謎とき『創世記』

第三章 蛇と女

 誘惑する者

 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなとほんとうに神が言われたのですか」女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが,ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな,これに触るな、死んではいけないからと、神は言われました」へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると,あなたがたの目が開け,神のように善悪を知る者となることを,神は知っておられるのです」(3:1)

 エデンの園に狡猾なへびが登場します。このへびはものを喋るへびです。しかも万物の霊長であるはずの女を,巧みに誘惑するのです。いきなり食べろとは言いません。神が取って食べるな、触れてはいけないと言われた木の実を、触れたくなり、食べたくなるように誘うのです。神のように目が開け,神のように善悪を知る者となるのです、というへびの誘惑は実に巧妙です。エバは神に似る者として創造されたのです。ですから神のようになりたい、神のように知りたいという欲望は、神から与えられた本性です。しかしそれに触れても,食べても死ぬと神は言われたのです。エバにはその理由が良く分かりません。それを守るかどうかは,エバの自由に任されていました。
 誘惑する者は「決して死ぬことはないでしょう」とエバに迫るのです。神の意図を知っていて、神の娘のエバを言葉巧みに誘惑するこのへびは、ただの野を這う蛇であるはずがありません。
 へびで象徴された存在は野を這う動物ではなく、また動物に近い素朴な原人でもありません。エバがそのようなものに誘惑されるはずがありません。神の霊を受けた者を誘惑できるのは、霊的な存在しかありません。天にあって霊的な存在が地に投げ落とされたものとは、天使以外に考えられません。女を誘惑するへびとは、「黙示録」(12:9)に記された「悪魔とか、サタンと呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび」に違いないのです。
 知・情・意を司る,三大天使長がいなければなりません。ガブリエルとミカエルの名はあるのですが、知の天使長の名がありません。しかしそれを示唆する聖句が,「イザヤ書」(13:12)にあるのです。

 そう明の子よ、明けの明星よ、
 あなたは天から落ちてしまった。

 明けの明星とは,知の天使長ルーシェルのことです。光の天使が,天から落ちて闇の天使になったのです。知は明暗で表します。科学に明るいとか,暗いとか言います。知は真理を探究します。しかし知はまた、善悪どちらにも傾く性質を持っています。悪に走れば悪知恵になります。科学の探求が恐ろしい兵器を生みだし、人間を大量殺戮する結果にもなるのです。知の天使長ルーシェルが何らかの動機から神に反逆して、エバを誘惑する者となったのです。ではどうして知の天使長を、へびで象徴したのでしょうか。イエスは弟子たちを伝道に送るとき、「へびのように賢く、はとのように素直であれ」(マタイ10:16)と送りだしています。ユダヤではへびは知恵の象徴であり、また淫乱と多産の象徴でもあったのです。それに蛇は舌が二枚あります。二枚舌の人間とは,思っていることと言うことが違う人間のことです。また蛇は獲物を体に巻きつけて食べます。知の天使長は神に反逆して僕の立場を捨て、自分を中心に考えたのです。ルーシェルは誘惑者となって蛇のように女に忍び寄り、しっかりと女に巻きついたのです。

 食べるに良く目に美しいもの

 女がその木を見ると、それは食べるに良く,目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから,その実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので,彼も食べた。(3:6)

