私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

幸せの青い鳥を求めて

私たちは誰もが、幸福になりたいと願っています。幼年、少年の時代にはそれなりの夢があり、思春期にはさらに現実的な希望に向かって人生を出発するのです。しかしながら企業を起こして成功したり、芸能人として有名になったり、プロ野球の大選手になれる人はごく稀です。やがてはそれなりの職業につき、同じような仕事の繰り返しの日々がつづくわけです。
 ドストエフスキ−はシベリヤ流刑という辛い体験をしましたが、中でも最も辛かったことが、全く意味のない仕事をさせられることだったそうです。バケツに水を汲んで右から左へ運ぶ、またその水を左から右へ運ぶ、これを終日繰り返すのです。もしそれが生涯つづくとしたら、人間はきっと発狂してしまうでしょう。
 チャップリンは「モダンタイムス」という映画で、そんな人間の姿を描いて見せました。主人公は自動車工場のような所で働く労働者です。近代的な工場では分業化が進み、ベルトコンベアに乗って運ばれてくるネジを、右から左に締めるのが彼の仕事です。労働時間が終わっても、彼の右手はネジを締める仕種をしているのです。笑うに笑えないチャップリンの至芸でした。
 東洋では、働くことは美徳とされてきました。農民は田畑を耕し、大工さんは家を造ります。仕事が目に見える形で成果を現すときは、働く喜びがあります。しかしベルトコンベアによる大量生産では、労働者は工夫する必要がありません。仕事について考えたりすることはむしろ邪魔になるのです。しかしそれでは働く喜びがあるでしょうか。「モダンタイムス」は極端としても、仕事が分業化すればするほど、働くことが人生の目的には思えなくなるでしょう。
 生活のためには働かなくてはなりません。創造的な仕事をしている人は別として、同じ事の繰り返しです。ではどこに、幸福の青い鳥を見いだすのでしょうか。
 「幸せだなあ」と感じる時とは、一日の仕事を終えて風呂にでもつかり、ささやかな夕食を前にして一杯のビ−ルを飲みほす時でしょうか。テレビをつければやや人気の落ちた女優さんが、美しい景色の観光地を旅して、風情のある旅館に宿をとり、豪華な料理をいただいて歓声をあげる番組をよくやっています。年に一度や二度は実現可能な、庶民の夢だからでしょうか。
 まずは幸せと感じる状態が、美味しいものを食べてゆっくり休むという、肉体的な快楽です。それなりの仕事があり、複雑な人間関係に悩むこともなく、人間は何のために生きるのかなどと難しいことを考えることもなく、平凡に生きる、それが人間の幸せというものでしょうか。
 平凡な生活をつづけるためにも、健康でなければなりません。テレビでは健康番組が盛んです。やや年配に方に人気があるようです。そういえば六十歳を過ぎた方たちの会話を聞いていると、芸術や世界の平和について語るよりも、自分の健康について語ることが多いようです。これって、究極の自己中心ではないでしょうか。最後に残るのは自分だけ、自分の肉体だけ、つまり自分の健康だけが心配という話です。
 「世界が破滅するよりも自分の歯痛のほうが大事だ」とドストエフスキ−は書いています。人間というものは自己中心にできているということです。
 しかし安楽は永続するものではありません。美食も過ぎれば成人病になります。温泉もやがて飽きて疲れます。安楽には退屈という病いが、忍び寄ってくるのです。
 そしてやがて人間は老いてゆきます。快楽よりも肉体の苦痛が多くなるのです。愚痴やひがみが多くなり、家族にも疎まれるようになります。そのような時、ふと人生を振り返ってみるのが人間です。自分の人生が無意味なものだったと感じるとしたら、それはとても不幸な瞬間ではないでしょうか。
 人間は何のために生きるのか、そんなことを考える暇のないのが幸福な人生だ、そのように考える人もいます。しかし職場をリタイヤする時がきて、やがて人は老いて死ぬのです。人生の目的を追求することが、よりよい人生につながるはずです。生きる意味を考えたこともなく、ただ安楽な人生だけを願うとしたなら、それは怠慢というものではないでしょうか。

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