謎とき『創世記』

第四章 カインとアベル


 羊飼いと農夫

 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「私は主によって、ひとりの人を得た」彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カイン大いに憤って、顔を伏せた。(4:1)

 第四章は、カインとアベルのお話です。アダムとエバはもはや舞台から姿を消してしまいました。兄カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となるのです。カインとアベルの二人だけの兄弟だったのでしょうか。アダムは912歳で死んだのです。アベルの身代わりにのセツを生んでから八百年生きたとありますから、セツを生んだときは120歳です。ですからカインとアベルの間に、兄弟姉妹がいたのかも知れませんが、ここではカインとアベルの兄弟が、摂理の上で重要な人物だったのです。
 日がたって、とありますからカインとアベルがかなり成長してからでしょう。神は二人に供え物を命じました。カインは地の産物を供え、アベルは羊のういごの肥えたものを供え物としました。ところがどういうわけか、神はアベルの供え物は受け取ったのですが、カインの供え物は受け取らなかったのです。カインは心の中で憤って、顔を伏せました。兄のおれを無視して、なんで弟の供え物だけを受け取るのだ。神よ、弟だけを愛してなぜ兄のおれを嫌うのか。それはあまりに不公平ではないか!
 カインの怒りはもっともです。どうして弟アベルの供え物だけを受け取って、カインの供え物は無視したのか、神の態度は不可解というべきです。弟を愛し、兄を憎むのか、神はえこひいきする神でしょうか。イエス様は「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる」(マタイ5:4)と語っています。「創世記」の神は、愛の神ではないのでしょうか。失楽園の物語をどう解釈すべきか、聖書物語の作者たちを悩ませるのです。ですから作者の多くが、信仰の祖とされるアブラハムから始めるのです。しかし「創世記」の謎を解く鍵はすべて、カインとアベルの短い話にあるのです。
 カインとアベルの争いは、農耕民族と遊牧民族の争い、と解釈する人もいます。農耕民族は土地に定着します。遊牧民族は移動して土地に定着しません。当然、土地をめぐる争いが起きるのです。しかしカインとアベルは二人きりの兄弟であって、カイン族やアベル族ではありません。また土地を耕すカインより、羊を飼うアベルを愛する神は、遊牧民族を愛するのかというと、そんなことはありません。ヤコブとエサウの双子の兄弟が、母リベカの胎内にいるときから神は弟を愛し、兄を憎んだのです。「兄は弟に仕えるであろう」(25:23)と神は、母リベカに告げています。兄エサウは狩猟者であり、弟ヤコブは豆などを煮て天幕に住む人でした。
 「創世記」を通して、神は弟を愛し、兄を憎むのです。カインとアベルだけではなく、イシマエルとイサク、ヤコブとエサウもそうです。ヤコブはヨセフの子、つまり孫のマナセとエフライムを祝福するとき、手を交差して弟エフライムを祝福するのです。
 のちにイスラエル民族が出エジプトをする時、神はエジプトの初子という初子をことごとく撃ったのです。また契約の箱をかつぐ民は、次子のレビ人でした。
 カインとアベルは共に供え物を捧げたのですが、その態度に問題があった、と考える人もいます。カインは単に地の産物を供えたのですが、アベルはういごと肥えたものを供えたとあります。つまり一番良い物を供えたので、神はアベルの供え物を顧みられたというわけです。ではカインはいい加減に供えたのでしょうか。そうかも知れません。でもそうなら、神が顧みられないとしても、そんなに憤ることはないはずです。
 憤って顔を伏せるとは、あまりの屈辱と怒りに顔色が変わって、唇をかんでうつむいたのです。カインの憤りは、神の不公平に対する怒りです。カインには神がなぜ自分の供え物を顧みないのか、その理由が分からないのです。神の不条理に対する怒りです。もしもカインの態度が悪いという理由だけで、神がカインの供え物を顧みなかったとしたら、神は単なる意地悪じいさんです。孫が供え物をくれたのです。態度が悪ければ、たしなめて受け取るのがお祖父さんというものです。
 アダムの家庭に、恐ろしい事件がおきました。兄の弟殺しです。その動機が何でしょうか。神が兄の供え物を顧みなかったからです。とすればカインの動機には、神にも責任があるのです。そもそも供え物には、どのような意味があるのでしょうか。