 エバは未完成の少女でした。長成期を過ぎて,完成期に入ろうとする頃でしょうか。今でいえば中高校生です。彼女たちには純潔の大切さを教えなければなりません。不純異性行為はいけないという,戒めだけでは難しいようです。それは食べるに良く、美しくさえ見えるからです。
 エバはただ神の戒めを守ることが,人として完成する条件でした。しかし守るか守らないかは、彼女の自由に任されていたのです。
 エバを「善悪を知る木」で象徴した意味がここにあります。エバの本来の相対者はアダムです。成人すれば善なる本然の相対者と夫婦になって、神の祝福を受けたのでした。しかしこの期間は,本来の相対者ではない非原理的な相対者と結びつく危険性があったのです。もしそうなれば、エバは悪を知る木になるのです。
 エバの思春期は善悪の中間にある危うい期間でもあったのです。エバは善を知ることも、悪を知ることもできる「善悪を知る木」として、多感な思春期を通過するのです。
 愛する娘を見守る父親は、娘に悪い虫がつかないかと心配して小言を言い、門限をきめて夜の外出を禁じたりするのです。 神もきっとそんな思いをされたのです。それで「食べたら死ぬ」という戒めを与えたのですが、それ以上の干渉はなさらないのです。それがエバの責任分担だからです。エバは自由意思によって責任を全うして,母となるべく完成しなければなりませんでした。
 アダムはどうしていたのでしょうか。男のほうが性的にはおくてのようです。アダムは野原を駆けまわって鳥や獣を相手に,一日中遊んでいたことでしょう。男と女は陽と陰ですから、性格が反対なのです。男は外で走りまわり,女はじっと座って何かをしているのが好きなのです。エバはきっと寂しかったに違いありません。
 ルーシェルは知の天使長です。またエバの家庭教師のような存在です。エバは未熟な少女ですが、天使長は知的に完成した大人です。その彼が言い寄ってきたとき、エバは全く無関心でいられたでしょうか。
 エバは神の戒めを忘れたわけではありません。ですからルーシェルの誘惑にすぐさま引かれるはずはありません。しかしきっと彼女の心は揺らいだのです。愛の力はとても強いからです。知的な天使長の愛のささやきに,彼女が引かれる気配を全く見せなかったとは言えないのです。
 天使は霊的な存在であって、人間と天使がそんな関係になるはずがない、と考えるのは現代人の見方です。これはアダムとエバと天使だけの,エデンの園の話なのです。
 聖書によれば天使は人間と同じ姿に見え、人間と同じように食事もし、ソドムとゴモラの人々の欲望の対象にもなるのです。ヤコブのもものつがいを外す力もあるのです。それは霊界と地上界が、まだ分立していない時だったのです。

 天使の反逆

 あなたはさきに心のうちに言った、
 「わたしは天にのぼり、
 わたしの王座を高く神の星の上におき、
 北の果てなる集会の山に座し、
 雲のいただきにのぼり、
 いと高き者のようになろう」
 しかしあなたは陰府に落とされ、
 穴の奥底に入れられる。(イザヤ14:13)

 神の僕である天使長が、どうして神に反逆するようになったのでしょうか。その動機がイザヤ書にあります。天使長は「いと高き者のようになろう」と思ったのです。いと高き者とは、神に最も愛されるアダムのことです。天使長はアダムのようになりたい、という過ぎた欲望を抱いたのです。
 神の創造の手足となって働いてきたのが、天使の軍団です。その天使軍団の頂点に立つのが,天使長ルーシェルです。神が一国の王なら,彼は宰相であり、神が創業社長なら彼は右腕の専務です。天使長は神と苦労を共にして、精誠をつくして万物を創造してきたのです。海の魚,空の鳥が生まれました。さまざまな試行錯誤も重ねたことでしょう。恐竜はあまりに大きすぎました。美しいもの、すばやいもの,力強い生き物が生まれました。こうして神の形としての,人が生まれたのです。
 神と天使たちは,万物を創造するたびに歓声をあげました。天使長はその先頭に立っていたのです。

 かの時には明けの星は相共に歌い、
 神の子たちはみな喜び呼ばわった。(ヨブ記38:7)

