謎とき『創世記』

第六章 アブラハムとサラ


 アブラムとサライの旅立ち

 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示した地に行きなさい。私はあなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。(12:1)

 アブラムがハランに住んでいたとき、彼は突然、神に呼び出されます。その時アブラムはすでに75歳、サライは65歳でした。彼はハランに定着して多くの親族にかこまれ、また財産にも恵まれていました。ところが深夜、彼は神の啓示を受けて、ハランを旅立つのです。神の言われるままに親族に別れ、妻のサライと、弟の子ロトと、すべての財産と奴隷たちを連れて、カナンに向かうのです。彼らがカナンに着いた時、神は言われました。
 「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」
 以来カナンは、神がイスラエル民族に与えた乳と蜜の流れる地、神が足を下ろす聖なる地、選民の故郷になるのです。カナンに復帰することがイスラエル民族の願いなのです。
 カナンが神の土地であるなら、その他のハラン、ネゲブ、そしてエジプトは、サタンが支配する土地の象徴なのです。アブラハム、イサク、ヤコブの路程は、カナンに帰る路程でした。またモーセに導かれたイスラエル民族の願いも、カナンに帰ることであり、のちのユダヤ民族の願いも、カナンに復帰することであったのです。またカナンは失われたエデンの園、人類が復帰すべき地上の楽園の象徴でもあるのです。
 さてアブラムはカナンの地に、主のために祭壇を築きました。しかしカナンからネゲブに移動します。どうしてカナンに留まらなかったのでしょうか。アブラムは神が命じられるままに旅をつづけたのです。ネゲブは荒涼とした砂漠の地です。そこでききんにあってアブラムはエジプトに寄留しようとします。アブラムは妻のサタイにこう言いました。
 「あなたは美しい。それでエジプト人は夫のわたしを殺して、あなたを奪うでしょう。だからわたしの妹だと言ってくれ。そうすればわたしの命は無事だろう」
 こうしてふたりがエジプトに入ると、パロの高官たちはサライの美しいのをほめ、彼女はパロの王宮に召し入れられました。そこで兄になりすましたアブラムは、パロから厚くもてなされ、羊や牛、ロバや男女の奴隷を得たのでした。
 サライはパロ王のそばめとして王宮に入るのですが、神はそのことのゆえに、激しい疫病をエジプトにもたらしました。パロ王はアブラムを呼び寄せ、詰問します。
 「あなたはわたしに、何という事をしてくれたのです。なぜ妻であることを告げなかったのですか。なぜわたしの妹ですと言ったのですか。さあ、サライをつれて出て行きなさい」パロは妻のサライと、すべての持ち物を送り、アブラムを去らせました。
 アブラムは妻と多くの財産と、おいのロトを連れてエジプトからネゲブに上りました。アブラムは家畜や金銀に、非常に富んでいました。またロトにも多くの家畜がいました。それはあまりに多すぎて、一緒に住むことができませんでした。彼らの牧者たちの間に、争いが起こったのです。アブラムはロトに言いました。
 「わたしたちは別れましょう。あなたが左に行けばわたしは右、あなたが右ならわたしは左に行きましょう」
 ロトがヨルダンの低地を見渡すと、それはすみずみまでよく潤っていました。そこでロトはヨルダンの低地を選んで、東に行ったのです。ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移しました。ソドム、ゴモラの人々は悪く、罪びとであって、のちに神に滅ぼされるのです。
 アブラムはカナンの地に住みました。すると神は、アブラムに言われました。

 神の祝福

 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もしも人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。(13:16)

