謎とき『創世記』

第五章 ノアとその家族


 後悔する神

 主は人の悪がはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであることを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしはこれらを造ったことを悔いる」と言われた。(6:5)

 第五章にアダムの系図が記されています。アベルが殺されたので、その身代わりに生まれたのがセツです。セツ、エノス、カイナン、マハラエル、ヤレド、エノク、メトセラ、メレク、そしてノアが生まれます。数えてみると、アベルからノアまでが10代です。また次の代の人物が生まれるまでの年数を合計してみますと、1556年です。
 10代、約1600年が経過したのちに、ノアが中心人物として立つのです。
 「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と言ってメレクはノアと名づけた。ノアは500歳になって、ハム、セム、ヤペテの三人の兄弟を生んだのです。それにしてもこの頃の人は800歳とか900歳とか、とても長生きです。10代、1600年という数に意味があるのでしょうか。また、40日、7日、120年といった、きまった数がよく聖書にはでてきます。神が数理的な神であるなら、数に象徴的な意味があるのです。数については、あとで考えてみましょう。
 「神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」とありますから、カインの子孫は素朴な人間の娘たちを妻にしたのです。しかし彼らはサタンの血統を受け継ぐ者たちですから、悪なる人間が地上に生み広がったのです。
 「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼らは肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は120年であろう」と神は言われます。それで急に人の寿命が短くなったのです。
 神は人に霊を吹きいれられ、人は生きた者となりました。しかし人は堕落して神の霊は死んだのです。代わりにサタンの霊が吹きいれられて、人間は悪辣な者となったのです。
 時に世は乱れ、暴虐が地に満ちました。人間は欲望をむきだしにして互いに争い、殺しあい、また淫乱がはびこったのです。あまりのひどさに、神も顔を背けるほどだったのです。もしも人間社会に、悪を罰する法がなかったらどうでしょう。まさに無法地帯です。あらゆる生き物の中で、人間が最悪の生き物になったのです。
 神は心を痛め、地の上に人を造ったことを悔いる、とまで言われたのです。全知全能の神も、後悔されるのです。神は人間に責任分担という自由意志を与えられましたが、それが裏目となったのです。神が悔いると言われたのは、ノアの時と、もう一度はサウルがイスラエル初代の王になった時の、二度だけです。
 「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからです」(サムエル記上15:10)と言われたのがそれです。神はアマレク人の民も家畜も、ことごとく滅ぼしつくせ、とサウルに命じたのです。しかしサウル王は人情的になってアマレク人の王を許し、また羊や牛の最も良いものを惜しんで自分のものにしたのです。それが神の怒りをかい、神を落胆させたのです。敵の家畜を自分のものにするのが悪いのでしょうか。神は残酷で非情なのでしょうか。
 神は暴虐の限りをつくす人間を滅ぼし、すべての生き物までも、滅ぼそうとされました。万物と人間を創造して大いに喜ばれた神が、今や嘆き悲しみ、まるでやけを起こした自暴自棄の神です。人間は神の手にも負えなくなり、制御不能になったのでしょうか。
 しかし神は一人の義人を見出されました。アダムから10代、1600年のちに、神は復帰の摂理を託す中心人物を召命されたのです。ノアが中心人物として立つどのような路程を歩んだかは不明ですが、ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人で、神と共に歩んだと記されています。

 ノアの箱舟

 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは300キュピト、幅は50キュピト、高さは30キュピトとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キュピトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。(6:14)

