私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

人生のゴ−ルは死

人間は拳を握って生まれてきますが、死ぬときは掌をひらいて死にます。裸で生まれ、裸で死ぬのです。どんなに巨万の富を築いても、絶大な権力を握ったとしても、死ぬときはすべてを置いて行くのです。いわば功なり名とげた人生の成功者の心に忍びよってくる悩みとは、死の影ではないでしょうか。人生はあまりにも短いのです。そして彼が一生をかけて奮闘努力して獲得したものは、すべて虚しく消えてしまうのです。
 日本人の成功者の代表といえば、豊臣秀吉でしょう。百姓のせがれから天下人となり、その野望は日本を越えて唐天竺にまで及びました。実際に秀吉は朝鮮に出兵して、七年間に渡り朝鮮の人々を苦しめました。彼は権力の亡者となったのです。死の影が忍び寄ってきたとき、一代で築いた豊臣家の栄華も、ライバルの家康の前に「浪華の夢は夢のまた夢」と見えたのでした。その家康も「人生は重き荷物を背負いて遠き道を行くがごとし」と述懐しています。
 人生レ−スのゴ−ルは死です。ゴ−ルのテ−プを切ったその一歩先は、底も見えない断崖絶壁か、あるともないとも分からない暗闇です。だとすれば、人生レ−スを激走して勝利を得ることに何の意味があるのでしょうか。
 タイタニック号がどんな豪華客船でも、その運命を知っているなら鼠でも逃げ出すのです。落ちると分かっている飛行機に、誰が乗るでしょうか。しかしながら人間は誰でも、死という宿命から逃れることはできないのです。
 無期懲役の囚人は羊のようにぼんやりと日々を送り、死刑囚は猛烈に生きようとするそうです。一晩で何十もの俳句をつくったり、小説を書いて高い評価を受けた人もいます。ある日、看守が近づいて来て合図すれば、彼の命はそれで終わるのです。その恐怖と焦燥感は想像することもできません。彼の精神は発狂寸前になるほど活発に活動するか、それとも重圧に萎えしぼんでしまうのです。
 人間は執行日が知らされていない死刑囚と同じです。いつ不意に事故に遇うか分かりません。テロに遇うかもしれません。健康には気をつけていても、三人に一人はがんで死ぬのです。がんは許しのない拷問のように苦しむのです。しかし私たちは普段、死の恐怖をを忘れています。
 医者はがんを告知したとしても、死の宣告まではしないものです。家族も決して希望を失うようなことは言いません。死は曖昧模糊としたベ−ルで被われ、見て見ぬふりをされるのです。私たちは死の恐怖を忘れるために、うさ晴らしをしたり、趣味に生きがいを見出したり、仕事に熱中したり、権力を追いかけたりしているともいえるでしょう。
 しかし死は容赦なく追いかけてきます。死からの逃避は、ある意味では生からの逃避です。死を無視した人間の幸福は考えられません。よく生きることは、よく死ぬことです。堂々と胸を張って、死を迎え入れられる人こそ、人生の勝利者といえるでしょう。

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