謎とき『創世記』

第十章 『創世記』を越えて

 メシヤの歩む道

 「創世記」の謎を解いてみれば、神の復帰摂理が暗号として、物語となっていたのでした。失楽園のお話は、単なる寓話ではなかったのです。神の恨みの根となった、人間堕落の根源が語られていたのでした。それは遠い神話の世界の話ではありません。地上に生みふえた人類の悲しみと苦しみが変わらない限り、親である神の悲しみも変わらないのです。「創世記」には人類が歩むべき道、絶対的な救いに至る道が、象徴的に語られているのです。
 神は人を愛するために、神に似た者として人を創造されました。ですから人間の生きる目的は、神に似た者として完成することです。男性として、女性として完成して、結婚して子女を生めば、それが理想家庭です。そして神の創造理想にそって万物を主管すれば、それが理想社会となり、理想国家、理想世界、即ち地上天国になったのです。そして天寿をまっとうした人が、天上の天国で神と共に永生することが神の創造目的でした。それはまた人間の、人生の目的でもあったわけです。
 人類始祖の堕落は、神に衝撃を与えました。以来神は悲しみの神、嘆きの神となったのです。人類はへびと女のすえ、カインの末裔となったのです。
 哲学、宗教、倫理道徳の目的は人間の堕落性を脱いで、人格を完成することです。そのために宗教の道を歩む人は厳しい修行を重ねてきました。結婚もせず、世俗的な出世も望まず、ひたすら心身を清める修行です。しかしそれで本当に救われたかといえば、自分の努力や、信仰だけでは、救われないことを自覚するばかりでした。
 原罪は血統的な罪です。人間の堕落性は血統からくるのですから、血統が変わらなければなりません。無原罪のメシヤを迎えて、メシヤに接ぎ木されてメシヤによって血統転換されなければならないのです。
 「創世記」の物語は、メシヤを迎える基台をいかに造るかという物語なのです。
 まずアダムに代わる中心人物が立たなければなりません。次に善のアベルの側に、悪のカインの側が従順に屈服して、堕落性を脱いで従うなら、そこにメシヤを迎える基台ができるのです。これが復帰の公式でした。
 アブラハム・イサク・ヤコブ三代を一代として、中心人物としての条件を立てました。次にアベルの立場のヨセフに、ユダを中心とするカインの立場の兄たちが完全に屈服しました。つまりここに、メシヤを迎える基台ができたのです。
 では、ヨセフがメシヤでしょうか。ヨセフによってヤコブの氏族は救われたのですから、ヨセフは氏族のメシヤです。しかしヨセフは、人類のメシヤではありません。
 アダムの家庭では、彼ら以外に人はいませんでした。ノアの家庭でも、ノアの8人家族以外に人はいなかったのです。ですから彼らの家庭が神に復帰すれば、それで復帰の摂理は完了したのでした。しかし時の経過と共に、人間は生みふえてゆきました。復帰の摂理はさらに複雑に、難しくなってゆくのです。
 カイン側は歴史において、常に先行するのです。ヤコブの氏族にメシヤの基台ができたとき、カイン側にはすでに王朝が立っていました。ヤコブの氏族はエジプトでイスラエル民族となりましたが、彼らはエジプト王朝にのみこまれて奴隷となったのです。
 人間は堕落したとはいえ、神の子です。神の復帰摂理は、人類を復帰することです。ですからメシヤとは、氏族や民族の救い主ではなく、人類の救い主でなければなりません。
 イエスは人類の救い主、キリストとして降臨されたのです。メシヤはイエスお一人です。とすればヨセフやモーセはメシヤ的な人物、メシヤの模擬者ということになります。つまり神は復帰の典型路程を教訓として、「創世記」のヤコブやヨセフの物語、あるいはモーセの「出エジプト記」通して、人類に残しておかれたのです。
 「聖書は、わたしについてあかしするものである」(ヨハネ5:39)とイエスが言った意味は、聖書の物語がサタン屈服の典型路程であったからです。ヤコブの路程は家庭的なサタン屈服の路程であり、ヨセフは氏族的な路程であり、モーセは民族的な路程です。そしてイエスは、人類のメシヤとしての路程を歩むのです。イエスは十字架で亡くなられ、三日の後に復活して、40日後に昇天されました。その時イエスはまた来る、再臨すると言われたのです。彼にはやり残した事があったのです。
 イエスが再臨する目的は、地上に天国を建設することです。再臨主もやはり、サタン屈服の典型路程を歩まれるのです。それがメシヤの道であり、またカインの立場の人類が歩むべき道であるのです。
 ヨセフはエジプトで奴隷にされ、さらには無実の罪で牢獄に投じられました.エジプトというサタン世界の、牢獄というどん底から出発するのです。モーセもエジプトの王子のような立場から、荒野の羊飼いというどん底から出発します。
 イエスはどうでしょうか。ナザレという田舎町の大工ヨセフの子として生まれます。生まれた場所は馬小屋の飼い葉桶です。どうしてメシヤがそんな所で生まれなければならないのか、ユダヤ人がイエスをメシヤとして信じられなかった原因の一つがそれです。メシヤは栄光のうちに雲に乗って来る、と「ダニエル書」に記されているように、彼らはそう思っていたのです。
 サタン世界を転覆させるには、サタン世界のどん底に降りて、血と汗と涙の路程をたどってサタンまでも感動させ、愛と涙で自然屈服させるしかないのです。そこにサタンが讒訴する、一点の条件もあってはならないのです。ですからメシヤは、雲に乗って来てはだめなのです。
 再臨主が来られるなら、ヨセフのようにサタン世界のどん底から出発して、血と汗と涙の路程を行かれるに違いありません。