 神はノアに、箱舟を造ることを命じられました。1キュピトは肘から先の長さだそうですから約50センチとすると、長さが150メートル、幅が25メートル、高さが15メートルの、野球場ほどもある巨大な箱舟を造れ、と神はノアに命じられたのです。
 ノアは神に命じられたとおりに箱舟を一人で、しかも山の上に造ったのです。どのくらいの期間が過ぎたのでしょうか。「彼の年は120年であろう」と神は言われたのですから、神の霊がとどまる120年の間、ノアはコツコツと箱舟を造ったのです。12という数は非常に多い、あるいは長い、という意味を表す完成数なのです。たった一度の神の命令に従って箱舟を造ったノアは、神を絶対的に信じた人だったのです。
 ノアの家族はどうしたでしょうか。ノアの妻の名前はありません。ただノアの妻というだけです。神に憶えてもらえなかったのでしょう。毎日まいにち、巨大は箱舟を造りに出かけるノアを、妻は喜んで見送ったでしょうか。きっとぶつぶつ不平を言いながら弁当を作ったのです。村の人々はノア爺さんは狂っている、と噂したことでしょう。セム、ハム、ヤペテの息子たちとその嫁は、ノアの味方をしたでしょうか。神の命令に従って箱舟を造る父を信じながらも、村人の噂を気にして心がゆれ動いたのです。
 「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしが認めたからである」箱舟が完成すると、神はノアに言われました。ノアの8人の家族と、すべての生き物の雄と雌のつがいが箱舟に入りました。
 大洪水の伝説は各地に残っており、また地質学的にも大洪水があったことが知られるそうです。地球規模の大洪水が起こったのです。アララテの山中に箱舟の残骸が発見されたとか、ノアの箱舟にはロマンがあります。しかしノアの箱舟の、本当の意味を知る人は少ないのです。神の摂理を知らなければ、神は残酷非情な神であり、酔っ払って裸になるノアは、だらしのないお爺さんになってしまいます。
 箱舟は何を象徴しているのでしょうか。人は堕落してこの世は神の意図に反して、暴虐に満ちたのです。地上はサタンが握っているのです。しかしすべてを滅ぼし去るなら、神の創造もまた無に帰してしまうのです。滅ぼしつくしたいほどの悪辣な堕落人間ですが、神にはそれができないのです。そこで神はノアの家族を中心に、再創造の決意をされたのです。
 箱舟は三層になっていました。これは蘇生・長成・完成の、創造の三段階を象徴しているのです。つまり被造世界そのものの象徴です。またノアの夫婦と、3人の息子夫婦の8人家族は、アダムとエバ、カイン、アベル、セツのアダムの家庭を象徴しているのです。一階に動物たち、二階にノアの家族、そして三階にはノアが入りました。ノアは神の立場であり、家族は人類を象徴し、動物たちは万物です。つまり三層の箱舟は神と人類と万物の、天宙を象徴しているのです。
 新天新地の再創造です。箱舟に入るものを神は聖別し、それ以外のすべてのもの、サタンの血をひくすべてのものを、神は滅ぼしつくそうとされたのです。サタン分立の摂理です。サタンの血統の断絶です。ですから徹底的でなければなりません。サタンの血の一滴でもあれば、それは病原菌のように、サタンの血統として生み広がるのです。血統的な罪はある意味で、殺人よりも重いのです。血統は連綿として子孫に受け継がれるからです。
 神がサウル王に命じられたことは、サタンの所有したものを残らず滅ぼしつくせ、ということだったのです。サウル王が神の命令に背いたことは、サタンの血統を断絶する神の摂理の失敗を意味していたのです。ですから「サウルを王としたことを悔いる」とまで神は言われたのです。

 四十日四十夜の大洪水

 それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日には大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜,地に降り注いだ。(7:11)

 ノアとその家族と、動物たちは箱舟に入りました。動物たちは鳴いたり吠えたり,大変な騒ぎだったのです。ノアの家族も半信半疑で,箱舟に入ったのです。村の人々はノアを嘲笑して,誰も箱舟に入ろうとはしませんでした。こうして七日が過ぎました。
 やがて、天が破れたような雨が地上に降り注ぎました。それはもの凄い雨で、何と四十日四十夜、止むことなく降り注いだのです。水はたちまち地にあふれ、大洪水になりました。箱舟は浮き上がり、水のおもてを漂いました。地上の人間も、すべての生き物も死に絶えました。まさにこの世の終わり、終末だったのです。
 「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで人々は食い,飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで,彼らは気がつかなかった。人の子が現れるのも、そのようであろう」(マタイ24:38)とイエスは語っています。終末とはサタンの世界が滅びる時であり、新しい中心人物が立つ日です。
 地上は水におおわれ,山々も水に沈みました。水は150日の間,地上にみなぎっていました。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり,神の霊が水のおもてをおおっていた」最初の、天地創造の時に戻ったのです。
 洪水は水によって洗い清めて聖別する,サタン分立の神の摂理だったのです。箱舟は再創造された被造世界の象徴であり、ノアとその家族は,新生したアダムの家庭です。
 40日40夜の40という数に、どんな意味があるのでしょうか。イエスやモーセは40日の断食をしています。40数には堕落性を脱いで新生するという,償いの意味があるようです。またアダムからノアまでが10代というのは一からやり直すという意味です。人類始祖であるアダムが失敗したので、ノアがアダムの代身として、一から再出発するという意味を象徴しているのです。
 聖書物語の多くがアブラハムから始まるのは、アブラハムが信仰の祖とされているからです。しかし本来は、ノアが信仰の祖であったのです。ノアは神の命令に忠実に120年の期間をかけて,箱舟を造るという中心人物としての条件を立てたのです。ではどうしてノアは信仰の祖の立場を、アブラハムに譲ったのでしょうか。