 アブラムはあの、「生めよ、ふえよ」の祝福を神から受けたのです。新天新地に降り立った、ノアに与えられた祝福と同じです。またアダムとエバが神に祝福された、あの祝福と同じ子孫繁栄の祝福です。
 ノアが神から召命されたのは、彼が神から正しい人と認められたからでした。そして精誠をつくして箱舟を造ったことが、ノアが中心人物として立つ条件になったのでした。
 ところでアブラムが神から召命され、中心人物として立つ条件が、何だったのでしょうか。彼はどんな正しい事をしたのでしょうか。アブラムの旅をふり返って見ましょう。
 アブラムの旅は、神の命令に忠実に従う路程でした。そしてエジプトに入るとき、妻であるサライを、妹と偽って入ったのです。彼はエジプトからたくさんの万物を携えて、おいのロトと、妻と共にカナンに帰ってきました。これがアブラムの旅です。すると神は彼を祝福されたのです。アブラムの旅に、どんな意味があったのでしょうか。
 常識的に考えれば、アブラムの行為は非難はされても、決してほめられたものではありません。自分の命を惜しんで、妻を妹と偽ってパロに売ったのです。夫として男として、こんな卑怯は事はありません。神がパロ王を疫病で打ったので、サライは無事に戻ることができたのですが、でなければサライはパロ王のそばめにされたのです。彼ら夫婦が神の命令に絶対的に従った、その信仰は認めるとしても、彼らの行為は賞賛されるべきものではありません。アブラムが信仰の祖とされる理由にはならないように思えるのです。
 この話そのものが、よく考えれば変な話です。アブラムは75歳、サライは65歳です。しかもききんにあって飢えた、いわば難民の夫婦です。サライがどんなに美しい女でも、エジプトの王様が難民のおばあさんを、そばめにすると考えるほうが変です。
 「創世記」はいわゆる普通の物語ではありません。神の秘密を暗号として、象徴的に物語っているのです。ですからお話として読んでは、ほとんど意味をなさないのです。
 実はアブラムとサライの旅そのものが、アダムとエバの堕落を償う路程だったのです。アブラムが神の命令に忠実に従ったことが、彼が中心人物として立つ条件なのです。
 アブラムとサライは、アダムとエバの身代わりとして立てられました。ですから、アダムとエバの堕落の罪を償って、復帰するという路程を歩むのです。堕落の経路と、反対の経路をたどって復帰するという法則がありました。アブラムとサライの旅は、アダムとエバが堕落した経路と、反対の路程であったのです。
 アダムとエバは神のみ言を信じないで堕落しました。ですからアブラムとサライは、神のみ言を絶対的に信じるという路程を歩まなければなりません。堕落以前のアダムとエバは、兄妹の関係でした。それが天使長に誘惑されて、サタンの懐に入って、サタンが主管する夫婦になったのです。こうして万物も人間も、サタンが主管しました。
 この堕落の経路と反対の経路が、彼ら夫婦の旅なのです。アブラムとサライは、ハランというサタン世界で夫婦でした。そこから神の召命を受けて、カナンに行くのです。カナンはエデンの園と同じですが、アダムとエバは楽園を追われたのでした。アブラムとサライの夫婦も、そこに留まることはできません。彼らは堕落前のアダムとエバのように、兄妹に戻るのです。そしてサタンの懐であるエジプトのパロ王宮に入るのです。
 神はここで、パロ王で象徴されるサタンを打つのです。こうしてアブラムとサライはサタン側のパロ王宮から、万物を象徴する多くの財産と、人類を象徴するおいのロトを連れて、神の地であるカナンに帰るのです。アブラムとサライは復帰されたアダムとエバとして、神に祝福された夫婦になるのです。この路程が、アブラムが摂理の中心人物として立つ条件となったのです。
 アブラムは摂理の中心人物としての条件を立てたのですが、人類を象徴するロトはどうでしょうか。ロトは東に去りました。ヨルダンの低地は肥沃な大地に見えたのですが、地上の繁栄はサタンのものだったのです。東へ行くことは、神から遠ざかることを意味しているのです。ソドムとゴモラは、淫乱と罪悪がはびこる町だったのです。

 戦うアブラム

 時にソドムの王は言った、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげてわたしは誓います。わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは受けません。・・・」(14:21)

