私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

力は単独では生じないという原則

ノストラダムスの予言に「メシ−の法」という、極めて重要とされる予言があります。
 太陽の法と金星の法が競い合う
 予言のエスプリをわがものとしながら
 双方たがいに耳をかたむけないが
 大きなメシ−の法は太陽によって保たれるだろう

 太陽の法と金星の法の解釈は専門書にゆずるとして、メシ−とはメシヤ、すなわち救世主のことです。法とは原理、原則、法則のことであり、大きな法とは天宙を貫く大法則を意味します。ノストラダムスは知人に、この予言詩を知った者は幸運であり、その内容に触れた者には無上の幸運がもたらされると語ったそうです。
 メシヤがもたらす天宙的理念、すなわち「大きなメシ−の法」とは、「統一原理」であると私は確信しました。その原理の核心が「授受作用の法則」であると思うのです。この法則を知らなければ「真の人生の目的」を知ることはできません。この法則を知ることによって個人から世界人類に至るまで、価値観と生き方が転換するのです。互いに争うことによって人類が破滅に向かうか、それとも共生共栄の恒久的な平和の世界になるかは、人類が「メシ−の法」に耳をかたむけるか否かに、かかっていると思うのです。
 力は単独では生じない、という原則があります。モ−タ−の原理と同じです。プラス電流とマイナス電流が押して引くことによってモ−タ−が回転し、動力が生まれます。主体であるプラスと、対象であるマイナスの力が互いに授け受けることによって、授受作用による力が発生するのです。
 法則というからには普遍的でなければなりません。「授受作用の法則」は物理的な法則ばかりではなく、宇宙という極大の世界から原子という極微の世界まで、そして人体の構造から夫婦、親子の関係、社会の人間関係に至るまで、さらには神と人間の関係にまで貫かれる大法則であるのです。
 喜びや生きがいという生きる力も、決して単独では生じないのです。何らかの主体と対象が授受作用することによって、そこに活力が生まれるのです。あるいは悪なる対象と授受作用すれば、そこには邪悪な力が発生することになるのです。
 たとえば広い部屋に一人の男性がいたとします。その部屋が空き部屋のようにガランとしていたら、やがて彼は退屈して部屋を出て行くことでしょう。しかしその部屋にピアノがあり、その脇に低俗な週刊誌が置いてあったらどうでしょうか。彼がもしピアノにも音楽にも興味がなかったら、その週刊誌に手をのばすことでしょう。
 彼が相対したのは、つまり彼が「相対基準」を結んだのは、低俗な週刊誌です。そしてその週刊誌をパラパラとめくることによって、その内容と授受作用するわけです。そこからもたらされる力は劣情を刺激する力であり、低俗な喜びというべきものです。
 しかしもし彼が芸術家であり、ピアニストであったらどうでしょうか。次の公演で演奏する曲目がベ−ト−ベンのピアノ・ソナタ第二三番「熱情」であったなら、彼は楽譜を広げて練習に励むでしょう。
 二百年前のベ−ト−ベンの心に燃えた熱情が「主体」となり、ピアノの音色を「対象」として、性相と形状が授受作用することによって「熱情」という作品が生まれました。ピアニストである彼は今、作品と格闘することによってベ−ト−ベンの心の熱情を蘇らせるのです。そこに大きな喜びを得るとはいえ、それはまだピアニスト自身の内的な満足であり、実体的な感動にはなり得ないのです。
 素晴らしい「熱情」の演奏に感動した満場の聴衆が、いっせいに立ち上がって拍手を送るとき、はじめて演奏者の心にも喜びが湧くのです。演奏と聴衆の心が一つになったとき、主体と対象が授受作用することによって回転運動をして渾然一体となり、そこにベ−ト−ベンの芸術がもたらす、感動という活力が生まれるのです。
 神は全知全能の創造主であり、永遠に自存する絶対者であるとされています。しかし神にもできないことがあります。それは神ご自身では喜ぶことができないということです。ピアニストが聴衆を必要とするように、神にも喜びの対象がなければならないのです。すなわち神の似姿としての実体である、アダムとエバの創造が絶対に必要であったのです。そしてアダムとエバの創造に先立って、その環境を整えるための自然万物の創造が必要不可欠であったのです。
 この被造世界が陽性と陰性、性相と形状の二性性相で構成されていうということは、その第一原因である神も、二性性相としていまし給うと見ることができます。神自体内の二性性相が授受作用することによってここに力が生まれ、創造の役事が起こったのです。
 無形の神は性相であり、有形の被造世界はその形状です。神が主体であり、人間はその対象です。心と体の関係と同じです。被造世界に対しては、神は男性格主体としていまし給うのです。父なる神という意味はここにあります。
 人間が神を忘れ、神はいないというなら、この自然万物も見物人のいない博物館のように意味のないものになってしまうでしょう。音楽にもベ−ト−ベンにも関心のない人には、楽譜はただの本にすぎないのと同じです。創造者にとって、これ以上の痛みと悲しみはありません。

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