 からすとはと

 四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、からすを放ったところ、からすは地の上から水がかわききるまで、あちこち飛びまわった。ノアはまた地のおもてから、水がひいたかどうか見ようと,彼の所から、はとを放ったが、はとは足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。(8:6)

 さて雨が止み、ようやく水が引いてゆきました。150日がたって、箱舟はアララテの山に止まりました。山々の頂きが現れたのです。
 40日が過ぎて、ノアは不思議な行動をとります。箱舟の窓を開いて、からすを放ったのです。からすはぐるぐる飛びまわっていました。
 それからノアは、はとを放つのです。ノアは水が引いたかどうか,見ようとしたのですが、はとは戻ってきました。水が引かず、はとが止まる所がなかったのです。また七日たって、ノアは再びはとを放ちました。今度はそのくちばしに、オリブの若葉をくわえて帰ってきました。水が引いて、オリブの若葉が芽をふいたのです。さらに七日待って、ノアは三度目のはとを放つのです。はとは今度はノアのもとに,戻ってきませんでした。
 からすとは、いったい何を象徴しているのでしょう。水が引いたかどうかを見るためでしたら、窓から外を見ればすむことです。からすを飛ばしたり,七日ごとにはとを放つ必要はありません。意味があるとすれば,神は何を語りたかったのでしょうか。
 「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは,何事もなされない」とアモス書(3:7)にあります。神は預言者に神の摂理を預言されるのです。神は人間の責任分担には干渉されないのですが、人間がその5%の責任分担を果たすことを願って,暗示的に預言されるのです。その神のみ言を預かる者が,預言者です。イエスも神のみ言を伝える預言者でした。そのみ言を信じるかどうかは人間の責任です。
 水が引く前の天地は、混沌とした暗やみの状態です。ノアは神の立場です。しかし天地創造の太初と違うことは、からすが飛びまわっていたことです。からすは真っ黒で不気味な声で鳴きます。ずる賢くて利口ですが、人にはなつきません。からすはへびと同じ,サタンの象徴なのです。アブラハムがはとを裂かなかった時に舞い降りた,荒い鳥も同じサタンの象徴です。
 からすで象徴されるサタンは、箱舟の中に忍びこんでいたのです。カインが供え物をするときに門口で待っていたように、サタンは常に隙をうかがっているのです。新天新地に少しでも讒訴の条件があれば,サタンは所有権を主張して侵入するのです。飛びまわるからすとは、隙をうかがうサタンの象徴なのです。
 はとは平和のシンボルであり、人になつきます。最初に飛ばしたはとは、足を止める所がなくて戻ってきました。この最初のはとは、アダムの象徴です。アダムが失敗すれば神は元に戻して,やり直すことを見せられたのです。それから七日して,神は第二のはとを放ちます。七日という期間は,天地創造の期間と同じです。やり直すには、ある摂理的な期間が必要だということです。はとは神の息子の象徴なのです。
 二度目のはとは,第二のアダムです。それはイエスのことです。二度目のはとは地に足を止める所がなく戻ってきたのですが,口にオリブの若葉をくわえていました。イエスはたとえ十字架にかけられたとしても,彼は霊的に復活して、地上にオリブの若葉という希望を残す、という神の預言であったのです。さらに七日が経過します。
 三度目のはとは戻ってきませんでした。即ちイエスは再臨されるのです。その時は水が引いて地はかわき、地上に天国ができるという神の預言と受け取ることができるのです。

 新天新地

 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣,空の鳥、地に這うすべてのもの、海の魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう・・・」(9:1)

