神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

聖人たちの姿

お釈迦様といえば、蓮の花の咲く極楽でゆったりと座っておられるというイメ−ジがありますが、どのような姿でおられるのでしょうか。その方は、高い山のふもとに一人で座って、長いため息の日々を送っているというのです。
 釈迦の顔の光が明るくなく、高い山の中を歩くのを好み、人に会うのを嫌い、人のいない所を探して歩いているというのです。釈迦の周囲には何人かの信徒が随行しているのですが、多くの人の前には姿を見せないのです。
 その姿は実に謙虚で、いつも四十五度程度にうつむいたままです。寡黙ですが、実に慈愛に満ちた姿で話をされ、講義が終わると、「御苦労様です。ありがとう」という言葉を欠かさないのでした。
 神様が直接、お釈迦様と会うことはないというのです。彼の元には時々神様のお使いが来て、伝達事項を伝えるのですが、その時はまるで時代劇のように、王様の命を受ける臣下のように土下座しながら、敬礼を捧げるのでした。
 「神様について知らずに生きたから、神様に仕える方を教えられなかったことがとても悔やまれます。数多くの人たちを間違った道に導いてしまったのではないか。どうすればよいのか」と釈迦は嘆きながら、切々と訴えるのでした。
 儒教の創始者、孔子の姿はどうでしょうか。
 雪の降る極寒期の暴風の中でも、笠を被り、外套を着たまま雪の上で何時間も瞑想をしたまま、じっと座っているのが孔子の姿でした。突然に訪ねて行けば、待つのが大変でした。礼儀、礼節にしっかりとはまっていて、うかつに話を切りだせないのです。一言を話すにも時間がかかり、峻厳な表情であり、その立ち居ふるまいは石仏のようだというのです。孔子も、原理や統一思想の講義を熱心に聴いたのでした。
 神様が孔子に対する姿は、釈迦とは違っていました。「思想の中に、神様の思想を教えなさい」と神様が孔子に伝えられたのです。釈迦は神なくして自らを完成できるとした人ですが、孔子は天を中心として、人間の礼節、品性、規範を教えました。孔子が神により近いのは、彼自身は神的な存在ではないとしたことによるのでしょう。
 マホメットはイスラム教の教祖です。彼に会うのは非常に困難であったのです。彼自身が、人にたやすく見られるのを嫌うからです。面会場所もうす暗い地下室のような所でした。周囲の人々は頭をタ−バンで被い、暗い印象でした。女性たちもつらい生活が、ありありと表情に現れていました。
 しかしマホメットは不思議にも「統一思想」を受け入れたのでした。すでにある程度の予備知識を得ていたのです。マホメットは釈迦のように寂しそうにも見えず、孔子のように従順な顔でもありませんでした。人知れずにするのかは分かりませんが、神様に精誠を捧げる姿は見られなかったそうです。
 マホメットのいる霊界は、最上級の霊界ではないようです。イスラム圏という独特の霊界です。李相軒先生が思うに、マホメットは進んで愛と善を追求するよりも、強圧的な独裁を行ってきたと見るのです。強圧的な方法で神に仕えさせるのは、形式的な法を強要する指導方法です。神様の方法とはあまりに違う方法だったので、その位置にいるしかないのではないか、と考えられるのです。

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