 「ヨブよ、おまえはその時どこにいたのか」と神は語っています。神の創造は次第に素晴らしくなり、ついには自分と同じ姿のアダムが誕生したとき、天使長の心情は複雑だったのです。創造に手をかしたものが、自分よりも素晴らしくなり,自分よりも上になったとしたどうでしょうか。自分の立場がなくなるほど、人間を不安にするものはありません。他人に重要な者と認められることが人間の願いです。さらにいえば他人の上に立ちたい、他人を蹴落としてでも権力を握りたい、これが人間の欲望です。人間を動かすものは自己の重要感であり、自己の重要感の喪失ほど人間を落胆させ,苦しめるものはないのです。嫉妬,ねたみが争いの根であり、人間社会の歪みの元になるのです。天使長にもその知恵と、欲望が与えられていました。
 アダムとエバが誕生した時、神の喜びは最高でした。親として,初めてわが子が生まれたのです。神のエネルギーの結晶が誕生したのです。天使長も神と共に喜びました。しかし彼の心に,アダムのようになりたいという欲望が芽生えたのもこの時です。
 天使長は神の愛を一身に受ける立場でした。しかし自分よりもあとに生まれたアダムが,自分よりも多くの神の愛を受けるとき、自分に対する神の愛が少なくなったように感じたのです。比較することによって愛が失われたような,愛の減少感を覚えたのです。神の愛を受ける第一人者だった天使長のプライドが傷ついたのです。自己の重要感の喪失です。嫉妬心それ自体は,悪ではありません。それをバネにして向上することもできます。しかし天使長は、アダムの上に立ちたいという邪悪な欲望を抱いたのです。
 アダムは神の息子であり、肉身を得た神でもあり、エバはその相対者です。天使長はアダムとエバを保護し,教育し、彼らが成長して完成したら僕として仕えるべき立場です。これが創造の秩序です。しかし天使長は,神の創造の秩序に反する野望を抱いたのです。
 天使長は男性格です。男性が男性を誘惑することはできません。そこでルーシェルは蛇のように、女に忍び寄ったのです。女を通して,アダムを支配しようと思ったのです。
 エバも初めは天使長の誘惑にのらなかったのです。しかし彼は執拗でした。次第に僕としての立場を忘れ,教育係としての立場を忘れ、エバに夢中になったのです。神に反逆する罪は承知していました。しかし天使長には責任分担が与えられていないのです。それはエバの責任でした。
 エバは次第に天使長の誘惑に、引かれる気配を見せたのです。その時ルーシェルは、女の美しさに改めて目をみはりました。女性の美しさにまさる、どんな生き物もありません。神の最高の芸術作品が,女性の肉体です。そのエバが自分に引かれる気配を見せたとき、ルーシェルはわれを忘れ,血気にはやり、エイと一線を越えてしまったのです。天使長が神に反逆した瞬間、彼の霊は赤ぐろく燃えて渦巻く情念に焼かれ、彼の霊と合体した女の霊には、そのルーシェルの情念がそのまま焼き付けられたのです。

 誘惑する女

 その実を取って食べ,また共にいた夫にも与えたので,彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。(3:6)