 地の上の水がかれて地上がかわくと、ノアは家族と動物たちを連れて地上に出ました。新天新地に降り立ったのです。ノアは主に祭壇を築いて、はん祭を捧げました。神はその香りをかいで、心に言われたのです。二度と人のゆえに地をのろわない。二度と生きたものを滅ぼさない。地のある限り,刈り入れの時も、暑さも寒さ,夏冬も,昼も夜もやむことはないであろう。
 神は二度と,生き物を滅ぼしつくす洪水審判はしないと誓われたのです。神が永遠なら地も永遠であることを宣言されたのです。これを見ても終末が、天地が燃え崩れて人間が滅亡する時ではないことが分かります。しかしサタンが握るこの世を、そのまま放置されるならサタンに負ける神です。サタンの血統を断絶して人間を復帰する,神のみ旨は変わらないのです。サタンの血で汚れたものを、ことごとく滅ぼしたい悲痛な神であっても、それはできないのです。時の経過と共に,人間はあまりに多く地上に生み広がりました。
 ではどのようにして神は,サタンの血統を清算して、人間を復帰しようとされるのか。ある期間が経過した後に,神が相対できる中心人物を召命して、祝福してこれを神の宗家の宗孫とするのです。この宗孫からの氏族、民族を選民として立て、そこに無原罪のメシヤを送り,彼に接ぎ木させてサタンの血統から、神の血統へと血統転換して、これを全人類に拡大するという,気の遠くなるような摂理をされるのです。神の作戦はサタンに打たれて奪ってくるという作戦です。先に打ったのですから,サタンも讒訴できないのです。
 「生めよ,ふえよ,地に満ちよ」アダムと同じ神の祝福が、ノアとその家族にも与えられました。神はまたすべての青草と動く生き物とを、人の食物として与えられました。
 新天新地に降り立ったノアとその家族は,天地創造後のアダムの家庭と同じです。神は今度こそ地上が平和な楽園となることを願われて,契約のしるしとして「雲の中ににじを置く」とノアに言われたのでした。

 ノアの裸

 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが,彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って,肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って,父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いからさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った。
 「カナンはのろわれよ。
 彼はしもべのしもべとなって、
 その兄弟たちに仕える」(9:20)

