私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

親と子の関係

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(「創世記」第一章 二六節)

 神はなぜ人間を創造されたのか、その創造目的はもうお分かりでしょう。神は愛する対象を必要とされたのです。喜びという力も、単独では生じません。必ず愛する対象があって、授受作用することによってのみ、喜びという力が湧いてくるのです。
 人間の最高の喜びとはどのようなものでしょうか。わが子の誕生が、人生最高の喜びではないでしょうか。そしてわが子がすくすくと成長して、自分に似てくることによって、親は喜びを感じるのです。そして親をも越えて立派な人間になるとき、親はわがこととして喜ぶのです。わが子が成人して結婚して、ここに孫が誕生すれば、家庭的な四位基台の完成です。孫子への愛はまた格別であり、純粋に与える愛です。そのとき祖父母は、神と同じ位置に立つのです。
 神も同じです。神と人間の関係は、まさに親子の関係であったのです。わが子の誕生に先立ってさまざまな準備を整えるように、神は人間の誕生に先立って長い歳月をかけて一段階づつ、聖書の記述によれば五日に渡って万物世界を創造され、六日目に人間が誕生したのでした。そして神は「はなはだ良かった」と喜ばれたのです。
 神はアダムとエバが日々成長することに、目を細めて喜ばれたことでしょう。そして彼らが成人して完成すれば結婚を許したのです。そこに愛の結晶が誕生すれば、神の創造目的も完成するのです。完成した人間は、姿形のある神ともいえます。そのとき神と人間は同等の位置に立ち、神と人間は一体となるのです。
 人間が完成して万物の主管主として立ち、人間を中心として天宙が和動すれば、神の創造も完結するのです。天宙は神の安息の場となるのです。しかし人間が失敗すれば、天宙被造世界も未完成であり、神もまた神の立場に立てないことになるのです。
 さて無形の神が「われわれにかたどって人を造り」とあるのはなぜでしょうか。神は性相と形状の中和的主体としていまし給うお方です。神自体内の形状が、見えない神の形です。つまり神は、構想のとおりに人間を造られたのです。
 芸術の創造はまず作者の中にテ−マがあり、それが作品の構想として形を成すのです。構想も喜びではありますが、それはまだ無形であって、それが作品として結実するとき、実体的な喜びが得られます。さらにその芸術作品が人々に感動を与えるとき、創造の目的は完結するのです。
 神には人間の創造という大きな構想がまずあり、その実現のために生命が生まれ、被造世界が形成されていったのです。科学が発達するにつれて、人間は創造の神秘と偉大さに驚嘆してきました。神は万物の創造に全力を投入され、そしてアダムとエバの創造が終わったとき、神はすべてを投入して一滴の余力も残されなかったというのです。
 神は人間を愛するために創造され、人間のためにすべてを投入されたのです。与えて与えて与えつくす親の愛です。決して見返りを求めない無償の愛です。与えることそのものが喜びである愛、それが真の愛です。まさに「神は愛なり」であったのです。
 神の創造目的が、完成したわが子と共に喜び合うことであるとすれば、人間の生きる目的は、神を喜ばせることであるといえます。
 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」(マタイ第五章 四八節)とイエスが言われた意味はここにあります。
 すべての人間がイエスのようになって、隣人を愛し、怨讐をも愛するようになれば、この世は自動的に天国になるでしょう。それが人生の目的であり、理想世界の実現です。
 しかしそれではあまりに抽象的であり、実現不可能であると思われるでしょう。真の人生の目的は第七章で、理想世界については第八章で、具体的に述べるつもりです。
 人間は神の子であるはずなのに、この心の邪悪な思いはどこから来るのでしょう。地上は天国ならぬ地獄のようであるのはなぜか。どこかで間違いが起こったのです。
 目に見えるこの地上の世界は、対象であり形状の世界です。とすれば、主体となる性相の世界がなければならないはずです。私たちは実は人生の片面しか、見ていなかったのではないでしょうか。

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