 失楽園の物語はおとぎ話でも寓話でもありません。天使長がエバを誘惑したことは小説的な想像ではなく、古来からのユダヤの文書に書き残されているのです。また「ユダの手紙」の6節には,次のような聖句があります。
 「主は,自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを,大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も,同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け,人々の見せしめにされている」
 御使、つまり天使が僕の立場を捨てて、淫行にふけったというのです。淫行には相手が必要です。天使が男性格なら相手は女です。霊的な天使と女が、性的な関係を結べるのでしょうか。天使は霊的な存在であっても、肉体があるのと同じ肉感があるのです。
 怪談・牡丹灯篭ではありませんが、この世でも事故で死んだ夫が夜毎、妻と性的な関係を結ぶということがあるのです。スエーデンボルグは、霊界の霊人も結婚することを報告しています。霊界の夫婦は男女の霊が一つになって見えるそうです。霊的に合体するのです。
 天使長は僕の立場を捨て,非原理的な欲望からエバを誘惑し、エバは神の戒めを越えて、食べたら死ぬと言われたものを食べてしまったのです。ここにへびと女との間に、霊的な不倫の関係が結ばれたのです。へびと女の霊が合体した瞬間、エバはそのすべての心情を相続したのです。
 ルーシェルは知の天使長です。エバは天使長と結ばれた時に、目が開けたのです。自分がどんな罪を犯したかを,悟ったのです。「取って食べるな」と言われた神の戒めの意味が分かったのです。自分の夫がアダムであることを知り,神に反逆したルーシェルの恐怖心を、エバも覚えたのです。女として完成する神の創造目的に背き、自分の行くべき道を外れたという良心の呵責に責められました。その恐怖心から逃れ、エバはもう一度神に帰りたいと願ったのです。神に帰るには、アダムを通して帰る道しかありません。
 アダムこそがエバの唯一の希望でした。ルーシェルがエバに見入ったように、エバは天使長と同じ立場と心情で、アダムに近寄ったのです。神の愛を一身に受けるアダムは、エバの目にとても美しく見えました。
 エバはルーシェルから教えられたように、アダムの手を取って誘惑しました。それで,彼も食べたのです。どうしてアダムは簡単に,神の戒めを破ってしまったのでしょうか。アダムは性的におくてで、ぼんやりしていたのです。「食べる」という意味がよく分からなかったのです。それに愛の吸引力は強烈でした。それは美しく,食べるに良く、毒のようには見えなかったのです。もしもアダムがエバの誘惑を退けていたら、彼らはエデンの園を追われはしなかったでしょう。
 アダムとエバは神に許されない、不倫なる肉体関係を結んでしまったのです。神に「祝福」される以前の、早すぎた関係です。彼らはそこが罪を犯したことを知って、いちぢくの葉で覆いました。恥ずかしいという、罪の意識の現れです。いちぢくは無花果と書きます。花もなしに実がなるのです。

 あなたはどこにいるのか

 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので,恐れて身を隠したのです」神は言われた、「あなたが裸であることを、だれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」(3:9)

 神が歩まれるとき,人とその妻とは神の顔を避けて、園の木の間に身を隠したのです。その時、神の雷が落ちました。
 「あなたはどこにいるのか」
 神の問いかけは、現代の私たちの胸にもつき刺さります。人間はエデンの園を遠く離れて神に背を向け,地上は楽園ならぬ地獄になってしまったのです。その出発点が,この瞬間だったのです。
 アダムとエバが成人して「祝福」を受けて夫婦になれば、へびの誘惑に負けることは決してなかったのです。完成した者が堕落したら、神の創造が完全ではなかったことになります。であれば絶対的で、完全な神様ではなくなってしまいます。
 アダムとエバが堕落した瞬間から、神の創造理想はエデンの園で実現する道が閉ざされたのです。神の怒りと落胆が、どれほど大きかったことでしょうか。
 堕落する以前のアダムは,神と会話をしていました。しかし「創世記」を読み進むうちに,神と人間の会話は次第に少なくなるのです。中心人物にときどき一方的な神の啓示、あるいは命令が下るのですが、それはもう会話ではありません。また神の命令は謎めいて不可解なことが多く,人間は神から遠ざかってゆくように見えます。
 「創世記」につづく「出エジプト記」を読みますと、神の選民とされるイスラエル民族はモーセに導かれ、乳と蜜の流れるカナンの地を目指すのですが、目の前に困難が襲えばすぐに神を不信して、奴隷であったエジプトに帰ろうと叫ぶのです。彼らはカナンとエジプトの間をさまよい、40年間も荒野で暮らすのです。カナンは神の地であり、エジプトはサタンの地です。
 私たちはどこにいるのでしょうか。カナンにいるのでしょうか。それともカナンとエジプトの間の荒野でしょうか。あるいはエジプトの奴隷のままでしょうか。神の存在すらも忘れ、神はいないと言う人も多いのです。人間は再び、エデンの園の出発点に帰る必要があるのです。