 慕い求める罪

 そこで主はカインに言われた、「あなたはなぜ憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。(4:6)

 カインの正しい事とは、どういうことでしょうか。農産物の一番良いものを供えるのがカインの正しい事でしょうか。どうもそんな単純な事ではなさそうです。それならカインは出直してくればよいのです。しかしカインはカインなりに、良いものを供えたつもりだったのに、神がそれを顧みられなかったので、カインは憤ったのです。何が正しい事か、カインには分からなかったのです。
 正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せているという罪とは、弟殺しの罪のことでしょうか。しかしそれでは慕い求めるという意味がわかりません。事件が慕い求めるというのは、奇妙な表現です。慕い求めるものとは、愛する者のことです。カインを愛する者が、門口で待っている。カインよ、それはあなたを慕い求める者だが、その者は罪を犯す者だ。だからカインよ、あなたをそれを治めなければならない。その者の思いどおりになってはならない。カインよ、罪を犯す者を諌めて正しい方向に導くのです。そう神は言いたかったのではないでしょうか。
 では、罪を犯す者とは誰のことでしょうか。アダムとエバでしょうか。しかし彼らはカインとアベルの親です。カインだけを愛することはないのです。カインを最も愛する者とは、カインの霊的血統の父である天使長の他にはありません。
 天使長とエバは霊的な血縁関係を結ぶことによって、エバは天使長の霊的な血統を相続しました。そしてアダムとエバが肉的な血縁関係を結ぶことによって、アダムも天使長の霊的血統を相続したのです。つまりアダムは神と天使長の両方と血縁関係を結ぶ者となったのです。アダムはその妻エバを知って、カインを産みました。長子カインの血には、天使長の悪の霊的血統が色こく流れているのです。カインは神の孫でもあり、それ以上に天使長の息子でもあったのです。
 ルーシェルは門口で、じっと愛するカインの姿を見つめていたのです。しかしカインはその事を知りません。エバの罪には、カインに責任はないのです。神はカインと、その供え物とを顧みなかったのであって、顧みなかったのは供え物だけではないのです。カインそのものを、神は顧みなかったのです。弟を顧みて、兄は取らないのです。ここに神は、はっきりと兄と弟を差別したのです。兄は天使長のものであり、弟は神のものという区別をしたのです。兄カインは悪の表示体として、弟アベルは善の表示体として神に立てられたのです。
 カインの供え物はサタンのものであり、神はカインの供え物を受け取ることができないのです。供え物を捧げることは、神のものとサタンのものを分立する、ひとつの儀式であったのです。ではなぜ兄が悪の表示体にされ、弟が善の表示体にされたのでしょうか。またカインの正しい事とは、どんな事だったのでしょうか。
 「創世記」は善の立場の弟が、悪の立場の兄を力でねじ伏せるのではなく、愛と万物をもって自然に屈服させる物語なのです。エサウはヤコブと抱きあって和解し、ヤコブの息子の兄たちは、弟ヨセフに頭を下げて屈服するのです。