 数で象徴される神の復帰摂理

 神は科学的であり、数理的な神です。聖書では文学的な形容詞ではなく、象徴的な数によって表現するのです。たとえば「多くの泉と、数えきれないほどのなつめやしの木があった」と表現するところを「水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった」(出エジプト15:27)と数で表現するのです。神の復帰摂理はまた、数によって象徴されているのです。それでは数が象徴する、それぞれの意味について考えてみましょう。
 3は天の数であり、4は地の数です。合わせた7は天地完成数です。数による象徴はすべて、3と4のバリエーションなのです。神の創造目的の完成は12数、4数、21数、40数の、それぞれの数によって象徴されているのです。その意味を、もう一度見てみましょう。
 12数が完成数です。神を中心とする四位基台が、蘇生・長成・完成の三段階で完成します。ゆえに4×3=12数が完成数です。12数には多くのとか、完全なという意味が込められているのです。
 4数は、三段階を経て、4段階目の四位基台で神の直接主管圏に入るので、完成数です。
 21数は、7数が天地完成数で、三段階で完成しますから、7×3=21数が完成数です。
 40数は、四位基台が10段階目で完成しますから、4×10=40数が完成数です。また40数には、四位基台の失敗を償って、再度やり直すという意味があります。400数も同様です。
 アダム家庭の創造目的の完成は、12数、4数、21数、40数によって象徴されるのです。しかしアダムとエバは堕落して、これらの完成数を失ったので、次の中心人物であるノアは、これらの完成数を復帰しなければなりません。ではノアの物語で、これらの数を見てみましょう。
 12数の復帰は、120年間の精誠をつくした箱舟を造る期間です。
 4数は、40日の洪水審判の期間です。
 21数は、七日ごとに鳩を三回とばしたましたから、21日の期間です。
 40数は、洪水が終わってから鳩をとばすまでの期間です。
 次子ハムの失敗によって、ノアの家庭もこれらの完成数を失いました。では、アブラハムはこれらの数を、どのようにして復帰したのでしょうか。
 アブラハムは蘇生・長生・完成を象徴する、鳩と羊と牛を捧げる献祭に失敗しました。しかしアブラハム・イサク親子が一体になって失敗しなかった立場に立ち、中心人物はヤコブに移行します。そして善悪分立の摂理は、ヨセフとその兄弟たちの間に展開します。
 12数、4数、21数、40数の完成数は、アブラハム・イサク・ヤコブ三代の縦的な関係から、ヨセフまでの路程において横的に展開されるのです。つまり12数、4数、21数、40数の完成数は、縦からなる横的な展開として復帰されるのです。では具合的に見てみましょう。
 12数は、アブラハム・イサク・ヤコブ三代のそれぞれの40年の、120年です。
 4数は、ヤコブが個人的に長子権を復帰して、ハランに行くまでの40年です。
 21数は、ヤコブがハランで苦労してカナンに帰ってくるまでの、21年間です。
 40数は、ヤコブがエジプトに下ってヨセフと再会するまでの、40年です。
 「創世記」を越えて、「出エジプト記」の中心人物モーセもこれらの完成数を復帰するのです。モーセの生涯は宮中生活の40年、荒野の羊飼いの40年、そして民族を率いた荒野流浪の生活が40年で、120年です。モーセはシナイ山で、40日間の断食をします。また当初はカナンまでの21日間の路程があったのです。それが失敗してイスラエル民族は、40年間荒野をさまようのです。モーセの路程ではこれらの数が民族的に、規模と範囲を拡大して展開するのです。
 それではこれらの完成数は、その後の人類歴史においても展開されるのでしょうか。人類歴史が神の復帰摂理歴史であるなら、神の復帰摂理はこれらの完成数によって象徴されると考えられるのです。
 「創世記」に展開された12数、4数、21数、40数の完成数が、その後のイスラエル民族の歴史に規模と範囲を拡大して、つまり120年、400年、210年、400年という、数理的同時性をもって横的に展開されているという事実を発見するのです。それはイスラエル民族が、神の復帰摂理を担う選民であったからです。
 人類歴史を六千年といいます。これは聖書的な観点から見た歴史年数です。
 アダムからノアまでが1600年、ノアからアブラハムまでが400年で、二千年になります。これが「創世記」の象徴的な歴史年数です。
 アブラハムからイエス降臨までのイスラエル民族の歴史が、およそ二千年です。しかしイエスは十字架にかけられ、イスラエルの国は滅んでユダヤ人は世界に離散するのです。神の復帰摂理はユダヤ教から、キリスト教に移行するのです。
 イエスの誕生から西暦が始まります。そして二千年が経過しました。ヨーロッパを中心に見れば、それはキリスト教の歴史でもあったのです。
 歴史は繰り返すといわれます。そして歴史年数は40年とか、400年という決まった年数がよくあるのです。しかし歴史家は、その理由が分かりません。
 六千年の人類歴史には、同じような時代があり、またよく似た出来事が起こるのです。たとえばイスラエル民族がバビロニアに捕虜になり、またエルサレムに帰還してくるという歴史の事実があります。似たような事が、キリスト教にもあるのです。西暦1309年、法王が南仏に捕囚になるという事件が起きます。そして再びローマに帰還するのです。これを歴史家は「法王のバビロン捕囚」と呼んで、歴史の教科書にもあります。
 神はある摂理的な期間をおいて、摂理の中心人物を立てるのです。次にカイン側の人物や団体や国家と、アベル側のそれとの間に、復帰の摂理が展開されるのです。これが同じような年代や年数、また似たような史実となって歴史に現れるのです。しかし歴史は繰り返すとしても、全く同じではなく、また後退することもありません。歴史は規模と範囲を拡大しながら、ある終結点に向かって、らせん状に展開しているのです。
 世紀末の現代はまた、終末の現象を呈しています。終末とは価値観が崩壊し、善と悪が交差する混乱の時です。人類滅亡の危機であると同時に、新しい時代が幕を開ける時でもあります。サタン主権の世の終わりであり、再臨主が降臨される希望の時でもあるのです。洪水審判のノアの時も終末であり、イエス降臨の時も終末であったのです。
 「創世記」における完成数が、人類歴史において横的に、同時性をもって展開されているという事実を発見するとき、人類歴史は神の復帰摂理歴史だといえるのです。それでは歴史の同時性を、簡単に見てみましょう。興味ある方はさらに研究されると面白いかと思います。