 ソドム、ゴモラの王たちは、他の族長たちと戦闘をくりひろげました。ソドム、ゴモラの王たちは戦いに破れ、財産も食料も奪われました。ソドムに住んでいたロトも、その財産と共に奪い去られたのです。逃げのびたひとりの人が、アブラムにその事を告げました。
 アブラムはロトが捕虜になったと聞き、訓練した家の子318人を引き連れて敵に迫りました。彼は軍勢を二手に分け,夜襲をかけて敵を敗北させたのです。こうしてアブラムはすべての財産を取り返し、またおいのロトと、その財産と女や民を取り返しました。
 祭司メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきて、アブラムを祝福しました。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈ったのです。そこでソドムの王は、わたしには人をくださいとアブラムに言うのです。アブラムは彼の物は糸一本たりと受け取りませんでした。これらの事の後,神のみ言がアブラムに臨みました。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたが受ける報いは,はなはだ大きいであろう」
 アブラムには心に懸かることがありました。それはサライに子が生まれないことです。あと継ぎがなくてはどんなに財産があっても何になるでしょう。
 「主なる神よ、わたしには何をくださろうというのですか。わたしには子がありません。僕の子があと継ぎになるでしょう」主は言われました。
 「この者はあなたのあと継ぎになるべきではありません。天を仰いで,星を数えることができるなら,数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」
 またしても神の祝福です。天の星のように子孫がふえるであろうという、「生めよ、ふえよ」の子孫繁栄の祝福です。アブラムが天の宗孫であることを再確認されたのです。先の祝福は、アブラムが堕落の経路と反対の経路をたどったからでした。では今度の祝福はどうでしょうか。
 族長たちとの争いにまきこまれ、ロトと財産が奪い去られました。ロトは人類を象徴し,財産は万物の象徴です。アブラムはサタン世界の王たちと勇敢に戦い、また知略を用いてロトと財産を奪い返しました。サタンから人類と万物を取り戻すという,実体的な路程です。先の路程は条件でしたが,今度は復帰の実績をあげたのです。また、アブラムはサタン世界の万物は、糸一本たりと受け取らなかったのです。
 アブラムは神を信じ,主はこれを彼の義とされました。しかし子がいないのに、どうして子孫の繁栄があるでしょうか。アブラムの心中には、一抹の不信の念があったのです。神はその地をアブラムに与え、これを継がせることを約束されましたが、アブラムはさらに主に迫りました。
 「主なる神よ、わたしがこれを継ぐことをどうして知ることができますか」
 神はアブラムに、不思議な献祭を命じらたのです。

 牛と羊とはとの献祭

 主は言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとをわたしの所に連れてきなさい」彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。(15:9)