 ここでまた奇妙な出来事が起こりました。ノアが酔っぱらって,天幕の中で裸で寝ていたというのです。ノアは正しく全き人,神と共に歩んだ人です。そのノアが酔って裸で寝ているとは、どうしたことでしょうか。しかもむっくり起き上がったノアが何と言ったかというと、「カナンはのろわれよ」と言ったのです。カナンは次子ハムの息子です。ノアの孫です。のろわれよ、とは穏やかではありません。孫のカナンに何の罪があるというのでしょうか。不可解なノアの言動という他ありません。
 聖書物語の作者がアブラハムから始める理由の一つに、ノアの言動の解釈に困るからです。息子のハムが父を犯したというホモ説さえありますが、いかにも不自然です。子供向けにしても、ノアが裸になる話では教訓にもなりません。
 ノアは気がゆるんで、ぶどう酒に酔ってだらしなく裸になったのでしょうか。しかも自分の裸を息子に見られた時、その孫をのろうという見当違いな責任転嫁をしたのでしょうか。ノアは酔っぱらって口汚く孫を叱る、いらだたしいお爺さんに過ぎないのでしょうか。
 ノアを中心人物として選ぶことが、神の責任です。そのノア自身がだらしない人間であったなら、神の目に狂いがあったことになります。全知全能の神ではなくなります。それともこの話はさして意味のない、軽く読みとばすべきところでしょうか。
 そんなはずはありません。「創世記」には意味のないもの、無駄な部分はないのです。ノアが裸になったことには、あるいはノア自身も自覚していない神の摂理があったのです。アベルとカインが神に供え物をする儀式があったように、ノアの家庭におけるサタン分立の成否を問う儀式だったのです。ではノアの裸には、どんな意味があるのでしょうか。
 ノアの家庭は、堕落したアダムの家庭を復帰する立場です。ノアは再創造されたアダムです。それでは堕落前のアダムは、裸をどう意識していたでしょうか。第二章の結びでは「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあったのです。
 つまり裸を恥ずかしいとは思わなかったことが、サタンの血統が侵犯していないことを表示しているのです。ところがふたりが「食べた」後ではどうでしょうか。第三章では「裸であることが分かったので、いちぢくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」のです。つまり裸を恥ずかしいと思う意識が、サタンとの血縁関係を表示しているのです。
 神はノアを裸にして見せました。ノアの子供たちが父の裸を見て、恥ずかしいという意識をもたなかったとき、ノアの家庭はサタンとの血縁関係が皆無であることを証明するのです。しかし彼らが裸が恥ずかしいという意識をもつことは、サタンの血縁的な子孫であることを自ら証明することであり、そこにサタンが侵入する条件となるのです。
 ノアが摂理の中心人物として立つための条件物が箱舟であり、その期間が精誠をこめた120年間でした。こうしてノアは絶対的な信仰を立て、神の祝福を受けたのでした。
 次にあるのが、アベルカインの摂理です。アベルの立場が次子のハムです。次子なら善の表示体として立てられるかというと、アベルにはアベルとしての条件があるのです。
 中心人物として立った父と同じ心情で、父と一心同体になっていることが、アベルとして立つ条件なのです。つまりハムは父の裸を見ても、恥ずかしいという意識をもたない立場に立たなければならなかったのです。だからといって、裸が良いというのではありません。ノアの裸は、この場合に限られた供え物だったのです。
 長子セムはカインの立場です。アベルの立場のハムが父の裸を自然のことと受け止め、セムもハムに従って父の裸を恥ずかしくないことと受け止めるならば、ノアの家庭はサタンとの血縁関係がないことを立証したのです。サタン分立の成功です。しかし結果はどうでしょうか。
 「兄弟よ、お父さんがみっともなく酔っぱらって、裸で寝ているよ」とハムは、セムとヤペテの兄弟に告げ口したのです。セムとヤペテは父の裸を見ないようにして、うしろ向きに歩んで着物をかけてあげ、父の裸を見なかったのです。するとノアは酔いから覚め、
 「カナンはのろわれよ」と言ったのです。
 これはノア自身の言葉でしょうか。彼は自分が裸で寝ていることさえ気づかなかったのです。「カナンはのろわれよ」とは、ノアの唇を借りた神の怒りの言葉だったのです。箱舟に入ったノアと動物の他はすべて滅ぼすという、大きな犠牲を払ったサタン分立の摂理が、失敗に終わったことに対する神の怒りと嘆きの言葉だったのです。
 「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」と神が恨みのろったのは、サタンの血縁の子孫でした。サタンはアベルの立場のハムを奪ったのです。ですからその子カナンは、サタンの血縁の子となるのです。それで神は「カナンはのろわれよ」と言われたのです。
 サタンはカイン側の長子ではなく、神が愛するアベル側の次子、ハムを奪ったのです。

 長子の祝福

 「セムの神、主はほむべきかな、
 カナンはそのしもべとなれ。
 神はヤペテを大いならしめ、
 セムの天幕に彼をすまわせられるように。
 カナンはそのしもべとなれ」(9:26)

