私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

喜びの朝

目的のない人生は、羅針盤のない航海のようなものです。宗教の使命とは、真の人生の目的を教示することにあると思います。人それぞれの、またその時に応じた人生の目標はそこから派生するものです。目的のない人生はワ−グナ−の「さまよえるオランダ人」のように、永遠に寄港することのできない航海のようなものです。同じように海は荒れていたとしても、寄港する目的があれば希望があり、苦難にも耐えることができるのです。
 私は「統一原理」に、その目的があるという予感がしました。無意味な人生に一つの光明、トンネルを抜ける出口を見出したように思ったのです。
 生活の習慣も変わりました。酒場に行くこともやめ、夜型から朝型になり、掃除や洗濯もよくするようになりました。神道では清めの儀式が重要であるように、清潔であることが精神の浄化に繋がるのです。わが家も私の心も、汚れていたのでした。
 「原理講論」を読破し、講義も聞き、聖書も読みました。アダムからアブラハムまでの「創世記」の内容と、アブラハムからイエス降臨までのイルラエルの歴史、そしてイエスから以後の今日までの二千年の歴史が、同時性をもって展開していることに目を見張る思いがしました。三段階完成の法則そのものです。
 原理を学び始める動機は人それぞれでしょうが、先祖の解放や個人の救いという段階にとどまっていると、原理はだんだん遠いものになってしまいます。個人から家庭、氏族、民族、国家、さらには世界人類へと意識が広がらないと、原理は理解できずに「落ちる」ことになってしまうのです。
 「統一原理」は人類始祖のアダムとエバから始まって、共産主義から資本主義も越えて歴史の終結に至るまで、壮大な思想体系として説かれています。私は原理に共感しましたが、しかしまだ知識として理解する段階にとどまっていました。
 私は夏の壮年の修練会に参加することになりました。ある家に七日間寝泊まりして、仲間と同じ釜のめしを食べ、そこからそれぞれの職場に行き、夜は原理の勉強をするのです。原理は生活化することによって身につくようです。たとえ一週間でも仲間と共に原理的な生活を送っていると、飲酒、喫煙の習慣もやめられ、人間が変わってゆくのです。
 その家は駅からかなり遠く、非常に急な坂道を登らなければなりませんでした。五日目の朝のこと、私は五時前に目が覚めて散歩にでました。さらに坂を登ってみたのです。
 坂の上は別世界のように、青々とした野菜畑が広がっていました。冷えた朝の空気が青葉を揺らし、頬を心地好くなぜます。私は胸一杯に朝の空気を吸い、生きていることを実感しました。
 暗い空の蒼さが次第に白んできました。東の空が赤く染まり始めると、うっすらと浮かんだ雲が色彩を帯びてきました。薄紫色から、全体がピンクに染まってゆくのです。空がこんなに美しいことに、私は初めて気がつきました。
 やがて太陽がゆっくりと昇ってきました。荘厳な日の出を迎えたのです。世界に生命が吹き込まれたかのように、すべてが光り輝いて見えました。鳥の鳴き声がして、野菜たちは頬を赤く染めて笑っているようです。
 急に私の心に、言葉にもならない喜びの情感があふれてきました。歓喜のあまり泣きだしたいほどに笑い、わあっと声にだして叫び、両手を挙げて飛び跳ねたのでした。
 少年の日の夏の夜、雷雨に向かって突進した時のあの喜びの情感が、何十年ぶりかに心にあふれてきたのです。あの時はその喜びがどこから来たのか分かりませんでした。今、私はそれがどこから来るのか、はっきりと分かったのです。そして原理というものが、その瞬間に理解できたと思ったのです。悟りといえば大袈裟ですがが、原理が見通せたという思いがしたのでした。

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