 牛と羊とはとを裂いて、献祭にせよという神の命令です。しかしアブラムは鳥を裂かなかったのです。すると荒い鳥が舞い降りてきて、アブラムはこれを追い払ったのですが、深い眠りに襲われました。
 牛と羊とはとを裂いて捧げるという話を、どう解釈したらよいのでしょう。聖書物語を見ても、この話はほとんど省略されています。しかし聖書に無駄なもの、意味のないものはないのです。アブラムがはとを裂かなかったことが、のちのイスラエル民族がエジプトで奴隷にされる遠因であるらしいのです。牛と羊とはとは何を象徴していて、また裂くということの意味が何でしょうか。
 神の復帰の摂理は、サタンを分立することでした。中心人物がその条件を満たす路程を歩んだのちに、神はサタン分立の成否を問う、ある儀式を行われるのです。カインとアベルが供え物を捧げたのも、ノアが裸になったのも、サタン分立を問う儀式だったのです。アダムの家庭ではカインがアベルを殺し、ノアの家庭では次子ハムが父を不信して失敗しました。アブラムの象徴献祭は、サタン分立の成否を問う三度目の儀式だったのです。アブラムが中心人物として立つか否かの、復帰摂理のクライマックスだったのです。
 ノアの三層の箱舟は三段階で完成する天宙を象徴していました。これと同様に、牛と羊と鳩は、蘇生・長成・完成 の三段階を象徴しているのです。またアダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭の三代を象徴しているのです。ではどうして鳩は、蘇生を象徴するのでしょうか。
 ノアが箱舟から最初に放った鳩は、アダムの象徴でした。またイエス様と洗礼ヨハネが最初に出会った時、白い鳩が舞い降りてきました。これがイエス公生涯の出発です。ですから、鳩は蘇生期を象徴しているのです。
 洗礼ヨハネがイエス様と出会った翌日、彼はイエス様の後ろ姿を指さして「世の罪を取り除く神の子羊」と、イエス様を羊にたとえたのです。鳩の次は羊ですから、羊は長成期を象徴すると見ることができます。
 牛は完成を意味しますが、その聖句がどこにあるでしょうか。「士師記」14章18節にあります。怪力サムソンの話です。サムソンはペリシテ人に謎かけをします。彼らはサムソンの妻から、その答えを引き出すのです。するとサムソンは町の人々に言いました。
 「わたしの若い雌牛を耕さなかったら、わたしのなぞは解けなかった」
 サムソンは妻を雌牛にたとえたのです。その雌牛で謎が解けたのですから、牛は完成を象徴すると解釈できます。三歳の三数は神の数ですから、神のものとして捧げると解釈できます。ところで山鳩と家鳩、雌やぎと雄羊とペアになっているのに、牛はどうして雌牛だけなのでしょうか。
 雌牛は妻です。妻も初夜は新婦です。アダムとエバは蘇生期、長成期と成長して、完成期に入ったところで堕落したのです。ですから人間は蘇生期、長成期と復帰して、そこでメシヤに出会わなければなりません。メシヤとはキリストです。イエス様は自らを新郎にたとえ、イエスを信じる者は新婦です。ですから完成期は新婦として、つまり雌牛として新郎のイエス様と共に歩むのです。メシヤはまだ来ていないので、完成期は雌牛だけなのです。
 また蘇生・長成・完成を、家庭・民族国家・世界人類と見るなら、鳩は家庭を象徴しているのです。アブラハム・イサク・ヤコブの路程は、家庭を復帰する路程なのです。
 アブラムは牛と羊は裂いたのですが、鳩は裂かなかったのです。 二つに裂くという意味は、善と悪に分けて、サタンを分立するという意味です。アベルの供え物を受け取って、カインの供え物は顧みられなかった儀式と同じです。また箱舟の他はすべて滅ぼした、ノアの洪水審判とも同じです。ですから裂かないで捧げるなら、サタンのものをそのまま捧げた結果になるのです。
 アブラムは鳩を裂きませんでした。鳩は小さいので油断したのでしょうか。復帰の基台となる蘇生期にサタンが侵入したのです。あるいは家庭に問題があった、と見ることもできます。彼は自分の運命を恨む思いがあったのです。妻のサライが不妊であったことです。わずかでも、神を不信する思いがあったのです。そこにサタンが忍びこむ隙があったのです。荒い鳥が舞い降りてきました。

 アブラムをおそう恐ろしい暗やみ

 日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。時に主はアブラムに言われた、「あなたは心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅人となって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。(15:12)

 妻のサライは立派な女性でしたが、子を生まないことがアブラムの悩みでした。サライはアブラム以上に悩み、苦しんだことでしょう。そこで彼女はつかえめのエジプト女、ハガルをアブラムに与えるのです。世継ぎを得るためとはいえ、愛する夫に他の女を与えることは、妻として耐えがたいことです。しかしサライは自分を犠牲にして、アブラムの血統を残そうと思ったのです。
 アブラムは妻の言葉を受け入れたのです。彼が神のみ言を信じきっていたら、ハガルのところに入ることはなかったでしょう。神は子孫の繁栄を約束されたのですから。
 ハガルはアブラムの子をはらみ、みごもったことによって女主人を見下すようになりました。おそらくアブラムは、この若い女に夢中になったのです。夫に与えたつかいめが自分を見下げるとき、サライは耐えられなくなって、夫をなじったのです。
 「わたしがこんな目にあうのは、あなたの責任です。子を産むためだけにあの女を与えたのに、あなたまでわたしを疎んじるのですか。主がわたしたちの間をおさばきになるでしょう」アブラムは悩みましたが、非は自分にあります。
 「おまえの好きなようにするがいい」アブラムは一言もありませんでした。
 サライはつかいめのハガルを嫉妬して、彼女を苦しめたのです。そこでハガルは荒野に逃げました。すると泉のほとりでハガルは天使に出会いました。
 「ハガルよ、あなたはどこへ行くのですか」
 「女主人のサライがいじめるので、わたしは逃げてきたのです」
 「あなたは女主人のもとに帰って、彼女に従うのです。あなたはみごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。主はあなたの苦しみを聞かれました。その子をイシマエルと名づけなさい。あなたの子孫は、数えきれないほど多くなるでしょう」
 ハガルはうれしさのあまり、主の使いを拝みました。こうしてハガルはアブラムのもとに戻り、男の子を産みました。アブラムはその子をイシマエルと名づけました。アブラムはその時、すでに86歳になっていました。
 イシマエルの子孫が、アラブ人です。天使はイシマエルの子孫の繁栄を約束したのですが、その予言には不吉なものがありました。
 「彼は野ろばのような人になり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」(16:12)
 中心人物として神から召命されたアブラムは、その条件となる象徴献祭に失敗したのです。復帰の基台となる家庭に、サタンが讒訴する条件を残したのです。その結果、彼の子孫のイスラエル民族は、エジプトで奴隷にされて400年間も苦しむことになるのです。彼らをエジプトから導き出して、カナンに向かうイスラエル民族の英雄がモーセです。