 歴史の同時性

 アブラハムが鳩を裂く象徴献祭に失敗した時、神はあなたの子孫は他国で四百年の間、奴隷になると言われました。ヨセフの死後、イスラエル民族はエジプトで奴隷にされるのです。
 「エジプト苦役時代400年」が過ぎて、彼らをエジプトから導き出したのがモーセです。彼らはあまりに不信仰であって、一世たちはみな荒野に倒れたのです。ヨシュアに率いられてカナンに入ったのは二世たちでした。彼らもカナンの先住民族の悪習に染まって、サタンの侵犯を許してしまうのです。
 「士師時代400年」は、エジプト苦役時代をもう一度償う期間です。士師と呼ばれる英雄的な人物が出現して、一時的に民を救うのですが、王ではないのです。イスラエルの民は王を求めるようになり、初めて王として立ったのがサウルです。サウル王はアブラハムに相当する中心人物であって、12数、4数、21数、40数の完成数は、サウル王から横的にイスラエル民族の歴史に展開するのです。
 「統一王国時代120年」は、アブラハム・イサク・ヤコブ三代と同じく、サウル・ダビデ・ソロモン三代の王の各40年で、120年間です。サウル王は神の命に背いて戦死します。次が有名なダビデ王です。しかし彼は戦いに明け暮れて多くの人を殺しました。次のソロモン王は知恵の王として名高く、イスラエル史上最高の栄華をきわめました。三代目のソロモン王は何を完成したかというと、神殿を完成したのです。しかし他国の女性をあまりに多く抱えて異邦の邪神が入り、サタンが侵犯したのです。ソロモン王の死後、王国は南北に分裂します。
 「南北王朝分立時代400年」は、ヤコブとエサウ対立40年の、同時性として展開します。北朝イスラエルは偶像を崇拝して悪なる王様が多く、アッシリヤに滅ぼされます。南朝ユダも北朝の影響を受けて滅び、バビロニアに捕虜になってしまいます。
 「捕虜・及び帰還時代210年」は、ヤコブのカナン21年の苦役路程に相当します。ユダヤ人は、70年間ネブガデネザル王の捕虜となり、やがてペルシャのクロス王によって、140年間に渡り解放されます。エルサレムに帰還してきた彼らは、神殿の再建にとりかかります。旧約時代最後の預言者が、マラキです。
 「メシヤ降臨準備時代400年」は、マラキからイエス降臨までの期間です。ヤコブがエジプトに下ってヨセフと再会するまでの40年の、同時性としての400年間です。ヨセフは氏族のメシヤですが、イエスは人類のメシヤとして降臨されたのです。
 人類がメシヤを迎えるには時があり、場所があります。メシヤを迎える基台がなければなりません。まず人類がメシヤのみ言を理解し、受け入れる知的水準に達していなければなりません。次に世界人類が一つの主権によって統一されるような、時代環境が必要です。地上の主権者がメシヤを受け入れ、メシヤと一体となって神のみ言を実践した時、神の国が地上に実現するのです。
 イエス降臨の四,五百年前から、世界に聖賢たちが出現しました。旧約聖書の預言者たちをはじめ、ギリシャ哲学の聖賢たち、インドには釈迦、中国では孔子や孟子が生まれ、人類の知性は急速に明るくなったのです。