 アダム家庭における神の摂理

 神はアダムとエバの堕落行為を、止めることはされませんでした。その理由はすでに述べたとおりです。しかしそのまま放置するなら、親の責任を放棄する無能の神になってしまいます。愛するために人を創造された神が、愛の神ではなくなってしまいます。
 神はアダムの家庭から、ただちに復帰の摂理を開始されたのです。しかし堕落の本人であるアダムが供え物をしたとは書いてありません。アダムは舞台から消えて、摂理は息子のアベルとカインに移されたのです。なぜアダムは、摂理の中心人物ではなくなったのでしょうか。
 アダム神の息子ではありましたが、エバを通して天使長と霊的血縁関係を結んだのです。二人の主人を持つ不純なアダムと、相対関係を結ぶことはできません。またアダムは神に嘆きと悲しみを与えた、罪の張本人です。ですから神はアダムに代えて、アベルを立てて復帰の摂理を始められたのです。
 ではどうして兄が悪の側で、弟が善の側なのでしょうか。その理由を知るためには、エバの堕落の経路をたどってみる必要があります。堕落はまずエバと天使長の間に起こりました。それが霊的な堕落です。その動機は、天使長が愛の減少感からアダムに嫉妬して、アダムの位置に立ちたいという過分な欲望からエバを奪ったのです。その堕落の実が、長子カインであったのです。ですからカインは、より血縁的にサタンに近いのです。
 また長子は本来が家督を継ぐものであって、それだけにサタンの未練が大きいのです。ですからサタンは長子を奪ったのです。それで神は次子を神の側として立てるのです。
 アベルもエバの堕落の実には違いありません。しかしその動機には許されるものがあったのです。エバは神の前に戻りたいという動機から、本来の相対であるアダムに近寄ったのでした。ただその時が、未だ時に至っていなかったのです。
 長子カインには、天使長が神に反逆した瞬間の邪悪な心情が、霊的血統となって受け継がれたのです。懐妊する瞬間の心情、妊娠中の心情が、子供の性質に影響することは医学的にも知られています。血統は肉体的に遺伝すると同時に、内的な性格、性質も遺伝するのです。これが霊的血統です。日がたつにつれ、また子女が生まれるにつれ、その血統が少しづつ薄れていって、初めて神が相対できる子女、すなわちアベルが生まれたのです。
 そこで神は本来が善であったものに悪の血統が混入して、善悪二人の主人を持ったアダムを、善と悪とに分立される摂理をされたのです。それが善の表示体としての弟アベルと、悪の表示体としての兄カインであったのです。
 では供え物を捧げるという、その物にはどういう意味があるのでしょうか。カインは地の産物を、アベルは羊のういごを捧げました。ノアは箱舟を造り、アブラハムは鳩と羊と牛を裂いて捧げるのです。イエスの時代には鳩や羊の血を流して聖別して、これを神に捧げる習慣が残っていました。旧約時代は万物を、神に捧げる時代だったのです。それは人間が堕落して、神のみ言が通じなくなったからです。
 また堕落によって、神の創造の秩序が逆転しました。神ーアダムーエバー天使長ー万物、という創造の秩序が、神ー万物ー天使長ーエバーアダムと、主管性が転倒したのです。人は堕落して、万物以下に落ちたのです。アダムは堕落しても悪はまだ潜在的であったのですが、カインは弟アベルを殺し、ノアの時代には地上は暴虐に満ちていたのです。人間は最悪の生き物になったのです。
 人間が神に復帰するためには、万物以下になったのですから万物を先に立て、まず万物を神に捧げるのです。神がそれを受け取るなら、万物を捧げた人も神の側に立つのです。アベルは精誠をつくして、肥えた羊のういごを神に捧げたので、神の側に立つのです。
 カインは悪の表示体であり、サタンのものですから、カインの供え物を神は受け取らないのです。ではカインはどうすべきだったのでしょうか。カインはその供え物をアベルに託して、アベルを実体の供え物として先に立て、カインはアベルに従ってゆかなければならなかったのです。つまり悪も善に従順に屈服すれば、善に帰ることができるのです。アダムは善悪の母体です。神はその善と悪を、アベルとカインに分立したのです。善の表示体としてのアベルに、悪の表示体としてのカインが従順に従って神に帰るなら、その善悪の母体であるアダムとエバも、神に帰ることができたのです。このようになればアダムとエバの堕落の罪は贖われ、アダム家庭は神に復帰したのです。そして天使長も、元の位置に戻ったことでしょう。
 アダムの家庭が神に復帰できるかどうかは、カインの行為にかかっていたのです。しかし神は、カインの正しい事を、教えることができません。なぜならそれが、人間として与えられたカインの5%の責任分担だからです。神はカインの責任分担に干渉することができません。
 神の復帰の摂理は、神の95%の責任分担と、人間の責任分担の5%が合わさったときに成就するのです。人間がその5%の責任分担を、100%果たしたときに、神の復帰摂理は成就するのです。人間の運命は予め神によって予定されているのであって、人間の努力や信仰によるものではない、これがキリスト教の神学でいう予定論です。しかし予定論は、人間の責任分担を無視しているのです。
 神が人間を復帰される復帰摂理は絶対的です。しかし人間の責任分担に、神は干渉することができません。ですから神は人間がその責任分担を成就するかどうかは、予定することができないのです。神の復帰摂理は絶対的ですから、中心人物がその責任分担を果たせずに失敗すれば、神の摂理は次の中心人物に移行して、延長するのです。しかし無制限に延長するのではありません。神の創造は三段階原則によって成るのですから、復帰も三段階の原則によって成るのです。つまり神の摂理は、三度目には成就しなければならないという原則があるのです。この事を理解しておかないと「創世記」の謎は解けません。

