私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

愛こそすべて

オペラから演歌まで、歌にうたわれるその内容のほとんどが、男女の愛です。恋愛はドラマや小説の永遠のテ−マです。愛し合う男女がさまざまな困難をのり越えて結ばれるとき、物語は完結します。人生の目的とは、愛こそすべてであるかのようです。
 性に目覚める頃より、異性は最大の関心の的であり、夢であり、神秘であり、またそのために人は発奮し、努力もするし困難にも挑戦します。芸術家は性愛を動機としても、それを昇華して作品を創作するのです。
 思春期には情感が躍動して、誰もが詩人のようになります。そして自分の理想の異性像を対象に投入して、没入するのです。恋の喜びはいかなるものにも勝り、失恋の痛手は若きウエルテルのように、自殺するほどに深いのです。
 愛する男女が結ばれて物語は終わったとしても、しかし人生は終わりではありません。恋の成就が幸福な結婚に連結されるでしょうか。それはごく稀であることは、恋愛結婚の離婚率の高さが示しています。
 恋は盲目といいます。恋すれば、あばたもえくぼに見えるのです。自分の理想とする女性像、あるいは男性像を対象に投影して、その幻影を追っているのが恋というものです。晴れてゴ−ルインして共同生活をするようになれば、当然ながら理想像という幻影は消え、それなりの美点もあれば欠点もある現実の姿が現れます。本当の夫婦の愛はそこから出発するのでしょうが、幻影が美しければ美しいほど、その落差にショックを受け、こんなはずではなかったということになるのです。恋愛とは結局、自己愛の変形であって、虚妄の愛に過ぎないのです。
 フロイドは人間の行動は、性欲よって動かされると考えました。動物は繁殖期にしか性の衝動がありませんが、人間の性欲に四季の区別はありません。性の欲望に憧憬のベ−ルを掛けて、男と女は求め合うのです。ささいな偶然の出会いが、運命の赤い糸で結ばれたかのように思いこむのです。
 現実の結婚生活は理想とは違い、互いの欠点が目につきます。男と女のエゴがぶつかれば互いに憎み合い、離婚ということになります。その原因の第一が性格の不一致だそうです。元もと男と女は体格も違い、性格も違うのです。男女平等は人権の平等であって、その役割分担は違うのです。女性は男性のように力は強くありません。しかし男性は子供を産むことはできません。それでこそ夫婦が一体になれるわけです。
 互いにエゴを主張すれば夫婦生活はうまくいきません。離婚は悲劇であり、その被害者は子供です。たとえ離婚はしなくても、男も女も恋愛の夢を追えば浮気をし、不倫に走るのです。家庭の秩序は乱れて親の権威は失われ、子供に性道徳を教えることもできません。文明が進んで豊かな国ほど性道徳は乱れ、フリ−セックスがはびこるのです。
 現代の若者は恋愛というベ−ルさえはぎ取ってしまいました。ただ肉体の欲望のままに行動するのです。貞操という言葉も死語に近くなりました。そして次第に低年齢化して、女子中高生が援助交際という名で肉体を売るというのです。
 「誰にも迷惑をかけてないからいいじゃないか」と彼女たちは反論します。それを教える立場の大人が、かえって買春や痴漢でその地位を失ってしまうという現実があります。人生の目的が分からなければ、その価値が分かりません。自分というものの価値が分からなければ、わずかなお金で自分を売ってしまうのです。

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