 イエスが誕生された頃、ローマ帝国の全盛期でした。世界はローマの強大な傘の下で、ほとんど一つになっていたのです。世界の道はローマに通じる、と言われるほどローマは世界の中心であり、文明の中心でした。ユダヤはローマの属国でした。もしもユダヤ人がイエスのみ言を受け入れ、ローマの元老院が受け入れ、ローマ皇帝が神のみ旨に従うなら、それはシルクロードを通ってインド、中国へと伝わったのです。つまり当時の世界に広まったのです。
 ユダヤ教の指導者たちはイエスと対立して、十字架にかけてしまいました。イエスは霊的に復活して、逃げ散った弟子たちを再び集めて、キリスト教が誕生したのです。
 神の復帰摂理はユダヤ教から、キリスト教に移行したのです。イエスは地上に天国を建設する実体勝利は成らなかったのですが、霊的なカナン復帰は成就されたのです。キリスト教は東への道ではなく、ローマからヨーロッパへの、西の道をたどって世界に広まりました。
 「創世記」の12数、4数、21数、40数の完成数が、イスラエル民族の歴史に同時性として展開したことを見てきました。神の復帰摂理はユダヤ教からキリスト教に移行するのですから、今度はユダヤ教の歴史が、キリスト教の歴史に、同時性として展開するのです。
 「ローマ帝国迫害時代400年」が「エジプト苦役時代400年」の同時性として展開します。キリスト教徒は苛烈な迫害を受けますが、313年にローマから公認され、392年にはテオドシウス一世によってキリスト教はローマ帝国の国教となるのです。迫害は約400年間でした。
 「教区長制キリスト教会時代400年」は「士師時代400年」の同時性の展開です。五大教区の中のローマ教区長が、のちのローマ法王となるのです。
 「キリスト王国時代120年」は、チャールス大帝が即位した西暦800年から始まります。チャールス大帝はサウル王の立場です。彼はアウグスチヌスの「神国論」の理念によって、キリスト教国家を建設しようと考えました.彼の支配はヨーロッパ全域に及んだのです。
 「東西王朝分立時代400年」は919年、チャールス大帝から三代目に東西に分立して、1309年に法王が南仏に捕囚になるまでの390年間ですから、約400年です。
 「法王捕虜・及び帰還時代210年」は、法王が1377年に帰還するまでの68年と、1517年にルターが宗教改革を起こすまでの、140年を合わせた208年間ですから、約210年です。
 ルターは旧約最後の預言者マラキのように、中世暗黒時代に終わりを告げた人物です。法王が地上の神として、人間の自由を抑圧していたのが中世暗黒時代です。それを打破したのがルネッサンスであり、もう一方はルターによる宗教改革であったのです。こうして新教が生まれて,キリスト教は新しい時代を迎えたのです。
 「メシヤ再降臨準備時代400年」は、1517年以降の,近世400年といわれる時代です。この期間はイエスが誕生する以前の400年間に相当します。文化,文明が爆発的に発達した時代です。また人口も爆発的に増加しました。
 ヨセフがメシヤの型であるなら,イエスは実体のメシヤとして降臨されました。しかし彼は再臨のみ言を残して昇天されました。その時がいつかは分からないというのです。しかし「ノアの時のように洪水が襲う終末のとき」とイエスは言い残したのです。イエスが第二のアダムなら、三段階完成の原則からいっても,第三のアダムが来なければなりません。イエスがやり残した地上天国建設の使命を担う再臨主の到来です。歴史の同時性から見るなら、その人はすでに来ているのです。