 カインの正しい事

 カインがすべき正しい事を、さらに考えてみましょう。それはカインの末裔である私たちのすべき、正しい事でもあるのです。
 善悪の母体となったアダムを善と悪に分立したのがアベルとカインです。つまりアベルは堕落前のアダムの立場であり、カインは反逆した天使長の立場です。ですからカインのすべき正しい事とは、天使長が犯した罪を償うことです。何らかの償いの条件を立てない限り、罪はそのままでは許されません。
 目には目、歯には歯(出エジプト21:24)をもって償う、これが神の律法です。しかし常に同等のものをもって償うということはありません。神は慈悲の神です。最初はごく軽い償いで許されるのです。それが失敗すると、次には目には目という同等のものをもって償わなければなりません。それにも失敗すれば、さらに条件は重くなります。次なる中心人物は、前の中心人物の失敗も合わせて償うという、三段階に過重される法則があるのです。
 アダムとエバは完成期の7年間を取って食べないという、小さな条件で完成できたのす。それに失敗したとき、カインは天使長の罪と同じものを償うのです。天使長が神に反逆して罪を犯した動機と経路の反対の立場に立って、カインは罪がもたらす堕落性を脱ぐための、償いの条件を立てなければならなかったのです。
 天使長の堕落の動機は、まず第一に神と同じ立場でアダムとエバを愛せなかったことです。天使長は自己中心の思いから、アダムを愛するより嫉妬したのです。ですからその逆に、カインは神と同じ立場で、アベルを愛さなければなりません。しかしそれは人間にとって、とても困難なことです。人間の本質は自己中心で、エゴイストです。神や仏に御利益を求めるのも、自己中心の欲心からです。しかし高等宗教は、自己を否定せよと教えるのです。宗教の道は、自己否定の道です。
 次に天使長は、僕としての立場を離れて、一瞬の血気からエバを奪ったのです。カインはその逆に、アベルを先に立てて、アベルを仲立ちとして神に帰るのです
 第三に、天使長は天の秩序を乱して主管性を転倒させたのです。カインはその反対に、アベルに従順に屈服して、善の側のアベルに従ってゆかなければなりません。兄が弟にどうしたら従順に屈服するか、その典型路程が「創世記」の物語になっているのです。
 第四に、天使長は偽りの言葉でエバを誘惑し、エバはアダムを誘って悪に引き込みました。カインはその反対に、アベルから善のみ言を受け、善を伝播しなければなりません。
 しかし兄が弟に屈服しなければならない理由が、カインには分かりません。人間的な合理的精神からは、理解できない不条理なことです。神への絶対的な信仰が、カインに要求されるのです。カインよ、慕い求める罪を治めるのだよ、と神は願ったのです。しかしカインは憤りに顔を歪め、唇をかんで顔を伏せたのでした。

 カインの弟殺し

 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原に行こう」彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口を開けてあなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」(4:8)

