二性性相の神
神を信じていたわけでも、信仰的であったわけでもありません。神様のことなど忘れていました。しかしながら妻の死から無意味地獄に落ち込んでいた私は、一筋の光明を見出したかのように、「統一原理」を熱心に学び始めたのです。
ドストエフスキ−の愛読者であった私は、神に無関心であったわけではありません。人生の目的を真剣に考える当時の若者の多くが、唯物論思想にひかれてゆきました。しかし私は共産主義は嫌いでした。共産主義は精神の自由を束縛するものであることを感じていました。精神の自由なくしては、本来の芸術活動ができるはずもありません。ドストエフルキ−はすでに、共産主義の誤謬を敏感に感じとっていたのです。
「神は死んだ」というニイチェの思想にひかれていた私でした。死んだということは、かっては生きていたということです。ニイチェはキリスト教以前の、ギリシャ思想に共感していたようです。ニイチェが否定したのは、神そのものに祭り上げられたイエスであって、イエスを信じる者は天国に行けるという、安易なキリスト教思想です。
私の心に復活した神を信じる要素があったのかもしれません。しかし神の実在を確信することは、それほど簡単なことではありません。仏教的な土壌で育った日本人には、唯一絶対的な創造主という神観がないのです。
「統一原理」が入りにくいのは、神の存在証明が簡単にすんで、どんどん先に進むからでしょう。唯物論者や無神論者はここでつまづくのです。
「物質を形成しているのは分子であり、分子を形成しているのは原子であり、その原子を形成しているのは素粒子であり、さらに素粒子はすべてエネルギ−から成り立っています。そのエネルギ−を存在せしめているあらゆる存在の第一原因を、我々は神と呼ぶのです。以上のような理由で、神の存在が証明されました」
このような講義を聞いただけでは納得できないものです。待てよ、と私は思ったものでした。元々「統一原理」はクリスチャンに説かれたものであって、クリスチャンに神の存在を証明してみせる必要はないわけです。聖書を読んだこともなく、キリスト教も知らない大半の日本人には、「統一原理」は難しいということになるのです。
しかし神の存在を頭から否定してしまっては、原理は理解停止です。すべての存在をあらしめているのはエネルギ−であり、その第一原因となるものを、想定してみることは可能です。つまり神という存在を仮想して、私は原理を学んでみることにしました。
「統一原理」の教理書である「原理講論」は、聖書とキリスト教神学の知識のない者にとって、親しみやすいとはいえない書物です。それに耳なれない「原理用語」がたくさんでてきます。
「陽性と陰性、性相と形状の二性性相」「授受作用の法則」「生力要素と生霊要素」「生素」「万有原力」「四位基台」「肉心と生心」「肉身と霊人体」「信仰基台と実体基台」「蕩減復帰」「蘇生・長成・完成・三段階完成の原則」その他、辞書にも載っていないような言葉がでてきます。これを理解するのがひと苦労です。
さて、無形の神をいかにして知ることができるでしょうか。それは、被造世界を観察することによって知ることができる、としています。つまりベ−ト−ベンというすでに他界した人の性格や品性を知るには、彼の創造した音楽を鑑賞することによって知ることができるように、被造世界を知ることによって創造主の性禀を知ることができるというわけです。
この被造世界は、陽性と陰性、性相と形状の、それぞれの二性性相によって形成されています。つまり人間でいえば男と女があり、そして心と体があります。植物や動物ならオスとメス、オシベとメシベがあり、動物や植物にも、その心に相当するものがあります。動物や植物を形成しているのは分子であり、その分子、原子、素粒子も、同じように二性性相によって形成されています。とすれば「その第一原因となる神様も、二性性相の中和的主体としていまし給う」ということになるわけです。
「原理講論」では神を次のように定義づけています。
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給う」
なかなかこれだけを読んで、神の存在を実感できる人はよほどの宗教的な天才だと思います。頭では理解できても、二性性相の神だからどうした、となるのです。「統一原理」は理路整然と進められますから、反論することも難しいのですが、神を実感すること、これを体恤といいますが、体恤することが難しいのです。