 再臨の時

 ローマ帝国の滅亡以後,人類がメシヤを迎える千載一遇のチャンスがただ一度ありました。それは第二次世界大戦が終結した時です。1945年当時の世界情勢はどうだったでしょうか。日本、ドイツ、イタリヤは無条件降伏であり、勝った側のイギリス,フランスは疲弊し、ソ連は戦争の痛手が深く、中共は建国以前です。世界はまさにアメリカ一国の手にあったのです。アメリカはキリスト教精神によって建国された国であり、戦後のアメリカは世界の国々に救いの手をさしのべていたのです。イエスを信じるアメリカ国民に、イエスの再臨が伝えられたなら,再臨主のみ言は世界に伝播されたはずです。そして世界が神の国になることも夢ではなかったのです。
 しかしその一瞬のチャンスは過ぎ去りました。すると神を否定するカイン側の共産主義思想が,急速に世界を赤化していったのです。世界はソ連を中心とする共産陣営と、アメリカを中心とする自由陣営に分立して対立したのです。両陣営の対立は,理念による冷たい戦争です。両者は直接戦うことはなくとも朝鮮半島、ベトナム,その他の国々で代理戦争が激しかったのです。ケネデイとフルシチョフの時代には、一触即発の危機があったのです。
 神からより遠いカイン側は先行して,唯物論による地上天国を実現しようとしたのですが、共産主義による革命は失敗でした。世界の共産化によって歴史は終結するという,唯物史観は間違いでした。ソ連邦は崩壊し、ロシアは混乱に陥っています。しかしアメリカもローマ帝国の末期にように、性道徳は退廃して,暴力と犯罪がはびこっています。また資本主義の矛盾が、アジアの小国の経済を揺るがしています。
 人類はこれまでの生きかた,価値観を転換すべき時にきているのです。歴史には多くの革命がありましたが、今は一国の革命ではありません。世界同時的な革命、人類の最終的な革命でなければなりません。カイン側の革命の次にあるべきは、アベル側の革命です。それは神主義による革命です。
 人間の思想による革命は,必ず反革命による分裂,闘争が起こるのです。しかし神の思想を越えるものはありません。それは思想というより、神の心情による革命です。その神の代弁者として、天宙的理念をもって来られるお方が、メシヤであり再臨主です。
 では、再臨主はどこに来られるのでしょうか。