 堕落人間の本性

 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」そこで主なる神は言われた、「あなたは、なんということをしたのです」女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」(3:12)

 アダムに対する神の詰問は、「裸であることをだれが知らせたのか、取って食べたのか」でした。裸と食べるということが,結びついているのです。これをみても善悪を知る木の実が、果物の実ではないことは明らかです。神が祝福される以前に、彼らが肉体関係を結んだことに対する神の怒りだったのです。しかし早すぎるというだけでは,血統的な罪とはならないはずです。彼らが人として完成する条件を失えば、万物と同じになるとしても、万物以下にはならないはずです。誰がそれを教えたか、それが問題です。そこから邪悪な血統が侵入したのです。
 「あの女が木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」 エバが悪いのであって、わたしの責任ではありません、これがアダムの答えです。自己を正当化して、女に責任を転嫁しているのです。逆にいえば、アダムは主体の立場を放棄してしまったのです。エバを主管すべき自分が、エバに主管される立場に立ったのです。
 神は女に詰問されました、「あなたはなんということをしたのか」
 「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」エバはへびのせいにして、アダムのように自己を正当化し、責任を転嫁したのです。エバは罪を夫に移して悔い改めようとはしません。女もまた,へびに主管される立場に立ったのです。
 神はへびに言われました。
 「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」(3:14)
 野の蛇こそ哀れです。神の怒りは、天使長ルーシェルに向けられ、神はその名を呼ぶことさえ良しとされなかったのです。人間以外の生き物は、すべて万物です。天使は人に仕える僕であり万物ですが、家畜や獣より上に立つ存在です。しかしルーシェルは、万物のうちで最も呪われるものになったのです。一生ちりを食べ、腹で這いあるくとは、天界から追われて、地上に落ちるということです。
 アダムはエバに主管され、エバは天使長に主管されました。神の創造の秩序が逆転したのです。神の息子・娘が僕の天使長に奪われ,人は堕落して万物以下になったのです。
 人間の本性は善か悪か、性善説と性悪説があります。性善説に立つ教えでは,人間は神の子であって、人間は本来が素晴らしいのです。あなたは素晴らしい、あなたが願うことは実現するのです、とこのように教えます。いわば肯定的な宗教,思想ですが、現実には悪がはびこり、世の中は自分の思うようにはいきません。
 また一方では、人間の本性は悪とする宗教や教えがあります。悔い改め,身を清め、苦行しなければならないとする否定的な宗教です。インドには何年も奇妙な苦行をする修道者がいます。また仏教やキリスト教でも、山にこもり、あるいは修道院に入って修行するのです。人間は堕落しているという認識です。キリスト教では原罪を負ったといい、仏教では魔が入ったと言うのです。しかし原罪の原因と、サタンがサタンになった動機と経路が判然としません。病気も原因が分からなければ,治療が難しいのです。