 カインは弟アベルを殺したのです。神の受けた衝撃が、どれほど大きかったことでしょうか。神が負われた痛手と悲しみは深いのです。エデンの園で地上の天国生活をして、神の友となるはずのアダムの家庭が、殺人事件の舞台になったのです。天使長とエバの罪がカインの弟殺しとなって現れたのです。 カインの殺人の動機は、弟アベルだけが神に愛され、自分が無視されたという愛の減少感です。天使長がエバを奪った動機と同じ、自己の重要感の喪失です。天使長が血気にはやって一線を越えてしまったように、カインも一瞬の怒気と血気から、弟を打ち殺してしまったのです。
 カインは「わたしが弟の番人でしょうか」と白々しい言い訳をします。しかし「弟アベルの血の声が、土の中からわたしに叫んでいます」という悲痛な神の声に、カインはすぐに罪を白状してしまいます。
 「わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」カインはその罪の重さに気づき、急に弱気になって、神に追放された罰は重くて負いきれないと嘆くのです。地上の放浪者となって追われる身です。ところが神は、意外なことを言われました。
 「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」神は殺人者のカインを許して、その身が守られるようにカインに一つのしるしを付けられたのです。カインは神の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだとあります。
 カインを無視した神が、どうしてカインの罪を簡単に許して、その身を守られたのか。神の態度は不可解です。「命には命、目には目、歯に歯」の非情な神ではありません。慈悲の心にあふれた、仏のような神です。
 神はカインが憎いのではありません。カインは天使長の血統が濃厚であるとはいえ、神の孫でもあります。神の創造は、アダムとエバの誕生で終わるのではありません。アダムとエバが夫婦になって、愛の結晶が生まれたときに完成するのです。
 長子カインの誕生は本来、神の最高の喜びの瞬間であったのです。しかしそこにサタンの血が侵入したことが、神の永遠の恨となったのです。サタンの血統が残る限り、アダムの家庭は神に復帰されません。そこで神は善悪分立の摂理をされたのですが、神の願いも空しく、カインがサタンの子であることを実証する結果に終わったのです。
 サタンの血統を受け継ぐカインであっても、神の血統をひく孫でもありますから、神はカインを殺すことはできません。神はカインに一つのしるしを付けて、エデンの東に追放されました。エデンの東とは、人間の罪悪世界なのです。
 カインは妻をめとり、子孫を生みふやしました。人間は東へ東へと生み広がっていったのです。彼らの子孫は「琴や笛を執るすべての者の先祖」となり、また「青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者」になったのです。文明の始まりです。それは平和な楽園の生活ではなく、武器を取って戦いに明け暮れる日々だったのです。

 わたしは受ける傷のために、人を殺し、
 受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
 カインのための復讐が七倍ならば、
 メレクのための復讐は七十七倍。(4:23)
 
 カインの子孫のメレクは言うのです。人間社会が早くも闘争の世界になったのです。原始共同体は楽園のように見えますが、堕落人間の社会ですから必ず分裂して、闘争するようになるのです。こうして人類の歴史は、戦争の歴史になったのです。人類の文明は、中東からトルコ、インド、中国へと、東への道をたどったのです。
 「この時、人々は主の名を呼び始めた」これが第四章の結びです。
 人間は分裂を繰り返して多くの氏族となり、民族を形成して互いに争い、殺しあったのです。地上は天国ならぬ、地獄になったのです。人々は生きるのが切なく、苦しくて、神に助けを求めるのです。神は人間の良心を中心に、宗教を興されました。インドでは釈迦が仏教を興し、中国では儒教の教えが広まりました。そして神は選民としてイスラエルを立てられました。その宗教がユダヤ教です。