 封印された七つの巻物を解く神の子羊

 イエスは昇天された姿で,雲に乗ってエルサレムに再臨されるでしょうか。二千年前、ユダヤ人はイエスをメシヤとは信じませんでした。今も彼らはイエスをすぐれたラビ、先生とは思っても、メシヤとは考えないのです。そのようなイスラエルに,イエスの再臨はあり得ないのです。イエスはキリスト教の基台の上に再臨されるはずです。
 「黙示録」には「封印された七つの巻物を解く神の子羊」が「日の出る方から上ってくる」と記されています。日が上るのは東の方です。すなわちメシヤは東方の国,アジアに来るという預言です。聖書で東は、人間の堕落世界を意味していました。メシヤの使命は堕落人間を神に復帰することです。そのためには,サタン世界のどん底に下るのです。イエスがナザレの田舎町から出たように、再臨主がアジアの小国の田舎に生まれたとしても、不思議ではありません。むしろ東の国の、みじめに虐げられた小国の田舎に生まれることが、神の摂理ではないでしょうか。
 キリスト教は西への道をたどり、西欧は合理的な科学文明が発達しました。アジアでは精神的な文化が栄えたのです。21世紀は科学文明の時代から、心の時代になるでしょう。再臨主はアジアの国に来られるとして、ではアジアのどこの国でしょうか。
 日本にはキリスト教は戦国時代に伝来しましたが、徳川幕府はこれを禁じて厳しく迫害したのです。再びキリスト教が西欧から伝えられたのは、明治になってからでした。しかし日本人は西欧の文明は吸収しても,キリスト教精神は受け入れなかったのです。結局キリスト教は、日本に根を下ろさなかったのでした。
 中国は共産主義の国ですから,イエスの降臨は考えられません。
 メシヤが降臨される国の民には、神を敬う敬虔な宗教心と伝統がなければなりません。また文明国でありながら、単一民族であり、小国であるほうがよいのです。神の国のモデルになるからです。そしてイスラエル民族のように、迫害されても誇りを失うことなく,神の痛みと悲しみに通じる恨の心情を抱く国民でなければなりません。また,キリスト教が盛んな国でなければなりません。そんな国がアジアに、一国だけあるのです。
 1948年,世界の東西で小さな国が,同時に独立しました。イスラエルと韓国です。韓国は大戦が終わる1945年まで,日本に支配されて辛酸をなめつくしました。日本が韓国を守るという大義名分で、保護条約を結んだのが1905年ですから、ちょうど40年間の迫害時代です。韓民族は歴史的に他国の侵略を受けてきました。しかし復讐をするのではなく、じっと心に恨を抱くのです。それが積もりつもって、彼らの哀切きわまりない民謡やパンソリの歌声になるのです。神の悲しみの心情に、最もよく通じる国民が韓民族です。また天と先祖と両親を敬う儒教の伝統の上に,キリスト教が根づいて国です。
 大戦直後の韓国はアメリカの属国ではありませんが、その庇護の下におかれていました。イエスの時代のイスラエルとよく似ていたのです。まさに戦後の韓国は,再臨主が来られるのに最もふさわしい国であったのです。韓国のキリスト教界が再臨主を受け入れたなら、そのみ言はアメリカから世界に伝播される基台が備えられていたのです。その歴史上の一瞬のチャンスが失われると、韓半島はアベル側の自由陣営と、カイン側の共産陣営とに、南北に分断されたのです。韓半島は供え物にされたのです。
 1950年6月25日、カイン側は突如、南進を開始しました。それから三年間、韓民族は互いに血で血を洗う戦闘を繰り返しました。結局、韓半島は38度腺によって分断されたまま、今日に至っています。
 世界は再び、再臨主を迎える時代になりました。カインとアベルが対立する最後の一線が、韓半島を分断する38度腺です。再臨主は神とサタンの怨讐の一線を越えて、愛と万物をもって韓半島を統一されるのです。それはまた世界人類が一つになる道であり、サタンに握られていた人類が、神に復帰する道でもあるのです。
 「創世記」の謎めいた物語は神の秘密と、人間が神に復帰する道が、比喩と象徴で記された暗号の文書であったのです。そこに人生の教訓を見出すことはできないように思えたのですが、実は人類が本然の故郷であるエデンの園に帰るために、神が預言者を通じて人類に残した最大、最高の教訓の書が「創世記」であったのです。
 「創世記」の謎を解かれたお方こそ、「封印された七つの巻物を解く神の子羊」に違いありません。神の法則、天宙を貫く原理原則は、「創世記」の謎を解くことから解明されていったのです。

             (第一部完)
           

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