 人間の本質はエゴイストです。常にまず自分を中心に考えるのです。博愛とか,奉仕とか、平等という概念は学習によって学ぶのであって、子供は自分中心です。そう考えれば、性悪説が正しいようにも思えます。
 人を創造された神はどうでしょうか。その創造の動機は人を愛するためであったのです。親は少なくとも自分の子供に対しては、自分中心ではなく子供中心に考えるのです。神もわが子を中心に考えられるのです。そして人はすべて、神の子であるはずです。人間は神を親とする兄弟姉妹です。神に似た者として創造されたなら、人間はお互いに為に生きるべきです。それが結局は自分の幸福であり、自分の為であるのです。
 霊界が想念の世界であるなら、物を奪いあう必要は全くないわけですから、お互いに愛し合い、為に生きるのがむしろ当然で普通のことです。ところが地獄というところは、そうではないらしいのです。なぜでしょうか。地上で自分中心の生活をしてきたからです。地上を支配しているのは、神に反逆したサタンだからです。
 人間は天使長が神に反逆した,その性質を受け継いでいるのです。天使長は神に反逆して一瞬の血気からエバを抱き、エバは天使長と霊的に一体になったのです。その瞬間の天使長の心情をエバは相続して、それが霊的な血統として今日にまで、人間の堕落性の本性として受け継がれてきたのです。ですから、ルーシェルが神に反逆したその瞬間の心情を分析してみれば、人間の堕落性本姓が分かるのです。
 天使長は神の僕であり、アダムとエバの教育係ですから神と同じ親のような立場です。ところがルーシェルは神と同じ立場に立って、人を愛することができなかったのです。自分を中心に考えて愛の減少感を覚え,嫉妬してアダムの位置に立ちたいという欲望を抱いたのです。人間がエゴイストであり,常に自己中心であるのは、この天使長の心情を受け継いだからです。ねたみ、嫉妬、ひがみは、自己中心の思いからくるのです。ルーシェルは自己の位置を離れ,血気にはやって一線を越え,エバを抱いたのです。血気、怒気も堕落性であり、イエス様が言うように、情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫の罪を犯しているのです。
 天使長はエバを奪いアダムを主管して、天の創造の秩序が転倒したのです。人間は常に支配されることを嫌い、傲慢になり、敵意を持ち、反逆の思いを抱くのです。人間は平和を願いながら、いつも争って戦争をしてきました。主管性の転倒が、サタンから受け継いだ堕落性なのです。
 天使長は言葉巧みにエバに言い寄り、エバはアダムを堕落させました。人間は常に自己を正当化して、責任を他者に転嫁するのです。人間は人を誉めるより、人の悪口が好きなのです。人間は善よりも、悪に染まりやすい性質を持っています。
 自分の心のうちをのぞいて見れば、天使長の堕落性がいっぱい詰まっているのです。しかし人間は心の奥では善を求め,神に向かうのです。それが人間の良心です。良心の主体は神です。神は人間の良心を中心に,宗教を立てられました。宗教では断食をしたり,水行をしたり,滝に打たれたり,荒行をして身を清めます。肉欲を絶つことによって、霊性を大きくして強めるためです。サタンは肉体に侵入したので,肉欲を断ち切る努力をするのです。また神や仏に祈ることも,心のうちのサタンを分立して堕落性を脱ぐためなのです。