 復帰の原理

 「創世記」第四章まで読み進みました。まだ5頁です。もっと早く先へ進むべきでしょうか。そうではありません。神の創造原理と、人間の堕落、そして神に復帰する道が、この四章までにすべて含まれているのです。
 神の創造理想はアダムが三大祝福を成就して、地上に天国を造ることでした。しかし天使長の願わざる反逆と、アダムの不信によって人は堕落して、堕落人間が地に生み広がったのです。神は親として、また創造主として人間を地上の地獄から救い、神に復帰しなければなりません。
 アダムが堕落しなければ、地上はアダム一族のはずでしたが、カインの末裔は地に生み広がり、分裂して互いに争い、民族と民族、国と国が戦う戦争の歴史になったのです。しかしやがて人類は一つになり、世界は統一されなければなりません。それが神の復帰摂理だからです。このように考えれば、人類歴史は復帰摂理歴史であると言えるのです。
 20世紀も終わりに近い現代は、政治的にも経済的にも、また倫理道徳の面においても、終末の現象です。世が滅びると恐れる人も多いのです。しかしこの世の君、この世の神はサタンです。世が滅びるとは、サタンが握っているこの世が滅びるということです。
 善と悪が交差する混乱の終末期は、神の復帰の摂理が成就する時、神の世が来る希望の夜明けでもあるのです。しかし神の復帰摂理の成就は、神の95%の責任分担と共に、人間の5%の責任分担があるということを忘れてはなりません。
 神の創造が原理原則によって成されたように、復帰摂理も原理原則によって成されるのです。堕落によって失ったものを、原理によって再創造しなければならないのです。
 アダムとエバは長成期を越えて完成期に入る頃に、堕落して万物以下に落ちたのです。サタンの血統が侵犯して、人間は神とサタンの中間地点に立ったのです。そのままでは、サタンも地獄に引いて行くことはできません。人間が悪の行為をすれば、サタンは地獄に引いて行き、反対に人間が善の条件を立てれば、神は人間を神の側に復帰することができるのです。
 堕落とは、本然の位置と状態を失って万物以下に落ちたことです。堕落人間が元の状態に復帰するためには、失ったものを埋める、ある償いの条件を立てなければなりません。償いの条件にも、三段階があることは前に述べました。
 「創世記」の中心人物は、アダムとエバが堕落して失ったものを埋める償いの条件を立てて、アダムとエバが堕落した経路と、反対の経路をたどって復帰するのです。これが「創世記」の中心人物の行動パターンなのです。彼らが中心人物としての条件を立て、次にはその息子たちが神側とサタン側、善の表示体としてのアベル側と、悪の表示体としてのカイン側とに分立されるのです。悪も善に屈服すれば、善に帰ることができるのです。堕落人間としてのカイン側が、より神に近いアベル側に従順に屈服して、堕落性を脱ぐための償いの条件を立てなければなりません。その成否を問う復帰の儀式が、アベルとカインの供え物だったのです。
 カインは堕落性を脱ぐための償いの条件を立てることに失敗して、摂理は延長されたのです。再び中心人物が立つには、ある期間が必要です。そして条件が立ったかどうかを問う復帰の儀式があるのです。
 ノアがぶどう酒で酔って裸になる奇妙な話も、アブラハムが牛と羊と鳩を裂いて捧げる話も、復帰の儀式だったのです。
 中心人物が信仰の条件を立て、カイン側の人間が堕落性を脱ぐための償いの条件を立ててアベルに屈服すれば、神に復帰するのです。ではどこまで復帰するでしょうか。アダムとエバが堕落した地点までです。しかしアダムとエバも通過していない、完成期の7年が残っているのです。
 堕落は血統的な罪です。堕落人間が善の条件を立てて、堕落性を脱いで人格を完成したとしても、血統の問題は本人の努力だけでは解決できません。無原罪のメシヤに出会い、血統転換がされなければなりません。つまり「創世記」の中心人物が歩む路程は、メシヤを迎えるための基台を造る路程であったのです。
 このことを示唆しているのが「創世記」の38章です。ユダの息子の嫁のタマルは義父のユダを、遊女にばけて誘惑するのです。タマルはユダの子をはらみます。それは双子で、タマルが出産する時に、胎内で兄と弟が逆転して生まれるという奇妙な話です。そのタマルの血統から、イエス・キリストが誕生したのです。
 イエスも謎めいた話をしています。ニコデモというパリサイ人が、イエスに教えを請うために、夜ひそかに訪ねてきます。イエスは「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)とニコデモに言います。ニコデモは「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と問うと、イエスは「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と答えています。ニコデモは「そんなことがあり得ましょうか」と首をふりながら、イエスのもとを去るのです。
 イエスは堕落以前の、第二のアダムです。無原罪の神の独り子です。そのメシヤであるイエスに出会って接ぎ木され、堕落の血統から生まれ変わるのが新生です。つまり血統の転換です。イエスが第二のアダムなら、エバをまず復帰しなければならないはずです。しかしイエスは十字架にかけられました。彼は三日ののちに復活して、散りぢりになった弟子たちを集め、40日して昇天されたのです。その時イエスは、「わたしはまた来る」と言い残しました。キリスト教は、イエスの再臨を待ち望む宗教なのです。

