神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

天国と楽園

霊界の神様は変幻自在できらびやかな光彩として顕現され、その光に包まれれば恍惚とした幸福感、安心感にひたるのでした。しかしそのように神様が自在に顕現なさる所は、広大無辺の霊界であっても、ごく一部のようです。天国とか、楽園と呼ばれる霊界の上流層に限られるのです。
 神は肉身を持って生きる有形世界と、霊人体が生きる無形世界の、二つの世界を創造されました。本来は心と体のように、有形と無形の二つの実体世界は分離できない関係にあったのです。そして神と人間は親子として、直接話をしなくても互いに通じ合う世界が、本来の無形世界であったというのです。
 神様は人間を愛するために創造されたのですから、そこでは常に平和と幸福が満ちあふれているのです。人間もまた、互いのために生きるようになっていて、愛が充満した世界が天国とか、極楽と呼ばれる世界です。
 「したがって、その世界では不平、不満、葛藤、闘争などは全く起こらない。常に神様の光の中、神様の懐の中に抱かれていて、個人個人の心の豊かさと平安とゆとりがあり、個人的な我欲は生じない。そこでは神様と子女が、永遠の幸福と平和を共に味わいながら生きている」と李相軒先生は報告しています。
 神様は人間を創造するに先立って、自然界を創造されました。すなわち鉱物、植物、動物の世界を創造されたのです。では天国の自然界はどのような姿なのでしょうか。
 李相軒先生が霊界に来て間もないころのことです。岩に腰を下ろしてうつらうつらしていると、岩の下から鉦や銅鑼を叩く音が聞こえたというのです。あたりには何も見えません。ふと「岩石が私がここに来たことを歓迎してくれるのだなあ」と考えたとき、岩が話をしたというのです。
 「今まで一度も座ってくれた人がいませんでした。今はじめて主人に出会えて本当にこに上なくうれしいです」そう言いながら、いっそう感銘深く合奏したというのです。
 またある時には、急な斜面の大きな岩をよけて通ろうとすると、突然に「ア−リラン峠を越えていく。私を捨てて行くあなたは、一歩も前に踏み出せずに帰ってくるよ、帰ってくるよ」という、民謡のアリランのメロディ−が流れてきたのです。その時に、神様の声が聞こえました。
 「相軒よ! 岩がおまえを待ちながら、喉がかれるほどに歌を歌ってきたのだ。それなのに、おまえが他の方向に行こうとするから、岩があまりにも残念がっておまえを呼んだのだ」
 李相軒先生が海辺を通ると、魚たちが飛び跳ねて、まるで舞踏会のようでした。空からは香りあふれる美しいメロデ−が流れ、妖精のような波しぶきが踊り、はなばなしい黄昏の光景など、この世では想像もできないような宴が繰り広げられるのでした。
 また多様な植物は、美しさそのものだというのです。植物は人間の心の状態に感応して、あるときはゆらゆらと、あるときは自然に人間をやさしく包むのです。
 「人間がそばに寄ってくると、植物はおのずから多様な姿を表現して自らの姿かたちを自慢し、その人の心に感応して固有で魅惑的な香りを発散する。このような天上の万物を見つめていると、人間はたちまち恍惚の境地に入ってしまう」
 地上では四季にしたがって自然は変化しますが、霊界では人間の心によって季節が多様な変化を見せるというのです。たとえば真っ白な草原が見たいと思えば、瞬時に雪の降る草原に立っているのです。
 上流層の動物たちは、人間と仲良く共存して、けっして逃げたり隠れたりはしないのです。愛犬が主人の膝に抱かれるように、動物のほうから人間を主人として仕えてくるのです。
 人間が完成して神の子女の立場に立つなら、万物も心を開き、人間は宇宙の主管主となるのです。とすれば万物はすべて、人間の前に共鳴せざるを得なくなるのです。
 「神様は人間を愛の最高基準に立てておかれた。これは神様の人間に対する特別な配慮である。したがって鉱物世界、植物世界、動物世界は人間に授けられた大きな神様の恵みである。これより正確な神様の愛を説明する方法があるだろうか」と李相軒先生は述べています。長くない地上生活を少しだけ我慢して苦労すれば、永遠の安息所である美しい園、美しい自然と共に暮らすことができるというのです。
 しかし天国に入った人は少ないのです。天国はがらがらです。天国の万物たちは人間が来るのを待ちわびているのです。楽園という所は、天国に入るための待合室のような所だというのです。この世では聖人と呼ばれた人たちも、ほとんどが天国に入るための待合室にいるのです。

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