 多くの民の父、多くの民の母となる

 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
  「わたしは全能の神である。
  あなたはわたしの前に歩み,全き者であれ。
  わたしはあなたと契約を結び、
  大いにあなたの子孫を増すであろう」(17:1) 

 神はアブラムに現れて、彼と契約を結ばれたのです。アブラムは名を、アブラハムとされました。多くの国民の父という意味です。そしてカナンの地を永久に与え,子孫を繁栄させ,国々の民と王もアブラハムの子孫から起こすと、神は約束されたのです。
 男の子はすべて生後八日目に、前の皮に割礼をほどこせ、と神は命じられました。それが選民として守るべき、神との永久の契約のしるしになるのです。もしも割礼を受けない男子は,民のうちから絶たれるであろう,と神は言われました。
 神はまた妻サライにも言われました。
 「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としょう。彼女からもろもろの民の王たちが出るであろう」
 アブラハムは神にひれ伏していたのですが,心の中で笑ったのです。自分はもう百歳です。妻も九十歳です。九十の女に子供が生まれるはずがありません。そう考えるのが常識というものです。しかしアブラハムの笑った相手は神様です。アブラハムはまだ神を、絶対的に信じきることができなかったのです。それに彼にはハガルが産んだイシマエルがすでにいました。彼は神に言いました。
 「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」
 「いや、あなたの妻のサラが男の子を産むでしょう。名をイサクと言いなさい。わたしは彼と契約を立て、後の子孫のために永遠の契約としょう」神はアブラハムに断言されたのです。神はイシマエルも祝福され、大いなる国民とすると言われましたが,神が正統な宗孫とされたのは、まだ生まれていないイサクだったのです。
 アブラハムは神との契約を守って自らも割礼を受け、また十三歳になったイシマエルにも割礼を受けさせました。そして家に生まれた者,買い取った者もすべて割礼を受けたのでした。
 ある暑い昼さがりの時でした。アブラハムがテレビンの木の下でまどろんでいると、三人の人が彼の前に立っていました。それがどういう人たちか、アブラハムは瞬時に悟ったのです。
 「わが主よ、どうかここを通り過ぎないでください。いま水を持ってきますから、足などお洗いになって、この木の下でお休みください。せっかくですから、パンを一口取ってまいります」
 その人たちが承知すると、アブラハムは急いで天幕に入り、サラに食事の支度を命じました。若い者にも子牛をほふって調理させ、また最高のチーズで客をもてなしたのです。彼らは食事をして、妻のサラのことを尋ねました。そしてサラにこう告げたのです。
 「来年の春,わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時,あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」
 「わたしは衰え,主人も老人です。わたしに楽しみなどあるでしょうか」サラは心の中で笑ったのです。九十歳の女に子が生まれるはずがない。そんなばかなことが・・・。
 「なぜ笑うのですか。主に不可能なことがあるでしょうか。来年の春,あなたには男の子が生まれているでしょう」
 「いえ、わたしは笑いません」サラは神を恐れて,内心の笑いを打ち消しました。
 「いや,あなたは笑いました」
 サラが笑った相手は神様です。こんな恐ろしいことはありません。サラは長いこと自分の不妊を嘆き,自分の運命を悲しんでいたのです。神を恨むことさえあったのです。そして今では、すっかり諦めていたのでした。
 神の人はもう一度、アブラハムを祝福して、ソドムとゴモラの方へ去って行きました。

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