私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

無事これ名馬


 仏教では生老病死といいます。生まれる苦しみあり、老いる苦しみあり、病いの苦しみあり、そして死の苦しみがあるというのです。七難八苦の娑婆ともいいます。人生を荒海に乗り出す航海にたとえ、苦海を渡るともいいます。まるで苦しむために生まれてきたかのようです。苦海を渡る航海の、その行き着く先はどこなのでしょうか。
 愛すればやがては離別の悲しみがあります。仏教では執着してはならないと教えています。悲観的な人生観だといえるでしょう。
 無事これ名馬といいます。事故も病気もなく、天災にも遇わず、人災にも遇わず、平凡ではあっても平和な生活こそ、人生の幸福であるという考え方があります。いわば消極的な幸福です。
 しかし人生には思わぬ不幸が訪れるものです。生涯、病気をしなかった人はいないでしょうし、離別の悲しみを経験しなかった人もいません。戦争という国家的な悲劇にも遇い、倒産や失業という不幸にも遇うのが人生です。
 平和な家庭がふとしたことで崩壊してしまうかもしれません。真面目一筋に働いてきた夫が四十歳を過ぎて突然、他の女性に夢中になるということも世間にはよくあることです。おとなしい子供が思春期になって突然、家庭内暴力を振るうようになったり、不良仲間に入ることもあるでしょう。サスペンスドラマのような出来事が、いつわが家に起こるかもしれないのが人生です。
 無事平穏に人生を送り、子供たちも巣立ち、やがて定年を迎えようとした時、空気のような存在だと思っていた妻から、突然に離婚を言いだされることもあるのです。あなたがもし一人で取り残されたとしたら、きっと自分の人生は失敗であったと、悲嘆にくれることでしょう。
 そんな不幸もなく、やがて年老いて病床について自分の人生を振り返った時、それがあっという間であることに気づくことでしょう。平穏無事な日々の繰り返しであったとしたら、一日は一生のようであり、一生は一日のようであるからです。自分の人生が無意味であったと思うことほど、悲しいことはありません。困難や苦しみさえも、それは思い出として残ることでしょう。

↑ PAGE TOP