 アベルカインの歴史の法則

 アベルカインの法則は、アダムの家庭に限られたことではありません。ノア、アブラハムの家庭も同様です。そしてこの法則は、個人から家庭、民族、国家、世界にまで、現代の私たちに係わる歴史の法則なのです。
 神はアベル側と、神に遠いカイン側とに分立するという摂理をされるのです。復帰の道は個人から国家に至るまで、より神に近いアベルに、カイン側が従うことです。そしてメシヤに出会って血統転換をして、家庭を造り、氏族となり、国家、世界へ拡大したときに人類は神に帰るのです。地上の天国は外的な環境が天国的になってもだめです。どんな豪邸も、豚が住めば豚小屋になるのと同じです。天国はあなた方の心の中にある、とイエスが言われたように、心情が天国に住む者にならなければ、地上天国にならないのです。
 イエスは人間の心からサタンを追放し、人間の心を転換するために来たのです。しかし神にも屈服しないサタンが、イエスに屈服する道理がありません。そこで神はサタン屈服の典型路程を見せてくださったのです。ヤコブの路程は、家庭的にサタンを屈服させる路程です。カイン側は兄ですから、歴史において必ず先行するのです。ヤコブが家庭的に勝利したとき、カイン側はすでに民族を形成していました。
 ヤコブの氏族がエジプトでイスラエル民族となったとき、カイン側はエジプト王朝という国家を形成していました。モーセの路程は、民族的なサタン屈服の路程です。「出エジプト記」のモーセの物語にも不可解な部分が多いのです。
 エジプト王朝には歴史的文書が多く残されているそうですが、ヨセフという奴隷あがりの宰相がいたという記録はないそうです。また出エジプトの事実も記録にないそうです。それゆえこれは歴史的事実ではなく、祭儀文書ではなかろうか、と考える学者もいます。成年男子が60万、婦女子を合わせれば200万もの人々が、40年も砂漠で生きることは不可能だというのです。
 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命がある思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)とイエスは語っています。彼の言う聖書とは旧約聖書です。ユダヤ人が最も尊重したのが、モーセ五書でした。モーセはイスラエル民族の英雄でした。彼らは選民という自負心を抱いて、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する民族的英雄をイエスに求めたのですが、イエスは民族的メシヤではなかったのです。選民イスラエルを立て、そこにメシヤを送り、ローマにメシヤのみ言を伝えて、東への道をたどって世界人類を復帰することが、神の復帰摂理だったのです。しかし彼らはイエスを誤解して、十字架にかけてしまいました。
 イエスは復活して、霊的に勝利しました。キリスト教は世界的宗教になり、キリスト教文化圏が世界の中心になりました。しかしキリスト教には国がありません。それは霊的な勝利であって、地上はやはり争いの地獄の世界でした。神の摂理が地上天国の建設にあるなら、摂理は現代にまで延長されていると言わざるをえません。
 戦争は次第に規模と範囲を大きくして、ついには世界大戦になりました。戦争は悲惨のきわみですが、人類が一つになるための償いであるかも知れないのです。世界の国々は、アベル側とカイン側に分立して戦ったのです。
 第一次大戦では、アベル側が米・英・仏です。ともにキリスト教国家です。カイン側はドイツ・オーストリア・トルコです。カイン側は先に撃つのです。ドイツの先攻によって始まりましたが、勝利したのはアベル側でした。
 第二次大戦では、アベル側が同じく米・英・仏です。カイン側はドイツ・日本・イタリヤです。どちらかといえば神に遠い側です。やはりドイツのポーランド進攻によって始まッたのですが、結果はアベル側の勝利でした。
 第二次大戦が終わった時、世界はアメリカを中心に一になっていたのです。しかしその時が過ぎると、ソ連の共産主義が世界を赤化してゆきました。そして世界は自由と共産の、二大陣営に分立して対立したのです。キリスト教を中心とする自由陣営はアベル側であり、神を否定する共産主義はカイン側です。三段階復帰の原則からすると、第三次世界大戦があることになります。それはすでにあった、というべきかも知れません。戦いは武器によるばかりではありません。第三次世界大戦は、理念による戦争だったのです。
 ソ連邦は崩壊して、アベル側の勝利に終わったかに見えます。しかし世界は統一されたというより、さらに混沌としています。世界は今、終末的な混乱に陥っているのです。
 最後の戦いは、私たちの内なる戦いです。心の内に潜むサタンに勝利しない限り、神に復帰する道がないのです。神を信じるアベル側の人間と、神を信じないカイン側の人間の戦いが、人類最後の戦いになるのです。これは武器による戦いではありません。また宗教同士の戦いでも、理念の戦いでもありません。愛と万物と心情によって、カインの恨みを解くのです。その典型的な路程がヤコブの路程であり、ヨセフの路程なのです。
 「創世記」に人生の教訓を見出すことはできないように思えたのですが、実はカインを屈服させ、地上に天国を建設するための、神の教訓の書であったのです。神の復帰摂理を知って、「創世記」を読むなら、それはまるで別の書物のように見えることでしょう。

            (第五章へ)

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