」僕はアブラハムに尋ねました。
 「いや、主はわたしを父の家から導きだし、おまえの子孫にこの地を与えると言われたのだ。その女がついて来ないなら、あなたはこの誓いを解かれる。しかしわたしの子を連れ帰ってはならない」
 僕は十頭のらくだに良い贈り物をのせ、ナホルの町につきました。すでに夕暮れが迫っていました。僕はらくだを井戸のそばに休ませ、疲れてぼんやりしていました。どうやって主人の息子の嫁を探しだしたらよいのか、彼は途方にくれていたのです。
 町の娘たちが水汲みに来る頃です。彼は神に祈りました。「お願いです。あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください」と水汲みに来た娘に言って、その娘が「お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう」と答えたなら、その娘こそイサクの嫁としてください。
 彼がまだ言い終わらないうちに、ひとりの美しい娘が水がめを肩に、泉に降りてきました。僕は娘に走りよって、「お願いです。わたしに水をすこし飲ませてください」と言いました。
 「わが主よ、どうぞお飲みください」娘は彼に水を飲ませました。彼が飲みおわると、「あなたのらくだにも飲ませましょう」と娘は言って、水を汲みに井戸に走って行ったのです。十頭のらくだに水を飲ませるのは、大変な労働です。娘は何度も水を汲んで運びました。その間、彼は主が彼の旅を祝福されるかどうか、じっと娘の行動を見ていました。らくだに水を飲ませ終わると、彼は娘に金の鼻輪や、金の腕輪を与えて話を聞き、一夜の宿を頼みました。
 娘の名はリベカといい、アブラハムの弟ナホルの娘でした。僕は主人の兄弟の家に導かれたことを、神に感謝したのでした。リベカの兄ラバンと母ベトテルは僕の話を聞くと、心よくリベカを送りだすことを承知したのでした。彼らが娘に聞くと、
 「行きます」とリベカは、はっきりと答えました。僕とリベカは旅立ちました。
 イサクは野に出て歩いていましたが、夕暮れになって目を上げると、らくだが来るのを見ました。リベカもイサクを見てらくだから降り、「どなたですか」と僕に聞きました。
 「あれはわたしの主人です」と僕が答えると、リベカは被衣で身をおおいました。
 「僕はすべてのことをイサクに話しました。イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカを妻として、彼女を愛しました。イサクは母のサラが死んでから、慰めを得たのでした。
 第二四章は、イサクがリベカを妻とするまでの。美しいエピソードが語られています。
 アブラハムはイサクの妻を、故郷のハランから連れて来ることを、僕に命じました。昔アブラハムとサラが故郷のハランから出て来たように、イサクの嫁もハランから出て来なければならないのです。中心人物はハランというサタン世界から、エバを復帰して来るのです。サラが美しく賢い女性であったように、リベカも美しく賢い女性です。
 アブラハムに代わってイサクが中心人物になりますが、彼の出番はとても短いのです。
 イサクとリベカの夫婦はまたアブラハムとサラと同じ旅立ちをします。それから彼が登場するのは、年老いて目が見えなくなった老人のイサクなのです。

