神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

神の涙

小雨にけむる静かな山の湖の風景を眺めていても、ある人には風情のある美しい景色と見えるでしょうが、失恋して悲嘆にくれる人にとっては、荒涼としてうら哀しい風景と映るのです。人の心の喜怒哀楽にそって、風景もその印象を変えるのです。怒り、恨み、悲しみ、嫉妬する人々が集まる所では、その風景も荒涼としたものになるのです。
 地獄の風景は陰惨として、ぞっとするほどです。山は石ころだらけで道もなく、枯れた木がひょろひょろと風に吹かれています。海は嵐が吹き荒れそうな雰囲気で、荒波が押し寄せています。動物たちも滅多に姿を現しません。常に人間を恐れ、逃げまどっているからです。ときどき狼の遠吠えがする、不気味な夜の山中のような光景が地獄です。
 地獄はほとんど光も射さず、お互いの顔もよく見えない暗い世界です。そして腐った魚のような悪臭が、常にただよっているのです。
 「ああ、地獄だ。地獄のような生活だ!」と地上の人間も辛い生活を嘆くことがありますが、地獄はもっと深刻で、難しい所だというのです。地上ではしばしの気晴らしや、楽しみというものがあります。辛い現実を忘れさせてくれる娯楽があるのですが、地獄には希望も喜びもないというのです。いつも苛立って怒り、ひどく退屈な生活なのです。
 「地獄は地上で暮らしてゆくとき、自分の犯した罪悪の姿を、最悪に表現して生きてゆく所である」というのです。人間相互の授受の関係が断ち切られているために、人間自体の色がほとんどないというのです。
 地獄の光景はさまざまに描写されています。地上では殺人を犯しても、捕まらなければ罪になりませんが、ここではすべてが明らかになるのです。刃物で人を殺した者は、その刃物が自分に突き刺さり、毒殺した者は自らも毒を飲んで苦しむ姿でいるのです。
 姦淫している者は、その姿が誰の目にも見えるのです。腹わたが流れでていても、まだ食べつづけている人がいます。目が飛び出していたり、口がひんまがっていたりする人がいます。地獄にもときに神様の光が、かすかに射すことがあります。すると悲惨な姿を、互いにじろじろと見つめ合うことになるのです。
 神様が地獄を創造なさるはずはありません。人間が地上で地獄のような生き方をして、ごみのように死んだので、ごみ箱が必要になったのです。しかし地獄の人間も、やはり神の子供には違いありません。神様はあるとき、李相軒先生に言われました。
 「おまえの一番の願いは何か。どんなときに最も幸福か。どんなときに最も心が窮屈で痛いか」
 「神様! あなたが言わんとされることを話してください。苦労している子供たちに、お会いになりたいのでしょう」と尋ねると、神は答えられました。
 「相軒よ、神の心をおまえは察してくれるのだなあ」
 すると真っ暗闇の中で、おぼろげに照らす明かりの中を、細い一筋の光に沿って銀色の鈴のような水滴が、ポロポロとこぼれるように流れ落ちて見えました。
 「これは何だろう?」と思ってよく見ると、それは子供たちに会いたいという神様の心の涙であったのです。
 地獄の行列は底の抜けたかめに水を汲むように、毎日休むことなく続いているというのです。その行列を切る方法が何かあるでしょうか。李相軒先生は必死に、地上人に訴えかけているのです。
 「真の生の価値を発見し、肉身の苦しみよりも来世のために、心の平和を求めて生きてほしい。肉身の平安は地獄の行列となり、心の平和は永遠の楽園、天国となるであろう」
第五章 霊界の聖人たち

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