 恨みの神,嘆きの神

 わたしは恨みをおく、
 おまえと女とのあいだに、
 おまえのすえと女のすえとの間に。
 彼はおまえのかしらを砕き、
 おまえは彼のかかとを砕くであろう。(3:15)

 「わたしは恨みをおく」という神の嘆きは戦慄的でさえあります。おまえとは、へびのことです。つまり天使長に言われたのです。愛の神が恨みの神、嘆きの神になってしまったのです。息子・娘を天使長に奪われた神の衝撃が、どれほど大きかったことでしょうか。神の妻ともなるべきエバが,僕の女になってしまったのです。
 神は全知全能の絶対者であったとしても,息子・娘が罪を犯してサタンに奪われ,悲惨な姿になって嘆き悲しむなら,親としての神もまた痛み悲しみ、嘆息されるのです。神は息子・娘を取り戻そうと苦悶され,地上が暴虐に満ちたノアの時代には,万物と人間を創造したことを悔いるとまで言われたのです。
 へびと女のすえ、とは何の意味でしょうか。すえとは子孫のことです。天使は霊的な存在ですから、へびと女との間に子は生まれないはずです。しかしイエス様はイスラエルの人々に、こう言っています。
 「へびよまむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」(マタイ23:33)また、こうも言われました。
 「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりに行おうと思っている」(ヨハネ8:44)
 イエス様は選民と自負するイスラエルの人々に向かって、サタンの子だと叱責しているのです。とすれば、へびと女のすえとは、私たち人間のことです。人類はサタンの血統を受けて地上に生み広がったのです。
 ルーシェルとエバが霊的な性関係を結んで、へびと女は霊的に合体したのです。この時エバは,神に反逆してサタンとなった天使長の,悪の血統を相続したのです。そしてエバとアダムが肉的な性関係を結んで、ふたりは霊肉共に一体になったのです。そしてカインが生まれました。カインは神の孫であると同時に、サタンの霊的血統を受け継いでいるのです。こうして人類はカインの末裔として,世界に生み広がったのです。
 人間は神の子であると同時に、サタンの子になったのです。人間は神とサタンの中間に位置しているのです。神とサタンは人類歴史を通じて闘ってきました。その戦場は人間の心です。神はサタンのすえを恨んでも,これを捨て去ることができません。それではサタンに負ける神、また親の責任を放棄する無能の神になってしまいます。
 「彼はおまえのかしらを砕き」という彼とは、誰のことでしょうか。
 神は人間を復帰すべき責任があります。しかし神には手足がありません。神は霊的主体として、人間の霊性に作用するしかありません。霊性を失った人間は、神との因縁が切れた,神と無縁の存在です。そんな人間を復帰するためには,神と霊的に一体になった肉体を持った人を、救い主とし地上に送らなければなりません。それがメシヤです。ギリシャ語ではキリストです。ですからイエス・キリストは、肉体を持って地上に生まれなければならなかたのです。彼とは、神が立てるメシヤのことです。
 神は地上にメシヤを送るために摂理され、中心人物を立てられたのです。それが「創世記」の中心人物、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブです。神はイスラエル民族をモーセによってエジプトから救いだされ、選民として立て、そこにイエスを送られたのです。

 この世の神,この世の君

 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。(ヨハネ12:31)

 新約聖書は、サタンとイエスの闘いの記録です。イエスは祭司や律法学者、パリサイ人と闘い、またユダの裏切りにあって十字架につけられたのですが、彼らの背後にはサタンがいるのです。サタンはまた悪霊として,人間の霊に入るのです。
 キリスト教では,神に対抗する悪神がサタンです。仏教では魔といい、またいずれの宗教にも悪神の存在があります。もしも悪神が天地創造の以前から存在したとすれば、神は唯一なる創造神ではなくなります。またサタンも消滅させることもできません。
 天使長ルーシェルは神に反逆してサタンとなり,地に投げ落とされてこの世の君,この世の神となったのです。神がおられる天上世界と、サタンが主管する地上世界が、切り離されてしまったのです。かくして地上の物質世界は奪いあう闘争世界になったのです。
 神は第二のアダムとして,独り子イエスを地上に送られました。彼はサタンのかしらを砕き,サタンは彼のかかとを砕いたのです。イエスは十字架にかけられ,肉体はサタンに渡したのですが,霊的に復活して,霊的にのみサタンに勝利しました。しかし地上世界は依然として,サタンが支配しているのです。奪いあい、争いあう戦争の歴史でした。
 「創世記」の神は時にひどく残酷で、非情の神のように見えます。それは地上のすべてがサタンの血に汚れているからです。血統の罪を断絶するには、サタンの一滴の血も残してはならないのです。ですからノアの時のように人も獣も滅ぼそうとされたのであり、サタン世界の物をことごとく捨てよと命じられるのです。
 神はつぎに女に言われました。
 「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(3:16)
 ユダヤ社会では女性は男性以下の存在とされ,東洋でも女性は男性に仕えるものとされてきました。男尊女卑の風習は東西を通じて、近代にまで残っていたのです。女性は産みの苦しみと共に男性に仕え,苦労してきました。女性解放運動は最近のことです。それは神の創造目的にかなった運動でなければなりません。男性と女性は人間としての権利は同等でも、その使命が異なっているのです。
 神は更に人に言われました。
 「あなたは顔に汗してパンを食べついには土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(3:19)
 取って食べたらその日に死ぬ、と神は言われたのですが、アダムが死んだのは肉体ではなく,神が吹きこまれた霊です。人としての条件を失って、動物と同様の魂になったのです。そしてサタンに主管されて、万物以下に落ちたのです。
 人が霊性を失えば,食べるために働いて肉欲を満たすだけの生活になってしまいます。食べるための労働は,苦しみでしかありません。しかし地上生活は本来,知,情,意の人格を成長させ,完成する貴重な時です。肉体があるということはある意味では不便ですが,肉体がなければできないことがあるのです。また互いの為に働けば,労働も喜びになるのです。