 イサクとリベカの旅立ち

 アブラハムとサラがききんに遇ってエジプトに下ったように、イサク夫婦もエジプトに下ろうとします。その時、主が彼に現れて告げます。
 「エジプトに下ってはならない。わたしはあなたを祝福し、これらの国をことごとく、あなたとあなたの子孫に与える。またわたしはあなたの子孫を増して、天の星のようにする。アブラハムがわたしのいましめを守ったからである」
 神はイサクを祝福されたのです。こうしてイサクとリベカはゲラルに住んでいました。その所の人々が彼の妻のことを尋ねると、「彼女はわたしの妹です」とイサクは言いました。イサクはリベカが美しいので、妻のゆえに自分が殺されるかもしれないと思い、「わたしの妻です」と言うのを恐れたのです。
 ある日、アビメレクの王はイサクを召しだして、彼に詰問しました。
 「彼女は確かにあなたの妻です。どうしてわたしの妹だと言ったのですか」
 「わたしは彼女のゆえに、殺されるかもしれないと思ったからです」
 「どうしてそんな事をわれわれにしたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、あなたはわれわれに罪を負わせるのです」
 アビメレク王は民に「イサクとリベカの夫婦にさわる者は必ず死ななければならない」と命じたのでした。
 こうしてイサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得ました。イサクは裕福になり、多くの家畜や僕を持つようになりました。
 ペリシテ人はイサクをねたみ、井戸を土で埋めてしまう悶着を起こすのです。アビメレクはイサクにその地を去ってくれるように頼みます。こうして多くの万物と、妻のリベカを連れてそこを去りました。ゲラルの谷に天幕を張っていたとき、ゲラルの人々との間に井戸のことで争いが起き、彼はそこからベエルシバに上りました。その夜、主が彼に現れて告げました。
 「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」(26:24)
 すでにお分かりのように、イサクとリベカの夫婦は、アブラハムとサラと同じ旅をするのです。夫婦であった二人が、サタン世界の王の懐に兄妹として入って、多くの万物を携えて帰り、もとの夫婦に戻るという路程です。この路程が中心人物として立つ条件になるのです。そしてその前後に、サタン世界の人々との間に争いがあって、和解の契約を結ぶのです。すると神が祝福されるという、同じパターンなのです。例の子孫繁栄の祝福があるのです。
 イサクは神の祝福を受けますが、それは型どおりの祝福で、何かおざなりな感じです。「わたしのしもべアブラハムのゆえに」イサクを祝福するというのです。イサクは受動的で、存在感に乏しいのです。むしろリベカのほうが主役です。父アブラハムと一体になったあの献祭で、イサクの使命は終わったかに見えるのです。

 世代の交代

 時は移り、世代は代わります。次の世代はもうすでに母リベカの胎中にあったのです。
 アブラハムは再び妻をめとります。驚いたことに彼はそれから、六人の子供をもうけるのです。しかしあまり印象に残りません。アブラハムはその子らをイサクから引き離して東の方、東の国に去らせるのです。東は神から遠ざかることを意味していました。それらの子孫はイスラエルに敵対する民族になるのです。
 アブラハムは高齢に達し,年が満ちて亡くなりました。アブラハムの生涯は175年でした。イサクもすでに年老いていました。
 イシマエルも死にました。彼の生涯は137年でした。彼の子孫はハビラからエジプトの東に住み、イシマエルはすべての兄弟の東に住んだのでした。
 イサクがリベカを妻にめとったときは40歳でした。リベカはサラと同じように、子を産まない女でした。神の宗家の宗孫は生まれにくい、という特性があるようです。サラ、リベカ、ラケル,そして洗礼ヨハネの母エリサベツも不妊の女でした。ヨハネは奇跡的に生まれたのです。イエスの誕生も奇跡的でした。
 第二五章に戻ります。イサクは妻が子を産まないので,神に祈りました。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもりました。それは双子で,母の胎内で押し合っていました。
 「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」とリベカは主に祈りました。主はリベカに言われたのです。
   「二つの国民があなたの胎内にあり、
   二つの民があなたの腹から別れ出る。
   一つの民は他の民よりも強く、
   兄は弟に仕えるであろう」(25:23)
 彼女の出産の日、先に出たのは赤くて全身が毛ごろものようでした。それで名をエサウと名づけました。その後に出た弟は、兄のかかとをつかんでいました。それで名をヤコブと名づけられました。イサクはその時、60歳でした。
 サタン分立の摂理はイサクの双子の兄弟、ヤコブとエサウの間でなされるのです。カインとアベルは年齢が離れすぎたことが、失敗の原因だったかもしれません。今度は双子で,年齢は同じです。神は彼らがリベカの胎内にあるときから弟を愛し,兄は弟に仕えると言われたのです。
 兄エサウはカインの立場であり、弟ヤコブはアベルの立場です。ヤコブは弟の立場から逆転して、長子の立場に立つのです。それが彼が中心人物として立つ条件なのです。長子の権利を復帰することが、ヤコブの路程です。どのようにしてヤコブは兄エサウを、弟のようにして従わせることに勝利したのでしょうか。
          (第八章へ)

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