神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

輪廻転生はあるのか

仏教には輪廻転生の思想があります。人は生まれ変わり、生まれ変わり、この世で修養をつむことによって、やがては涅槃に入るという思想です。
 霊界に関する本を読んでみても、生まれ変わりはあるという考え方が主流のようです。たった一度の人生であるよりも、生まれ変わりがあると考えたほうが、ある意味では希望的です。しかしそれはあくまで地上生活を主体にした考え方であるのです。
 では、前世を記憶しているという少年がいたりする現象はどう説明するのでしょうか。実際に調べてみると、そのような人間が過去に存在した事実があったという話です。また催眠術をかけて過去にどんどんさかのぼると、ついには前世に及ぶというのです。
 「ヒカルの碁」というアニメ番組が近頃評判です。少年たちの間に囲碁ブ−ムが起こっているそうです。ヒカル少年が囲碁のプロの世界に入り、数々のライバルたちと闘うという物語です。ヒカル少年の背後には常に平安時代の装束を身につけた、名をサイという人物がいるのです。ヒカルとサイは一心同体なのですが、他の人には見えません。
 サイは平安時代の囲碁の名手でしたが、卑怯な相手によって非業の死をとげた人物です。ヒカルの前は幕末の棋聖、本因坊秀策の守護霊でした。秀策は勝敗を聞かれると「黒番ですから」と答えたそうです。当時はコミというハンデがありませんから、秀策のコスミと呼ばれる堅実な定石によって、黒番は無敗であったということです。しかし秀策は三十三歳でチフスで亡くなりました。
 ヒカルの強さは相手を驚かせます。その作戦がまた秀策流の昔の定石なのです。サイが打つからです。ヒカルが打つときはひどいヘボです。しかしヒカルは次第に上達して、やがて本物のプロになってゆくのでした。
 サイと秀策は別人であり、秀策とヒカルも別人です。ヒカルはサイの生まれ変わりではありません。サイは恨みの霊ではありますが、悪霊ではありません。強い相手と存分に碁を打ちたいという執念から、地上人に協助するのです。サイはヒカルが碁を打ち、強くなることによって、つまり地上人に協助することによって地上人がその使命を果たすなら、自らも復活するのです。
 輪廻転生について、釈迦は次のように語っています。
 「仏教徒たちよ! その立場でそのまま生きるならば、すなわち、いまだに輪廻という妄想の中で生きるならば、極楽世界は永遠に皆さんから遠ざかるであろう。人間は死んでも、人間の姿として残る。地上で獣のように生きれば地獄に行き、地上で神に仕えて善く生きれば極楽世界(天国)に行って永遠に幸福に生きていく。神は人間を創造されたが、罪を犯したからといって、人間を豚や犬にするような方ではない。ただ、人間の心情基準を、低級な豚や犬や牛で表現することはできても、人間が獣そのものに生まれ変わるということはないのである」
 キリスト教のある教派では、イエスが昇天したままの姿で、天から降臨すると信じられています。再臨について、霊界のイエスはこう語っています。
 「既に二千年前に死んだイエスが、再び生きて皆さんの前に現れるということはできない。人間の肉身は霊人体と分離されれば、土に帰るようになっている。それが真理であり、天道である。死体が墓から起き上がるという聖書の一節を、今一度見てみなさい。神は、科学的で数理的な神であり、原理の神であられる。消えた死体の全器官が分解して再び組み合わさり、復活するという論理は、神は何でもできるという能力を前提にしたものであるが、それは極めて矛盾している。そのように問題が解決するのではない。自然界を見なさい。人間の成長過程と構造を見なさい」
 地上の肉身生活は一度きりの、訓練場であるということです。私たちが二度と母の胎内に戻ることができないように、肉身を失えば霊界で永遠に暮らすのです。しかしながら天上界と地上界は、心と体のように、針と糸のように密接な関係にあるというのです。

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