 エデンの東

 神は人を追い出し,エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて,命の木の道を守らせられた。(3:24)

 アダムとエバの堕落行為が原罪の原因となって、人類歴史は地上地獄の歴史となったのです。原罪が血統的罪として,連綿として人類の血に受け継がれ、人間は今日まで苦しんできたのです。であれば神は、なぜアダムとエバの堕落行為を止められなかったのか、これが大きな疑問です。それでは全知全能でも絶対者でもなく,無能の神、何もできない神ではないか、という疑問が残るのです。神は絶対者であり,神が立てられた原理原則も,絶対的であるがゆえに、神は人の堕落行為を止めることができなかったのです。
 神はアダムとエバが成人するまでの期間は、天使長にその教育を任せ,間接的に主管されるのが原則でした。完全な神と,未完成なアダムとエバが相対基準を結んで授受作用することはできないからです。神は戒めだけを与えて直接には干渉されないのが間接主管圏です。この期間は「取って食べない」という神の戒めを守るのが、アダムとエバの責任分担であったのです。彼らが神に似た創造主として,万物の主管主となるために神が付与した責任分担であったのです。それは彼らの自由に任せられていました。
 間接主管圏にあるうちは干渉せず、これが創造の原則です。神が原理原則の神,絶対者であるなら、神はその原理を破ることはできないのです。
 神がアダムとエバの責任分担に干渉するなら、つまり彼らの自由を取り上げるなら、それは人が万物の主管主になる資格を取り上げることになるのです。人が万物と同じ位置に立つのです。それでは人の霊を通じて天界と万物が和動し、天宙が和動するという創造原理が崩れてしまうのです。それゆえ、神はアダムとエバの堕落行為を知ってはいても、それを止めることができなかったのです。
 では神は天使長の堕落行為を、なぜ止められなかったのか。天使長は神の僕です。僕は神に絶対的に服従すべき存在です。それが原則です。ところが神が天使長の行為に干渉するなら、天使長は僕の立場から神に対抗するもうひとつの神,サタンという悪神を原理的な存在として認定する一つの原則を立てることになるのです。
 天使長は一時は道を誤っても、いつか戻るべき存在です。しかし彼の行為に干渉するなら、それは創造の価値を付与された新しい原理として,サタンも永遠性をもつのです。天使長に戻る道がないのです。ですから神は天使長の行為に,干渉なさることができなかったのです。
 「見よ,人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」
 こうして神は人とその妻とのために皮の着物を造って彼らに着せ,エデンの園から追放したのです。エデンの園は神が理想とする地上の楽園です。ところが地上の神となったサタンの下で永遠に生きるなら、人間が神に帰る道が閉ざされてしまいます。そこで神は命の木への道を、ケルビムと、回る炎のつるぎとで守らせられたのです。
 エデンの東とは,罪悪の世界、苦海の世界です。堕落した人間は、東へ東へと生み広がるのです。皮の着物を造って着せるとは、神が彼らの肉体を保護するためだったのか、それとも人間が動物と同じになったという意味でしょうか。
 神は人をエデンの東に追放されましたが、彼らを見捨てたのではありません。神は人を愛するために創造した真の親です。親はわが子を見失えば、必死に探すのです。愛なる神はアダムの家庭から、ただちに復帰の摂理を始められたのです。

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