 神は長子セムを祝福されたのです。神が長子を祝福したのはこのときだけです。ここに例外的な逆転現象が起きたのです。サタンが神の愛する次子を奪ったので、神は逆に長子のセムを祝福して、宗家の宗孫とされたのです。またハムは父の裸を恥ずかしいと思うばかりではなく、兄弟に告げ口したのです。これは悪の繁殖という堕落性の罪であり、サタンの子であることの表れです。しかしセムとヤペテは、父の裸を見ないようにして着物をかけてあげたのです。これが神が取る条件になったのです。
 人間は神とサタンの中間の位置に立っていました。悪の条件があればサタンが引いてゆくし、善の条件を立てれば神が取ることができるのです。こうして「創世記」においてただ一度、サタンが弟を奪い、神が兄を祝福するという、善悪交差の現象が起きたのです。
 次子ハムの失敗の原因は、どこにあったのでしょうか。ハムが父と同じ心情になれなかったことにあったのです。ノアが世間の人々にどんなに嘲笑されても、黙々として箱舟を造りつづけ、やがて大洪水が襲って嘲笑した人々は溺れ死に、ノアの家族だけが救われたのですから、ハムは父の行為は絶対的に善と信じて、不信の念を持ってはいけなかったのです。しかしハムは人間的な常識や、自分を中心とした理性で父の行為を見て、自分なりの判断をしてしまったのです。カインが自分中心の考えから誤ったのと同じです。ハムが父の心情と一体になることが、アベルとしての条件だったのです。
 ではどうしてハムは、父の心情と一体になれなかったのでしょう。母親に問題があったようです。ノアの妻は夫と心情を一つにできないで、不平不満を抱いていたのです。母親の心情が、次子ハムの心に影をさしたのです。堕落は母のエバから起こりました。ですから復帰は、その反対の経路をたどるのです。つまり子女が復帰するには、母親の協助が是非とも必要だということです。
 10代、1600年の期間をおいて、多大な犠牲を払った洪水審判でしたが、次子ハムにサタンが侵入して、ノア家庭における神の復帰摂理は失敗に終わったのです。神は一度失敗した家庭はあっさり見捨てられるのです。そしてまたある期間をおいて、神は新たな中心人物を立てられるのです。ノアには妻の名がなかったのですが、次の中心人物のアブラハム、イサク、ヤコブ三代の妻たち、サラ、リベカ、ラケルは神の摂理の重要な役割を担うのです。

 バベルの塔

 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得てそこに住んだ。彼らは互いに言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」こうして彼らは石の代わりに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」(11:1)

 人々は東に移り住み、文明はまた東に広がりました。れんがを焼き、アスファルトを発見して、町を建設しました。そして人々は天にも届く塔を建てようとしたのです。バベルの塔です。
 神は人間が建てる塔をごらんになり、「彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉が通じないようにしよう」と言われて、塔を崩されたのです。バベルとは混乱するという意味だそうです。
 神のような立場に立つ独裁者が現れて、神を抜きにした世界を造れば、神は必要ありません。神と人間は遠く離れて、天上と地上は分離したのです。天にも届く塔を建てることは、人間が神になろうとすることです。しかしどんなに科学が発達して、素晴らしい文明を築いたとしても、神から離れて人間中心に生きるなら、平和と幸福の世界は実現しないのです。堕落人間の世界は土地と物と人を奪いあい、権力闘争に明け暮れる地獄世界になるのです。人間は全地に散らされ、部族、民族に分かれ、言葉が通じなくなりました。
 神の復帰摂理は、次なる中心人物に移行します。サタンが次子ハムを奪ったので、神はノアの長子セムの系図から、中心人物を立てるのです。
 セム、アルパクサデ、シラ、エベル、ペレグ、リウ、セルグ、ナホル、テラ、そしてテラの長子アブラム(のちにアブラハムとなる)が中心人物として立つのです。
 セムからアブラムまで、やはり10代です。また次の世代が生まれるまでの年数を合計すると、390年です。つまり10代、約400年が経過して、アブラムが立つのです。
 10代はもう一度やり直すという意味でした。ノアのときは1600年でしたが、今度は400年と短くなりました。ノアの洪水審判40日にサタンが侵犯したので、これを一日を一年で償うとすれば、40年が10代で400年です。この数字が意味するものは、アブラムがノア家庭の失敗を償って中心人物として立つ、という意味が込められているのです。ですから人間の寿命が長くなったり、短くなったりするわけではないのです。
 アブラムの父テラは、どんな人物だったのでしょうか。「ヨシュア記」(24:2)に「あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父テラは昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを川の向こうから連れ出して、カナンの全地を導き通り、その子孫を増した」と神は言われています。
 アブラハムはカルデアのウルという川の向こうの異邦の地に住む、偶像商テラの長子でした。彼はサタンが最も好みそうな環境で育ったのです。サタンが神の愛する次子を奪ったので、神はその反対の立場のアブラハムを召命したのです。
 アブラハムはノアの代身です。それはまたアダムの代身でもあります。アダムの代わりに中心人物として立ったアベルは殺され、ノアの家庭では次子ハムの失敗で、二度目の復帰摂理も失敗しました。アブラハムは三度目の中心人物です。三段階完成の原則からすれば、神の復帰摂理は三度目には成就しなければなりません。アブラハムは中心人物として立つべく、運命づけられた人だったのです。

            (第六章へ)

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